神が仕掛けた愚かさ

聖書に「信仰とは望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰ゆえに賞賛された」とある。
ところでコノ言葉がある「ヘブル人への手紙11章」は、信仰者達の「列伝」というべき章である。
それは「信仰の祖」アブラハムにはじまり、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと続く。
そして、パウロはそれらを締めくくって、「我々はこのような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、我々の参加すべ競争を耐え忍んで走りぬこうではないか」(ヘブル人12章)と語っている。
日本では「信仰者」が賞賛されることなどアマリないが、上記の人々は「信仰によって」神の御手を動かしたといってもよい人々である。
金にアカスでもなく権力を行使するではなく、また善行や奉仕に励むのでもなく、「信仰によって」神の業が現れるとするならば、なんとロマンを感じさせる話ではないか。
ダビデやソロモン、モーセがつくった「詩篇」には、そうした「信仰のロマン」を掻き立たせるような詩が数多くある。
たとえば次のような詩はどうだろう。
//いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は 主に言うであろう、"わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神"と。
主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。
そのまことは大盾、また小盾である。あなたは夜の恐ろしい物をも、 昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、 その災はあなたに近づくことはない//(91篇)
以上のような詩を読んで、これらを文学的にしか受けとらない人もいるし、荒唐無稽なつくりごととしか思わない人もいるだろう。
しかし中には「霊的な感動」を覚える人もキットいるにちがいない。
さて、信仰にロマンを感じるのは、人の信仰に応え「神の業」が表われるということである。
しかも神が人間に求める「信仰」といえば、「からしだねほど」(ルカ17)のモノである場合もあるし、そんなことで本当に大丈夫かと思えるくらいに、「愚かしく」感じられるものもある。
まるで神が高ぶる者を制するかのように仕組まれた「神の愚かさ」といってよい。
つまり自分を賢者と思う人間ほど、「愚かさ」の奥に隠れた神をなかなか知ることができないのだ。

サッカーの世界には、ひとつの有名な「ライバル談」がある。
大阪セレッソの少年リーグに「10年か20年に1人」といわれた逸材・柿谷曜一朗がいた。
現在ヨーロッパで活躍する香川真司は、17歳のときその柿谷がいるセレッソ大阪に加入した。
その香川でさえ、ひとつ年下の天才・柿谷の存在は一目おかざるをえない存在だった。
しかし両者は「対照的」な歩みをしていく。
コツコツと弛まぬ努力を続けて実績を残す香川と、俗にいうところの「天狗」になったのか、練習に遅刻するし態度も悪い柿谷は、ほとんど結果を出せずチームからも孤立していく。
柿谷は当時の監督だったクルピの怒りを買い、J2の徳島ヴォルティスに「レンタル移籍」させらた。
そして柿谷が徳島で出会ったのは、香川をいちいち引き合いに出して柿谷を挑発する監督であった。
つまり監督は柿谷が一番嫌がる言葉をなげつけて、柿谷が目覚めさせよとしたのである。
そして柿谷が徳島で出会ったもうひとつが「阿波踊り」であった。
チームの慣例で最前列でこの踊りをするうちに、柿谷は皆でやる踊りの「高揚感」を味わった。
それがキカッケになって、柿谷は個人プレーに走っていた自分に気がつき、チームプレーに徹するようになったという。
そして柿谷の人間的な成長につれ、徳島ヴォルティスも変わり、チームの「躍進」にもつながった。
そして柿谷はセレッソ大阪に戻り、4年間という長い時間を無駄にしズイブンと遠回りをしたようだが、ツイニ「覚醒」した感がある。
そして今、柿谷が香川に代わる存在として出場してもナンラ遜色がないほどの「輝き」を見せている。
さてTVで「踊る阿呆に見る阿呆」に合わせて踊る柿谷の姿に「笑って」しまったのだが、それがある聖書のシーンを思い浮かべることになるとは、自分もかなり「阿呆」なのかもしれない。
それは「ダビデの阿波踊り」ともいっていい旧約聖書「サムエル記」にあるエピソードである。
もちろん徳島とダビデは何のかかわりもないが、要するにダビデは戦(いくさ)の後の凱旋の時「阿呆」のように踊ったのである。
伝説の王ダビデは、王になって最初の戦でペリシテ人を打ち破り、「契約の箱」を携えてエルサレムに凱旋した。
そのときダビデは喜びのあまり、主の箱の前で力を込めて踊った。
ところが、その様子を窓から見た妻のミカルは家に帰って来たダビデを罵った。
ミカルは先王サウルの娘だったので気位が高かったようで、次のような言葉を皮肉を交えて発したのである。
「きょう、イスラエルの王は何と威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」とチクリと刺したのである。
それに対してダビデは、「わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう」と応えている。
こういう、人に気にいられるよりは神を崇めようとするダビデの姿勢は、ほとんど「信仰の天才」といってよい。
一方、妻ミカルはアノ言葉が「呪い」となって、子供に恵まれなかったのである。

