試しつ試される

人間は「新たに」手にしたものを必ず「試し」たがる。これは、「進歩的」であると同時に「致命的」な性分なのかもしれない。
スペインの田園都市のゲルニカは1937年、スペイン内戦のときナチス=ドイツによって火の海となった。
しかし、この平和な都市を火の海にする「相当な」理由は見当たらなかった。
アエテいえば、「実験」ということであろう。
このとき使われた「焼夷弾」は2年後、第二次世界大戦で「猛威」をフルウことになる。
パブロ・ピカソはナチスの開発した兵器の「実験台」となったゲルニカ市民を思い、同じスペイン人としてこの「悲劇」を残そうと絵筆をとった。そして大作「ゲルニカ」が生まれた。
この「焼夷弾」という新兵器は、8年後には日本国中の都市をも焼き尽くしたのである。
しかし「実験台」というならば、広島・長崎への「原子爆弾投下」についても、そのような「評価」が絶えない。
アメリカは広島にウラン235、長崎にプルトニウム239と各々違うタイプの原爆を投下した。
そのことからも「新型爆弾」の効果を日本人と日本の都市を使って「試す」目的があったのではないか。
アメリカ軍の公式資料によれば、原爆投下の候補地は「焼夷弾などの爆撃被害が少なく、原爆被害の評価をしやすい」という理由から京都、広島、小倉、新潟の4都市が選ばれていたという。
ただ小倉上空の視界不良のために長崎に急遽変更されたのである。
また原爆投下後に、アメリカは被爆者の経過など様々なデータの集積を行っている。
またアメリカはソ連の参戦がなくとも日本を「制圧」できることを急ぎ示す必要があった。
したがって、人類初の原爆投下の「政治的効果」をもタメシたといえるかもしれない。
さて、ドイツのユダヤ系の中からアルベルト=アインシュタインという天才原子物理学者が生まれた。
アインシュタインは、ナチスが「核開発」をしていることを察知して、アメリカ大統領に核開発を急ぐよう「書簡」を出している。
ところが、その原爆が、カツテ招かれて訪問したことのある美しい国・日本で使用されようとは思いもよらないことだった。
その「痛恨の思い」を湯川秀樹との初対面の際に語っている。
アインシュタインは相対性理論を唱え、ニュートン力学で説明できないミクロの世界である素粒子を研究する「量子力学」に道を開いた。
ユダヤ人の迫害を逃れアメリカに亡命するが、アインシュタイン自身は「マンハッタン計画」とよばれた原子爆弾・開発計画に直接には関わらなかった。
しかし、彼が切り拓いた「量子力学」は「核分裂」がどのようなエネルギーを生むかを明らかにし「核開発」を助ける結果となったのである。
そして1945年7月16日、ニューメキシコのトリニティで行われた人類最初の「原爆実験」は成功した。
喜びにわくアメリカ軍関係者をヨソに、科学者達はアマリの恐ろしさに慄然とする。
科学者達はアメリカ政府に実戦使用をやめるよう「嘆願書」を出した。
その願いも空しく実験成功からワズカ21日後、1945年8月6日原子爆弾は広島上空で炸裂した。
その3日後には、長崎にも投下された。
また「マンハッタン計画」をリードした物理学者オッペンハンマーは、「究極の兵器」を作れば世界中の戦争を「無意味化」できると考えていたという。
しかしオッペンハイマーは、手にしたものはドンナモノデアレ必ず試さずにはおかない人間の性分を過小評価していたのかもしれない。
1980年代の冷戦終結後、多くの軍事関係者がアメリカの金融の世界にナダレこんだ。
そしてコンピュータを駆使した「リスク分散」と「大数の法則」を精緻に組み合わせた金融工学を生み出した。
そして科学者達の「試したがり」精神は、数々の「金融商品」をも、コノ世に解き放たれずにはおかなかったのだ。
LTCMという複数のノーベル賞学者を含んだ投資ファンドは、「金融商品」は経済がどうなろうと利益が出せるようにも思えたが、それらはバブルの崩壊とともに、「鬼子」のごときものに姿を変えた。
あたかも、人間の運命をも支配せんとした科学者達の「試し」も、神によって「裏をかかれた」ように思えてならない。
しかし、アメリカにおける住宅バブルの「崩壊」からサブプライム・ローンの破綻、そしてリーマン・ショックから世界的経済危機を生んだことは「記憶」に新しい。

実験は「研究室」で許されても、社会的な場での「実験」というものはできない場合が多い。
「試し」にやってみようが許されない。
例えば、アベノミクスを「リフレ派」理論の妥当性を「試しの場」と批判的に評する人もいる。
今は良くても、金融緩和を解除する出口には大きな不安と課題を残しているので、依然として大きなリスクを伴っている。
「社会的実験」は、一般には担当者のクビが飛ぶトカ既得権益者との「摩擦」とか失敗した混乱などの数々の「リスク」を負うものなので、国家を賭した「社会的実験」などというものはできない。
例えば「共産主義」を1つの社会的実験とみなすとするならば、その「誤り」が認識されるまでに、は取り返しのつかないほどの犠牲が払われた。
