気候をつくる

平安時代の白川法皇は、この世に思いどうりにならないことを3つあげた。「賀茂河の水 双六の賽 山法師」である。
今日におき換えると、「集中豪雨 宝くじ 危険ドラッグ」あたりでしょうか。
政治も社会も規制がうまくできないものとしては、他にもブラック企業や幼児虐待もあげられる。
白川法皇のいうとうり、昔から洪水を繰り返すのが賀茂川で、時の権力者といえども相当手を焼いたと思われる。
それにしても、猛暑の中、集中的に東京三鷹を襲った特大の雹(ひょう)には驚かせられた。
地域限定でアットいう間に一面銀世界と化したのだから、「異変」というより何かの「悪戯」のような出来事だった。
古来、自然を手なずけることの難しさは、様々な宗教儀礼を生み、その代表が「太陽崇拝」である。
現代の科学は、あらゆる自然現象は、熱も風も雨も生命も、究極的に太陽エネルギーに根源があることを教えるが、古代人も直感的に、太陽こそが彼らの生命の根源という意識があったのであろう。
日本では天照大神という「女神」を崇拝してきた。
女王といえば「卑弥呼」が有名だが、わが福岡の西隣、昔「伊都国」とよばれた地域でも「女神」が崇められ、その墓が平原古墳であることが特定されている。
実はこの古墳は、古代のロマンを掻き立てる「謎」が秘められている。
何しろ日本最大の銅鏡がこの古墳で見つかったこと。
そしてその銅鏡たるや実に不思議なカタチで埋まっていた点である。
被葬者の四隅の銅鏡がすべて「人為的」に割られて埋められていたのである。
この銅鏡を接合して修復したのが在野の考古学者・原田大六であるが、その発掘品の多くは伊都国歴史博物館でみることができる。
原田大六は、天皇家の八咫鏡と平原遺跡出土の内行花文鏡(46cm)との近似性を指摘している。
そしてこの遺跡の解説文に実に面白いことが書かれてあった。
福岡市との境の日向(ひなた)峠からのぼる太陽光線が、遺体に春分の日と秋分の日には真直線にあたるように位置づけられているという。
この女神にも、「太陽崇拝」の痕跡を感じさせるもがである。
さて、ここから以下はズブの素人が勝手に想像の翼を広げた話であることを断っておきたい。
自分がこの博物館で銅鏡を見て思ったことは、発掘状況からみて銅鏡は割られた後に埋められたのではなく、埋められた後に、何らかの事情で掘り起こされて、割られた感じがする。
当時のシャーマン的な女性の第一の役割は、天気の予想ということである。
しかしそれだけに留まることなく、シャーマンには天候を占うばかりではなく、その呪術性により天候を左右できる能力が求められる。
つまり天を開いて恵みをこの世に呼び下す存在でもある。
ある郷土史の本で、このシャ-マン的な役割を果たした女王が何らかの意味で権威を失墜をしたために、権威のシンボルである鏡をこなごなに砕かれたと書いてあったが、そんな壊れた銅鏡を埋めたりする必要があるのだろうか。
死後の女王の働きを恐れて、この女王の働きを封じようと鏡を割ったという方が、まだ説得力がある。
あるいは、伊都の女王一族と対抗する勢力と力関係の中で、銅鏡を砕かざるをえないようなことが起きたのか。
砕かれた銅鏡に、どんな政治的な意味合いが込められたかはわからないが、ひとついえることは、この銅鏡が日本最大のものであったが故に、砕かざるをえなかったのではなかろうか。
天皇家の三種の神器のひとつ「八咫鏡」は「古事記」のエピソードと結びついているが、こうした銅鏡が「神器」となる程に尊ばれたのはなぜだろう。
それが太陽を映し、祈りを込めるように陽の光を反射させる器であったことにあるのではなかろうか。
さて、中国は周辺諸国に「銅鏡」を下賜することにより、その支配圏を示した。
それはあくまでも、権威や権力のシンボルであって、銅鏡で「何を」を映したかなどという議論は今まで聞いたことがない。
中国製の銅鏡ではそうでもないが、国産の銅鏡だと今の鏡と大きく違わない程度に姿カタチが映るのだそうだ。
仮に今日の鏡のように実用に役立つものではないにせよ、野外で光を反射させるとキラキラと輝きうるのは確かである。
そこに、銅鏡が宗教的・呪術的な色彩を帯びた原因があるのではなかろうか。
銅鏡を太陽に反射させるだけで、そこに小さな太陽を実現できる。
例えば太陽神の化身ともいうべき女王が即位するに際して、この鏡を使った荘厳な演出が行われたりしたことも考えられる。
複数の鏡を巧みに組み合すともっと神秘な場面を演出できそうだ。
また光は、内側が黒く塗った箱に小さな穴をあけて光を屈折させる仕掛けをつくると、光が七色に分かれる美しい像があらわれる。
人々は、銅鏡を太陽(天)に向けて、ある種の祈りを込めて光を「反射」させたのかもしれない。
つまり、新嘗祭や祈年祭のもう一つの側面は「ひかり祭り」ではなかったか、と推測する。