さて旧約聖書には、様々な戦いが記されている。
なかでも「ギデオンの三百」(士師記6、7)や「エリコ」の戦い(ヨシュア記6)も、「神の愚かさ」を見せつけた戦いであった。
イスラエルで王がおらず「士師」とよばれるリーダーがいた時代に、ギデオンとよばれる「士師」がいた。
敵であるミデヤン人や、アマレク人などが「いなごのような大群」で谷に伏していた。
それらの敵と戦うギデオンに対して神は、イスラエルは勝利のアカツキには自らの力で勝利したと誇るので人を減らすように言った。そして誰でも恐れおののく者は帰るように命令した。
そして2万2千人が帰っていき、残ったのは1万人になった。しかし神はそれでもまだ多いという。
そして神は、彼らを水際に下らせるよう命じる。そして手ですくって水を飲むものを選び、犬がなめるようにひざをついて飲む者を帰らせた。
つまり武器をいつでもとれる状態で水を飲んでいる者だけを選んだのである。
ひざをかがめて水を飲むものは、もはや敵の不意の攻撃に対して警戒を怠っているからである。
その時、敵を意識して口に手を当てて水をなめた者の数はわずか300人しかいなかった。
しかし、いかに「精鋭」とはいえ、わずか300人だけで「いなごのような大群」と戦うとすれば、常識的には勝てる見込みはない。
そして神が「ギデオンの300」に命じた戦いたるや、実に「風変わり」なものであった。
ギデオンは300人を3隊に分け、全員の手に角笛とからツボとを持たせ、そのつぼの中にタイマツを入れさせた。
そして、真夜中の番兵の交代したばかりの時間、陣営の端に着いたギデオンが角笛を吹きならす。
すると全陣営、回りの百人ずつの三隊が一斉に角笛を吹きならし、つぼを打ち砕きながら「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶというものだった。
そして各自が持ち場を守り、敵陣を包囲したのである。
そして300人が角笛を吹き鳴らしているうちに、陣営の全面にわたって「同士打ち」が始まったのである。
ギデオンの300人のエピソードの中には1人の英雄もいない。
しかし「神の御名が崇められる」という点では「ベストの戦い」であったといえる。
もうひとつ「愚か」とも思える戦いが「難攻不落」のエリコの城をおとした戦いである。
イスラエルが出エジプトの後にカナーンの地に帰還するが、それを率いたのがモーセの後継者ヨシュアである。
そしてヨシュアが最初に攻撃したのはエリコ(ジェリコ)の町である。
エリコは「世界最古」ともいわれる都市集落で、強固な城壁で囲まれていた。
聖書では、ヨシュアは神の命令にしたがって、城を囲んで6日間ラッパを吹き鳴らして周囲を回り7日目に全員が一斉に「雄たけび」を上げると、この「難攻不落」の城壁が突然崩れ落ちたのである。
ばかばかしいとと思われる話だが、考古学者によるエリコの発掘はムシロ聖書の記述の正しさを証明する結果となった。
この城壁が異常な力の加わり方で、一瞬にして崩れ落ちたことが判明しているのである。
戦(いくさ)では大概手柄をたてたり英雄が表われるのに、エリコの戦いは「神のみが崇められる」というアリエナイ戦いであった。

