ジャズと祇園太鼓

黒人初のアメリカ大統領オバマ就任以前に、日本人と黒人を深く結びつけるの歴史的な局面があった。
太平洋戦争において、日本は「戦略上」アメリカの黒人社会へとの接触をはかっており、黒人は黒人で同じ有色人種でありながら、差別され収容所に送られる日系人に対して無関心ではいられなかったからだ。
1919年、第一次大戦後のパリ講和会議において、戦後処理に並行して国際連盟創設のための議論が進められた。
その議長役を務めたのが、アメリカのウィルソン大統領である。
実はこの時、アメリカの黒人たちは、日本が国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加していたために、日本の動きに注目していた。
そして、日本の全権使節団がパリに向かう途中にニューヨークに立ち 寄った際には、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしい」との嘆願書を出している。
日本人は、日露戦争の勝利でそれまでの「白人優位」の神話を崩した生き証人だった。
そして、人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の 仲間入りした日本を、「人種平等」への先導者とみなしていたのだ。
日本が会議で成果を得れば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に 叫ぶ日が来るだろう。
それは、黒人の母なる大地アフリカに同じような声がコダマするきっかけとなるかもしれないと、米国黒人の指導者たちは期待を膨らませていた。
一方で黒人達は、議長役のウイルソン大統領が連盟規約に人種平等を盛ることにつき、アメリカ南部の議員たちの反対で、「批准」されるはずのないと思っていた。
結局、日本の提案は16カ国中11カ国の賛成票を得たものの、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という強弁によって退けられた。
アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。
その後、1923年の関東大震災の報に接したある黒人は新聞に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。
万国黒人地位改善協会は、同じ有色人種の友人である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。
太平洋戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。
人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう、そして勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう。
もう一方は、黒人を差別するアメリカのために戦うなん馬鹿げている、という意見である。
黒人運動指導者の中には、太平洋戦争を「人種戦争」という観点から捉えるものもいた。
そして戦争がおこるや、日系アメリカ人だけが強制収容所に収容され、日本と同盟を結んだドイツ系もイタリア系も収容されないのは、明白な「人種差別」ではないかと主張した。
アメリカの市民権を持っている日系人さえもが強制収容されるなら、そのうちに黒人にも同じ事が起こる可能性があるのではないかと、日本人と黒人の運命を重ねたのである。
そしてある新聞では、11万5千人もの日系人がアメリカ人としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過ごすかという主張までがなされたのである。
戦後、黒人社会は収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し温かく迎えた。
彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれた。
この時、黒人は明らかに日系人の友人であった。

最近、日本人に手を差し伸べる黒人社会に対して「接触」をもとうとした二人の日本人のことが発掘されている。
一人は、北九州八幡皿倉山あたりを故郷とした疋田保一という人物である。
疋田は、日本政府によって活動資金を提供され、工作員としてアメリカニューヨークのハーレムに入って黒人社会と接点を持とうと試みている。
とはいっても、アメリカで圧迫されている人々を少しでも日本側に味方につけておこうという「戦略」ではあった。
疋田の活動ははっきりはしていないが、清王朝に反乱を企てた孫文に、大隈重信の特命をおびて熊本県・荒尾出身の宮崎滔天が接触を持とうとしたこととも通じる。
疋田は「ハーレム・ルネッサンス」といわれた時代に、ニューヨークで多くの黒人芸術家たちと親交を結んだ。
その中には、ルイ・アームストロング、デュ-ク・エリントン、チャーリー・パーカーなど「ジャズエイジの黎明期」を飾った錚々たる黒人プレイヤー達がいた。
