衣服のエピソード

11世紀、ノルマン人が地中海シチリアに進出した際、ノルマン人はイスラム世界の「手芸技術」を学び、イギリス海峡に位置するガーンジー島、ジャージー島に伝えた。
この二つの島こそがセーターの起源の地で、セーターはイスラムの「手芸技術」が基礎になっている。
さて今、世界の注目を集めるクルミア半島で二つの「衣服」が生まれたことはアマリ知られていない。
クリミア戦争に砲兵少尉として従軍した若き日のトルストイは「セヴァストポリ物語」で戦場の悲惨を生々しく描いた。
セヴァストポリ要塞は黒海に突き出たクリミア半島南端のロシア海軍の基地で、18世紀末クリミア=ハン国を併合したロシアのエカチェリーナ2世が築いた。
第二次大戦末期のヤルタ会談が行われた保養地ヤルタは東へ約60キロメートルのところにある。
ヤルタは、黒海から地中海への出口(ボスフォラス海峡)は南下を目指すロシアの「生命線」であった。
歴代のツァーリは「瀕死の病人」オスマン=トルコから海峡の「通行権」を奪おうとしたが、イギリス・フランス等の介入で挫折した。
イギリスが重視するインド、フランスが重視するアフリカへの通行路は、ロシアの恒常的な「南下政策」とハゲシク「衝突」したからである。
そして1853年、ロシア軍とトルコを支援する英仏軍はクリミア半島で激突した。
セヴァストポリ要塞をめぐる攻防戦は陰惨を極め、要塞に立て籠もったロシア軍は349日めに、チカラつきて降服した。
ロシアの「南下政策」はまたしても失敗に終わったのだが、この戦争で看護婦として参加したのがイギリス人女性ナイチンゲールである。
敵味方に関係なく傷ついた兵士を看病したので「クリミアの天使」とよばれたが、ナイチンゲールの真骨頂は、むしろ冷静な情報分析とそれに基づく「環境改善」にあった。
野戦病院はネズミとシラミが跳梁し、飲料水の補給もままならない状態で、傷病兵の死亡率は40%に達していた。
彼女は精力的にデータを収集し、独自の統計的分析を根拠に、病院の環境改善を進言し、わずか半年で死亡率を2 %に激減させた。
戦場から還った彼女はこの経験を生かして「近代看護学」を確立し、1880年には看護専門学校(ナイチンゲール・スクール)を設立している。
ところで、この壮絶なクリミア戦争で「後世」に名を残したのはナイチンゲールばかりではない。
クリミア戦争のバラクラヴァの戦いにおいて無茶な突撃を行ったイギリスの国陸軍軽騎兵旅団長がいた。
その名は英の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルである。
司令官として参戦したイギリス軍のカーディガン伯爵は、負傷兵が着やすいように「前あき」のセーターを考案し、それが今日の「カーディガン」となった。
保温のための重ね着として着られていたVネックのセーターを、怪我をした者が着易いように、「前開き」にしてボタンでとめられる様にしたのである。
この服は、男爵の名前をとって「カーディガン」と名づけられた。
クリミア戦争ではまた、「カーディガン」の他に「ラグラン袖」も生まれた。
同じイギリスのラグラン男爵は、厳しいクリミアの冬を乗り切るために、あり合わせの素材でオーバーコートを作ろうとした。
戦場のことだから丁寧な仕立ては困難であった。
そこで袖の生地を首の付け根まで伸ばして、「袖付け」の作業を簡略化した。
すると袖はユッタリとして負傷兵でも楽に着こなせるようになった。
この仕立ては戦後コートやカジュアルのジャケットなどにも採用され、「ラグラン袖」と呼ばれようになった。

トレンチコートは、冬季用の外套(オーバーコート)およびレインコートの一種であ だが「トレンチ」とは「塹壕」を意味する。
映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが着ていたトレンチコート姿は、「ハードボイルド」のイメージを植え付けたといってよい。
第一次世界大戦のイギリス軍で、寒冷な欧州での戦いに対応する「防水型」の軍用コートが求められた。
その原型は既に1900年頃には考案されていたそうだが、「トレンチ(塹壕)」の称は、このコートが第一次大戦で多く生じた泥濘地での「塹壕戦」で耐候性を発揮したことによる。
平時のファッションとして用いられるようになってからも、軍服としての「名残」を多分に残している。
イギリスのバーバリーとアクアスキュータムの二社の製品が「元祖」と言われ、現在でも有名である。
さて日本において、戦争中の「衣装」の話では、歌手淡谷のり子のエピソードを思い起こす。
淡谷のり子が日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒットし、スターダムへ登りつめていた。
淡谷はブルースの情感を出すために、吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌った。
そして、その後も数々の曲を世に送り出しその名を轟かせていた。
そして戦時下で兵士を励ますために数多くの「慰問活動」を行った。
第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を「歌で慰め」送った。
しかし淡谷の慰問中における数々の「非行」行為は「始末書」の厚みが物語っている。
例えば、英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する、あるいは恋愛物を多く取り上げるといった行動および発言で「始末書」を書かせられる羽目になり、それがヤマとなったという。
淡谷の言い分は、モンペなんかはいて歌っても誰も喜ばない、化粧やドレスは贅沢ではなく、歌手にとっての「戦闘服」というものだった。

