服役の人、見送る人々

刑務所は服役中の人との面会など様々な人が訪れ、人生が交叉する場所である。
刑務所に入る人、見送る人、面会する人、監視する人、教誨師などである。
そして複雑な人生模様を浮かび上がらせる。
「オー・ヘンリー短編集」は、人々の運命・因果・機縁など様々な要素が物語の中に織り込まれている。
人の運命のめぐり合わせが時にアイロニカルに時にシニカルに描かれている。
そういうオー・ヘンリーの作品の中で特に印象に残ったのは次の3作品である。
「20年後」はニューヨークで育った一組の親友の話である。
一人はニューヨークに残り、他方は一山当てようと西部に出発した。その時二人は20年後におたがいがどんな立場になっていようと、どんなに遠く離れていようと必ず再開しようと約束する。
そして20年後、二人は約束の場所で再会した。しかしその再会は皮肉なものだった。
20年後に警官となった男は、シカゴで指名手配となっている男の姿を「約束の場所」で見つける。
さすがに、逮捕するに忍びなく同僚を逮捕にむかわせた。
オーヘンリーの「賢者の贈り物」はある都会の片隅に住む若い夫妻の話である。
貧しいが愛情に満ちていた夫婦は、次の日のクリスマスに互いに「最高のもの」を贈ろうと頭をひねった。
妻は、夫が金時計をとても大切にしてことを思い出し、髪を売って時計の鎖を買った。
そして家に帰ってきた夫は、妻の姿を見て茫然と立ちつくした。
夫は自分の大切な金時計を売り髪飾りを買っていたのだのだ。
その髪飾りをするハズの妻の長い髪はばっさりと切られていたのである。
「最後の一葉」は売れない老画家の話である。
ニューヨークのグリニッチ・ヴィリッジは陽の目を見ぬ画家達が集まってきていた。
その街で、一人の若い女性が肺炎で生きる力をなくして床に横たわっていた。女性の部屋の窓の外には、冷たい秋風に吹かれて今にも落ちそうな蔦の葉が五枚残っていた。
彼女は、訪れる人にその残った最後の一葉が散るときに、自分の命も終わるのだと語っていた。
雪混じりの雨が一晩中降り続いある朝、彼女がブラインドを上げたとき、なんと、最後の一葉がまだ散らずに、煉瓦の壁にしがみついていた。
その一葉は雨と嵐のさらに幾夜をすぎても散らなかった。そして女性の病は、だんだん快方に向かう。
すっかり危機を脱したとき医者から彼女は一人の老画家が肺炎で亡くなったことを聞いた。
さらに、彼女の友人が彼女について老画家に話したその晩、服が濡れ氷みたいに冷え切った老画家がいたことを知る。
また、その老画家の部屋には、散らばった絵筆、梯子、まだ灯りのついているカンテラが屋外で見つかった。
煉瓦の壁に描かれた「最後の一葉」こそが老画家の最後の作品だったのである。
さて、以上のような作品を書く作家とはソモソモどんな人物なのだろうと興味を湧かさずにはおかない。
調べてみてわかったことは、波乱の人生を歩んだ「獄中作家」であった。
オー・ヘンリーは1862年、米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師の息子として生まれた。
3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。
病弱であったために、1882年知人のすすめでテキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係など様久な職を転々とした。
結婚して諷刺週刊紙を刊行したがうまくいかず、同誌は翌年に廃刊となり、その後「ヒューストン・ポスト」にコラムニスト兼記者として参加するようになった。
ところが以前に働いていたオハイオ銀行の金を「横領」した疑いで起訴されたのである。経営がうまくいっていなかった週刊紙の運営費に回したと思われる。
この横領の真相については、彼自身が何も語らずいまだ不明である。
銀行側も周囲も比較的寛容的であったにもかかわらず、ヘンリーは、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。
1897年には妻の危篤を聞きつけて家にもどるが、その甲斐もなく妻に先立たれてしまう。そして翌年には懲役5年の「有罪判決」を受けることになる。
ヘンリーは服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。
模範囚として減刑され、1904年7月には釈放となった。
釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。
記者として働く一方で、作家活動を続けた。
1902年には作家として一本立ちしようと単身ニューヨークに移り住み多くの作品を発表、出版した。
1907年には幼なじみのと再婚し、娘のマーガレット女性を呼び寄せ新しい生活を始めた。
しかし、過度の飲酒から体を壊しており、家族とはまたバラバラに生活をすることとなる。
1910年6月主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、48年の生涯を閉じた。
オーヘンリーのこうした経歴に、作品に漂うペーソスやアイロニーの秘密が隠されているように思えた。
本名・ウィリアム・シドニー・ポーターは時々習作めいた文章を書いてはいたが、刑務所で作家「オー・ヘンリー」となっていった。
この事実にこそ、最大のアイロニーがあるともいえそうだ。

