最強の居候

北杜夫の大作「楡家の人々」によれば、病院長・楡基二郎が病院の中に前途有為な多くの書生を抱えた様子が描かれている。
その上、院長の個人的な相撲好きが高じて力士までも住まわせている。
楡基二郎とは、北杜夫の実父・斉藤茂吉をモデルとしており、明治・大正期にはこのようなことがよくおこなわれていたのだろう。
日本には伝統的に「食客」(要するに居候)という言葉がある。
戦前の格差社会の中で、才能豊かな青年が頭角を表す一つの手立てが「食客」または「書生」という立場であるが、今では「食客」「書生」「居候」などという微妙な立場はあまり聞かなくなった。
戦後の日本は、高度成長と社会の平等化(総中流化)を同時に実現するという世界史上まれにみる奇跡を実現してきた。
日本でも進む「格差社会」にあって、こういう立場が復活するかもしれないが、それには地域の人々の繋がりが前提であるように思う。
戦前の格差社会において、例えば地域社会で優秀でも学費がなく進学できない子供にたいして、地域の有力者(地主など)学費をだして進学させたり、また婿養子に迎えたりする習慣があった。
例えば、東北の貧しい寒村出身の野口英世が学問をつづけ、アメリカまで留学できたのも地元の有力者が支えてくれたからだ。
戦国期には食客なんて普通のことである。例えば伊勢新九郎は、いつしか大名の「食客」として抱えられたが、ついにはに一国を乗っ取るまでになる。
この「国取り物語」の主人公が北条早雲である。
また近代に至っても、高橋是清、犬養毅、前島密、北一輝、幸徳秋水、国木田独歩など、後に政治家や文学者として名を成す明治の男たちの多くは、若い頃に「食客体験」をもっていた。
外国に目を転じると、中国では昔、村に科挙に合格できるほど優秀な人材がいれば、その人物が官吏として出世してくれれば、村人を引き立ててくれるかもしれないという期待の下、村の有力者はじめ皆で人材を支え応援していこうということが行われていた。
また中国では、自分の兵法(戦術)などを王や諸侯に売り込んむ「説客」として現れた。
有能な「説客」を抱えておくことは、寄食させる側の地位強化にも役立つ。
ところで、現代社会の特徴として「所有と経営の分離」という言葉がある。
これは、株式会社に見られるように金を出す資本家と経営を担当する人が別であることをさす。
金儲けのノウハウをためこんだ企業にオカネをふやしてもらい、その利益を「分け前」(配当)として受けとるという構図である。
所有を「お金」、経営を「能力」と読み替えて、個人のレベルに還元すれば、金があっても能力がなければ夢は実現できない。
反対に能力があっても資金がなければ夢は実現できない。
とすると、能力があっても様々な制約で夢を追えない人物が、これぞと思う人物に資金を提供して自分にかわって夢を実現してもらう。
こういう二タイプのマッチング(出会い)がうまくいけば、「最強の居候」「最強の食客」が生まれる。

主人が食客を「日本一の食客(居候)」と明言したケースはザラにはないが、二つのケースを思い浮かべる。
その一つは、財界人・渋沢秀雄と民俗学者・宮本常一の結びつきである。
宮本常一は1906年、山口県の周防大島の貧しい農家に生まれた。
苦学して天王寺師範の夜学を終了し小学校の教員になったのち、民俗学にメザメ教師のかたわら土地の古老などから「昔話」の蒐集を始めるようになる。
宮本は、柳田が主宰する雑誌で「昔話」の募集をしていることを知り、日頃書きためていたノ-ト2冊分を柳田に送ったところ、柳田はその原稿を高く評価し長文の手紙を書いている。
一方、渋沢敬三は財界の大立物・渋沢栄一の孫で、幼い頃から動物学者になりたかったものの、日本の経済界には優秀な人材が一人でも必要だと説得され学問の道を諦めている。
そして渋沢敬三は、東大卒業後に銀行員としてツトメ1944年に日銀総裁にまでなっている。
戦後、幣原内閣の大蔵大臣として預金封鎖、新円切り替え、財産税導入などの政策を打ち出し、日本経済の復興の足場を築いた。
