栄光の人

「栄光の人」ニューヨーク・ヤンキースのイチローのインタビューは面白かった。
ヒットの数の2倍以上の「失敗」と向かいあったことが誇れるという趣旨だったが、それ以上に印象深かったのは別の場で語った話のほうである。
4000本安打の偉業を達成し、チームメイトから予想以上の祝福を受けたイチローだが、その「栄光の日」の10試合後に、勝敗が決した試合で一安打も打ったことのない新人代打のNEXTに代打に出されるという「生涯忘れることのできない屈辱」を味わったという。
「栄光の人」でも、時は風のように過ぎ、最後まで「輝きのまま」生を全うする出来る人は少ない。
少なくとも「輝かない」時間の方が余程長いのだと思う。
しかし「王将」のように輝きを放つと、誰かの「暗い感情」を引き受けることになるのかもしれない。
たまたま読んでいた堀辰雄の「風立ちぬ」の一節に次のようなものがあった。
「なぜだかわからないけれど、私がまだはっきりさせることの出来ずにいる私達の側面には、なんとなく私達のそんな幸福に敵意をもっているようなものが潜んでいるような気がしてならない」と。
ある大学ラグビーの指導者がNHKのTVで「栄光への過程」の特集番組とホボ同じ時期に、学生の麻薬栽培が発覚して、その教育実績のスベテに泥を塗られた感じがあったのを思い出す。
むしろ栄光は風化するばかりか劣化し、人の今の幸せを妨げるのは、かつての幸せの時の記憶なのかもしれない。
栄光の日々を経ながらナオかつ平穏に生を終えるのは、よほど徳の備わった人か、自戒にとんだ人か、日頃からオスソ分けに励んだ人かである。
最近の猪瀬都知事の辞任も、この人の「人徳」が招いた必然なのか、それとも「オリンピック招致」成功という「栄光」の招いたものなのか。
都知事が書いた本「勝ち抜く方法」が出て都庁の売店に沢山の本が並べられたその日に、「東京都知事辞任」発表とは、何かのイタズラのようにヨクモ時が重なったものだ。
「史上最高得票率」で東京都知事に就任しながらも、都知事選における徳洲会疑惑を「勝ち抜けなかった」猪瀬氏は、作家時代に得意とした「事実とエビデンス」に屈せざるを得なかったというのも皮肉だった。
動かせぬファクトは「公用車の運行記録」にあった。
五千万円を返却した9月26日のタクシー領収書を求められたがナイ、公用車の利用記録から、返却日を一日早い25日に訂正せざるをえなくなった。
ということは、徳洲会からの電話は自宅で受けたということになり、前言と食い違いが生じた。
かつてノンフィクション作家で、道路公団の民営化を検討する「第三者委員会」で、国土交通省に資料を開示させ、公団の財務状況やファミリー企業の実体をアバイた。
データにコダワリ改革を迫るという手法だった猪瀬氏につきつけられたのは、「事実とエビデンス」であった。
「事実とエビデンス」を重視した猪瀬氏だからこそ、カエッテ追い込まれていったともいえる。
東京オリンピック誘致の功績をえた「栄光の人」も、辞任に際して花束もなく音楽で送られることもなかった。
最後に部下から「これからは作家として頑張ってください」との挨拶があったが、少々トゲのある言葉のようにも聞こえた。
そういえば「都知事退任」の同じ日に、外食テェーン最大手の「餃子の王将」社長の射殺事件が起きている。
コウ見ると、この世における最もシタタカナな人とは、栄光とは無縁のごく平凡な生き方をしている人とさえ思えてくる。

昔テレビで見た厳しいミッション系の女学校でおきたサスペンス・ドラマを思い出した。
学校で規則をまもらない不良少女が殺された。
事件にあたった探偵が、様々な情況から校則に厳しい一人の女教師を犯人とニラミ、そして追い詰めていった。
その女教師が、探偵に「私がやったという証拠があるのか」と問うと、探偵は確信をもって「証拠は必要ない」といった。
なぜなら聖書の”偽証するなかれ”にあなたは忠実でアルハズダと答えたのである。
この「偽証するなかれ」はモーセの「十戒」の第九番目の戒律である。
また聖書には、「汝をはかる量りをもってあなた自身も量られる」(マタイ7章)とある。
この言葉のごとく、芥川龍之介の名作「羅生門」は、「人を滅ぼす」論理が「自らを滅ぼす」論理に転化する過程を描いたドラマのように思えてきた。
都の門は荒れ果て、狐狸や盗人が棲むようになり、引き取り手のない死体までもが棄てられている。
一人の下人が門の下に佇んでいる。平安京は衰微しておりその余波からか、下人は主人から暇をだされて、格別何もすることはない。つまり失業中でホームレス状態である。
下人は何とかせねばと思うがどうにもならない。結局、餓死するか盗人になるか、と途方に暮れている。
この小説の下人は絶対に悪人ではない。惻隠の情をもったごく普通の人間である。