人は時として重たい「ジレンマ」に立たされる時があるのだろう。
しかし、そのジレンマが仮に、友を死より救いたいとい願う一方で、己の仕事の完成のためにいちはやくその人の死を望む、といったレンマに立たされたとしたら。
アメリカの作家トルーマン・カポーティが嵌ったのは、そのような「ジレンマ」であったといってよい。
トルーマン・カポーティは、「テファニィーで朝食を」を書いた作家として知られたが、その名前を不動としたのが「冷血」という小説であった。
平和なアメリカの片田舎の町で家族4人が惨殺された。盗まれたものは、小型のポータブルラジオと僅かな現金だけ、恨まれるようなことなど皆無だった「お人よし一家」を、何故に2人の青年は皆殺しするに至ったのか。
カポーティは6年に近い歳月を費やして綿密な取材を行い、そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けている。
小説「冷血」は、加害者の片方は普通の家庭に生まれていたが、もう一人は不憫な家庭で育ち(おそらくインディアンで)社会から迫害された若者である。
被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。
カポーティは、必ずしも殺害の必要もない衝動的な殺人、そこにいたるまでの犯罪者の心理を追った。
そして、理由なき衝動にも見える犯行にいたる「心の襞」を解き明かそうとしている。
重要なことは、映画「カポーティ」の中で、カポーティが犯人を「自分自身だ」と語っていることである。
そして小説「冷血」より抜粋すると、「殺人の可能性は、将来の犠牲者が、ある過去の外傷的形態において中心的人物であると無意識に感知される場合~とくにある種の不安定感がすでに存在していれば活性化されうる」としている。
つまり自分を過去において傷つけた人物を思いおこすような刺激が加われば、理由もなく人を殺傷することがありうるということである。
トル-マン・カポ-ティはルイジアナ州ニューオリンズで生まれた。
両親は彼が子供の時に離婚し、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマなどアメリカ南部の各地を遠縁の家に厄介になりながら転々として育った。
後に自殺する母に連れられて町々を渡り歩き、ホテルの部屋に一人閉じ込められ母の帰りを待つこともあったという。
引越しの多い生活のため、ほとんど学校に行かず、ホボ独学同然に勉強した。
そんな彼にとって一つの「幸運」は、アラバマ在住当時、後年「アラバマ物語」を書いた女流作家ハーパー・リーと知り合ったことだ。
ハーパー・リーの「アラバマ物語」はピューリッアー賞受賞小説で南部アラバマで、差別に決然と戦う父親とその姿をを見て育つ子供の姿がえがかれている。
この友人リ-が、カポ-ティとともに行動し、映画の中では、カポーティの人間としての良心を喚起させるような役割を果たしている。
幼ななじみハーパー・リーとは「冷血」で描かれた事件を共に取材にあたっている。
カポ-ティは17歳で雑誌「ニューヨーカー」誌のスタッフになり23歳で出世作「遠い声、遠い部屋」を発表した。
若き天才作家として注目を浴び時代の寵児となり一作ごとに華やかな話題をふりまきセレブリティの一員となり、ゴシップ欄にも話題を提供している。
「冷血」を完成させノンフィクション小説という新分野を切り開き名声を高める一方、それ以降アルコールと薬物中毒に苦しみ、1984年に亡くなっている。
「冷血」では、カポーティは作品を書き上げるため、不憫な育ち方をした死刑囚との面会を繰り返し、自分の身の上を明らかにして次第に信頼関係を築いていった。
映画「カポーティ」で、友人リーがなぜ死刑囚を取材するかという問うと、カポ-ティは新しい小説を書くための「金づる」と答えたりもしている。
その一方で、彼自身の生い立ちと死刑囚の生い立ちを重なりあわせ、死刑囚に「もしも私が君を理解できなかったら君は怪物で終わっていしまう」と語っている。
そして、良い弁護士をつけて彼を死刑から免れさせようと働きかけたりもする。
しかし、実際に、「死刑執行」が何度も延期されると、それまでの5年もの歳月をかけた小説がいつまでも完結できないと苛立ちを覚え、まるで「生殺し」に合ったかのように苦しむのである。
友人リーが、死刑囚を本当に愛しているのかと問いかけると、カポ-ティは「それには答えられない。ただ同じ家で生まれた、一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た」と答える。
また死刑執行に立会い、死刑囚の死を見届けた後、「何もしてやることができなかった」と苦しむのである。
最後に、友人リーはカポーティに「本当は助けたくなかったのかもしれない」という言葉を投げかけている。
それ以降、カポーティは、上流社会の堕落を描いた小説を書いたりしたために、懇意にしていた人々からも見放されて孤立していく。
カポ-ティの「冷血」は、完成前から評判になり、新しいタイプの文学の登場いう編集者の言葉も、彼の「執筆意欲」を駆り立てたに違いない。
しかし最後にカポーティ自身は、新作「冷血」が騒ぐほどの作品ではないと自嘲気味に突き放している。
映画「カポーティ」で印象的だったのは、何度も死刑囚に出来上がる「小説」のタイトルを問われながら答ええようとはしなかったことだ。
そしてその本は「冷血」と題して出版されるが、そのタイトルは自分にもサシあてたタイトルだったのかもしれない。