そしてもうひとり、黒人と接触を試み大分県杵築市に生まれの中根中という人物がいた。
中根は関西学院に進学し、キリスト教徒にもなるが、若い頃は浪費癖がひどく教会も除名された。
そして日本におれなくなり、カナダへ渡った。
後にアメリカのシアトル近郊の街タコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻し、再び借金を残して失踪した。
ところが1933年頃、突如として中根は「黒人の指導者」としての頭角を表してくるのである。
この年、デトロイトの黒人街で活動をはじめた中根は、日本陸軍から秘密裏に派遣された軍人であると名乗り「日本人は黒人と同じく有色人種であり、白人社会で抑圧されてきた同胞である。そして、日本は白人と戦っている」と黒人を扇動して、白人社会の打倒を訴えたのである。
中根の弁舌はカリスマ的であり、一時は10万人をも動員して「黒人暴動」を多発させ、中根は多くの黒人から、「救世主」と崇める者さえいたという。
この間に黒人女性と結婚しいくつかの組織を設立したために、FBIによって国外退去を命じられ、日本へ帰国する。
しかしすぐに再びカナダへ渡り、そこから「黒人妻」を通してアメリカで設立した組織を「遠隔操作」していったのである。
それは一見順調に思われたが、組織の中心で中根を支えた妻が活動資金を使い込んで「放蕩」に明け暮れるようになり、その活動が行き詰るようになる。
旦那に感化されたのか、奥さんも浪費癖があったのだ。
中根は組織を立て直すべくアメリカに再入国しシアトルに拠るが、1939年に逮捕された。
中根が獄中にいる1943年、デトロイトで黒人の「大暴動」が発生している。
これは中根の活動に起因すると言われており、アメリカの兵器生産拠点であったデトロイトを3日間機能停止状態に陥れたほどだった。
日露戦争当時、福岡出身の外交官・明石元二郎が、ロシアの反乱分子と接触を持ち、ロシアを足元から崩そうとした事実を思わせる。
中根は戦争中に釈放され、後半生愛したデトロイトに戻り、同地で没したという。
なお中根の弟もアメリカに渡っていた。
1920年代から30年代にかけて中根が暮らしたタコマには当時全米で最大規模の「日本人街」があった。
そこには新渡戸稲造はじめ、沢村栄一ら結成されたばかりの巨人軍面々、学生時代の宮沢喜一元首相など、日本から渡米した多くの著名人がここを訪れている。
中根の弟は日本人学校を運営する「街の有力者」としてこうした人たちをもてなしたという。

1930年代後半、アメリカで生まれた「日系二世」の二人の男の運命が、「ジャズ音楽」を回転軸にして回りはじめる。
ティーブ・釜萢は、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれのジャズ・ミュージシャン兼シンガーで、日本のジャズの「草分け的」な存在である。
ティーブ・釜萢の息子がフォークシンガーのかまやつひろしである。
ティーブ・釜萢は日系アメリカ人ニ世として、洋服店を営む日本人の両親のもとロサンゼルス近郊で生まれた。
このティーブ・釜萢と「奇縁」で結ばれたのが、同じ時期にサンフランシスコで育った森山久である。
森山は、かの地で写真術を学び、サンフランシスコで写真屋をを営んでいた。
森山久は、シンガー森山良子の父、森山直太朗の祖父にあたる人物である。
いまだ互いを知らぬ二人だったが、中国大陸における日米の利害対立に起因する日系移民に対する「排斥」の機運を身近に感じつつ生きていたという点では同じだった。
そして1929年の大恐慌は彼らの運命をも大きく転じていった。
アメリカで日系人が職につく機会が極めて限られるようになり、日本でジャズをやればカネになるという話があり、1933年に釜萢は日本に渡り、その翌年には森山も日本に渡っている。
釜萢は、戦前より東京をベースにジャズシンガーとして活躍していた淡谷のり子のバックバンドをやったりした。
そして、日中戦争が勃発した1937年に淡谷の「別れのブルース」が大ヒットし、スターダムへ登りつめていた。
淡谷は、ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌うことまでした。
その後も数々の曲を世に送り出し、「ブルースの女王」としてソノ名をとどろかせていた。
一方、森山の方は昼間レコード会社 のスタジオでトランペッターをし、夜は赤坂のジャズ・ホールで歌っていたため、釜萢と森山の二人が知り合ったのはこうしたセッションであったろうことは推測できる。
二人は日本語は下手だったが、日本でのジャズ演奏は確かにカネになった。
そして釜萢と森山は日本におけるジャズ仲間もでき、日本に「帰化」することを選んだ。
アメリカに帰っても「仕事がない」どころの話ではなく、アメリカでの日系移民はすべて収容所に入れられていっていたのだ。
そして釜萢は日本人女性と結婚する。いっぽう、森山も釜萢の家に遊びにゆくうちに、家に出入りしていた釜萢の奥さんの妹と仲良くなり、やがて結婚する。
二人は「ジャズ/日系二世/日本帰化/妻が姉妹」という多くの共通点をもつ「奇縁」で結ばれたのである。
そして1938年、日中戦争が勃発し、日本は急激に戦時色が濃くなっていった。