ところで、古代の宗教的儀礼の多くは、雨乞いをはじめとして「天候をコントロール」ということと深く結びついている。
ここ数年の日本の夏の天候は、各地で雨が1か月分が1日で降ったという「異常」を伝えている。
何か自然界の異変を感じるのだが、現代の人間は、さすがにシャーマン的「呪術」ではなく、「科学の力」で気候を変えられないかと発想するようになった。
ところで、最近の技術進歩といえば、様々な分野でアンタッチャブルと思われた領域にも切り込んでいくのに驚かさせられる。
遺伝子工学の世界では、特殊なたんぱく質でできた「はさみ」でゲノム(遺伝子内の塩基の組み合わせ)を切り貼りして「編集」するのだという。
また「人工知能」の開発の過程で、脳の血流の動きから、考えていることや夢で見たことまでもが判別しようとしている。
最近、本人確認のための「顔認証システム」は、人間の表情の動きから「感情」までも読み取ろうとしている。
こういう不可能に思える夢を実現しようとする人間の能力の高さを目の当たりにすると、旧約聖書の詩を思い浮かべる。
「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、
あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄と誉とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治めさせ、 よろずの物をその足の下におかれました」(詩篇8編)
そして今、頻発する自然災害を前にして、気候自体を人間がコントロールしようと「気候工学」というものが生まれ、その実用化にむけて様々な実験がなされている。
それでは、「気候工学」とはどういうものか。
筑波大学が、三宅島上空でやった実験では、飛行機から二酸化炭素の液体をまくと、約2キロの液体炭酸は、上昇して雲の中に消えていく。
そして、30分前後で突然雨粒が落ちてきた。
実は雲は1000分の数ミリメートルの微小な水滴によってできている。
水滴が凍って1ミリメートル程度になると、氷の結晶になって雲から落ち始める。
そして途中、大気の暖かい空気にふれて雨になるのだという。
上空に冷気が流れ込んで、この氷の結晶が大きくなりすぎて、雨になりきらずに地面に落ちてくるのが雹(ひょう)なのである。
「人口降雨技術」とは、氷の結晶がたくさんできるように、また氷の結晶が大きくなり過ぎないように、ある特定の物質を雲に送り込んで雨を増やす技術である。
1046年にアメリカの企業の研究者がドライアイスを雲の中に入れ、氷の結晶を育てる実験に成功したが、九州大学がこの方法で実験を始め、今は液体炭酸をまく方法も研究している。
長らくヨウ化銀を含む煙を地上から立ち上らせる方法が知られていたが、ヨウ化銀が雲の中で氷の結晶を作るとなると、大量の降雨の場合には人体に悪い影響があるとされた。
その点、ドライアイスや液体炭酸は安全だといわれている。
「人口降雨技術」の問題点は、色々実験してもそれが自然現象なのか人口雨なのか掴みがたく成否が問えないという面があったが、最近ではシュミレーション技術の発展が、この技術を現実化させようとしている。
人工降雨は将来予想される渇水防止に役立つし、集中して雨や雪のふる地域を分散することもできる。
ダムの近くで降らせたり、町から離れたところに雪を降らせれば「雪かき」の労力や事故をなくすことができる。
ただ今のところ、雲ひとつない晴天のときに雨を降らせる技術はないという。
それでは具体的に実用可の場面を考えると、明日大事な学校行事や町のイベントがあるので、「地域限定」で天気を変えることだって可能になるかもしれない。
反面、天気を変えることは様々なトラブルを生む。
すぐに思いつくことは、水利権や水害の押し付け合いなどである。
現在、環境との兼ね合いで公共事業の合意を取り付けるように、天候についても社会的合意が必要になる。
天候の変化は自然の生態系の変化も引きおこし、環境への影響を評価しながら変更のスケールや内容を決定する「公共財」のようなものになるかもしれない。