しかしソノ反面で学問への情熱は冷めやらず、古くからある各地の玩具などを集めて自宅を開放して「アンチック・ミュ-ジアム」としていたのである。
それでは、宮本常一と渋沢秀雄双方にとっての「運命の扉」はどのように開かれたのだろうか。
渋沢と宮本の出会いは、1935年柳田の記念講習会に出席したおり、渋沢敬三が自宅に蒐集しているアンチック・ミュ-ジアムを仲間とともに見学したのがきっかけである。
そして宮本は、渋沢に郷里である瀬戸内海の漁村生活誌をまとめるように勧められ、1939年妻子を大阪に残して単身上京し、芝区三田にあった渋沢のアチック・ミュージアム(のちの日本常民文化研究所)に入り民俗調査を開始したのである。
渋沢は宮本に、自分の処に居ればいくらでも旅をしてイイからと勧められ、宮本は渋沢の家に起居るようになり、爾来宮本は渋沢の家族の一員となってしまった。
宮本は1961年に博士号を取得するまで渋沢の邸宅に居候し、渋沢をして「わが食客は日本一」とまで言わせしめている。
明治の財閥・渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三は、民俗学や地誌に興味を持ち、もともと学問の道に進みたかったらしいが、成り行き上、実業の世界に進まざるを得ず、大蔵大臣や日銀総裁にまでなっている。
当然、自分の時間がもてず、自分の学問における分身・宮本常一を見出し、その人物を食客として自宅に住まわせ自由に学問をさせたのである。
宮本常一が全国を旅してあの膨大な地誌を残せたのも、出資者(所有)である渋沢が宮本という人生に出資(所有)し、宮本はその実人生(経営)で見事に応えたというわけである。
宮本は渋沢に学問的な夢の実現という利益を提供したといってよいだろう。
宮本常一は柳田国男の知遇を得て、渋沢に育てられたカンジだが、象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田国男と対照的に 離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり漂泊民や被差別民を取材し研究した。
柳田国男のような解読可能な宮本民俗学は、「記録の文化」ではなく 宮本は語り継がれた解読不可能な「記憶の文化」(無字社会」を現地で見聞し調査した点がユニークであった。
宮本常一は、日本の離島や山間僻地を訪ねて歩いた4000日の距離は16万キロ(地球を10周) 泊めてもらった民家は1000軒を越えるという。
ノンフィクション作家の佐野真一は宮本常一を「単なる民俗学者ではなく 徹底的に足を使って調べるというフィールドワーク手法を実践したすぐれたノンフィクションライターとしての先駆者だった」と評している。
宮本が民族研究にコレダケの精力を注げたのは、財界人である渋沢秀雄との出会いであり、家族を残して渋沢の「食客」として歩みを続けたことができたからである。
財界の頂点にあった渋沢は、貧困に生まれた宮本の「大恩人」であったことは間違いない。
しかし、二人の関係には少々腑に落ちない一面を感じないわけではない。
渋沢は宮本が学者になることを許さず、宮本が文学博士となって渋沢家の食客から自立するのは、渋沢の亡くなる2年前の1961年であった。
宮本は既に54歳になっていたのだが、渋沢は自分に「閉ざされた」道を歩む「もう一人の自分」を宮本に託したのかもしれない。
その意味で宮本常一は、渋沢敬三の「分身」であった。

森田一義(タモリ)は黒田藩家老の森田家出身。福岡の進学校から早稲田大学へと進学する。
ここでモダンジャズ研究会に所属するが、授業料未納のため除籍処分となる。
にもかかわらずモダンジャズ研究会には相変わらず顔を出していたようである。
同期には吉永小百合もいた。学食で吉永が皿に残したおかずを彼女が去った後にこっそり食べたというサユリスト。
福岡に戻った森田は保険の外交員、喫茶店、ボーリング場の支配人などをしていた。