ジーンズといえばアメリカの「Levi's(リーバイス)」というくらい「アメリカが本場」という感じが定着している。
しかし「シーンズ」は、ひとつの衣服が出来上がるプロセスの中で、様々な文化が折りなして出来上がることを示す最も「典型的」なものである。
ドイツ移民が、「フランスの素材」と「イタリアのスタイル」をもちいて作った「アメリカ製の服」、それがジ-ンズである。
「ジーンズ」という言葉の起源は、イタリアの港町ジェノバなのである。
しかしそれは、フランスの南部の町ニームで製造された「サージ織り生地」が原型といわれている。
フランスの伝統的な産業としてしられていた「青い丈夫」な帆布のことで、ニームから輸出されるようになった生地はフランス語でセルジュ・ドゥ・ニームである。
この言葉が今では、「デニム」という言葉に縮まっている。
その布地で作ったパンツを履いていたイタリア・ジェノバの水夫たちを「ジェノイーズ」と呼んでいたことが、現在の「ジーンズ」の語源だといわれている。
ところで、ドイツ・バイエルンの生まれのリ-バイ・ストラウスという男が、14歳の時ニューヨ-クに移住した。
そしてリーバイスは弟とともに1860年代ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで、殺到した試掘者や開拓者たちに「日用品」を調達する仕事をしていた。
リーバイ兄弟の会社(リ-バイス)は、こうした男達の「作業服」として、デニムの布とジェノヴァの水夫のズボンを組み合わせて作ったのである。
そして、槌や道具がポケットにシッカリと収まるよう縫い目を「馬具用」の真鍮の鋲で「補強」することを思いついた。
こうしてドイツ移民が、フランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて典型的な「アメリカ製品」を生み出したのである。
ところでジーンズはゴールドラッシュによりブレイクし、いつしかアメリカの「若者文化」のシンボルとなり、リーバイスにより大量生産され日本にも輸入された。
ジ-ンズはデニム生地をインディゴ(藍)の自然染料で染めたのだが、日本ではこの「藍染」はソノにおいが「虫除け」や「蛇避け」になると言われて日本の「伝統技術」ともなっていた。
戦後、アメリカより大量に輸入されてくるジーンズをみてその「染めムラ」が気になり、自分ならもっといいものが作れると思った一人の男がいた。
広島出身の藍染職人の貝島定治である。
貝島は女性の作業服のモンペなどの染色を行っていたが、農業の比重の低下と都市化進行によるモンペ需要が減り赤字経営となり方向転換を模索していた。
そんな中、貝島はアメリカから輸入され広がり始めたジ-ンズに、「染色職人」としての血が騒いだ。
そして貝島は岡山に会社工場をつくり国産ジーンズを生産することにした。
岡山県倉敷市児島地区はもともと、日本三大絣の一つ「備後絣」の産地で、「織り」と「染め」の技術を持った職人がたくさんいた。
広島県と岡山県は、イマヤ世界に名だたるジーンズ生産地となっている。