つまり彼らが日本で幸せなジャズ演奏に浸れる時間はそう長くは続かなかったのである。
国民が「一丸」となって戦争に臨んでいた時代に、敵国由来のジャズのような軽薄な音楽や番組などモッテノホカという時代になっていった。
日本では太平洋戦争が近づくにつれ、ジャズ演奏の場が相次いで閉鎖され、彼ら心置きなくジャズ演奏ができる土地を探した。そしてそれが上海であった。
ティーブ・釜萢も、「上海バンスキング」の一人ではあったが、中国大陸はジャズとばかり結びつく場所というわけにもいかなかった。
第二次世界大戦の末期、日本語がほとんど話せないにも関わらず「召集令状」がきたのだ。
自動車の運転ができたため、輸送部隊に配属され中国戦線で戦うことになった。
アングラ女優・吉田日出子のハマリ役となった「上海バンスキング」は、そんな時代の男女の姿を描いた劇である。
「バンスキング」とは1930年代後半から40年代前半にかけ、上海に渡った日本人ジャズ・ミュージシャンの総称である。
「バンスキング」の「バンス」とは英語の"advance"の「前へ」という意味で、要するに「前借王」という意味である。
上海に渡った興行主から楽器の購入や生活のために報酬を「前借り」していたことに由来している。
終戦後、上海からの帰国船の「第一寄港地」が門司港だったことが縁で、バンスキングの一部が門司にとどまり、今日なお門司港レトロの多くの店ではジャズの音色が響いている。
「 ジャズの街」門司はこうして生まれたのである。

門司と同じ北九州・小倉には戦争中に軍港があり、米軍は原子爆弾を投下する予定であったが、天候が悪く長崎投下に急遽変更したという経緯がある。
松本清張は占領時、朝鮮戦争に転任予定の黒人米兵が集団(300人)で小倉で強姦・略奪・殺人等を行った実際の事件を題材に「黒地の絵」を書いている。
1951年正月、米軍が38度線を越えてきた中共軍のため、再びソウルを放棄したことを伝えた。
小倉に増派された黒人兵達は、いつも自分達が戦争では最前線に立たされているということをよく知っていた。
「黒地の絵」の中には小倉祇園太鼓の響きと追い詰められた黒人の精神状態について、次のように描かれている。
「彼らが到着した日も、小倉の街に太鼓の音は聞かれていた。黒人兵たちは不安にふるえる胸で、その打楽器音に耳を傾けていた。音は深い森の奥から打ち鳴らす未開人の祭典舞踏の太鼓に似通っていた。黒人兵士たちは恍惚として太鼓の音を聞いていた。彼らは鼻孔を広げて、荒い息遣いをはじめていた」。
事件当時は国連軍が連戦連敗の「劣勢」で、黒人達は危険な戦場に送られる恐怖と自暴自棄に陥り、それが脱走・強奪につながったと推測される。
実際に生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死したという。
大事件ではあったが、当時の日本がGHQの占領下であったことから、「情報規制」のためほとんど報道されず、被害の詳細は今でもわかっていない。
数年前、NHKテレビで小倉出身の俳優・草刈正雄が郷里を訪ねる番組があっていた。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死した。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。
少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、「小倉祇園太鼓」にも参加している。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
草刈氏は、故郷のことを忘れようと、上京後は小倉との繋がりを失っていたが、近年は「自分の土台はふるさと小倉にある」ことに気付き、地元で行われる祗園太鼓の舞台などにも積極的に参加するようになっているという。
そして「朝鮮戦争で戦没した国連軍兵士を祀るメモリアルクロス」のある足立山から小倉の眺めを楽しむのだという。
ところで、論語にある「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」という言葉は、友人が遠くからやってきて久しぶりに酒が呑めてうれしいぐらいの意味かと思ったら、そうではなかった。
思ってもみない自分の理解者がいて、わざわざ自分を訪れてくれた喜びをかみしめた言葉なのだという。
「友あり遠方より来る」は、戦争中の日本とアメリカの黒人社会につき、よく当てはまる言葉である。
黒人はかつて日本人を「応援」することで夢を育み、精神を和ませていた時代があったのだが、そのことはほとんど知られず、また忘れ去られようとしている。
アメリカ・デトロイトは自動車産業の町であるが、1980年代日本車の輸出攻勢によって多くの失業者をだし、日本車に火をつけたりバットで破壊するという「暴動」めいたことも起こっている。そこには、多くの黒人労働者がいた。
それに加えて、当時の中曽根首相の「差別発言」もあり、黒人の気持ちを傷つけたこともあった。
戦後、日本と黒人との間のいくつかの不幸な出来事が、そうした事実を覆っていったからかもしれない。