スルーしがちな聖句

聖書には、気がつきにくくスルーしてしまうが、ある時に突然輝きはじめる言葉がある。
ここでは、そのいくつかを心に迫る文語で紹介したい。
聖句A:「また、夜御許にきたニコデモも、もつ薬・沈香の混合物を百斤ばかり携えて来る」(ヨハネ19・39)。
この聖句は、イエスが十字架にかかった後に死体を引き取りにきたニコデモという人物がいた事実を伝えるだけの言葉である。
まずは、この言葉にまつわる情況を遡って説明したい。
世の中では意思薄弱でだらしない人間などに「アイツは生まれ変わらなきゃダメ」などというが、もともと誘惑に弱い人間がどうやって生まれ変われるのだろう。
しばらく真人間になっても、何かの拍子に元に戻ってしまうのが人間の常である。
また、何ら後ろ指さされることのなく正直に地道に生きた人間に生まれ変わりなさいといったって、ピンと来ないのが普通である。
そもそも、生まれ変わるとは何だろう。そんな疑問を抱いてイエスにその疑問を率直にぶつけたのがニコデモという人物である。
ニコデモは、ユダヤ教の中でも熱心なパリサイ人であり、ユダヤ社会の指導者の一人であった。
この人が、イエスのもとを人目をはばかるように訪ねて来たのである。
そして聖書が、ニコデモをわざわざ「夜の訪問者」と断ったのは、人間心理をよく突いている。
例えば今日、大統領や首相が自分の決断に迷いを生じ、宗教家や占い師なんかを尋ねることをマスコミが掴んだらどうなるだろう。
そこで、変装するか夜おそく人目をはばかって訪問するということになる。
ニコデモ自身にも信仰があるはずだが、イエスを訪ねるということは、イエスの行う様々な不思議やワザに自分の信仰を超えた「何か」があると感じたのだろう。
あるいは、国会議員や教師をしている立場の人間が、未だ30歳そこそこの大工に教えを請うと言うことは、自分の威厳を損なうという気持ちが働いたのかもしれない。
夜やってきたニコデモは、まずイエスに挨拶をした。
「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」(ヨハネ3・2)。
ところがイエスはそんな挨拶の言葉にかまわず、いきなりニコデモの「核心」をつく。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と。
つまりイエスはニコデモに、先ずは「生まれ変わる」ことだと言ったのである。
ところが、ニコデモは「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と応えた。
個人的な感想をいえば「ナント即物的な応え」という印象だが、ニコデモという人は、ユダヤの指導者で戒律もしっかり守る人であったのにもかかわらず、こんなふうにしかものごとを捉えることができなかったのである。
イエスからも「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」といわれている。
ニコデモは偉い人だったが、信仰や霊的な次元で見れば、実に幼稚な人だったのだ。
イエスは別の場面で「あなたの宝があるところに、あなたの心もある」(マタイ6)と語っているが、 イエスのいう「生まれかわり」とは、たとえ戒律や道徳を守りながらも、心の目がこの世にしかむかない人に、目にはみえないこと、霊的なものに心を向けなさいということなのである。
さらにイエスは「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3)と言っている。
さて、このニコデモがイエスを信じるようになったかは「ヨハネ3章」には何も書かれていない。
しかし、「ヨハネ19章」に突然、再びニコデモの名が出てくるのである。それが冒頭のAの聖句のある。
「夜の訪問者」ニコデモが今度は公然と官憲に申し出て、身の危険を冒してヨセフと言う人と一緒にイエスの死体を引き取り、香料を塗って埋葬したというのである。
この「この夜御許にきたニコデモ」というスルーしそうな言葉に、ニコデモの「生まれ変わり」を知ることができる。
と同時に、自ら神に関わろうとした者に対する神の愛の深さを知ることができる。

聖句B:「ザアカイよ 急ぎおりよ、今日われ汝の家に宿るべし」(ルカ18・5)
これは心のスラムに生きている一人の孤独な男に、神(イエス)自身が直接「名ざし」でよびかけるシーンである。
奇跡も不思議も行うと噂になっている「時の人」イエスが自分を知っているはずがないし、まして声をかけられるとは思ってもみなかった。
ところ聖句Bはコーリングともいうべき呼びかけ、それはとても厳かな一瞬であるが、何気ない言葉としてスルーしそうな聖句の一つである。
