経世済民の儒者

近代経済学の泰斗・宇沢弘文が亡くなった。
数理経済学者でありながら、水俣病や成田闘争など、社会矛盾の現場にも身を投じた点で稀有な学者であった。
宇沢氏はノーベル賞候補に値するほどの数理経済学の業績をあげながら、専門の分野とは縁薄い「社会的共通資本」の概念を打ち出し、空気や水道、教育など地域文化を維持するのに欠くべからざるものとして、市場原理に委ねるべきではないと主張した。
また、絶えず社会のあり様に警鐘をならし、日本の狭い国土を広く使うには電車の速度を半分に落とすべきだとも主張した。
二つの地域を高速で結べば、途中の地域は廃れてしまう。
遅くすれば途中駅も人が降りて栄え、つまりは広く使えることになると、通常の「効率追求」の逆をいった。
シカゴ大学で同僚だった故ミルトン・フリードマンにたいしても、危険な市場原理主義者で、それを真に受けて起きたのが2008年のリーマン危機だったと手厳しく批判した。
宇沢氏は抽象的な「数理経済学」を専門とされたが、経済学はそもそも「経世済民」という言葉に由来するものであるから、経済学者が社会的に積極的に関わることは、むしろ当然のことであろう。
「経世済民」とは、世を治め、民の苦しみを救うことである。
さて「儒教」といえば、漢語を研究する実学とは縁遠いものだと想像するかもしれない。
しかし、我が地元・福岡における儒教の系統には「経世済民」的な要素が含まれていたとみてよい。
こうした傾向は、柳川の儒者・安東省庵と中国明の儒者・朱舜水との出会いと無関係ではないであろう。
朱舜水といえば、水戸光圀につかえた明の儒学者と巷間には知られるが、実は江戸に登る前にナント柳川藩に逗留していた時期があるのだ。
それでは朱舜水は何ゆえに福岡の柳川の地にいたのか。
そこには単に日本史のヒトコマとして語るだけでは足りない壮大なストーリーがあったのである。
1644年 徳川家光の時代、中国では長引く飢饉で農民を率いた李自成が反乱を起こして北京を占領したため、明の崇禎帝が自殺し明は滅びた。
その後、満州族(女真族)の世相・順治帝が即位して「清朝」が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。
しかし、なんとか漢民族の王朝を取り戻そう、つまり「明朝復活」をはかろうという志を抱く遺臣が存するのは自然のことである。
ただ朱舜水は明朝の遺臣というわけではない。
科挙に合格して何度も明朝から出仕を求められたが、乱世は道義の頽廃であると受けず、さらには清朝からは12回出仕を求められたが固辞している。
しかし、愛国の気概を秘めた朱舜水にとって、朝臣たちの腐敗やそれを諌めるべき儒学者たちが迂腐の学に現を抜かしていることを、さぞや見かねたことであろう。
なにしろ、周辺では女真族が満州を統一して後金を建国して明から独立して、さらに李朝朝鮮を服属させ、明の北方を蹂躙して危機的様相を示していた。
国内では農民は飢饉に苦しんで流民の群れとなってついには蜂起し、これを李自成が指導して数十万の軍となって西安を占拠すると皇帝を自称した。
明朝はこれを制圧する力さえなく、北京を失いその結果崇禎帝はみずから紫禁城を出て首をくくったのである。
そして、朱舜水の生涯はこうした明朝の衰亡の時期と重なっており、明の情勢を挽回すべく、中国・安南・日本の三角交易を試みようとした。
そこに登場してくるのが明の武将・鄭成功である。
鄭成功は、海上経営を行っていた父親を引き継ぎ、清に降伏したのちも海上権を守って、大陸に反攻を試みようとしていた。
実は、鄭成功の母親は平戸の日本人であったため、日本に数度にわたる援助を求めた。
しかしそれも成らず、厦門(アモイ)を奪ってここを拠点に「明朝復興」を志した。
そして1658年、厦門を出発して北征の途についたが、南京奪還はならなかった。
後に、近松門左衛門は、この明朝復興を志した英雄・鄭成功(国姓爺)を人形浄瑠璃に仕立て、傑作「国姓爺合戦」を作っている。
しかし、朱舜水はすでに60の齢に達しており、24歳も年下の鄭成功の「北征」行軍はあまりにも過酷なものであった。
そこで、鄭成功との合意のもとに、日本に望みをかけて援兵を求めたが、鄭成功の方はあえなく39歳の若さで台湾で急死した。
明朝回復を念願とする朱舜水が、長崎に来たのは1659年の冬で、五代将軍・家綱の時代になっていた。
朱舜水の日本亡命は、彼にとって7度目の来日だった。
この時代からおおよそ250年の時をへて、中華革命に挫折した孫文を長崎の梅屋庄吉、熊本荒尾の宮崎兄弟、福岡の頭山満らが支援した出来事を思い浮かべる。
ただし朱舜水は「明朝復興」のため、孫文は「清朝打倒」のために来日していた。
そして、まだ日本では無名の朱舜水に最初に師事すことになるのが柳川の儒者・安東省庵である。
