心のタスキ

スポーツ団体競技の妙は「繋ぎ」にある。
ラグビーのボール、サッカーのパス、駅伝のタスキ、野球の打順のツナガリなどである。
その繋がりが、著しく「こころ」を感じさせる時「絆の」という形容詞がつく。
スポーツ競技で「絆の勝利」は、同じ舞台に立つチームメイトの場合もあれば、「師弟」へと繋がれた勝利もある。
また大舞台に立てなかったイハバ日陰の選手との「繋がり」で実現した金メダルというものがある。
1976年モントリオール五輪で、男子団体総合は日本が金メダルに輝いた。
この金メダルは、「裏事情」を知るものからすれば、「奇跡の金メダル」といってよい。
日本の活躍を止めようとするソ連および東欧の力が相当に働いていたからだ。
直前にソ連のチトフという人物が「国際体操連盟会長」に就任し、審判団もソ連など「東欧勢」が多数を占めた。
種目別の各国出場枠が「2」になったのも、日本のメダル独占を防ぐためだったといわれている。
また、エース笠松が大会直前に虫垂炎になり離脱し、補欠の五十嵐が代わって出場した。
ソ連との激烈な争いの中、ソ連の高得点に対して日本の得点は抑えられ、日本は「規定」でソ連に0・5点のリードを許した。
そして「自由演技」3種目目、日本に追い討ちをかけるようなことがおこった。
藤本が「つり輪」の着地で負傷し係員に連れ去られた。
靱帯(じんたい)を痛める重症であったのだが、医務室では痛み止めを打つことを拒否され、「みんなの元に戻りたい」と頼んでも拒否された。
部屋に1人残された上、外からのカギで閉じ込められた。
実はこれはソ連影響下の「体操連盟の係員」による実質的「監禁」といってよかった。
そして藤本は、試合会場に戻ることはなかった。
そこには日本の「動揺」の誘おうという狙いがあった。
当時の団体総合は6人が演技して「上位5人」の得点を採用する方式であったため、6人目が不在ということは1人の「失敗も許されない」ということであった。
姿が見えない藤本に不安を抱きつつ残り3種目、チーム最年長の加藤沢男をはじめでさえ、失敗は許されないというプレッシャーに襲われいた。
ひとりひとりが自分の責任を果たすことだけという以外に思いしか浮かばなかった。
特に加藤初男、塚原光男、監物永三の3人は68年メキシコ大会から3大会連続出場で、「体操ニッポン」の伝統を守りたいという思いが強く、プレッシャーは強かったと想像する。
その点、一番若い梶山は比較的冷静で、最後の鉄棒では一番手で登場し、皆に勢いをつける縁起を披露した。
競技は「アウェー」だったが、カナダの観客は日本に味方し、日本に高得点を求め、ソ連にはブーイングが起きた。
エース笠松の離脱で補欠から繰り上がった五十嵐久人は、鉄棒で世界で初めて「伸身後方2回宙返り」を決めた。
ソ連の審判と日本の審判が言い争いをしていたが、採点でモメテ15分間も中断したのは、ハカラズモ競争の舞台裏の「熾烈さ」を物語っていた。
残り3種目は失敗やケガが許されないギリギリの状態だったが、跳馬、平行棒と日本が「完璧な演技」を続けるのに対し、有利なはずのソ連にミスが続出した。
最初からカナダの人は日本を支持して応援してくれたのだが、特に5人になってからは「声援」が大きくなった。
つまり、藤本の「監禁」が、逆に日本が勢いを増した感があった。
さらに演技順で日本に有利に働いた。
ソ連は規定2位で上がった場合を想定していたのか、なぜか通常の大会等は順番が変わっていた。
通常は規定の1位が床から始め、最後に鉄棒というローテーションだが、この大会に限っては規定1位は「あん馬」からであった。
あん馬は日本が鬼門としている競技だったから、最初に日本の勢いを殺ぐネライがあったのかもしれない。
しかし皮肉にも、規定2位の日本は「あん馬」からではなく、本来1位のローテーションで「床」から戦えたのだ。
ソ連はスッカリ思惑が外れたことになる。
日本得意の「鉄棒」の最終演技者は塚原だった。
藤本を除く5人の選手が見守る中「月面宙返り」(ムーンサルト)の着地が決まった瞬間を、モントリオール大会全体で最高のシーンでもあったと評する人々も多かった。
塚原は、足が震えるほどの究極の緊張だったそうだが、演技が始まると自然と体が動いた語っている。
塚原が9・90高得点を出した瞬間、日本の逆転金メダル、団体総合5連覇が決まった。
着地が決まり点数が表示されたとき、5人は抱き合って号泣した。
採点から「監禁」まで、すべてがソ連を勝たせるように動いていた体操競技だったが、日本はそれをハネノケ逆に利用して勝った感があった。
それは「こころで繋いだ」金メダルといってよい。

1962年、当時22歳だった堀江謙一氏の「単独太平洋横断」の快挙は、日本人に勇気を与えた。
