道徳と本物体験

一般に「道徳を教える」とは、どういうことか。
詩の感動を「道徳」をと結びつけることは、不埒なことかもしれないが、シバシお許し願いたい。
以下は金子みすずの詩である。
//だれにもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりとないたこと。
もしもうわさがひろがって、
はちのお耳へはいったら、
わるいことでもしたように、
みつをかえしにゆくでしょう//。
短い詩だが、直接的に魂に届く詩である。
そして、ハカラズモ「道徳心」に訴える気がする。
広辞苑で道徳の意味を調べてみると「人のふみおこなうべき道」で、道徳心とは「正邪善悪を判別し、善行を行おうとする心」のことである。
人間にはモトモト備わった「良心」というものがあろうし、中学生・高校生にでもなれば、してはイイこと/イケナイことの判断ぐらいつくだろう。
道徳教育とはそれをワザワザ教えることなのか。
またそれを「実践力」と捉えるならば、「道徳力」は教えてできることなのか。
人間は、してはイケナイことをスルし、したらヨイことが出来ない。
道徳の領域や、犯罪や刑事罰とかの問題とは異なるとしても、根元は同じところから発生しているケースが多い。
人間は、状況によって善にも悪にもなるし、根っからの善人もいなければ、悪人もいない。
少なくとも、そういうことを理解できる「情操」とか「想像力」を育てることの方が、ハルカに重要なことなのではなかろうか。
聖書の「なんじ 裁くなかれ」「なんじ、誓うなかれ」は、そういう人間のアヤウサを前提にした教えであろう。
イスラエルの律法学者やパリサイ人らは、戒律に照らして善悪の判断をスルのみで、それより大切な「精神」を蔑ろにしていた。
そしてイエスが一番攻撃したのは当時の律法学者であり、パリサイ人であったのである。
つまりは当時の「道徳的強者」なのである。
しかしイエスの目線は「道徳的」(or律法的)たりえなかった人々、つまり「取税人、頼病人、罪人の頭」の方に向いていた。
マークトゥエンの小説に登場するトムソーヤーは、子供らしいイタズラに明け暮れていたし、フェイスブックを立ち上げたザッカーバーグ青年はイタズラっ子で人を驚かすことが大好きだった、
学校で「道徳」の評価をつけたら、あまりいい方の評価はつけられそうもない。
人間性に対する想像力を欠いて「道徳を教え、評価する」などということは不毛なものでしかないだろう。

最近「俺さま化する若者」とよくいわれているが、「俺さま化」する若者はケシテ「非道徳的」でも「反社会的」でもないかもしれない。
ただ、ソノ「目線の高さ」にギョットすることがあるということだ。
言葉の使いようマデは気にするまいと思うが、フトした時にそうした「上から目線」に出会うと、一体この若者は何を「勘違い」しているのかと思うことがある。
彼らに欠如しているのは「想像力」とか「情操」であって、それが伴わずして「真に」道徳的でありようがないのではないかと思う。
近年しばしば、新聞やテレビに「度を超えた」俺さまを見かける。
彼らは「反社会的行為」故に新聞を賑わせているのだが、共通しているのは異常に「肥大化」した自分が思うほどには評価されていないと感じているということだ。
大切にされていないとか、ツイニハ「無視」されていると思うようになる。
正当に扱われないよう思いからは、「感謝」の気持ちが起きようもない。
ソノ結果、「孤立感」を深めたり「自己愛」の分やり返さずにはおれず、最後に「世の中に復讐してやろう」なんていう思いに至る。
イギリス人女性を殺害して全国を逃走した市橋被告の言葉は「印象的」だった。
逃走中、ズット「感謝」という言葉の意味を考え続けたという。
なぜなら「感謝」という言葉を知っていたらこんな事件を起こすことはなかっただろうからと気づいたからだ。
しかし、ツイニ「感謝」の言葉の意味はわからなかったと告白している。
それでは、若者が「俺さま化」するのはなぜなのだろうか。
何しろ「消費の場面」では、大人が幼稚園生にも頭を下げる。
そういうことが隅々まで徹底した時代を生きてきたことになる。
コンピュータの操作なら、生徒のほうが教師より達者なものもいるだろうし、外国生活を送ったものならば、教師より英語をシャベルことができるカモしれない。
インターネットで大人が知らない知識も簡単に手に入る。
生徒の方が教師よりも、優れた能力や知識を持っていると「実感」できる機会や領域が増えたということはアルかもしれない。
しかし「俺さま様化」するのは、もっと根本的な原因があるように思う。
個人的な推測だが、彼らは本当に優れたものとか、圧倒的なものとか、崇高なものに出会う機会がナカッタからではなかろうか。
その背景には、デジタル社会の進展ともなう「情報の過多」にあるのではなかろうか。
「擬似的な体験」はいくらでもできるが、「本物」に出会う機会がない。
画像や映像の中で暮らしているので、ワザワザ本物を見に行くのも「時間のロス」にのように思えるのかもしれない。
例えば、コンピュータの画面でピカソの絵を見たり、ネットの要約で古典を読んでしまった気になるとか、本物に芸術に接してそれ以上のものを求めることがない。
クリックひとつで画面を次々に替わるように、ひとつのところに留まってジット見つめたり味わったりすることが極めて少なくなったのではなかろうか。
シンクロナイズド・スイミングの小谷選手の「イルカ体験」談話を思い起こす。
1993年、小谷選手はある人に勧められてイルカを見にバハマに行った。
そしてイルカと並走するように泳いだ時に、体の中に電流のようなものが走った。
海と一体化した自分の「ちっぽけさ」を知りつつ幸福感に浸った。それから「人生観」が変わった。
それからはイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったという。