だがしかし、それでも人は新たに手にした理念や技術をいつかどこかで試したがるものである。
それらを思う存分に試すことが可能な「新天地」が与えられればよいだけのことである。
ことに「新知識」で武装し、広い視野をもった有能な官僚達にとって、ソコソコの権限を与えられて自由に働くことができる環境があれば、自らが行う「国つくり」はコノ上もなく「高揚感」を与える機会にちがいない。
そして、ある種の社会的な実験を行うためには、理想や理念で糊塗して人々の不安を「緩和」することからはじめなければならない。
例えば1930年、「五族協和」や「王楽道士」をスローガンに掲げた日本の実質的な傀儡国家・「満州国」の場合がそうしたケースの一つである。
「理想」や「野望」がナイマゼとなり、「国家建設」の夢は官僚やスタッフの胸を熱くしたであろう。
それは、相手国にとっても「理想」のハズだったのだが、しだいに関東軍がハバを聞かすようになり、後は野とナレ山とナレの「実験場」になった感じが残る。
日本人でありながら中国人女優「李香蘭」として活躍した山口淑子は、満州国の理想を映画の中で演じて見せた。
しかし終戦による帰国後に、理想と現実のあまりの開きの大きさを感じ、自分が日本という傀儡国家の「道具」に過ぎなかったと述懐している。
それでは、満州国を動かしたといわれる「革新官僚」はどのような経緯で登場したのであろうか。
「革新官僚」が登場する前に、「新官僚」といわれる官僚群の登場の経過から話したい。
1920年代に対外的危機に際し、民政党と政友会が「党争」に明け暮れて何も「決められない」時代があった。
人々はそうした「政党政治の幻滅」から、軍の統率力や官僚の統制に「期待」するようになる。
そうして1920年代に、革新主義政策をめざす「新官僚」とよばれる官僚群があらわれる。
逓信省出身で「電力国家管理」案を実現した奥村喜和男や、後に企画院総裁となる星野直樹、また満州で統制経済の実績をあげる岸信介などがそれにあたる。
彼らは、東大の大河内ゼミや京大の河合ゼミのように、マルクス経済学の影響を受けた人々であり、国家統制による計画経済・統制経済を「理想」とする傾向をもつ人々である。
ところが、日本ではマルクスは「社会主義」に繋がる思想であり、次第に危険視され国内でその政策を実施することはハバカレた。
ところが「秘密裡」にはマルクス主義が研究されて、実際に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入し、全国で革新的・社会主義的な立案を行ったのである。
その代表例が「重要五ヵ年計画」である。
そして、1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して「企画院」に改編された際、同院を拠点とした官僚群が登場する。
彼らは「戦時統制経済」の実現を図った官僚達で、「革新官僚」とよばれた。
そして、国家総動員法などの「総動員計画」の作成に当たったのである。
しかし、その「計画経済的」「統制経済的」立案が、財界人小林一三、右翼の平沼騏一郎らにより「共産主義的」と評され、財界出身の小林一三商工大臣が岸信介次官を罷免するなどの事件があった。
また1941年には、企画院で前からマルクス経済学などを勉強していた和田博雄、稲葉秀三、勝間田清一などの人々が、治安維持法違反の疑いで捕まった企画院事件がおきたのである。
つまり「企画院事件」とは、財界のような「既得権益者」から、「計画経済」のような試みは許されザルものであったことを示す「象徴的」事件であった。
そうて、こうした革新官僚達もしだいに満州国にフリ向けられていくようになる。その結果「満州国」では関東軍と革新官僚だけですべて決めていたといってよい。
さて、満州国にいた「革新官僚」たちは、戦後の経済政策を担った「経済安定本部」に多く入るのだが、これら経済官僚は満州国で「試したこと」を元にして、戦後の「高度経済成長の基盤」をつくったともいえる。
その典型が、1964年の東京オリンピックを前に実現した「東海道新幹線」である。
実は、日本の新幹線開業を遡ること30年前の1934年に、日本は中国満州で「夢の超特急」を完成させ営業運転を開始していたのである。
「満鉄(=南満州鉄道株式会社)」がその技術の粋を集め、日満両国がその威信を賭け、世界に先駆けて完成実用化したその列車は、大陸縦貫特別急行「あじあ号」という名であった。
初代新幹線(ひかり号)にも通ずる流線型のモダンなフォルムと、スカイブルーに塗装された蒸気機関車に牽引された「あじあ号」は、当時の世界各国の主要鉄道を凌ぐ、平均時速82.5Km・最高時速120Kmで運行したのである。
当時日本国内で最も速かった営業車輌は、特急「[つばめ」の平均時速60.2Km・最高時速95Kmで、最高時速100Kmを超える蒸気機関車は存在しなかったのだ。
そして「あじあ号」はそれまで二日かかっていた大連─新京間701.4Kmを、8時間30分で接続した。