安東は、石高500石の柳川藩藩士で重臣である安東親清の次男として生まれた。
聡明で好学心が高く、1634年に立花宗茂より分家の内意書を与えられる。
朱舜水との出会いのきっかけは、京都で松永尺五の下で朱子学を修めている間、日本に亡命してきた明の学者から朱舜水の情報を得て、向学心に燃える安東は長崎に赴き、朱と会談して師弟の交わりを持った。
この時、安東は日本に留住できるよう長崎奉行に働きかけ、6年間もの間少ない自分の俸禄の半分を朱舜水のために贈ったという。
1663年に長崎で火事が起こり、朱の家が焼けたときも家を新築し、焼け残った書物や日用品をそこに収めて無事を祝った。
そして明朝を救おうとしている大義の人・朱舜水の名はすぐに江戸にも届いた。
ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
光圀は水戸藩の現役藩主で、水戸藩は江戸定府の定めにより、参勤交代を免ぜられる一方、勝手に水戸に帰る事はできなかった。
つまり藩主時代の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多かった。
そのため、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。
ところでお茶の間でお馴染みの「水戸の御老公」水戸黄門の家来のカクさんは、安積覚兵衛という名の実在の人であった。
本職は中国語の通訳であったため、この覚兵衛が光圀と舜水の言葉のやりとりの間に立ったことを想像するに難くない。
ところで朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした「実学」で、「経世済民」をモットーとした。
その教えは最初に師事した安東省庵ばかりか、水戸光圀の政治・人格・業績に大きな影響を与えた。
それは、藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療にも貢献した。
、光圀が「大日本史」編纂にあたって楠木正成を日本史上最大の「忠臣」として称えたのも、舜水の「忠義一徹」ぶりからの連想が働いたからかもしれない。
ともあれ、朱舜水によって、初めて日本に「本場」朱子学と陽明学が入ることになった。と同時に、日本に「経世済民」の学が入ったといってよい。
さて朱舜水が、水戸光圀に日本人として始めてラーメンを食す機会を与えたのは有名な話である。
安積覚兵衛が書き残した文献の中に、水戸黄門がラーメンを食べたという事実が書かれていた。
当時は“ラーメン”という言葉はなかったので、その見た目から“うんどん(うどん)のごとく”と表現されていた。
その“うんどんのごとき”ラーメンを作って光圀に献上したのが、朱舜水であった。
朱が献上したラーメンのレシピも古文書に記載されており、横浜ラーメン博物館の館内には、その古文書をもとに再現された“日本最古のラーメン”のレプリカが展示されている。
それに目をつけたのが水戸光圀のお膝元・茨城県水戸市のラーメン屋さんの有志たちで、「水戸藩ラーメン」と銘打たれた新ブランドのラーメンがデビューした。
水戸は“日本のラーメン発祥の地”と銘打ってラーメンブームをねらったが、それに待ったをかけたのが、九州・柳川であった。
旧柳川藩主・立花家の家臣を祖先にもつ氏曰く 「そもそも水戸黄門にラーメンを食べさせた朱舜水の最初の亡命先は九州・長崎であり、その後六年間、朱舜水の九州での逗留生活を支えていたのが柳川藩の儒学者・安東省菴であったという。
やがて水戸藩に招かれた朱舜水が水戸黄門にラーメンを献上したのなら、その前の九州逗留時代、自分の生活を支えてくれた柳川藩の安東省菴もしくはその主君にも、同様の御礼をしたに違いない」と主張して、東西ラーメン戦争の様相を呈したのである。

福岡藩では軍師・黒田官兵衛が有名だが、柳河藩にも官兵衛に優るとも劣らない立花宗茂という武将がいた。
1586年、豊臣秀吉の九州平定では、島津が秀吉の最大の敵となった。豊臣方についた豊後・大友氏は、1586年島津勢力と太宰府に近い岩屋城で歴史に残る死闘を繰り広げた。
その戦いで功績のあった大友方の高橋紹運の子が柳河藩主の立花宗茂である。ただし宗茂は、関ヶ原の戦いでも義理立てして西軍(秀吉方)についたが為に敗戦。
しかし特例で、奥州棚倉藩に1万石の領地を与えられている。
前述のとうりこの宗茂から分家の内意書をいただいた儒者が安東省庵である。
この大友氏の重臣・立花家の流れに柳川の儒者・安東省庵がいる一方で、大友と九州で戦った島津の流れには同じく筑後八女出身の儒者がいるのは面白い。
豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家である。