博多でジャズコンサートがあり山下洋輔らが宿泊するホテル(タカクラホテル)のバーに森田はたまたま来ていた。
階上の部屋で山下らがどんちゃん騒ぎしている時、森田が少しあいたドアの中を覗き込んだところ、山下らメンバ-の一人でゴミ箱をかぶって虚無僧姿になっていた男がインチキ朝鮮語で話しかけた。
森田はインチキ中国語でそれに答え、そのそのまま夜が明けるまで一緒に騒ぎ続けたという。翌朝そのまま会社に出勤する森田は名前だけを言い残して虚無僧のごとく消えた。
しかし山下らの脳裏にあの博多の面白い男のことが消えない。山下は森田がジャズをやっているに違いないと直感し、博多中のジャズスポットを探しついに森田を探し当てた。
山下は彼を上京させるべく「森田を東京へ呼ぼうの会」を発足させた。
森田は会社を辞めて上京し、山下らのうわさ聞きつけて出会ったのが漫画家の赤塚不二夫だった。赤塚は森田の異才ぶりに感心し彼を自宅に居候させることを決めた。
赤塚は森田を売り出すために献身的といっていいぐらいの努力をする。そして森田はマンション住まいでベンツを乗り回す堂々たる高級居候になったという。
そればかりか奥さんまでも呼び寄せている。
そして「ハナモゲラ語」「四ヶ国語マ-ジャン」などで世に知られていく。
タモリは居候道の極意を次のように語っている。
「恐縮すると居候を養っている側が見くびるんですよ。こいつは大物じゃないと。こんなもてなしもてなしぐらい、俺は当然受けていい人物だというのを見せておかないと、居候やっていけないんですよ」。
森田が赤塚不二夫の葬儀で語った言葉は実に印象的だった。「私は赤塚作品の一つであった」と。

ロシアの小説家ツルゲーネフは小説「ルージン」で、チャッカリ居候男を描いている。
主人公ルージンは長身で男前、しかも口が達者で、ひどく高尚で哲学的に聞こえることをスラスラと喋りまくる。
誰もが彼の知性と思想を高く評価し、ときには「天才」とまで言われる。
そんなルージンが、ある貴族の屋敷にやってくる。
最初は、友人の代理として論文を届けに来たのだが、女主人に気に入られ、いつの間にか居座ってしまう。
どうやらこの男、タダ飯を食って、あちこちで居候しながら根無し草のように生活しているらしい。
30過ぎにもなって、とくに非難される様子もないのは話術のおかげもあるが、どうやら昔のロシア貴族の家では居候がめずらしくないようだ。
この屋敷は地主の母娘の女所帯で、もう一人、パンダレフスキイという居候男がいる。それぞれ個性的な二人の居候男が同居するという豪勢な状況となる。
二人はとくにいがみあうわけでもないが、へんな関係になるのではなく、話相手をして、あとはピアノを弾いている程度なのだ。
あとはただひたすら自分の役割と立場をしっかり把握して振る舞い、晩年はそれなりに安泰な収入源ももらったようだ。
ロシアで「高等居候」ともいうべき人物がたくさんいた社会的背景はよく知らないが、個人的に、このルージンという人物が、日本の史上最高のスパイであったゾルゲと重なるのである。
1930年代、日本政府中枢にまで接近し最高国家機密漏洩を行った人物リヒヤルト・ゾルゲを、居候や食客と位置づけるのは奇妙な連想かもしれない。
しかし、ソルゲは類まれなる「居候男」だったからこそ、あれだけの諜報活動ができたのだと思う。
ゾルゲは若き日に第一次世界大戦に参加し自ら負傷し戦争の悲惨と狂おしさを目の当たりにした。
国家と国家の利害が激しくぶつかり合い無辜の市民の血が流される。平等で平和のない世界を夢見たゾルゲは、共産主義が説く世界革命の思想に共感し、モスクワに本部をおくコミンテルン(国際共産党)のメンバ-となった。
ゾルゲはドイツの新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員という肩書きの元当時列強の情報が飛び交っていた上海に渡った。
