身体を着る

「仮面をかぶる」とはよくいうが、「身体を着る」とはいわない。まして「頭をつける」なんていったらカツラかと思われる。
つけネイルもつけマツゲもコンタクトもカツラもかなり進化しているらしいが、所詮それはカラダの一部の「代替物/装飾物」にすぎない。
ここでいう「身体を着る」とは人間があたらしい能力を獲得する、のではなく「着る」ということだ。
着るからには「脱ぐ」ことも可能である。
具体的には、コンピュータの端末をまるで体の一部のように身にまとうことによって自分とそのエクステンション(拡大)の見分けがつかないほど「一体化」することである。
コスチュームプレイに励んでいる人々も、おそらく「なりきり」で新しいキャラや能力を手にいれることを楽しんでいるのであろうが、それはあくまでも「想像の世界」を出るものではない。
ここでの話は、人が実際に多様な能力を身につけたかのように手に入れることで、現実の世界で起きていることである。
実はスマホの段階において、あたかもそれが人間の体の一部と化しているということを思った。
スマホを肌身離さず身につけていて、一息つけば必ずスマホ画面を見る人とか、電車で覗き込んでいる人々の姿をみると、スマホはかなり「身体の一部」と化してるといっていい。
昔の軍国主義教育で、死んでもラッパを放さなかった少年の美談は、今や死んでもスマホを放さなかった若者の哀話へと転じるかもしれない。
スマホはメール、画像、音楽、語学学習、地図情報に、カメラなど何にでも利用できる。
そしてスマホに様々なアプリを導入することによって、こうした「身体性」は飛躍的に拡大する。
とはいえスマホは人間の体の一部に近くはなったが、手に持ち、指で画面をなぞる等の操作を行う必要がある。
そのため、手のひらに載せて落ちないようにしている点、画面を見るのにある程度の距離を置く点など、人間の動きの「自由度」を奪うため、カラダの一部とはなりきれていない。
ところが最近の「ウェアラブル・コンピュータ」は、PC本体・デイスプレイ等をほぼ「身体の一部」として身にまとうことができる。
例えばメガネ、コンタクト、指輪、時計、スーツ等に組み込んで利用する。
そのうち靴やバンド、歯ブラシ耳掻きなどにコンピュータ機能をつけるとかもあるかもしれない。
何しろ、デスプレイは曲げたり巻いたりしても鮮明に表示できるものが開発されているので、カバンの中に丸めておいてもいいし、身にまとう感じで使うこともできる。
そしてウェアラブルコンピュータの中には、体の反応をセンサーで探知して動くものが登場しており、人間は、「身体を着て」「目を装着し」「頭脳をかぶって」生きていく存在になろうとしているのである。
それはコンピュータとの通信技術と人間が装着した特殊な端末で可能になったものであるが、人間の時々の意志をどのように端末に伝えるかが、技術的に大きな課題となる。
いくつかの例を紹介すると次のようなものがすでに実用化している。
指の動きでスマートフォンを動かしたりメールを送ることができる「指輪型端末リング」、メガネに映る風景をスマホ経由でネットに送信し、友人と共有できる「テレパシーワン」、脈拍数や血管年齢なども常時計れる「イヤホン」などもある。
また目の動きは脳と連動しているため、集中度などをはかる指標となる。そこでメガネの鼻パッド二つと眉間部分に仕込むセンサーによりその疲労度を知ることができる。
このメガネをかけると、視線の動きから集中度や疲れ具合が分かったり、自動車の運転時の眠気をモニターし警報を出して居眠り運転を防いだりできる。
ところで日本は2050年に国民の約4割が65歳以上の超高齢化社会を迎える。手足が思うように動かせなくなる人も増える。
そこで装着型またはアシストスーツやパンツで歩行を補助したりするものも登場している。
例えば身障者向けあるいは介護向け補助装置をまるで衣服やスーツのように身につけて自由に動くことができる。
また遠隔でも恋人から抱きしめられる体感を味わえる「遠距離恋愛用スーツ」なども登場している。
こうしたウェアラブルの中で発展が最も著しいのがメガネに情報機能をつけたもので、映画「ターミネーター」のような世界が現実化しているといって過言ではない。
朝起きてその専用メガネをつけると今日のニュースのヘッドラインが片隅に流れる。
また車に乗るとカーナビのように実際の道に矢印が表示され、眠気がすれば警報音のピーという音が耳奥からか聞こえてくる。
また満員電車で疲れたときは、ズポンについたアシスト機能をONにすれば長時間たったままの状態を楽に維持することができる。
退屈しのぎに、どんな平面でもいいからそこの一点を「長見する」と映画モードにきりかわり選択メニューが表われ、まばたきの回数でメニューを選ぶことができる。
それで、通勤の電車の座席でじっとカバンの表面に映し出された映画を、誰にも気づかれずに本人だけで楽しむことができるのである。
