「官兵衛」を歩きました

最近、街を歩くとNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の旗が翻るのをみかけ、10年ほど前に黒田家の「ゆかりの地」を歩いたことが蘇ってきた。
なかでも、東京、大阪、滋賀、岡山など福岡県外の「黒田遺跡」を歩いたことは深く印象に残った。
黒田氏は近江源氏の佐々木氏の流れと伝えられ、日本「三大地蔵」の一つがある滋賀県伊香郡木之本町の「黒田郷」からでている。
この地を訪れると、意外や幼稚園の運動場ほどの庭園に「黒田家旧縁の地」という石碑があった。
官兵衛が仕えることになる豊臣秀吉が柴田勝家と戦った戦場・賤ケ岳が望める。
またここから歩いて30分、JR木之本駅の北西2Kmほど余呉川の北に黒田神社がある。
境内入口に、小さな石の太鼓橋があり、その奥に小さな石の鳥居がある。
境内は、広場のように広くて、参道の正面に拝殿があり、拝殿の後方、垣の中に本殿がある。
社伝によると欽明天皇の御宇(540年)の創始で、祭神の黒田大連とは、和銅年間、当地を開拓した豪族であるらいい。
当社の背後にある森崎山には、円墳六基からなる黒田古墳が存在することから、古代に繁栄していた一族の祖神を祀ったものと思われる。
さらにタクシーで15分ほどで琵琶湖北東に位置する余呉湖に着く。
余呉湖では、ワカサギが釣れる湖で、売店にいくと釣ったばかりのワカサギをてんぷらにして食べさせてくれた。
さて、黒田家六代・高政(官兵衛の曽祖父)のときに、佐々木氏のもとで岡山に出て戦っていたが、「軍令」に叛いて功名をたてようとしたため足利義植の怒りをかい近江を追われ、流浪の末に備前国(岡山県)「福岡郷」に落ち着いた。
ココデ、「黒田」と「福岡」の地名が結びつくことになる。
山陽本線・支線の赤穂線のJR「長船駅」で降りて、西に40分ほど歩くと黒田官兵衛の曽祖父高政と祖父重高の墓地がある妙興寺につく。
妙興寺からさらに10分ほど歩くと、「一遍上人絵伝」で有名な「備前福岡の市」の石碑と木の門構えの立っている場所に着く。
また、「備前福岡の市」跡のすぐ西側に吉井川の土手にあるが、その川沿いには長船カントリークラブというゴルフ場が広がっている。
このあたりは「福岡千軒」ともいわれ、かつては備前の政治・経済の中心地で、また戦国の闘争の地でもあった。
このあたりは、平安から鎌倉中頃まで、「福岡一文字派」と呼ばれる刀匠の黄金時代を築いた「名刀の産地」であった。
実際にココに立って驚いたのは、ゴルフ場内にある小高い丘が福岡城本丸跡といわれる場所で、すぐ近くには同和教育でしばしば登場する「渋染一揆」決起の場所があったことである。
ところで長船の地は刀剣作りで有名だが、そのせいか目を病むものが多く「眼薬」が開発された。
黒田氏はいわば「流托の身」でこの地に身を寄せたのだが、黒田氏の復興のキッカケは「武の力」ではなく、眼薬の販売という「商い」であった。
ここで黒田家は「家運」を盛り返し、姫路に進出することになる。
ところで福岡と備前とを結ぶ1人の人物がいることを思い至った。
吉備真備で、遣唐使で中国に学び大宰大弐(大宰府の次官)の地位にあり、福岡の糸島に地に怡土城を築いた。
一方、官兵衛は晩年「如水」と名乗り大宰府に草庵を営み、官兵衛(如水)が使った井戸が今も残っている。
また姫路には吉備真備が広嶺山山頂に創建した広峰神社がある。
興味深いことは、官兵衛の祖父・重隆はこの神社の「護符」と目薬をセット販売して財をなしたのだから、奈良期の吉備真備と安土桃山期の官兵衛とは縁が深い。
ちなみに護符を配布して歩く人を「御師」(おし)というが、この人々が官兵衛の重要な「情報源」となる。
そううわけで、黒田官兵衛にとって備前福岡の地は「回生の地」であり、博多にやってきた時に「福岡」の地名をつけたのは、ナントナクわかるような気がする。
そして黒田官兵衛は、22歳のとき家督を継いで姫路城主となり、主君である播磨の小大名・小寺氏の家老に任ぜられている。
1567年 織田信長が美濃の斉藤氏を滅ぼすと、官兵衛はこれからは「信長の時代」と読み、主君の安泰を願って織田家と接触する。