なぜなら下人は、門の階上で死体の髪の毛をむしりとる老婆をみて、ひとかたならず嫌悪と憎悪を抱くからである。
下人は老婆の襟首を掴み問いただすが、老婆は鬘にして売るのだという。
下人はそれを聞き、あらゆる悪に対する反感が湧き上がり、この時点では饑死するか盗人になるかと云う問題でいえば、明らかに「餓死」を選んでいた。
そんな下人に、「魔」が入り込む瞬間こそがこの物語のハイライトである。
老婆は言う。「この死んだ女は蛇を干魚だといって売り歩いた女だ。この女のした事が悪いとは思わない、饑死をするのじゃて、この女わしのする事も大方大目に見てくれるであろう」と。
皮肉なことにこの言葉は、下人の心に今まで全くなかった勇気を与えた。
下人は「きっと、そうか」と確認した上でこう云った。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」
下人は、すばやく老婆の着物を剥ぎとりしがみつこうとする老婆を振り払い、夜の闇へと消えた。
老婆が語ったことがソノママ、下人に勇気を与えた。
老婆は自らの論理によって、奪ったモノを奪われたことになる。

この世界は、自らの原則によって、自らを「裁く」結果になっているものが非常に多いことに気がつく。
この話に、かつて豊田商事事件で「弱者救済」にあたった中坊公平氏が弁護士バッジをはずした時のことに思い至った。
中坊公平氏は昨年5月に亡くなり、この人がナシタ数々の功績、特に「弱者救済」のハタラキに対して、晩年は寂しすぎる感じが残った。
1929年、中坊氏は京都の老舗旅館に生まれ、京都大学法学部を卒業している。
乳児130人が亡くなり、約13000人に健康被害が出た森永ヒ素ミルク中毒事件(75年)の民事訴訟で被害者弁護団長を務めた。
中坊氏は、最初は弁護団長になることをためらっていたが、父親から「赤ちゃんに一体何の罪があるんだ!そんな情けない息子に育てた覚えはない」と一喝されて目覚めたという。
「戦後最大の詐欺商法」と呼ばれ、高齢者らから約2000億円を集めて倒産した豊田商事事件(85年)では同社の破産管財人となり、「前代未聞」の回収作戦を敢行した。
店舗の家賃や敷金、さらに高額の給料を貰っていた豊田商事の従業員が納めた税金まで回収し、その総額は100億円を超えた。
回収に対する妨害行為も激しく、暴力団が中坊チームの回収した資金の奪取を試みたり、建物の占有を実行したこともあった。
「平成の鬼平」と異名をとるのは1996年10月、住宅金融債権管理機構(現・整理回収機構)の社長に就いてからだ。
住宅金融専門会社、いわゆる住専7社の不良債権を回収する、ハードな仕事である。
住専の母体行である都市銀行が住宅ローン市場に相次いで参入し住専は弾き飛ばされてしまった。
個人向け住宅ローン市場を母体行の銀行に奪われた住専は事業金融に転進していく。
母体行の誘導によって転進したのだ。
しかし、住専の貸出先は住宅会社にとどまらず、貸しビルやゴルフ場、リゾート開発、さらには地上げや土地転がしの資金まで、土地と名がつけば、どんな会社にでも、誰にでも貸した。
住専は大手行のいわば「ダミー」となって、「危ない融資先」に貸し込んでいったのである。
住専を経由してダーティーマネーを貸し付け、荒稼ぎした銀行が住専から逃げ去るのは早かった。
日本銀行はバブルを潰すために、不動産事業者向けの銀行の貸出枠を絞った。
日銀に貸出枠を削られた銀行は、それまで住専に貸し付けていた資金を一斉に引き上げた。
ここに姿をあらわしたのが、農協マネーを運用している農林系金融機関で、銀行が引き上げた分を「肩代り」するカタチで、農林系が住専に入り込んだ。
その後、バブルが崩壊し、住専は不良債権の山を築いた。
住専に5兆5000億円を貸し込んでいた農林系金融機関が、もし回収できなくなれば、農協の組合員である農家・農民が被害を受けることになる。
そこで、農民の救済を名目に税金を投入する「住専処理法」が国会で成立し、農林系は全額、耳をそろえて返してもらったのだ。
「住専処理法」の成立に伴い、住専7社の債権債務の処理を進める住専処理機構は96年に住宅金融債権管理機構と改称した。
中坊氏が社長に就任し、「国民にこれ以上負担をかけたくない」と語り、債券の回収に心血を注ぐ。
住専の大口融資先から貸付金を回収する辣腕ぶりが世論の支持を得て「平成の鬼平」と呼ばれるようになった。
しかし「平成の鬼平」がツマズイタのは、住専から巨額の資金を引き出した朝日住建からの回収の過程においてだった。
舞台となったのは大阪府堺市の泉北ニュータウンにある泉北ホテルで、朝日住建の資金繰りが悪化して工事は中断した。
鉄骨が途中まで組みあがったまま放置された姿は、住専の「不良債権問題の象徴」として、何度もテレビに映しだされた。