そういえば、イエスとペテロとの出会いも直接の「名指し」であった。
ガリラヤ湖畔でペテロとその兄弟が網を直していると、一人の男すなわちイエスがが直接名指しで「シモン・ペテロよ、あなた方を人間にとる漁師にしてあげよう。網と船をすてて私に従ってきなさい」と語りかける。
それに対して彼等は即座にそれに従っていった。
さて聖句Bに登場するザアカイは取税人の頭であった。背はひくいが金持ちであった、とても愛されそうも無い酷薄な人間のイメ-ジが浮かぶ。
そして彼は、税金取りだからばかりでなく、その仕事が支配者たるローマの手先(イヌ)として働いているために、皆に忌み嫌われていた。
或る日ザアカイは、今人々の話題になっているイエスという男が自分の村に通りかかるという噂をききつけ、一目みようと木にのぼって待っていた。
騒ぎたつ好奇の群衆の中にあって、イエスが突然「ザアカイよ、急いでおりてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけたのだ。
聖句Bは、その時の言葉である。
なぜ自分の名を知っているのか、しかも旧知の仲であるかのように宿を貸してくれなどと、きっとサアカイはそう思ったに違いない。
街中でそんな風に声をかけられたことなど、世の荒波にすっかり心も凍ったザアカイに一度もなかったことにちがいない。
家にとまるなら、俺なんかより善良でまともそうな人間はこの多くの群集の中でたくさんいるし、金持ちもいる。
よりによって「なぜ俺に」という気持ちもあったのだろうが、とにかくザアカイはそのとてつもなく不思議なコーリングに素直に応じている。
そしてそれは、間違いなく「生まれ変わり」の体験であった。
それは、ザアカイがその呼びかけに対して「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。
また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」という言葉に表れている。
ザアカイのその言葉にイエスは「今日われ汝の家に宿るべし」と応えている。
このイエスの言葉は「見よ、神の国は汝らの内にあるなり」(ルカ17)という言葉にも符合する。さらにはイエスの十字架と復活後に下って宿った聖霊を暗示しているようにも思える。
イエスとの出会いで印象的なもうひとつの場面は、「ヨハネ4」に登場するイエスとサマリアの女との出会いのシーンである。
サマリアに住む女が井戸の水を飲むために出ていると、水を飲ませてくれと頼む男がいた。
まず女は、自分のような身分の人間に、しかもユダヤ人が差別しているサマリア出の自分に声をかけることを訝ししがる。
その男はさらに奇妙なことを言う。「もしあなたが私が誰かを知るならば、あなたこそ私に水を求めるだろう」さらに「井戸の水を飲むものはまた乾くが、私が与える水は永遠に湧き出る水となる」などと。
男は女に「夫をよんできなさい」とブシツケけなことを言う。
女が「夫はいない」というと、あなたにはそれ以前に5人の夫がいたことをいいあててしまった。
サマリアの女はその時この人物が普通の人間ではないということを確信したはずである。
そして自分のことを詳らかに言い当てた人のことを次のようにに喧伝するのである。
「わたしのしたことを何もかもいいあてた人がいます。さあ見に来てごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」と。
それにしても「名指し」で呼びだされることの不思議、旧知であるかのように生涯が知られていることの不思議。
自分を知るはずのない人から名前でよばれた、あるいは自分の人生の経歴をすっかり言い当てられた人達は、それ以降大きく人生を転換していく。
つまり生まれ変わったのである。

聖句C:「汝らの中、罪なき者まず石をなげうて」(ヨハネ8-7)。
最近テレビで見たスペシャル番組で、戦後の三大事件というのがあった。
吉展ちゃん誘拐殺人の小原保、エリートになりすまし全国で五人を殺害し金品奪った西口彰、女性の色気で男をだまし旅館「日本閣」を乗っ取った毒婦・小林カウ。
いずれも、「凶悪犯」といわれた殺人犯で、特に吉展ちゃん誘拐事件のケースは全国でブームになり、犯人は全国民を敵に回すかのような存在となった。
しかしこの番組では、犯人である小原保に対して、それまでとは違う角度から光をあてていた。
小原が吉展ちゃんを公園でみかけて誘拐しようと思ったきっかけは、その足にはいた新品の靴だった。
小原は片足に障害をもち引きずって歩いていたが、それは靴も買えないほど家が貧しく、草履からばい菌が入ったのが原因であった。