カメラマンの浅井新平氏が、秋葉原事件のあと若者に「ゴーギャンを見よ」と訴えたのは今だに記憶にあたらしい。
浅井氏の若者に対するメッセージは「本物を見よ」というメッセージだったのではないか。
そこで「本物探し」の旅をした人々の話を紹介したい。
作詞家で作家のなかにし礼氏はゴーギャンの遺作となった大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を見たときに立ちすくんだという。
なかにし氏はある時期、自ら「どこから来たのか」を明確にしなければ一行も詞が書けない状況に陥ったという。
そんな時ゴーギャンの「我々はどこから来たのか~」とボストン美術館で出会い圧倒された。
なかにし氏の幼いころの満州引き揚げ体験はドラマ化されているが、なかにし氏のこうした「異邦人」体験をこの大作に「重ね合わせ」たのかもしれない。
実はゴーギャンは、それまでやっていた株仲買人をやめて43才でタヒチに渡った。
ゴーギャンの絵は土色に輝く人間の肌を描かれている。
ゴーギャンには一人の少女との出会いがあっり、褐色だが黄金のような肌に無垢の美しさを見出だした。
そこに装飾のない美しさを見出し、彼女の一瞬一瞬の表情やしぐさを燃え立つような色づかいで描いたのである。
満州で赤い月と黄砂を見たなかにし氏の体験と「根源的」に響きあうものがあったのかもしれない。
また、大作「われわれはどこから来たのか~」の中のそれぞれのポーズには「暗示的」なものがあり、中央には「知恵の実」を取ろうとする人間の姿が描かれている。
なかにし氏は、人間がイカニ大地を犯してきたのか示しているように見えたという。
そして、なかにし氏はこのゴーギャンの絵と「邂逅」し語りあうことによって、新しい一歩踏み出すことができたのだという。
なかにし氏にとっての「本物体験」、氏の仕事の内容にも変化を与えた。
なかにし氏は歌謡曲の世界からハナレて、「本物の音」をさがしはじめた。そして出会ったのが「長崎ぶらぶら節」である。
なかにし氏と14歳年上の兄との関係はテレビドラマにもなり、幼き日の満州からの引き揚げを描いたドラマ「赤い月」とともに、氏の転変きわまりない「半生」を描いている。
満州からの帰国後、北海道の小樽で一攫千金をねらったニシン漁の体験は、「石狩晩歌」という名曲を生んでいる。
なかにし氏は立教大学でフランス語を学んだが、作詞家になったのは、喫茶店でボーイとしてアルバイトをしていた時にシャンソンの「訳詞」をしたのがキッカケであった。
なかにし氏の「訳詞」は好評をえて、美輪明宏、戸川昌子などが歌っていた日本最初のシャンソン喫茶「銀巴里」などから依頼が来るようになった。
そのうち芸能界にも、その名が知られるようになり、歌謡曲の作詞を勧めたのが石原裕次郎だったという。
なかにし氏は作詞家としての「栄光」にありながらも、実の兄との地獄のような確執に苦しんだ。
このことは、「兄弟」という自伝小説に書いている。
兄が死んだと聞いてなかにし氏が心の中でさけんだ言葉は次のようなものだった。
「兄さん色々とありがとう。兄さんをやってくれてありがとう 親代わりになってくれてありがとう たくさん苛めてくれてありがとう そして死んでくれて本当にありがとう」
兄という「骨肉の呪縛」から解き放たれたれるや、なかにし氏は歌謡曲の作詞をすることの意欲が急速に衰えていったという。
そして、しだいにオペラ、歌舞伎、演劇などのシナリオづくりに、創作のフィールドをシフトしていった。
そして、古代・吉備王国を描いた和製オペラ「ワカヒメ」を創作した時に、作品の中に充分に岡山の地域や風土を書き込む事が出来たのか「不安」を抱くようになった。
これがキッカケでなかにし氏は全国の民謡を聞き、各地に「失われ」つつある歌に興味をもつようになった。
そして、なかにし氏は「長崎ぶらぶら節」という歌に一段優れたものがあるのを感じたという。