ところで、超特急「あじあ号」が誇ったのは「速さ」だけではなかった。
全車輌が、寒暖の差が激しく厳しい満州の気候に対応する為に密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置を完備していた。
「あじあ号」は、その優雅さで知られるオリエント急行、あるいは現在の新幹線にも匹敵する、正に「夢の超特急」だったのである。
「あじあ号」以外にも、革新官僚によって満州で「試された」体験が、日本で生かされたケースは他にもたくさんある。
もう一つの例をあげると、 1942年「満州国」でアジア初の高速道路建設がスタートした。
ハルビンから新京、奉天を経て、大連に至る総延長900Km超の高速道路で「哈大道路」と呼ばれた。
しかし、建設着手から3年後の1945年、路線の一部が完成した状態で終戦を迎えた。
その後、「哈大道路」の建設は中国に引き継がれたが、結局、中国の要請によって日本が技術協力し1990年に、瀋陽(旧・奉天)から大連間375Kmが「中国初」の高速道路「瀋大高速公路」として、終戦後45年を経てようやく全線開通したのである。
ちなみに、「哈大道路」の建設着手は、1965年に全線開通した日本初の高速道路「名神高速道路」(愛知県小牧市─兵庫県西宮市)を遡る事20年前であった。
その後「満鉄」に続いて、日本産業株式会社(鮎川財閥)を母体とする「満業」(満州重工業開発株式会社)が設立されるなどして、日本は「満州国」と言う壮大な実験場で、小さな「島国」ではとうてい出来なかった大プロジェクトを次々と実現させていったのである。
そして「満州国」の国土に於ける様々な「実験」を通して得たデータと技術力で、日本は敗戦後の焦土から奇跡の復興を成し遂げていったのである。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」には、料理を「食べる」つもりで入ったレストランが、実は自分が「食べられる」ために入った店であったことが判明する話である。
日本は「満州国」を国家社会主義の「実験場」としたが、敗戦で連合軍の占領をうける日本も、アメリカの「ニューディール派」の実験場と化すのである。
「マッカーサー草案」を元にした日本国憲法は、日本を軍事的に「無力化」しようという意図で作られたという文脈で語られることが多い。
しか、世界の理想を先取りするような「徹底的」な平和主義」の中には、若きGHQスタッフの「理想」が織り込まれたといってもよい。
連合国軍総司令部GHQで中心的な役割を果たしたのは「民生局」であった。
この民生局の中に「ニューディール派」とよばれた人々が入っていた。
フランクリン・ルーズヴェルト政権によって展開されたニューディール政策を経験し、「社会民主主義的」な思想を持つ人々のことを「ニューディーラー」とよぶ。
局長はダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれたホイットニー准将、ソシテその部下の局長代理のチャールズ・ケーディス大佐、それ以外にもフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画した人々が多くいたのである。
彼らは、日本占領の目的である軍閥・財閥の解体、軍国主義集団の解散、軍国主義思想の破壊を遂行し、日本の民主化政策の中心的役割を担った。
ニューディーラーの政策として注目すべきことは、意図的に労働組合を成長させたり、本国では達成できなかった「社会主義的な」統制経済を試みたりしていることである。
そして占領期において、日本社会党の片山哲、日本民主党の芦田均ら革新・進歩主義政党の政権を支えた。
しかしながら「日本版ニュー・ディール政策」は、激しいインフレーションの進行や、ケーディス大佐らの汚職の発覚などにより精彩を欠き、その結果、片山・芦田両内閣はイズレモ短命に終わったのである。
その後、日本は1955年より自民党単独政権が、1993年の細川連立内閣の登場まで続く。
そして自民党と連立した村山社会党政権が誕生した(1995年)のは、片山哲・芦田社会党内閣以来48年ぶりのことであった。
さて、安倍首相は満州の「革新官僚」の代表者である岸信介の孫であり、北一輝の国家社会主義の影響を受けた人である。
安部首相の祖父である岸信介元首相は、満州国の高級官僚として「統制経済」を進めた人で、統制経済をすすめるためには、政府へ情報が「一元的」に集中しないとできることではない。
したがって、二人の共通点は、多元的な勢力の存在を嫌い、権力が一元化されていないと物事はウマク運ばないと考える傾向があったことである。
また、岸元首相が「政治生命」をかけた日米安保条約改定と安部首相の特定秘密保護法が重なって見えることがある。
岸元首相は、「安保反対」で集まった人々を見て「反対なのは国会周辺だけだろう」と語った。
岸元首相と安部首相は、「声なき声」が自分を支持しているというような「確信」しているかのように見える点でもヨク似ている。