さて「気候工学」の視野は、大気圏内だけではなく、宇宙へも広っている。
これは地域限定・時期限定の「気象の変更」などではなく、地球全体の「気候の変更」を目的とするものである。
例えば、我々は外国の火山の大噴火が発した灰が太陽光を遮り「冷夏」となったことを覚えている。
とすると、地球をおおう「巨大日傘」はどうかという発想が生まれてもおかしくはない。
人工衛星のように「鏡」を打ち上げて太陽光を遮る。あるいは鏡によって太陽光の向きを変える。
最近一番有望なのは、成層圏に硫酸の粒子状物質を注入することによって大規模場な「日傘」をつくる。
ジェット機で粒子を散布すればいいので、コスト面でもそうかからないという。
気候を改造するには空が白くなるとか、干ばつがおきるなどのリスクはあるが、反対に気候を改造しないことのリスク自体も大きくなりつつある。
しかし一方で、気候変更が可能ならば、自然エネルギーにたよらずに、化石燃料をどんどん使おうなどとという、モラール・ハザードの問題が生じる。
「気候変更」が科学的にある程度可能だとしても、国際的な政治的利害の調整はとんでもなく難しいことが予想される。
振り返ると、1997年の「京都議定書」におけるCO2の排出基準の決定でさえ難航したし、自国の都合で不参加とした大国もある。
結局は、排出基準を定めたソノ時よりもCO2の排出量は増え続けているのである。
気候変更のためには、利害調整のための国際機関も必要となろう。
また、天候によって売れ行きが変わってくる業界団体との交渉も必要である。

さて、地球温暖化による自然災害にむけての究極の対策としての「気候工学」なのだが、もっとロマンのある話にも応用できる。
数ヶ月前に新聞を読んでいると、「星に願いを」というタイトルが目に入った。
なんと、人工的に「流れ星」を作り出すというビジネスが登場しようとしている。
テレビでよくみる恋人達の告白のシーンで、花火がうちあがったり、ネオンに「愛している」という文字が流れたりといったシーンはみた。
そのタミングにあわせて、流れ星がす~っと流れる演出なんて本当にできるのか。
人工衛星から直径1センチの玉を放出して、夜空を1秒間ほど彩る「人工流れ星」を作り出す。
その事業化を目指すのは岡島礼奈さんという女性で、1人でベンチャー企業「ALE(エール)」を立ち上げた。
小学校時代に相対性理論の漫画を読んで興味を持ち、東大の天文学科へ。ITベンチャーを起こしながら博士号を所得した。
ロケットで一辺50センチの立方体の小型衛星を打ち上げ、高さ数百キロの宇宙から計算した時間と方向へ玉を放出する。
玉が大気圏で燃え尽きることで、イベントなどの演出に合わせた流れ星になる。
総費用は5億円で、玉が1千個積めるので、1つ100万円なら利益も出るのだという。
大学の研究者らと3年後の打ち上げを目標にしている。
地上実験では明るさが3等星相当しかないので、1等にするのがこれからの技術的な課題なのだそうだ。
しかし、流れ星をつくるといっても、場所や時間を決めて発生させるのはなかなか難しいらしい。
人工衛星から砂粒状のものを発射するが、人工衛星自体は秒速8kmほどのスピードで動いている。
ここから砂粒状のものを発射しても、元々のスピードがあるのでなかなか落ちてこれない。
したがって、人工衛星からものすごい高速で後側に砂粒状のものを発射させるかしない限り、大気圏にそれが突入できないのである。
岡島さんは13年前の「しし座流星群」大出現で思いつき、仲間に語ったら「ぶっ飛んでる」と言われ、冷笑もされたが、宇宙航空研究開発機構がロケットに相乗りさせる小型衛星を選ぶ委員を務めた体験が自信が裏づけとなっている。
現在、2歳の男の子の母親でもあるが、夢は東京五輪の式典に採用してもらうことで、「世界中の人々に、星に願いを込めてもらえたら」という思いがある。

世間一般では、人口衛星で「流れ星」をつくるなんてソンナ道楽に金がかけられるかという思いもあるかもしれない。
「流れ星」への需要が増えて、大量処理となると、コストも下がっていきそうである。
そして彼女とは別に、東大の大学院であった中村友哉氏が、手のひらに乗るくらいの人工衛星を開発した記事がでていた。
この超小型の人工衛星は見ためでは、ひところ流行ったルービック・キューブを思い浮かべる。
今この手のひらサイズの超小型工衛星は、高度600キロのところを1日14周まわっている。これはボーイング787の約30倍の速さでなのだそうだ。
中村氏が学生時代の仲間と人工衛星をうちあげたら、学生の自己満足の玩具じゃないかと批判されたことが発奮材料となった。
中村氏は大手メーカーの就職口も辞退して、ベンチャーをたちあげた。
しかし、この話を企業に持ち込んだらほとんど断られた。
ところが数年して日本発の世界最大の気象会社ウェザー・ニューズからはじめての打診があったという。
つまり純粋にビジネス目的での低コストでの人工衛星が生まれたのである。
岡崎さんの「流れ星」のアイデアとも「一体化」したら、不可能も可能に思えてくる。
最近では、宇宙エレベーターなどの発想もあるらしい。反面、地球のことなんか忘れるくらいに、高くのぼろうとする人間の思いに危惧を感じる。
旧約聖書には、今日の宇宙開発を予見し警告を発するような言葉がある。
「たといあなたは、わしのように高くあがり星の間に巣を設けても、わたしはそこからあなたを引きおろす」(オバデヤ書第1章)と主は言われる。