そかし、信長に反旗を翻した荒木村重を説得するために伊丹の有岡城に赴き、1年あまりも牢に入れられる苦難を舐めている。
しかしこの出来事は、信長に「忠義の人」官兵衛を印象づけた。
その後、秀吉との出会いが官兵衛が世に出るキッカケとなるが、特に「中国大返し」が有名である。
毛利側の備前高松城水攻めの最中、秀吉と官兵衛は主君・信長が家臣明智光秀に撃たれたとの報を受けた。
「弔い合戦」で勝利した者コソが次の天下人への「最右翼」となるという官兵衛の進言により、秀吉はすぐに毛利側の相手と講和して、ココカラ200キロを超える距離をわずか7日で走破して山崎で光秀を討ち、天下人となる足がかりを得たのである。
ソノ後、官兵衛は「軍師」としての才能を開花させる。
三木城や鳥取城の包囲戦や、備中高松城の水攻めなどの作戦に官兵衛が関わっていたことは間違いない。

豊臣秀吉が1587年に九州遠征をし島津氏を屈服させると黒田官兵衛は今の北九州にあたる豊前六郡12万3千石を拝領し中津城を居城とした。
しかし中津には下野(栃木県)からでた宇都宮氏(城井氏)が国人として勢力をはっていた。
宇都宮氏は鎌倉以来の名族の誇りからか秀吉への謁見を長子に代理させ、伊予今治への国替えの命にも従わなかった。
そこで秀吉令による黒田官兵衛の宇都宮氏討伐となったのである。
1589年関白秀吉より宇都宮鎮房に中津城で福岡・黒田藩の初代藩主で黒田官兵衛の子・長政と対面せよというに教書がくだった。
黒田長政は政略結婚の話で鎮房を誘い出し飲食を供し、そのさなかににわかに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにしたのである。
合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えないくなり、ついに赤壁に塗られるようになったという。
当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。
黒田長政は福岡城に「城井神社」を建立し鎮房の霊を慰めたが、この出来事はその後も長く「暗い影」を落とすことになる。
この「暗い影」と少しの接点をもったのが、映画監督の黒澤明である。
幕末から明治になると、「廃藩置県」で東京在住となった福岡藩「最後の藩主」黒田長知は藩知事として東京文京区水道端2丁目に住んでいた。
しかし、長知が知らない間に福岡藩内で太政官札贋造があったためその責任をとられ「藩知事罷免」となった。
実はこの「贋札造」は、他の藩でもやっていたのだが、その贋札造が発覚した場所が宇都宮家討伐の一番乗りを果たした野村太郎兵衛(母里太兵衛の実弟)の家であったため「宇都宮氏ののろい」との関わりがウワサされたのである。
ちなみに、母里太兵衛は「黒田節」のエピソードで知られた酒豪である。
結局、福岡藩は奥羽関東の戦功でうけた章典の一部を東京府の教育費に「返上」寄付したのである。
そしてこの寄付をもって東京府は小石川小日向町に学校を新設し、学校名を「黒田尋常小学校」と称したのである。
実は、黒澤明はこの小学校の卒業生であり、先輩には永井荷風がいる。
そして、この小学校の校章は黒田家門の藤巴にちなみ「藤の花」となり1946年学制改革で「文京区立第五中学校」に改称されてされた。
現在、神田川が流れる地下鉄江戸川橋駅近くに区立第五中学校がある。
そして正門すぐ側には今なお藤棚が設置されている。

黒田家・家臣団の大部分は主君同様、播州(兵庫県)出身であった。
また、大友氏や原田氏の旧家臣も少なからず福岡城下に移り住み、後に黒田藩を支える大商人に成長したものもあった。
町人にも、黒田氏に従いまたは黒田氏の要請で、播州から移り住んだものも多い。
博多の名産品である「博多人形」や「博多織」などを生んだ人々も、播州から来た職人達であった。
那珂川の東側は各地から集った新興の城下町で福岡とよばれたが、那珂川の西側の博多は、古くは「奴国」、平清盛には「袖の港」と称され、秀吉のもとでは天下の博多とまで称された古い歴史をもつ町であった。
黒田長政は七年の歳月をかけ福岡城を完成させたが、長政が最も腐心したのは、中世以来の伝統と財力を持ちその自由都市としての自治を認められてきた誇り高き博多の町人達をいかにテナズケルかであった。
