福岡DEしばらく

歴史を見渡せば、博多に着いた人々は様々な事情でしばらく博多に留まるケースが多い。
その留まったことが大きな意味をもつ場合もあるし、「腰し掛け」「通過点」にすぎない場合もある。
福岡で「待ち時間」を過ごしすのは、中国大陸が近いことと、古代には大宰府があったことや博多港が終戦後、満州や朝鮮からの日本最大の「引揚港」であったこととも関わっている。
そうして福岡におけるしばらくの滞在が、時には「戦略的」であった場合もある。
例えば南北朝の戦いで、足利尊氏が多々良川の戦いに勝利し、捲土従来をはかったのは、ある部分「戦略的」であったといえるかもしれない。
ところでごく最近、福岡・北九州市沖で遺体で見つかった内閣府の30歳の男性職員がいた。
政府関係者がメールなどを調べた結果 この職員には公にできないプライベートな理由で帰国する必要があったということが判明している。
あまりにも異様な事件であるが、松本清張ならきっと小説の材料にするに違いない。
この内閣府職員、東京大学・大学院・法学部を出て内閣府に入った後、アメリカのミネソタ大学で経済学の勉強のために国費留学していたエリートである。
そういう国費留学生というものは「緑のパスポート」を持っていて、「1回使いきり」なのだという。
つまり、緑のパスポートは日本に帰ったらそこでお終い、つまり「無効」になる。
したがって日本以外の世界中どこでも行けるのだが 日本に帰ってくるのだけはダメ。
つまり留学しているのだから、その目的を達成する前に帰ってくるようなかおとはしてはイケナイという意味である。
彼はソウルで経済関係の学会があることを掴んで申請をして認められたのでソウルまで行ってソウルから南下して現地で調達したゴムボートと船外機で海に出たということのようだ。
勇猛果敢ともいいうるが、東大・大学院・法学部を出て国家公務員試験の上級職も受かった人にしては、アマリにも無謀すぎて、一体どんなプラーベートな事情があったのか知りたいものである。
ところで、このエリート氏と同じく「早期帰国」が問題となった平安時代の留学僧がいる。誰しもがよく知る空海つまり弘法大師である。
彼が「国禁」を犯してまでも、早期帰国に至ったのはなぜだろうか。
空海は774年讃岐の国に生まれ、12歳で「論語」などを勉強し15歳で都にのぼる。18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望された。
大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。
山岳修行を続けながら仏教をきわめようとしていた時、それまでに一度も見たことのない経典である密教の根本経典「大日教」と出会う。
当時の密教は日本ではそれほど重視されておらず、空海は正統な密教を学ぶために唐にわたる他はないと考えるようになった。
31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。同じ船団には最澄の姿もあった。
空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが経済的にそれほど潤沢であったとも思えない。
また空海は私度僧という立場でもあり特有の不安定さがつきまとっていた。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、胎蔵界つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態、と金剛界つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていた。
しかし、それらの奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかった。
恵果は一目で空海にその資格ありとみた、というよりも恵果は空海を恵果自身の師匠である三蔵の生まれ変わりとみたのである。
そして自分の持つものすべてを空海に惜しげもなく開陳した。恵果は空海に会ってからわずか3ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者としたのである。
恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。
しかしこれは「国法」を犯すことだった。なぜならば、契約によれば20年は中国で学問の研鑽を積まねばならなかったからだ。
また一方で空海は、いつの日か許されて都に上る時が来るにせよ、都にはそこから別れようと唐に渡る決意をした「旧態依然」たる仏教がそこにあるのだ。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であった。
そうして空海がこれから過ごす博多と太宰府には、得度受戒の儀式を行う戒壇院がある観世音寺があった。
さらに観世音寺には、多くの留学生がここに経典を伝え多くの蔵書にも恵まれていて、空海はこの観世音寺に派遣されてきた東大寺や唐招提寺の学僧とも交わることができたのである。
奈良時代に吉備真備と学んだ玄昉も、この寺に留学からの帰国後過ごし、失脚後この寺に流された。というわけで玄昉の墓は、観世音寺のすぐそばにある。