さてもうひとつ、「神の仕組んだ愚かしさ」にあたるエピソードが旧約聖書の「列王記下5」にある。
スリヤ王の軍勢のナアマン大将は、その主君に重んじられた有力な人であった。
しかし彼は大勇士であったにもかかわらず、ライ病を患って悩み苦しんでいた。
そんな時、さきの戦いでスリヤ人がイスラエルから捕らえた一人の女性が、ナアマン大将の妻として仕えていた。
女は女主人に、ナアマン大将がイスラエルにいる一人の預言者と共に居いたらきっと病をいやしたでしょう」と語った。
そこでナアマンは、イスラエルに自分の病を癒すことのできる偉大な預言者がいることを知る。
それをスリヤ王につげると、スリヤ王はイスラエル王にナアマンの病を癒してほしいという手紙を書いて、ナアマンを送り出した。
ところがイスラエル王はその手紙を読み、自分は殺したり、生かしたり出来る神でもないのに、ライ病人を自分によこすというのは、それを理由にしてスリア王が自分に争いを仕掛けようとしているのではなかと警戒した。
しかしそのことを聞いた預言者エリシャは、ナアマンを自分のもとに来さすれば病は癒えるであろうことと、イスラエルに真の預言者がいることを知ることになるだろうと語った。
そこで、ナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。
するとエリシャは、彼に使者を遣わして、「あなたはヨルダンに行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉は元に返って清くなる」と語った。
アマリにも素っ気ない対応であった。
そしてナアマンは、「私は、彼がきっと私のもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病を癒すだろうと思った。ところが川で七回身を洗えという。わが国にもイスラエルの川以上の川がある。なんでそれらの川で身を洗って清まる事が出来ないか」と不平をいった。
つまり、ナアマンは「大将」という自分の地位からして、エリシャ自身がジキジキに挨拶に出てきて、何か「崇高」な業で持って病を癒 してくれるだろうと期待していたのである。
実はそうした思いこそ、ナアマンが病になった原因かもしれないし、預言者エリシャの対応は「神が仕掛けた愚かさ」といえるかもしれない。
そしてナアマンが怒って立ち去ろうとした時、 しもべ達がナアマンに近寄って次のような助言をした。
「我が父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」と。
つまり、ナアマンぐらい重い病気にかかったら難しいことでもしなければならないのに、川に入って水を浴びるくらい簡単なことではありませんかと適切な助言したのである。
そこでナアマンは気持ちを切り替えて、エリシャの言葉どうりに七度ヨルダンに身を浸すと、その肉がもとに返って幼子の様になり、清くなった。
勲章がたくさんある人間というものは、なかなか鎧を脱ぎ捨てることができない。
彼にとっては敵であるものの言葉や、また味方であっても地位の低い者達の言葉をなかなか受け入れることができないのである。
しかしソレができた時、ナアマンは癒されたのである。

今年6月、聖書の「ノアの箱舟」伝説がをラッセル・クロウ主演で映画化される。
タイトルは「ノア 約束の舟」(原題:Noah)で上映されるようだ。
アダムとイブの「失楽園」以来、人間は堕落し地上には悪がはびこった。そこで神は「人間を地上から消し去ろう」として、神の前に正しいと思われるノアの家族のみを救うために箱舟を作らせることになる。
そして主人公ノアは、家族と共に巨大な箱舟をつくり始めるのだが、自分の仕事もせずに「巨大な箱舟」をつくるノアをあざ笑う。
大洪水が来るといっても、青空をみて人々はノア一家を小ばかにする。
その状態は「大洪水が来る直前まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」(創世記6)という言葉によく表われている。
さて、新約聖書の中から仕掛けられた「神の愚かさ」の例を探してみたい。
イエスがガリラヤ湖のほとりで説教をし終えたころ、仕事を終えたばかりの漁師たちが船着場で片づけをしていた。
そしてイエスが問うと、シモン・ペテロが「夜通し働いたが、何一つとれませんでした」といった。
そしてイエスが、「もっと深みに漕ぎ出だして網を下ろしてみなさい」といった。
シモン達は長年漁師をしてきた体験から、イエスがいうことが無駄であることを知っていたはずである。
それは「神の愚かさ」をもって漁師達を試されたかのようである。
しかしペテロは「お言葉ですから」と素直にイエスの言葉どおりに、深みに漕ぎ出だして網をおろしてみた。
すると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになったのである。
その時の漁師達の反応は、単なる大漁を喜んだというものをハルカに超えたものであった。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5)とひれ伏したのである。

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリント1:25)という言葉がある。
そして、この言葉の少し前に次のような言葉がある。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 すなわち、聖書に"わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする"と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」
これは、イエスが求めた「幼子のような信仰」(マタイ8)と符合する。
そして神は、「理知」をもって神を知ろうとする者に対しては、「神の愚かさ」をもってご自身を見えなくされているかのようだ。