関ケ原の戦いの後、黒田長政ははじめ東軍の戦況不利であったものの小早川隆景の養子・秀明を家康側に「寝返らせ」東軍を勝利に導き、その功により福岡52万石を与えられたのである。
黒田官兵衛が秀吉を「天下人」にしたように、長政もまた家康を「天下人」にした1人であった。
先述のように福岡城の築城には、黒田長政が入国の際に播州(岡山・兵庫)よりつれてきた多くの職人が携わった。
その一人が瓦職人・正木宗七である。宗七は黒田氏の後を追って播州から筑前に入り、1763年頃黒田藩か御用焼物師の看板を許されている。
三代目の宗七の技は特にすぐれ、宗七の技法を学んだ中ノ子吉兵衛は博多素焼人形を世に広めた。
中ノ子吉三郎の門弟・白水六右衛門ら若き博多人形師が、明治から大正にかけて観賞用の装飾人形・博多人形を全国に広めたのである。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代、博多は戦争に必要な物資の補給基地となったために物資の調達を豊臣秀吉と繋がりが深い博多の有力商人が担当した。
そして博多の町は豊臣政権によって再建され保護されたために博多商人には豊臣派の意識が色濃く残った。
そうした意味でも、黒田藩は「博多商人」の掌握収斂に気を使ったのである。
江戸時代も末期になった頃、藩は財政難を救うために博多町人・伊藤小左衛門に密貿易をおこなわせたが発覚してしまい、幕府に気兼ねして伊藤小左衛門一族を幼児にいたるまで処刑した。
そしてこの事件はせっかく縮まった藩と博多商人のミゾが再び開く原因となったのである。
現在、呉服町にある万四郎神社は、伊藤小左衛門の処刑された子供たちが祭られている。
現在は子供の神社として地元の人々に親しまれているが、黒田氏と博多商人との「確執」を象徴している神社ともいえる。
博多市民を楽しませてきた「博多にわか」のルーツも播州もあった。
黒田氏は博多町人を播州につかわし、播州一宮・伊和明神のお祭の踊りをみせた。
井原西鶴の「世間胸算用」にもみるとおり、当時は「悪口祭」が各地で行なわれ、庶民が神社の暗闇のなかで悪口をいい日頃の鬱憤を思う存分にハラシテいたようである。
陽気で祭り好きな博多商人への対応に悩んでいた藩は、博多町人の「民意掌握」の手段として、この悪口祭(にわか)を奨励し、これが「博多にわか」の起源となったのである。
ところで黒田官兵衛は城作りの名人ともいわれるが、播州の職人が多く関わった福岡城の最大の特徴は天守閣がないということである。
これは大藩としては全国唯一といってよい。

アマリ優秀な部下は上司に嫌われる傾向にある。
豊臣秀吉は、黒田如水の才覚を「警戒」したのか、その功績の割にはわずか豊前の半国しか与えなかった。
ある日秀吉が家臣に「自分が死んだら、次に天下を治めるのは誰か」と聞き、家臣らは「徳川だ」「前田だ」と口々に名を挙げたが、秀吉は「官兵衛だ」と答えたという。
それを伝え聞いた官兵衛は身の危険を感じ、家督を息子の長政に譲ると「如水」と名乗り、豊前の中津城で隠居生活にはいったように見せかけた。
しかし城下で連歌会を開いたりして情報を集め、大阪と中津の間に「早船」を整備して、いち早い情報収集に努めた。
また、官兵衛が隠居と「見せかけた」というのは次のような動きでもわかる。
関が原の戦いは、家康が会津で反旗を翻した上杉景勝征伐に向かった際に、石田三成が「反徳川」の兵を挙げたことが発端である。
如水(官兵衛)の息子・長政は家康に従い上杉討伐軍に参加するが、「三成挙兵」の報を知った如水はこれまでの蓄財を一気に吐き出して大勢の浪人を雇い入れ、マタタク間に9千もの大軍を組織した。
本当に隠居する気なら、こんなことをするハズもない。
この時如水の頭には、16万の兵を集めた関が原の戦いはそうは簡単に終わりそうもない、その間に九州・中国・四国を制圧しその上で家康と決戦をしようという読みがあったのかもしれない。
「関ケ原」の隙を突く戦略であったが、この戦いがわずか1日で終わるという誰も予期しない結果となった。
この時、如水最後の「天下取り」のチャンスは潰えたが、その引き際はイサギよい。