ちなみに吉備真備も福岡で「しばらくの時間」を過ごした人である。 吉備真備は地方豪族出身の中国への留学生だが、帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、帰朝後には急速に昇進する。
さらに、738年に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した僧・玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。
しかし740年には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす。
しかし、孝謙天皇即位後の750には藤原仲麻呂が専権し、「筑前守」次いで肥前守に左遷される。
そして751年)は「遣唐副使」となり、翌752年に再度入唐、唐で出世していた阿倍仲麻呂と再会する。
754年に屋久島さらに紀州太地に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝した。
コノ年「大宰少弐」に叙任されて九州に下向し、新羅に対する防衛のため筑前に「怡土城」を築き、大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、大宰大弐(大宰府の次官)に昇任している。
「怡土城」城址は、現在遺構としては、福岡市と糸島市との境にある高祖山の西裾に1.6キロメートルの土塁、尾根線上に計8か所の望楼跡が残っている。
ところで、空海は博多滞在のしばらくの時間をフル活用しようとしたにちがいない。なぜならば最澄らとは異なり一介の私渡僧にすぎない自分が、勇んで都にでていったところで誰も相手にしないし、まして「国禁」を犯した立場なのだ。
空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピールしていく。
空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。
それは当時の文化価値からすれば「史上空前の財宝」が載っており、早期帰国の罪をオギナッテ有り余るほどの価値があるものと空海は自負していた。
空海は、先に密教を断片的に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。
京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれた。
空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
博多の1年間と合わせたこの3年間が密教ビジョン構築の時間だった。
さらに朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。
新に天皇となった嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していたのだ。
平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立った。
空海は806年留学先の唐から帰国して1年間は博多にいたらしい。そのことは博多駅近くに空海が設立した「東長寺」があることでもわかる。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、東長寺の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
唐より帰国して博多にいたその1年間は空海にとって貴重な時間であった。
空海は博多(大宰府)で、もちかえった密教の法具を整理し密教を理論化、体系化していった。
それは新しい世界観をうちたてるためにドウシテモ必要な時間であった。
空海の博多滞在はある意味「処分待ちの時間」であると同時に、しかるべき時を待つ「戦略的時間」であったようにも見える。

福岡市の南の那珂川町を通ると「安徳」という地名が見える。安徳天皇と関係があるのだろうかとズット気になっていた。
安徳天皇は高倉天皇の子で、母親は平清盛の女・建礼門院・徳子である。
1185年壇の浦の戦いでわずか7歳で海中に入水し没したことはよく知られている。
ある日、那珂川町の役場を訪れて、役場の方に安徳天皇は瀬戸内海を漂う前に平家ゆかりの地・太宰府を訪れたことがあるという話を聞くことができた。
平清盛は1157年、大宰大弐として太宰府の地にいたことがある。
「大弐」なる地位の場合、代理人を派遣するのが通例であるが、博多での貿易の利に目をつけていた平清盛は太宰府の地に実際に赴任していたのである。
しかし平清盛死後、平家は没落の一途をたどり、東国から源氏の追討をうけ、清盛ゆかりの地・太宰府に逃れた。
このころ平家一門は安楽寺(太宰府天満宮)に参り、終夜歌詠み連歌をしている。
大宰府天満宮すぐそばに「連歌屋」という地名があるが、コノ場所で飯尾宗祇などもここを訪れまるでレクイエムのように連歌を詠んだのである。
この時、平家に擁された安徳天皇は、太宰府に近い坂本の善正寺と10キロほど離れた筑紫郡那珂川町にある原田氏居城を行在所としている。