そして吉展ちゃんに言われた「おじちゃん いつも足が痛いんだね」という一言が胸に突き刺さったという。
小原の母親は息子に「お前を殺人犯に育てたおぼえはない。吉展ちゃんを殺めるとき、母がお前を育てた思いがどうして浮かばなかったのか。もし人を殺したのなら地獄へいけ。自分も地獄へいくから」という言葉を返している。
小原は死刑執行直前に、刑務官に「今度生まれ変わるとしたら、真人間になって生まれかわりますから」と言い残している。
同じ死刑囚でも、「復讐するは我にあり」で映画化された連続殺人犯・西口彰とかなりの違いである。
西口は長崎のカトリックの家に生まれているが、聖書の言葉「復讐するは我にあり」という言葉のさす「我」が神であったことを知って愕然としている。
それが唯一、人間的な反応だったといってよい。
ところで冒頭の聖句Cは、別に殺人という罪ではなく姦淫という罪に対するものである。
ただ、この聖書の場面で罪を犯したひとりの女性が、世間を敵に回したという点では共通している。
聖書は、その出来事を次のように伝えている。 律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえた。
そしてイエスに、モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思うか、と問うた。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであったが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いていた。
彼らがなおも問うので、イエスは身を起して彼らに言った。
その言葉が、冒頭Cの「汝らの中、罪なき者まず石をなげうて」である。
これを聞くと、人々は年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
以上がコノ出来事の顛末だが、最後に誰もいなくなったのだから、イエスの言葉にそれだけ権威があったのであろう。
また聖句Cの場面で「彼らはこれを聞きて良心に責められ、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き」という箇所も、スルーしがちだが含蓄のある言葉ではある。
年とったら長く生きた分より罪を犯すことも増えるという意味ではなく、若いと時には気がつかなかった色々なことが「見えてくる」ということであろう。
いわなくていいことを言ったり、言うべきところをいわなかったり、正義の名の下に自分の都合のいいことを通したり、人を傷つけたり。
また、自分の不備を何もいわずにカバーしていくれていた人のことなど、さまざま事が浮かんでくるものだ。
「年寄りから初めて」という言葉にも、その辺の人間の心の真相をついた言葉として真実味がある。

聖句D:「水をくみし僕は知れり」(ヨハネ2-9)。
この聖句は、神が御自身を現されるその「現し方」において奥深い意味が隠されている。
イエスが自らをキリスト(救世主)として公(おおやけ)にし始めたころ、親族の結婚式に出向くためにカナという町にでかけた。
結婚式の披露宴が佳境に入り葡萄酒が足りなくなったころイエスが下僕(しもべ)の一人に水をもってこさせた。
その時、イエスは一瞬でその水を芳醇な葡萄酒に変えるという「最初の奇跡」を行ったのである。
一方、人々は酔いがまわったあとから出てくる酒のほうが良い酒だと大喜びする。
結婚式の出席者は、この奇跡のことを何も知らずに祝宴を楽しみ、ただその水を運んできた下僕だけが「水が葡萄酒に変わった」のを見ている。
つまり、イエスが「何もの」であるかを知りえたのは、コノ場面でイエスの最も身近にいた下僕だけだということになる。
さらに、この「水が葡萄酒にかわる」奇跡は、新約聖書全体がかかるほどに奥深い奇跡である。
それはイエスの十字架とその救いである「洗礼」を暗示しているのである。
洗礼とは、イエスの血で人間の罪が贖われること。
水が「霊界において」血に変わることによって実現することであり、それは旧約聖書のモーセの奇跡「ナイル川の水が血に変わる」出来事があった千年も昔から預言されていることであった。
それにしても、イエスはなぜこの奇跡を人々の前で公然とあからさまに行わなかったのであろうか。
沢山の人が信じるかもしれないのに、どうして一部にしかご自身をあらわさないのか。
イエスがご自身を現されたのは、ニコデモであり、ザアカイであり、姦淫の女であり、水をくみし僕であった。
聖書には、婚姻後の喧騒の中、イエスが本当の御自身を現した下僕との間でどんなやりとりがあったのかは書いていない。
ただ冒頭Dの聖句「水をくみし僕は知れり」と語るのみである。