カタチの直感

数年前まで、福岡市動物園がある丘の頂にひとつの観覧車があった。
どこかで見た記憶のある観覧車だと思いつつ、オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男」に登場する観覧車の緊迫のワンシーンまで思いを巡らした。
数年前、新聞にこの観覧車が撤去されるというニュースが出ていて、ハットした。
この観覧車は、福岡市天神の旧岩田屋(現・福岡パルコ)屋上にあった観覧車を動物園に移したものだという。
つまり、我が幼き日に親に連れられて何度か乗ったことのある観覧車であったのだ。
当時はもっと大きく見えたが、確かにそのカタチに見覚えがある。
しかし、この懐かしの観覧車も今や姿を消してメリーゴーランドに変っている。
案外と「既視感」というものは信頼できるものだし、どこかで見たカタチや風景を辿ってみると、面白いところに行き着くことがある。
最近、広島の土砂災害が襲った山のカタチに「既視感」があって、広島に行った記憶を辿ってみた。
すると、20年以上前に日本で広島アジア大会(1994年)を見に行ったことがあった。
インターネットで当時の会場を調べると、卓球会場が安佐北体育館とあったため、自分は確かに被災地すぐ近くまできていたのだ。
ただし伯備線がしだいに山に近づく頃、こんな人里離れた処が、国際大会の会場なのかと思ったくらいだから、当時は今ほど住宅が広がってはいなかったように思う。
さて、この会場でアジア女子卓球チャンピオンになったのが「小山ちれ」という中国から帰化した日本選手だった。
数年前まで世界女子チャンピオンが張怡寧(ちょういねい)だが、広島で見た「小山ちれ」のプレイ・スタイルと実によく似ていると思っていた。
後でわかったことだが、中国選手は、元世界チャンピオンで日本に帰化した「小山ちれ」という強敵を倒すために練習相手として「仮想・小山ちれ」を育てたというのだ。
その「仮想・小山ちれ」に指名されたのが張怡寧で、そのうちに強くなって自らが超一流選手の仲間入りをしたのである。さすがにコピー大国の中国である。
自分の中で「小山ちれ」のカタチの記憶は、張怡寧と結びついていたのである。
カタチが気になった場所に色々調べたくなった場所に長崎「リンガー邸」がある。
長崎の観光地グラバー邸に行くとその隣に「リンガー邸」がある。
グラバーと同じくイギリス商人として幕末にこの地に住んだリンガーの邸宅なのだが、この邸宅を見てチャンポンの店「リンガーハット」の店のカタチと同じであることに気がついた。
名前も同じなので長崎にあるリンガーハット本社にメールで問いあわせると「リンガーハット」の店名は、長崎にあってリンガー商会のような活発な店になるようにとの願いをこめてつけたそうである。
「リンガーハット」のハットは、帽子ではなく「館」の意味で、なるほどンガーハットの商標は「館」のデザインとなっている。
似たような体験がもうひとつある。
近年いたるところに見かけるレンタルビデオショップ「TSUTAYA」の正式店名は、「蔦谷書店」である。
それを知ったのは、福岡から車で久留米方面に向かう筑紫野あたりで、車窓にTSUTAYAの下に、ド~~ンと「蔦谷書店」の名前が現われた時だった。
その名前に、江戸末期、写楽の浮世絵を大量に売り出した「蔦谷書店」の名前が頭をよぎった。
東京恵比寿のガーデンヒルズに本社があるTSUTAYAにファックスで問い合わせところ、TSUTAYAの創業者・増田宗昭の祖父が、江戸時代の蔦谷重三郎創業の「蔦谷書店」の名にあやかって店名をつけたということであった。

カタチが似ていてビックリしたことは他にもある。
「スターウォーズ」の悪の権化・ダース・ベーダーのヘルメットと黒澤明の代表作「七人の侍」の中に登場する野武士の頭につけた兜がまったく同じ形なのに気づいてハットしたことがある。
またダース・ベーダーが剣で戦う時の動きも黒澤明の侍映画からの影響が明らかである。
何しろ監督のジュージ・ルーカスが、繰り返し繰り返し「七人の侍」をみたため自然にそうなったのであろう。
ところで個人的な一番の「カタチの発見」は、宮本武蔵に敗れて福岡の宝満山で武術を磨いた男の話の中にあった。
宮本武蔵は江戸時代初期に実在した剣豪だが、生涯で60回以上戦い、一度も負けなかった。
つまり生涯無敗だったという。逆にいうと、武蔵に敗れた者達がそれだけ数多くいたということである。
それでは、その敗れたライバル達は、その後どんな人生を歩んだのだろうか。
柳生一家は他流派と戦うことを禁じ徳川家の剣術指南役となり、吉岡一門は剣とは異なる道「染色」で天下に名をあげた。
そして、武蔵に負けたことで学び、新たな術に目覚めた「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という男がいた。
この人物こそ、福岡の宝満山で武術を磨いて一門をつくり、その武術は「黒田の杖」ともよばれた。
今から約400年前に夢想権之助は、宝満山を拠点にして修練を重ね「神道夢想流杖術」という流派を築いたが、その特徴は剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツくものである。
テレビでその「杖使い」を見た時に、どこかで見た「杖使い」だと思った。