いずれにせよ「冷血」以後、カポーティが完成させた作品は一つもなく、1984年ロサンゼルスの友人のマンションで心臓発作で急死している。

10年以上も前に、アメリカの刑務所を描いた映画「ショーシャンクの空の下」というを見たことがある。
名画のひとつ、といって間違いない。
1947年、若くて有能な銀行の副頭取アンディーは不倫にはしった妻とその愛人を殺害したという疑いをかけられ「終身刑」となった。
無実を訴えるもののショーシャンク刑務所に服役する。
アンディーが入所してから20年目、 一人の男のなにげない話に耳を傾けた。
男は、別の刑務所でアンディーの妻を殺害したという「真犯人」の話を聞いたというのである。
男は真相を語っていいといい、アンディー自身も無実を看守に取り合ってもらおうとするが、無視されるばかりか逆に虐待をうける。
そして、ついに「脱獄」を敢行し、かつての看守達への「復讐」を果たすのである。
この映画はフィクションであるが、この映画を見て日本で実際におきた「冤罪事件」を思い起こした。
1949年8月6日の夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の夫人(当時30歳)が刃物で殺害された。
警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕が途切れた所にある家の男当時25歳を逮捕した。
男性はアリバイがあるとして容疑を否認したが、着ていた開襟シャツに付着していた血痕などを証拠としてこの男性を起訴した。
この男性は、歴史上名高い那須与一の子孫であるということでも注目された。
1953年に最高裁懲役15年の刑が確定した。
そのおよそ17年後、別の刑務所で三島由紀夫割腹の衝撃的ニュースが広がっていたある日のこと、受刑者の中でいわば「犯罪自慢」が行われていた。
その中で弘前大学教授夫人の殺害は自分がやったというものが現われた。
それを聞いていた受刑者が出所後に新聞社にタレこみ真相が明らかになった。
そして真犯人は、「時効」を確認のうえ真実を語った。
那須氏の再審請求がはじまり一旦は棄却されたが、1976年に再審が開始された。
証拠の血痕は「人為的捏造」の可能性が高いと裁判所は判断し、1977年2月15日発生から28年の時を経て、那須氏にようやく「無罪判決」が言い渡された。
那須氏は年老いた母親や支援者のもとで無罪を勝ち得ることが出来たと感謝の意を表した。
那須氏の「幸福でなくてもいい。普通の人生を歩みたかった」という言葉が印象的である。
さらに、那須氏は真犯人に対しては恨みの気持ちはなく、逆に勇気をもって名乗り出てくれたことに感謝の意を表したい語っている。

先週、袴田事件の再審が決定した。
48年間もの間拘留された袴田被告を訪問してきた姉は、なんら進展もなくかける言葉もなく、「元気か?」「お~」、ただそれだけの会話の面会だったと語っている。
獄中で袴田被告は、目撃者によれば、まったく生気がなく蝋人形のようだったという。
そして同じく無罪判決を勝ち取った免田栄氏によれば、「独居房に何十年もいれられることは死刑より残酷だ」と語っている。
死刑執行への恐怖の一方で、視野が極度に狭まる獄中ボケというものがおきるらしい。
袴田事件でも早くから「事件捏造」に気がついていた人々がいて、そうした支援も「再審」決定の大きな要因であった。
警察サイドのあまりにも露骨な「捏造」が白日のもとにさらされようとしているが、それにしても司法当局みずから「国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上拘束をし続けたことは刑事司法上の理念からは到底耐え難い」と言わせしむるほどの「捏造/冤罪事件」であった。
思い出すのは、1963年、名古屋市での露天商殺しにつき、「三度め」の再審請求でアリバイが成立がようやく認められ、「無罪判決」を勝ち取った「吉田岩窟王」のことである。
21年7カ月7日(7889日)の間不当に身柄を拘束された吉田石松氏の「無罪」の判決文は次のようなものであった。
「実に半世紀にも及ぶその無実の叫びに耳を藉(か)す者からは、被告人はエドモンド・ダンテスになぞらえられ、昭和の巖窟王と呼ばれるにいたったのである」と述べた上で、本件の経緯について説示した。
判決文の最後では「これらの事情が相俟つて被告人の訴追をみるにいたり、わが裁判史上曽つてない誤判をくりかえし、被告人を二十有余年の永きにわたり、獄窓のうちに呻吟せしめるにいたつたのであつて、まことに痛恨おく能わざるものがあるといわねばならない。」
さらに、「当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたすら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である」と締めくくられている。
そして判決宣告後には、出廷していた裁判官3人が「吉田翁」に頭を下げる場面があった。
吉田氏は無罪判決からおよそ「9ヵ月後」の1963年12月1日に老衰によって84歳にて永眠した。
このたびの袴田巌氏は48年間の不当拘束の下にあり、吉田石松氏の21年の二倍以上の長期にわたる。
もちろん、拘束の長さではかれるものではないが、司法や警察が袴田氏に対してどれくらいの判決文で「謝意」を表すのか、または検証するのか注目したい。