「長崎ぶらぶら節」を歌っているのは、長崎丸山花月の芸者「愛八」という女性であった。
この花月に黒田藩御用達の老舗「万屋」の十二代目の御曹子がしばしば訪れていた。
将来「長崎学」の大家と称される古賀十二郎氏で、その財産を使って「長崎」を研究しようとしていたのである。
古賀は芸者の総揚げをするなどをして金をつかい、学者なのか遊び人なのかよく解らない人物であった。
その古賀が、ナゼカ器量よしでもない芸者の「愛八」に目をつけた。
古賀は「長崎学」の確立の為に、長崎に残された古い歌を探すパートナーに「愛八」を選んだのである。
愛八はそんな古賀が、ナゼ自分に「白羽の矢」があてたのかと問うと、古賀は「上手く歌おう、いい人に思われよう、喝采を博そう、そういう邪念が歌から品を奪う。おうちの歌は位が高かった。欲も得もすぱっと切り捨てたような潔さがあった。生きながらすでに死んでいるような軽やかさだ。それでいて投げやりででなく、冷たくなく、血の通った温かさと真面目さ、それに洒落っ気があった。品とはそういうもんたい。
おうちの歌を聞いた瞬間、この女なら、いやこの人なら、長崎の歌探しという、なんの得にもなりそうもなか仕事ば手伝うてくれるのではなかろうかと直感したとたい」と答えた。
愛八は古賀に恋心を抱き、古賀の「歌探し」のために旦那との縁をきり、古賀に伴われて3年もの間旅を続けた。
江戸時代からあるが「失われかけている歌」を人から人へと訪ね歩く旅であった。
愛八は手帳の記号をみればたちどころに歌うことができた。
古賀は、数多くの歌を愛八の歌いに助けながら「整理記録」していったのである。
古賀が歌探しの旅の3年目に出会ったのが「長崎ぶらぶら節」であり、ソノなんともいえぬ甘いのびやかな節回しに引き込まれた。
ただ古賀・愛八によって発見された「長崎ぶらぶら節」が、二人によって「ノート」に記録されただけならば、なかにし氏の目マタハ耳にふれることはなかった。
ある時、作詞家の西条八十八が長崎の花月で食事をした時に、民謡を聞きたいと注文したら愛八が現れた。
西条は愛八の「長崎ぶらぶら節」を聞いた時に、それをレコード化することを勧めた。
レコード会社が商業的に採算が合うのか心配すると、西条は「君たちはいい歌を世に残すという文化的使命があるんじゃないのか」とたしなめたという。
レコード会社は「長崎ぶらぶら節」を有名歌手でレコード化しようと提案した。
すると西条は「愛八」さんが歌うからコソ価値があると反対した。
その結果「長崎ぶらぶら節」は愛八の歌でレコード化され、なかにし礼氏の耳に届くことになるのである。
江戸時代に「名もなき人」がつくった「長崎ぶらぶら節」は、愛八→古賀十二郎→西条八十八→なかにし礼と見出された。
なかにし礼の直木賞受賞作の「長崎ぶらぶら節」は、古賀と愛八の「本物探し」の旅を描いたものであり、同時になかにし氏にとっての長崎丸山芸者「愛八」と本物の音「長崎ぶらぶら節」との出会いの物語であった。

「本物との出会い」がない子供達は、「全能感」をもったまま、社会化されず「オレ様」になる。
根拠のない自信は若者の特権カモしれないが、自分は自分にとって「特別」であるが、他人にとってはそうでないということを理解しない。
そのくせ、外からの評価を異常なほどに恐れている。
現在、小中学校の教育では「道徳」の時間が設けられており、高等学校でも公民科を中心に何らかの「道徳的」内容を盛り込まならなくなってきた。
戦前の反省もあり「道徳教育」については様々な疑問が投げかけられてきたし、公教育の場で「特別」な宗教的な情操を育てることはできない。
その一方で、子どもたちは、大人になる前から「消費主体」としての経験から、教師に「等価交換」を求める傾向がある。
もしも、道徳というものが賢く生きるための教訓、世の中でハジキ出されナイため教えぐらいの「処世訓」に終始するならば、「俺さま化」を防ぐチカラになりそうもない。
人が「幸せ」を感じる「時」は色々あるにちがいない。例えば、自分の力を人に認められることだとか、人に愛されていることを知った時である。
しかし大概の人は一般に自分を大きくしたり、馬鹿にされないように大きく見せることが幸せのベクトルだと思って、努力している。
しかし人はイツカ衰えてゆくものだから、そうした幸せ感は最後まで長続きしそうもない。
それよりもっと深くて長続きする「幸せ」とは、人間があまりにも「小さい」存在であるという実感なのではなかろうか。
それは例えば、自分が人と比べてツマラナイ存在だという実感を意味するものではない。
「小さくて幸せ」とは、自分をはるかに超えた「大きな存在」とか「目に見えない力」を体験した時に、ハジメテ味わうことができる「幸せ」のことである。
自分の生が大きな力に伴なわれ、導かれ、守れているということを実感でいた時の幸せである。
大災害の中でそれに巻き込まれてすべてを失った人々の姿に、意外な「神々しさ」を見出すのは、彼らが圧倒的な力を前に「己の小ささ」を思い知らされた人々の「神々しさ」なのかもしれない。
スベテが押し流されることの「悲しみ」は、自ら「過信」してきたことへの「虚しさ」をも運んでくる。
それによってハジメテ「感謝」ということを知ることができたという人もいる。
人はそういう意味での「小ささ」を知ることこは、「道徳」という言葉だけではオサマリきれない何かを芽生えさせるのではなかろうか。