それからおよそ30年後の1994年、史上最年少でヨット単独無寄港世界一周をなし遂げたのが、白石康次郎氏である。
白石氏は6歳で母を亡くし、父としばしば出かけた海に憧れを抱くようになった。
そして「いつか、海の向こうに行ってみたい」と水産高校に進学したが、そんな白石氏はある日テレビの映像にクギヅケになった。
1983年に多田雄幸氏が単独で世界一周のヨットレースに参加し、優勝したことを伝えるニュースだった。
航海の厳しさを知る白石氏は、お酒を飲み、サックスを吹きながら愉快に世界を周った多田氏のレーススタイルにも衝撃を受けた。
白石はさっそく多田氏と電話で連絡をとり、アコガレの多田氏と会い、弟子にしてほしいと頼んだ。
多田氏は、白石を一目見て目の色が違う、こいつならものになると直感し、すぐに弟子入りを認めたという。
弟子入りがかなった白石は、その後2年ほど仙台、清水、伊東と住み込み「ヨット建造の」仕事をし、修理技術を身に付けた。
その間、多田氏のヨットに乗り、舵を持つ機会を得ることができた。
多田氏はどんな悪天候でもセーリングを楽しみ「自然に遊ばせてもらう」と口癖のように繰り返していた。
当時その言葉の意味を充分理解できなかったものの、ソノ言葉は白石氏のこれからの「冒険が目指す」方向性を示しているように思えた。
多田氏は最初の優勝から7年後の1989年、スポンサーから多額の資金を得て、再び世界一周に挑戦した。
白石も、食糧や部品を届けヨットの修理をするサポートクルーとして港を転戦し、このレースに参加していた。
ところがレースは思いもよらない展開が待ち受けていた。
多田氏は、前回の好成績から周囲の期待が高まり、そのプレッシャーに苦しんでいた。
スピードを出すための改造が裏目に出て、ヨットは何度も横転した。
多田氏を寄港地シドニーで待ち受けていた白石は、いままで見たこともないヤツレタ師匠の姿だった。
そして忘れることが出来ない衝撃的なことが起こった。
多田氏はシドニーでレースを棄権し、ソレばかりか自らの命を絶ってしまうのである。
呆然とした思いだった白石氏は、とにもかくにも多田氏のヨットを修理してシドニーから日本に回送した。
そして師匠の思いを継いで、多田氏の船で世界一周に果たそうと誓った。
そうして多くの船大工の善意協力をうけてヨットを修復した。
白石氏は師匠・多田氏の無念を晴らすべくした出発したが、故障で9日目に引き返した。
万全を期したはずの2度目の挑戦も、航行中に再び不備が見つかり、寄港先で一体自分は何をやっているのかという思いから、日本にもう二度と戻れないという気持に駆られるほどだった。
これはある意味、師匠がシドニーに到着した時の思いと「重なる」ものがあったのかもしれない。
その失意のどん底の時、白石の元に多田氏と交友のあった冒険家・植村直巳氏の妻・公子さんから励まし電話があった。
その電話に救われた思いで帰国を決意した。
そして10か月後、白石は師匠の教えであった「あるがままの自然を受け止める」覚悟で3度目の出発をした。
そして初めての横転を経験し数分間死と向かい合い、自然の力には太刀打ちできない人の無力さを実感したという。
今まで自然をネジフセようとする自分がいたが「自然を信じ 自然に遊ばせてもらう」という師の言葉の本当の意味を知ることが出来た。
白石は、コノ3度目の挑戦で当時の世界最年少記録26歳10か月で、単独ヨット「無寄港世界一周」を達成した。
そのヨットは多田氏のヨットであり、多田氏のヨットでなければならなかった。
多田氏から白石へと師弟が「こころで繋いだ」勝利であった。

長野五輪(1998年2月7日から2月22日)のスキージャンプ団体戦では、岡部孝信、斎藤浩哉、原田雅彦、船木和喜と最強メンバーの布陣で臨み、団体初の金メダルを獲得した。
金メダル確定後、原田選手は涙ながらに「…おれじゃないんだよ…、みんなでつかんだんだよ…」と語った言葉の裏には我々の知らない意味があった。
このジャンプ競技は吹雪に見舞われ中断され、第二回目が行われるか行われないか固唾を呑んで待ったのをよく覚えている。
もし2回目が行わなければ、一回目のジャンプ結果がソノママ決まるため、一回目で4位だった日本はメダルを取ることが出来なかった。
正直、多くの日本人がメダルを諦めるほどの「猛吹雪」だったように思う。
そして2回目実施が決まるまでの間、テストと称するジャンプが、ソコソコ観客の拍手が起きているにもかかわらず、テレビでは何らの形容語もなく次々と続いたのを覚えている。
そして第二回目の実施が決まって日本は大ジャンプを連発させメダルを獲得するのだが、その裏にはアノ時の真っ白いテレビ画面の中で飛んでいたテストジャンパー25名の活躍があったことを知った。