その子の長政にしても、壮麗な城の築城はかえって家康の警戒を招く恐れがあると自重したのか、天守閣を築くことはしなかった。
福岡城は比較的高い土地にもうけられており、実利的な意味でもかならずしも天守閣の必要はなかったのかもしれない。
それでも、智将・名将といわれた黒田官兵衛・長政が築いた城だけに、福岡城は様々な「仕掛け」が仕組まれていた。
福岡城の外縁には多くの寺が置かれているが、これは寺や墓がいわば「弾除け」の役割を果たしたのである。
天守閣はつくらなかったものの櫓を47も造りすべて武器庫であると同時に、食料の貯蔵庫にもなっている。
「多聞櫓」では、上に編んである竹はすべて弓の矢になる竹で、それを結んでいる干しワラビは、いざとなると食料になるものである。
ところで、黒田関連の遺跡は、福岡や岡山ばかりではな大都心の中意外な場所にあった。
まずは大阪中之島には米相場があったため、黒田藩も渡辺橋南西詰西側に「蔵屋敷」を設けていた。
蔵屋敷とは 諸藩が米その他の自国の物産を売るため倉庫・事務所兼住居でえあった。
しかし、1933年の中之島三井ビル建設に際し三井が大阪市に寄贈した。
そして、天王寺公園の大阪市立美術館の長屋門は美術館の南通用門として移築された。
天王寺公園の大阪市立美術館に向かう歩道橋の上から、立派な「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」が見える。
また黒田の長屋門は東京にも見出すことができる。
参勤交代の必要上、江戸には各藩邸が設置されたが、黒田藩邸は、江戸中期に黒田長政の次子、秋月藩黒田長興の屋敷門として建てられたものである。
しかし1896年に、赤坂2丁目の黒田藩邸に移築されて以来長く「溜池の黒門」と呼ばれて親しまれてきた。
だが、1968年黒田家の親戚にあたる大木九兵衛氏から正力松太郎氏が寄贈された。
このような門は一般的に薬医門という形式に属し、日本建築史において、桃山時代以降、しばしば見られるもので、読売社長の正力松太郎によって読売ランドに移された。
実際に行ってみると、その由緒ある黒田門が、「丘の湯」という高級銭湯の目隠しのように立っているのには、少々閉口したが。
ところで山手線・広尾駅を東に出るとすぐに有栖川公園がある。
有栖川公園はもともと皇族の有栖川宮熾仁親王の邸宅があった場所だが、親王は明治初期に福岡県二代目の県令となっている。
ココから麻布に向かうと各国の大使館が立ち並び、また美智子妃の聖心女子大学などもあり、東京で最も瀟洒な地域であるいっていいかもしれない。
そしてこの六本木ヒルズも望める麻布の地に、黒田家ゆかりの「祥雲寺」がある。
祥雲寺は、福岡藩ニ代藩主の黒田忠之が、父・黒田長政の冥福を祈るために創建した。
祥雲寺は臨済宗のお寺で、江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の触頭で、かつ「独札」(登城し将軍に単独謁見でき、乗輿も許される)の格式を誇っていた。
黒田長政は大徳寺の龍岳宗劉和尚を崇敬していたため、龍岳を招いて開山として赤坂溜池の屋敷に建立し、長政の法名・興雲をとって「龍谷山興雲寺」と称した。
寛永6年(1629年)、市兵衛町いまの麻布台に移り瑞泉山祥雲寺と称していたが、寛永8年(1631年)火災に遭い現在地に移ったという。
こうした創建の経緯から、祥雲寺は黒田家の菩提寺となっていて、黒田長政のお墓は渋谷区の史跡に指定されている。
祥雲寺には、黒田家の他にも久留米藩有馬家など、多くの大名家の墓地があるが、長政の前の右手が、正室の栄姫(大涼院)のお墓で、そして左が長女の亀子姫(清光院)のお墓である。
なお黒田官兵衛の墓は、福岡の黒田家の菩提寺・崇福寺にある。
それにしても、黒田家「ゆかり」のモノが、大阪天王寺公園や東京読売ランド、さらには六本木ヒルズを望む「大都会の喧騒」の只中に残っていようとは!
また、太宰府天満宮に収められた連歌に見える軍師・黒田官兵衛の「最後の願い」とは、家族の幸せと福岡の末永い発展であった。
「松むめ(梅)や末ながかれとみどりたつ、山よりつづくさとはふく岡」