14世紀後半、ヨーロッパにて「細身」の上着が着用されており、上流階級の男性女性がともに、体の線を整えるために15世紀後半、やわらかな山羊の皮を素材とした「コルセット」が登場した。
16世紀、女性の服装は上半身は細身で、スカートは大きくたっぷりしたものになり、シルエットを作るために上半身を補正する「ボディス(英語)」あるいは「コール(フランス語)」と呼ぶ「下着」が身に付けられた。
17世紀、女性の服装は胸を強調するようになり、コルセットで胸を押し上げるように変化していった。
このような下着では着用に多少時間がかかるが、一人で着用する事も十分に可能である。
しかし装着時に手伝いの手があるとよりよく、より早く着付けることができる。
映画「風とともに去りぬ」の黒人のお手伝いさんがスカーレットがコルセットを着用するワン・シーンを思い出す。
後年、女性の社会進出と共にコルセットが廃れていったのは、コルセットの装着に時間や手間がかかるのもその一因となっている。
19世紀欧米は、女性は、レディファーストの美名の下にその権利を制限され、男性の従属的な立場であった。
服装では、男性はフロックコートに帽子、女性はきつく腰を締め付けたアワーグラスライン(砂時計のように中央がくびれたシルエット)が一般的で、雨が降ると、片手に雨傘、片手でスカートのすそをつまみ歩かねばならないような、不自由なスタイルであった。
そのような中、女性の「権利拡大」を主張した勇敢な女性たちがいた。
1850年代の女権拡張論者 アメリア J ブルマーもその1人で、女性の権利拡大には、マズ社会で働き認められることである。
そのためには社会で働くにふさわしい見かけと衣服が重要だと考えていた。
つまり、家庭婦人や社交界の花のようなスタイルではなく、男性社会の中で働く職業婦人のスタイルを「模索」していた。
そこで、自らが「お手本」となるよう、知り合いの女性が考案した、すそを絞ったズボンの上に膝丈のスカートを重ねた服装で、講演活動をした。
しかし、このスタイルは、女性解放運動の象徴というよりも、行く先々で哄笑と論議の対象となってしまい、肝心の話を聞いてもらえず、数年であきらめた。
実は、このスタイルこそが「ブルマー」の原型で、当時このようなアイテムの名称がなく、「ブルマー女史の着ている服装」という意味で、「ブルマー」あるいはブルマーズと呼ばれたが、その名称は一般化しなかった。
当時の「宗教観」では、男女が同じ服装をすることは考えられず、マシテや子を産む存在である女性が、股付き(ズボンのこと)の衣服を着ることなど、考えられなかった。
しかし時代を経て、20世紀に入り、自転車が発明され、自転車に乗ることが流行になり、テニスや乗馬が普及するにつれ、スポーツするための「服装」としてようやく日の目を見たのである。
ちなみに、ブルマーが誕生した1850年代は、現在に通じるアイテムが続々誕生した。
セーラー服(英国エドワード王子の幼少時代の子供服が端緒)、ブレザー(ケンブリッジボートクラブのユニフォーム、大型帆船ブレザー号の船員ジャケット)は、いずれもコノ時期に登場している。

イスラム教の経典コーランでは、「彼女らの飾りを目立たせてはならない」とあるが、どこを隠すかマデは特定されていない。
イスラム世界では一般的に、女性の髪と胸元を布で覆うことがイスラム女性の宗教的な義務と見なされていて、ブルカやヒジャーブなどのファッションが生まれた。
しかしこれは、イスラム教で夫は絶えず「ジハード」(聖戦)のために家を空けなければならなかったという現実と関係しているのかもしれない。
というのは、宗教の「戒律」ではないものの、日本でも同じようなことがあったからだ。
日本は、日清戦争・日露戦争で「軍国主義社会」に突入するが、日本政府としては、戦争に勝つためには戦場にいる兵士の士気を高めて、全力で戦えるようにしなければならない。
前線で戦っている兵士は、いつも不安な状態にあるので、些細なことで気持ちが「萎縮」してはならない。
ちょうど太平洋戦争で日本発のラジオ放送で「東京ローズ」と呼ばれた女性からアメリカ兵に向けて甘い声が流れてきた。
あんたの奥さん他の男と仲良くなってんのじゃないの、はやく故郷に帰らなくていいの、なんて甘ったるい英語でササヤカれたら戦争なんかヤメテ家に帰りたくなるに違いない。
戦場からは逃げ出すことは出来ずとも、全力で戦う気は失せるかもしれない。
ラジオ電波に乗った「東京ローズ」の甘いササヤキは太平洋の島々で日本軍と戦うアメリカ兵に大人気だったそうだから、実際の効果もあったかもしれない。
極限状態にいる兵士は冷静にモノゴトを考えることができなくなっているので、意外と効果があるのカモ。
そして、GHQが日本に上陸して真っ先にしたことといえば、「東京ローズ」探しだったらしいが、そこにナントモ複雑な感情が入り乱れていたことは想像に難くない。
日本の戦時下、こういう事態を防ぐためにも、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが「国策」として推進されたのだ。
そうして満州事変後に「銃後を守る」女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
割烹着はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
ユニフォームに指定された理由は、「きれいな着物姿は、夫以外に見せるものではない。女性が外で着飾るのはよくない」という理由だった。
実は、平塚雷鳥など大正期の女性たちを描いた瀬戸内寂聴の小説「美は乱調にあり」なんかを読むと、女性達が自由恋愛を楽しんでいるのがわかる。
自由恋愛だけが理由ではないが、信じられないことに日本の「離婚率」は、19世紀まで今のアメリカよりも高かったという。
それが一転、戦時下では自由恋愛はよくない、一生一人の人を愛すべきだという思想が植えつけられてしまった。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
男は企業に滅私奉公して尽くし、専業主婦がその家を守るというのが、高度経済成長時代の政府・経済界推奨の「夫婦像」となった。
しかし「実際の妻」といえば理想どうりというワケにもいかず、ナント「割烹着喫茶」とか「割烹着スナック」までが生まれて、安らぎを求めて足しげく通う「企業戦士」が現われた。
服の世界を見ても、モノゴトは一筋縄ではいかなようで。