ところで明治時代「広津家」の家系から一人の小説家が生まれた。
広津柳朗で、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
その息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津氏の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年、鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
こうした「謎」に満ちた「三事件」に共通した点は二つあった。
「第一」には事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
「第二」には、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がチラツクことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
広津氏は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津氏がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のカゲリもナイと直感した。この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。
陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その陰りのない「透明さ」に、犯罪者とはドウシテモ思えなかったことによる。
当初は「素人が口出しをするな」「文士裁判」「老作家の失業対策」などとはげしい非難中傷を浴びた。
広津氏は松川裁判の「虚偽性」を暴くために、「新しい証拠」を見つけたり、「極秘資料」を探したりしたわけではない。
そもそも公開された資料自体がキワメテ少なかった。
広津氏はアクマデモ「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していったのである。
裁判記録は、通常文学者が使うような「濡れた」言葉ではなく、「乾いて」いるといっていいが、言葉であることに変りはない。
広津氏はソノ乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を「吟味」していったのである。
だから、広津氏の最大の武器は、論理的思考と文学者としての「言葉のアヤ」に対する「嗅覚」あったといえる。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その「調書」から「架空の」組合員による「共同謀議」にもっていこうという「プロセス」をウキボリにしていった。
つまり最近の「最初に結論ありき」の「国策捜査」であったのだ。
第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
広津氏は後に、「ああいう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているのを黙視できない」と語っている。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津氏自身の「言論」活動にカカッテいたのである。
しかし、広津氏の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ「世論」を動かしていった。
何よりも、密室の取調べと自白偏重による判決の非論理性と非人間性を見事に明らかにしている。
広津氏の処女作は「神経病時代」という作品だが、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的な根拠づけによるものでないこと。
同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していった。
そして広津和郎のペンが世論を喚起したのは確かで、1961年最高裁は、松川裁判の被告に「全員無罪」を言い渡した。
ところで、朱舜水に最初に師事したのは安東省庵だが、舜水と人々との交流はそればかりではなかった。
舜水がが6年後に徳川光圀が師事するまで、多くの日本人がその人格・その博識を慕って彼に師事したのである。
この中に、果たして八女出身の儒者「広津家」のものがいたかは定かではない。
しかし、朱舜水が福岡県の筑後地方に蒔いた「経世済民」の種子は、時を隔てた昭和の時代に、広津和郎のペン先に生き残ったと憶測するのは、拡げすぎであろうか。