那珂川町の「安徳台」と呼ばれる小さな台地を訪れたところ、畑の中に大きな木がありそのすぐそばに「安徳天皇行在所」をしめす碑が立っている。
安徳天皇と平家はその後、再び海に浮かんで讃岐の屋島の戦いに臨むこととになる。
那珂川町安徳は、地名から謎を問いていく、そうした面白さを味あうことができた場所であった。
そして安徳天皇は、「壇の浦の戦い」としか結びつかなかったのだが、平家の西の拠点「袖の湊」(博多)から約20キロの地点に安徳天皇が身を隠していたとは、驚きの事実であった。

1945年日本の敗戦とともに、山口淑子は博多港に着き再び故国の土をふんだ。
そして自ら出演した映画で、知らず知らずのうちに自分が国策のなかで利用されたこと、また描かれた世界と格差に満ちた現実の姿の違いに苦しんだことを、博多港に設置されたインタビュー会場で答えている。
また満州映画会社の社員には、作家赤川次郎の父・赤川孝一もおり、同じく甘粕の自決を見届けている。
そして赤川次郎は、引き揚げてきた福岡で幼き日々を過ごしている。
自分が幼い頃「引揚者」という言葉が周囲に聞こえたが、その意味がわからぬままに過ごしてきた。
しかしその意味がようやくわかったのは、高校時代に読んだ「流れる星は生きている」という本であった。この本の著者は「藤原てい」で、戦後すぐにベストセラーとなった。
藤原ていの夫は、戦争中満州にあった気象台に勤める藤原寛人で、後に作家となった新田次郎である。
また次男は「若き数学者のアメリカ」で知られる数学者・藤原正彦で最近は「国家の品格」の著書でよく知られている。
日本の敗戦が決定的になり藤原ていと子供三人は、男は軍の動員命令があり、女ばかりとなった観象台(気象台)の家族と共に日本への決死の「逃避行」を行った。
中国の新京を逃れ、平壌、釜山、そして「博多」へという行程が描かれている。
また、共産党の野坂参三は戦後中国共産党の本拠地・延安から日本に戻った時の印象をこう記している。
「ひと度博多の街に足を入れると、そこには破壊された街と闇市場があった。これが私の夢にも忘れなかった祖国の姿かと思ったとき、私は悲壮な感じを抱くと同時に、日本をこのやうな運命に導いた日本の支配階級にたいして新たな憎しみと、かれらにたいする闘争の決意を強めた」([亡命十六年]より。)
実は、博多は終戦によって大陸から引き揚げてくる人々と、大陸の祖国へ戻ろうとする人々が交錯し、大混乱に陥っていた。
というわけで福岡には「革新的気風」が横溢し、戦後の公選知事の初代・杉本勝次、次の鵜崎多一と革新知事がニ代続いて誕生したのである。
こうした満州移民の最大の引き揚げ港である博多港には赤い「引き揚げの碑」がたっている。
船の上に赤く帆を拡げたようなカタチである。
モニュメントの間近に立つと、真っ赤な色をした「帆」が、引揚者達がようやく繋いだ「命」を象徴しているようにも見えてくる。

ところで昭和の時代にいたって、福岡で「しばらく」を過ごした政財界の大物二人がいる。そして二人の生き筋は微妙に絡んでいる。
第61代内閣総理大臣である佐藤栄作は1901年に生まれ、1924年に東大を卒業すると鉄道省に入省した。
入省の二年後1926年に二日市駅長として赴任してきている。
若い頃は男マエであったらしく、若い駅長は二日市温泉でもウワサになっていたらしいが、肌色が少々黒く「黒砂糖」というあだ名がついていたらしい。
佐藤栄作は、前任の首相池田勇人と同じく二人とも出世コースから離れていたおかげで、終戦時に処分されることなく、自然と地位が上がっていた。
1974の佐藤栄作のノーベル平和賞を記念して、JR二日市駅前に「顕徳碑」が建てられた。
ところで政治家の佐藤栄作と微妙に交錯するのが、福岡県飯塚市出身の財界人・元経団連の副会長である花村仁八郎である。
花村は東大を卒業してすぐに結核となり、知人の紹介により「しばらく」の間、福岡市南区老司にあるの「少年院」で教官をしたことがある。
花村は後に財界の自民党に対する献金の割り振りをつくり、それが「花村リスト」として世に知られる。
1954年 造船疑獄により海運関係のトップと保守系代議士があいついで逮捕された。
このとき検察側は、造船工業会などからワイロを受け取った疑いで佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を急いだが、犬養健法相は指揮権を発動し、逮捕を阻止して辞職した。
この時、捜査の対象になった政治家・官僚・会社員は千人をこえ、会社役員・運輸省役人の二人が自殺した。
この事件をキカケに経団連は財界の「政治献金」を一本化しようとするが、政治献金問題の「中心的役割」を果たしたのが花村仁八郎であった。
花村は企業・団体から出してもらう政治資金は自由経済体制を堅持する「保険料」と位置づけ、「花村リスト」といわれる献金の割り当て表を作り、これが以後「財界献金の原典」となった。
企業の政治献金を取り仕切り「財界政治部長」の異名をとり、長年政界と財界の資金のパイプ役を務めた花村は1975年経団連の事務総長、1976年事務総長兼務で副会長に就任し、この間日本航空の会長も務めた。
花村は、大学卒業後に少年院で涙ながらに少年達の身の上話を聞いたことが、後の財界の世話人と呼ばれるようになる「下地」をつくった語っている。