それはかつてテレビで見たことのある新人警察官の訓練における「棍棒使い」と似ていた。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120センチの長い木刀で挑んだのに対して、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。
夢想権之介は数多くの剣客と試合をして一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と試合をして、二天一流の極意「十字留」にかかり押すことも引くこともできず完敗する。
権之介は、この武蔵の剣術に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参拝し、「丸木をもって水月を知れ」との御信託を授かった。
そして福岡藩に抱えられ、術を広め「神道夢想流杖術」という武術一派を確立したのである。
「神道夢想流杖術」は当初「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、廃藩置県で庇護者を失い急速に衰えた。
しかし、白石範次郎なる人物が道場を開き流派の継承に尽力した。
そして昭和のはじめ白石の高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節などの玄洋社社員の後援をうけて普及発展をはかった。
その後「大日本杖術会」を発足させ、それをもって柔道の講道館、警察の警杖術を指導したのだという。
つまり「神道夢想流杖術」の流れは、日本の警察で「警杖術」として採用されたのである。
「夢想権之助」の杖使いを見て、新人警察官の訓練とカタチが似ていると思った我が直感は正しかったのである。

近年の卓球台の多くに「KAWAI」という名前がはいっている。
ピアノをつくる会社が卓球台をも作ると聞けば、その素材の共通性になるほどと思う。
ヤマハがピアノを作る際に余った木材でスキーを作ってるって話を思い出した。
「KAWAI」では、ピアノの製造過程で出る端材を活用して、木製の玩具なども発売している他、学校向けの「跳び箱」も作っているという。
ところで我が直感の話なのだが、ビールを入れる樽を見ていると、その丸いカタチゆえに太鼓を思い出す。
きっと樽をつくる技術はいろんな楽器に生かされているのではないかと直感した。
そこでインターネットの検索欄に、「樽・楽器・製作」の三語を入れると、ウイスキーの樽からウクレレを製作する人の話がでていた。
ウイスキーの熟成に欠かすことの出来ないウイスキー樽には、樹齢100年を超えるオークが使用され、およそ60年以上もの間、ウイスキーの熟成のために樽は繰り返し使用されるという。
そしてその役目を終えた後は、床材や家具や楽器などに生まれ変わる。
この人は、白州のサントリー蒸留所を訪れた時、その自然を生かし共存する環境に感動し、また幾百と並ぶウイスキー樽とそのむせるような濃密な香りが強烈に印象に残り、古樽のオーク材と楽器製作の可能性がずっと課題としてあったのだそうだ。
とはいってもソノ寸法ゆえにギターは無理だが、ウクレレなら作れるかもしれないと気が付いた。
1枚の樽材から3枚の薄板が取れ、これから1台のウクレレが作れる。
しばらく干した後、ヒーターで熱を加えながら、曲がっている板を平らに延ばし、厚みを整えてボディの表甲用に接着していくという。
ともあれ、ウクレレという懐の深い楽器と、ウィスキーの古いオーク樽というとてもロマンチックな素材の出会いである。

10月から始まるNHK朝のテレビドラマ「マッサン」は、「日本のウイスキーの父」と呼ばれるニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝と、その妻でスコットランド出身のリタの人生を描いたドラマである。
マッサンこと亀山政春は、玉山鉄二が演じ、主題歌は北海道出身の中島みゆきの「麦の唄」というのもいい。
竹鶴政孝は、広島県竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む家の三男として生まれた。
大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学)の醸造学科にて学ぶが、「洋酒」に興味をもっていた竹鶴は、当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造に入社した。
入社後は竹鶴の希望どおりに洋酒の製造部門に配属され、入社間もなく主任技師に抜擢される。
その年の夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかったぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発した
。 しかし竹鶴が製造した赤玉ポートワインは徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったという。
このことで竹鶴の酒造職人としての評判が世間に広がることになる。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで「純国産」のウイスキーは作られていなかった。
そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画する。
1918年、竹鶴は社長の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだ。
彼は現地で積極的にウイスキー醸造場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。
スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生の姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め1920年に結婚した。
同年、リタを連れて日本に帰国するが、実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん竹鶴が分家するという形で一応の決着をみたという。
帰郷後、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の「戦後恐慌」によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまい、1922年竹鶴は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるなどした。
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画し、社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たという。
そして、同年6月、竹鶴は破格の給料で寿屋に正式入社した。
1924年京都に山崎工場が竣工され、竹鶴はその初代工場長となる。
竹鶴は酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考え、醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行った。
1929年4月、竹鶴が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されるが、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず、販売は低迷した。
その後、竹鶴は寿屋を退社し、スコットランドに風土が近い北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意したが、ウイスキーは時間と費用がかかるため、「大日本果汁株式」として、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。
そして1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売し、社名の「日」「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名した。
1941年には、工場の地元、旧制余市中学校(のちの北海道余市高等学校)校長に頼まれ、中学校に「ジャンプ台」を寄贈している。
このジャンプ台は当初桜ヶ丘シャンツェと命名されたが、その呼称は定着せず、「竹鶴シャンツェ」と呼ばれている。
このジャンプ台で訓練して札幌オリンピックで後に金メダルをとったのが笠井幸雄である。
ところで、ウイスキーを造るためには樽職人の仕事が欠かせない。
ジャンプ台のカタチからの直感だが、このジャンプ台の曲線にも「樽職人」のワザが生かされているかもしれない。
樽職人は、原木の見極めから樽の組み立て、内側の焼き入れ(チャー)、旧樽の補修まで多岐にわたっている。
木の一本一本の木目が異なるように、目的とする原酒に応じたひとつひとつの樽をつくるには、熟練した技と勘が必要である。
ニッカウヰスキーの樽づくりの技術は、創業以来、「名人」とも評される匠たちに培われ、伝えられてきた。
創業時からニッカの樽づくりを担ったのは、小松崎与四郎で、当時、竹鶴政孝が工場長を兼任していた横浜のビール工場から迎え入れた樽職人である。
当初はスコットランドから輸入したウイスキー樽を分解したりして研究していたが、元々確かなビール樽づくりの技を体得していた小松崎は、ほどなく立派なウイスキー樽をつくり出していく。
小松崎は「木には個性があり、癖がある。人間と同じ。修理のときも元の木の癖を読んで、それに沿って新しい木を入れなければならない」とい語っている。
ウイスキーが歳月をかけて熟成するように、樽職人が育つにも経験を積む長い年月が必要である。
樽の中のウイスキーは5年、10年と時を経るに従って琥珀色になっていく。
そして樽職人も少しずつ先達の域に近づいていく。
小松崎の厳しい指導、樽づくりの難しさ、そして重労働のために16人いた職人のうち2人だけしか残っていなかった。
その一人長谷川清道は、2001年に、スコットランド樽職人組合から「世界の樽職人15人」のひとりに選ばれている。
樽を曲げる「焼きいれ」が樽のカタチをつくる。
実は樽の曲がっている上に内側は焦げ焦げで、この「焦げ」とオーク材の「あめ色」が、あのウイスキーの香りと琥珀色を生み出す。
つまり、樽のカタチは、ウイスキーの本質を作っているのである。