そこですでに「大地の娘」で世に知られた女性アグネス・スメドレ-と出会い日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実と出会う。
尾崎もコミンテルンのメンバ-でゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
ゾルゲが日本の最高国家機密にアクセスできたがこの尾崎と通じてなのであるが、この尾崎はなんと当時の近衛首相のブレ-ン集団であった昭和研究会のメンバーなのであった。
社会主義に傾倒する尾崎が近衛のブレーンであったことは、なんとも不思議な歴史の「めぐり合わせ」であるが、近衛首相は日本における最高の名族である藤原氏の子孫で、行き詰まりつつあった中国や米国との関係の打開のために多くの国民の期待を背負っての首相就任であった。
ただ近衛首相は若き日、当時社会主義者で「貧乏物語」で世にしられた河上肇に学ぼうと東大ではなく京大で学んだという経歴がある。
近衛首相のブレーンであった尾崎がゾルゲに流した情報の中に、独ソ戦の命運を握るようなものがあった。
中国との戦闘が長期化する中、日本は、同盟国ドイツがソビエトと優位に戦えば北に進出しようという意見と、多くの資源がある南方に進撃しようという二つの考えがあった。
政府の最終決定は南方進撃であるが、これをゾルゲはモスクワに打電した。結果的にソビエトは、日本の北進はないとすべての兵力を満州からヨ-ロッパへと振り向けることができたのである。
ところでゾルゲがモスクワにその情報を流したのはドイツ大使館からでであったが、ゾルゲはこの大使館に勤める武官オットーとすでに上海で出会っており、オットーの紹介でドイツ大使の私設情報担当として出入りするようになった。
オットーがドイツ本国へ送るべき日本に関する報告や分析もゾルゲが書いたとされている。
またオットーの公認でオットーー夫人の寝室の相手までも勤めたほどなのである。
まさか日本の友好国のドイツ大使館から、敵対するモスクワに国家機密がおくられていようとは誰が想像しようか。
ゾルゲの胆力はたいしたものだと思う一方、それがツルゲーネフの小説「ルージン」を髣髴とさせる「居候男」の真骨頂なのではあるまいか。
多くの人々の抱くゾルゲのイメージは 大胆不敵で海千山千の怪人物ではないだろうか。
しかしゾルゲという人物の本当の姿は、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」や日本人妻であった石井花子さんが書いた書物「人間ゾルゲ」を読むと、かなり違う。
ゾルゲはオートナバイに乗った快活な好青年というイメ-ジさえ湧き上がってくるのだ。
石井さんは銀座のラインゴールドというカフェでゾルゲと知り合い、1941年に逮捕されるまで共に暮らした。
ゾルゲがスパイとして成功したのも、人に警戒心を与えずにスゥーッと人の懐にはいる才能があったからではなかろうか。
ゾルゲはもって生まれた「居候男」だったのだ。
実は日本の官憲は調査により情報がロシアに打電されていることを知っていた。
ただその「発信源」がなかなかわからなかった。
多くの外国人を調べ、夫の正体をまったく知らない石井さんにゾルゲに変わったところがないか尋ねると時々釣りに出かけることがわかった。
特高は行楽を装い富士のふもとにある湖を張り込んだ。湖上に浮かぶ、魚の跳ねる音しか聞こえぬ静寂が覆う湖上のボート上の二つの黒い影。
ひとつの影が湖に何かを投げたようだ。
二人が去った後、特高は湖上にちぎられたメモを見つけた。紙面をつぎ合わせてみると、そこには暗号が書かれていた。
ゾルゲはついにコミンテルンのスパイであることが発覚したのである。
ゾルゲは尾崎とともに巣鴨刑務所で1944年11月7日ロシア革命記念日に処刑された。
最後に「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返した。
石井花子さんは後にゾルゲの墓(多磨霊園に現存)を見つけ出し、2000年に亡くなるまで花を手向け続けた。