この25名のテストジャンパーの中に、西方仁也の名前があった。
西方仁也はあの原田雅彦選手と同期で、1994年リレハンメル五輪ジャンプ団体で銀を取った選手の中の一人である。
西方は、長野五輪の「選手枠」を狙っていたが、腰痛で日本代表から外れており、テストジャンパー”の一人として招集されていた。
世界でもトップクラスの実力派ジャンパーだっただけに、テストジャンパーとして複雑な思いを抱え参加することになった。
テストジャンパーとは整備を終えたジャンプ台の「安全性」を実際にジャンプして確かめる役割をになっている。
その中には、耳の障害を持つも国際大会で1位の経験もある実力派のジャンパー高橋竜二や女性ジャンパー・葛西賀子などもいた。
彼らは条件が悪くなればなるほど出番が増える仕事で、ですので相当のテクニックと経験がないと安全性のチェックが出来ない。
そして日頃は選手である彼らはそうした仕事を好んで引き受けるものとていない。
安い民宿を定宿とされ、朝6時に起きて8時にはジャンプ台にいてテストジャンプをするという毎日である。
テストジャンパーというのは、選手達に怪我がないように事前に飛んで証明するのが役割であり、五輪選手を経験している選手にとっては「屈辱的」だったにちがいない。
というより西方ばかりではなく、集められたのは実力派のジャンパーばかりである。
皆長野オリンピックを目指すも、叶わなかった人達であるだけに、選手として五輪に出たかった。”という悔しい思いを皆抱えていたのである。
さて、長野五輪 ジャンプ団体1本目が終了する頃に天候が急速に悪化し吹雪になっり雪が積もり出した為、助走路が滑らなくなり、期待されていた原田選手が失速した。
天候は回復せず、長野五輪 ジャンプ団体競技は一時中断となり、ジュリー(Jury)と呼ばれる「審判の最高責任者」の判断で、競技の続行か終了かが決まってしまう。
この時点での日本の成績は4位で、このまま競技が終了となればメダルに届かない。
一回目で一位であったオーストリアのジュリーは、競技を終えようと提言してきた。
それに加え他の3人のジュリーも上位につけているので、コノママ終わってしまった方が都合が良かったのである。
日本人ジュエリーの選手達はコノ試合のために頑張ってきた。ヤスヤスと試合を終えてはならないと提案し、話し合いの結果、テストジャンパーたちが飛んで安定的に且つ安全性が証明あできれば「続行」との話し合い結果となった。
25人のテストジャンパーたちは、転倒をしたりバランスを崩して失速すれば試合の再開はナイことを思った。
ジュリーの競技を「再開」させる為の「戦略」を立てた。
前半にジャンプするメンバーが雪を踏み固め、後半にジャンプするメンバーが大きく安定したジャンプを見せ、ジュリーに「安全性」をアピールするシナリオである。
この時、テストジャンパー達はソレマデの悔しい思いを捨てて、日本ジャンプチームの窮地を救わねばと「一丸」となって雪のジャンプ台から「次々」と飛んだ。
次々と飛んだのは、雪が助走路に積もっていかないように、後の人が飛びやすくなるようにするためだった。
それは、雪で前が見えない状態であっただけに、恐怖との戦いでもあった。
テストジャンパーの中でも高橋竜二が、130メートルを超える見事なジャンプを見せるが、それでもジュリー達は納得せず、かつての銀メダリストで五輪選手と同等の実力と思われる西方仁也を指名し、西方がいいジャンプを飛んで安全を証明すれば「続行」の判断を下した。
この時、ジュリー「Xメートル」以上という具体的に続行ラインを示したが、そのことは西方には知らされていなかった。
西方は、これまでは失敗しても自分で受け止めればよかったが、何の記録にも残らないジャンプがいかに重いかという初めて知る経験をしたという。
ここまでみんながつないでくれたので、今度は自分がつなぐ番だとの想いでジャンプに向かい、見事123mの結果を出した。
そして、この結果をみたジュリーは「試合続行」を決断した。
そして本番2回目が再開され、岡部選手137m、斎藤選手124mと大ジャンプが続いた。
次は原田選手がジャンプ台に向かう途中、テストジャンパーの控え室にいる西方と声をかけあった。
原田は骨が折れてもかまわないと、前傾を維持しつつ奇跡の137mジャンプした。
そして、最後に船木が125mを飛んで金メダルを確定した。
ジャンプ台の前に、メダリストとともに、25人のテストジャンパーが一枚の写真に収まった。
テストジャンパーから五輪選手まで、様々なワダカマリを捨てて全員の心でつないだ金メダルであった。