中坊氏は02年10月、泉北ホテルのかつての所有者だった朝日住建の元監査役氏から東京地検特捜部に「詐欺罪」で告発された。
住管機構は虚偽の事実を告知して他の債権者を騙して、本来ならできなかったはずの多額債権を回収して利益を上げたのだから「詐欺罪」に当たるとして、告発されたのである。
晩年は瀬戸内海の産業廃棄物問題に取り組まれた。しかしそれは「弁護士」としてではない。
あるTV番組で、廃棄物の山を前にして、自分には「戦う武器」が何ひとつないことを語っておられたのが痛々しかった。
たくさんの「弱者」を救った人ダケに惜しい。
しかし反対に、数多くの「悪」を厳しく追及しただけに、自らにも厳しくする外はなかったということであろう。
スジを通した中坊氏らしい身の処し方だが、多くの詐欺事件に関わり「平成の鬼平」と呼ばれた人が詐欺罪でツマズクとは皮肉な話である。

サザン・オールスターズの復活後の曲は、一皮ムケタ桑田圭祐になったように思う。
タイトルは「栄光の男」だが、中間を略しつつ紹介すると次のとうり。
♪♪「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてく
生まれ変わってみても 栄光の男にゃなれない 鬼が行き交う世間 渡り切るのが精一杯
満月が都会の ビルの谷間から 「このオッチョコチョイ」と 俺を睨んでいた
I will never cry. この世は弱い者には冷たいね 終わりなき旅路よ 明日天気にしておくれ♪♪
この歌詞の中にある「オッチョコチョイ」に、日本振興銀行の金融庁検査妨害事件で失脚した人物を思い起こした。
元日本振興銀行会長の木村剛氏のことである。
木村氏は「中小企業救済」を掲げて振興銀行設立に関与しながら、違法性の高い取引にからむ電子メールを削除した疑いがあるとして、2010年に逮捕された。
振り返れば、木村剛氏の名前はドレホド多くの書店の棚を飾っただろうか。
元日銀マンで金融コンサルタントの仕事をしていたが、多くの著作を書く自他共に許す「金融界の寵児」だった。
そして05年自らが日本振興銀行の経営にカッテ出て社長になった。
どんなに金融の知識が豊富であっても、実際の経営とは「別次元」の話である。
この時点でかなりオッチョコチョイなところである。
日本振興銀行は、消費者金融の資金元である卸金融を手がけていたノンバンクオレガの落合伸治氏が中心となり、木村剛氏がアドバイスする形で、2004年4月に開業した。
中小企業向けの融資および一般顧客の定期預金専門の銀行で、金融庁の分類では「新たな形態の銀行等」として位置付けられている。
都市銀行と同じく、金融庁長官の監督を受ける、いわゆる「本庁直轄銀行」である。
ところで、中国の商鞅は、徳治を唱える儒家と対照的に、厳格な法による統治を説く法家の一人で、秦の孝公に仕えた人物である。
国政改革では法にもとづく信賞必罰を徹底した「法家」に属するとされるが、孝公が没すると商鞅は政敵たちの追及を受ける。
彼は都を脱出して函谷関で宿に泊まろうとしたが、宿屋の主人は彼の正体を知らずに「通行手形をもたない者を泊めては商鞅の法で罰せられる」と断ったという。
この故事の現代版が、日本振興銀行会長で、逮捕された木村剛氏といえる。
木村氏はかつての大蔵大臣の竹中平蔵の信任をうけて、金融監督庁で金融検査マニュアルの検討委員を務めた。
その後、銀行の不良債権問題の論客として時代の脚光を浴び、銀行の資産査定の厳格化にむけて、強権的な金融検査を促す発言で金融界に恐れられた。
経営不振に陥った日本信託銀行には、10ヶ月もの長きにわたる金融庁による調査が入ったという。
その中で、証拠となる「電子メール」削除などが明らかになった。
その木村氏が「金融検査妨害」の容疑で逮捕されたのだから、実質的に「自分が策定したルール」によって逮捕されたということになる。
「経営不振」の理由は、日本振興銀行が進めた中小企業の資金貸し出しの業務に、かつて金融監督庁の委員としてシメアゲタ大手の銀行が進出し始めたからだというのだから、ますますモッテ皮肉である。
しかも警察の捜査で、その豊富な知識を駆使した損失隠しや偽装が浮き彫りとなり、そしてその金額の大きさが明らかになった。
「寵児」ともいわれた人の失墜は、幾重にもオッチョコチョイが重なったという外はない。
そして、日本振興銀行破綻はペイオフ発動の第1号として話題をフリマキ、木村剛氏逮捕後に、社外取締役の小畠晴喜氏が急遽社長に就いて業務体制を刷新し、資本増強を模索した。
しかし、巨額の債務超過が避けられなくなり、鳴り物入りで設立された日本振興銀行はワズカ6年で経営破綻した。
ちなみに小畠晴喜社長は、作家・江上剛のペンネームで「非情銀行」など数多くの本を書いている。
また小畠氏は、高杉良の小説「金融腐食列島」のモデルでもある。