また仕事上外国人と会話すると、その「同時通訳」がメガネの片隅に表示される。
休日にメガネを着用して外出をすると、目的のデパートにいく道筋を矢印でもって表示する。
口コミのあるレストランの前を通るとそのグルメ口コミ情報が表示されたりする。
また目線の動きを止めて「長見する」と写真が何もせずに撮影できたりする。
デパートの建物を見るだけで、その建物の中のどのフロアにどんな店があるかがメガネの片隅に表示されるし、スーパーで食料品を見れば、色分けで賞味期限・消費期限も表示される。
人ごみのなかでストーカー歴やら窃盗歴のある人物の接近を教えてくれる。
また自分が見ている風景を遠方に住む人と共有することもできる。ただしこうした風景が誰かに盗まれ監視・記録されたりする恐れがある。
特にGPS機能により政府の管理サーバーに登録されていると、プライバシーの侵害の問題となる。
さて今年、メガネ型端末を導入した病院では、ベテラン看護師にしかできなかった作業を派遣社員に任せられるようになった。
それは、手術の際に必要な膨大な器具を過ちなくとりそろえ、求められた場所に並べるようなことは相当なベテラン看護師にしかできないことである。
しかしメガネをかけてもらい、あらかじめ道具をそろえる動きをすべて矢印で表示するようにすれば、派遣社員でも同じ作業が出来るのである。
そして専門技術をもつ看護師は、約3時間分の雑用から開放され、専門分野の仕事に集中できるようになった。
また従来、製造現場の「熟練工」しか出来なかった高度な部品の取り付け作業等をメガネ端末を活用して、その指示に従って作業すれば、誰でも可能になったのである。

ウェアラブルコンピュータによる「身体性」の拡大、すなわち「見る」「触れる」などの人間の「身体機能」は飛躍的に拡大・延長していると考えられる。
そして今起きている身体性の拡張は「新しい自分」を身にまとうところまできている感を抱かせる。
その「極限」をいえば、眼球に直接埋め込まれ、脳に直結したディスプレイの実用化などさえも議論されているという。
そうなってくると入試問題を「長見する」ことによって送られてきた解答を書いたとしても、それはその受験生の「能力の一部」という感じにもなり、不正をしているという自覚は生まれないかもしれない。
しかしそれより危険なことは、身体性の拡大が人間に「仮想全能感」を与えるということである。
それが戦争の際に表出すると、特に危険である。
ITの発達による現代戦は「勝つ仕組み」を大幅に変えた。
個人的に鮮烈な記憶として残るのが、アメリカの「勝つ仕組み」を伝えた、1991年の湾岸戦争の映像である。
アメリカ軍は、1980年代後半からIT化による大変革をしてきており、各部隊・装置・兵器・衛星などからリアルタイムで情報を収集し、それを迅速に分析・処理して、きわめて効果的効率的に敵をタタクためのシステムを完成させて臨んだ戦いだった。
アメリカ軍(多国籍軍)のGPSと無線カメラを搭載したミサイルが、精密に誘導されて目標を爆撃した。
現場の戦闘部隊も、「全情報」を握る司令部からの指令に従って進んでいけば楽に戦闘ができた。
最新鋭の「暗視装置」を持つ多国籍軍にとってみれば、砂漠の闇夜は味方ですらあった。
1ヵ月間の徹底した空爆のあと開始された地上戦「砂漠の剣」作戦はワズカ100時間で決着し、戦争というもののイメージを根底から覆させられた。
イラク軍の死者2~3万人に対し、多国籍軍のそれは500人弱という圧倒的な勝利であった。
これで、死者を出さずに「勝つ仕組み」が完成したのかと「錯覚」したくらいだった。
しかしこの「大成功」がアメリカ軍を「大失敗」へと導いていった。
ラムズフェルド国務長官は、湾岸戦争の勝利を元に情報システムを中核とした空爆・無人兵器・特殊部隊中心の機動戦を基本とした新しい「理想の組織」をつくった。
さて2001年から始まったイラク戦争では「情報戦」で圧倒しイラク軍を分断・駆逐し、正規軍同士の戦闘に勝利した。
多国籍軍側の死者は170人ほどで、湾岸戦争に引き続く「圧勝」といってよかった。
しかしそれは、フセイン政権を倒すまでの「勝つ仕組み」でしかなかったのだ。
それ以降の占領統治期間の8年半での死者はアメリカ軍を中心とした多国籍軍5000人で、民間契約要員1000人にのぼった。
それまでの戦い方が「嘘」のように効を奏しないのである。
アメリカ軍の「失敗の本質」は、高度にIT化されているとはいえ、あらゆる情報の統合・分析と意思決定の時間が数分は必要なので、司令部からの指示が出る頃には、敵も味方も動いてしまい、味方と合流できなかったり、敵軍を見つけられなかったりした。
また市街戦では、遮蔽物や紛らわしいものダラケで敵の装甲車すらうまくは識別しきれなかったのである。
しかも、テロ組織が仕掛けた自爆テロや即製爆弾に対して、無人偵察機も軍事衛星も、無意味であったという。
また、アメリカ軍らが空爆と地上部隊で押し切ろうとしても、反乱勢力が武器を捨てて市民に紛れ込んでしまえば、市民もそれをアメリカ軍にワザワザつき出そうとはしなかった。
そんなことをすれば、自分があとで殺されてしまうからである。
近年のアメリカ軍の軍事行動は、911テロをきっかけに従来とは全く異なるものになってきているらしい。
従来、国と国がぶつかりあう戦争では、軍隊というピラミッド型の組織が必要であった。
米軍最高司令官すなわち大統領を頂点とした組織の中で、上意下達の命令ですべて行動が決まった。
ところが911同時多発テロが発生した時に、このテの組織が全くといっていいほど機能しなかったために、新たな軍事戦略を構築することが急務となった。
そこでアメリカは、従来のピラミッド型組織を解体し、兵士1人1人が自らの判断で攻撃できるシステムを構築することになったのである。
このシステム変更への第一弾として、2001年10月8日に始まったアフガニスタン侵攻およびイラク侵攻で、「小型衛星通信機」を装備した兵士を投入している。
ペンタゴンが解析した情報を、組織の命令系統を経ることなく、直接前衛にいる兵士1人1人におくり、情報を受け取った兵士は、上官の命令を待つことなく、自らの判断で行動できるようになったのである。
そうした情報が末端の兵士まで瞬時に共有できるようになったので、情報の把握、命令、行動、報告等かつて軍隊という組織の中で行われていたことが、兵士という「個人」の中で完結するようになった。
そしていまや、兵士一人一人が小型核兵器や化学兵器などの大量殺戮兵器を「携帯する」ようになったのである。
こうした兵士が全能感とまったく無縁であることは、難しいのではなかろうか。
また人間が「仮想全能感」を抱くに至るのを助長するもののひとつとして3Dプリンターの登場がある。
かつてアルビン・トフラーは「第三の波」(1980年)で分離した生産と消費が再び統合する社会を予言していた。
トフラーは、それをプロダクションとコンシューマーを合成した「プロシューマー」という言葉であわわした。
個人的には、そんなこと起こるはずもないと思っていたが、最近の3Dプリンターの登場は、トフラーの予言の正しさを証明した感がある。
3Dプリンターは、色々なカタチをした道具をまったく同じ形で立体コピーして作り出す技術である。
素材面で元のものと違うことが難点ではある。
そして実際に家庭向けの3Dプリンターが相次いで発売されている。
これまで、立体物をつくるには、設計図にあたる3Dデータが必要だが個人には入手が難しかった。
ところがアメリカの3Dプリンターの最大手の会社が、3Dデータをダウンロードできる店舗を開いた。
フィギュアや花瓶、コップなどが自宅で簡単につくれる。
ユニークなところでは、チョコレートや砂糖を原料に、菓子やケーキをつくるプリンターを発表した。
つまり「印刷」の対象となるものが、樹脂にかぎらず、食材にまで広がってきたことを意味している。
そしていつか起きるであろうと危惧されたことが、現実に起こった。
3Dプリンターで「拳銃」を製造してそれを使っている姿を動画サイトにアップデートした市の職員が逮捕された。
こういう人は、ある種の「全能感」にとらわれたのか、前後・立場の見境を見失った人のように思える。
それは最近の遠隔操作で人を陥れた人物にも共通しているといえる。

何かを得ることは、何かを失うことである。これは、ほぼこの世の法則といってよい。
色々なデータがサーバーにあるとかネットですぐに調べられることになると、何事も自分で記憶するのは価値がなくなって記憶力が退化する。
本を読んだり辞書を引いたり、手間ひまかけて覚えたことは忘れにくいが、検索であっという間に得た情報はあっという間に忘れる。
インターネットで様々な考え方を得られても、自ら考える機会を失う。
ネットにあまりに没入して時間を空費すれば、健康を失い精神をそこなうことにもなる。
こうして育ったデジタル人間にとって、行間を読んだり、文脈を読んだり、空気を読んだりすることは、とても難しいことになりつつあるのではなかろうか。
近年「おれ様化する若者」ということがいわれて久しい。
少子化の影響で小さい頃から大切に育てられ、苦労せず、楽しいこと、面白いことに浸ってきた若者にとって、ある意味でこの世は怖いもので満ちているのかもしれない。
消費社会の浸透でほしいものは何でも買いあたえられ時間を自分だけのために使えた人々が、実際に現実社会を生き抜くのは結構大変なことにちがいない。
そこで「負け組み」になるかもしれないと恐れる人々がコンピュータに拠り所を求めた場合、自分は人よりもできる、偉いんだという「仮想的有能感」または「仮想優越感」をふりまわす。
これが「おれ様誕生」の一つのパターンではないだろうか。
ウェアラブルコンピュータの登場の危険性は、そうした「仮想的有能感」から「仮想的全能感」へと人の思いを増長させてしまうことである。