個人的な光景

人は色々な光景を胸に抱いて生きている。
心がイツモ回帰するような光景もあれば、いつも逃れたくなる光景があるのかもしれない。
また一瞬の「閃光」のような光景もある。
同じ光景を見ながらも、何ごともなく通り過ぎる人もいれば、強い衝動なくしては通ることのできない光景がある。
人生とは、過去にどんな光景を見て、未来のどんな光景に自分を描こうとするかで決まる。
会津の新島八重も白虎隊の唯一の生き残り飯沼貞吉も、東大総長となった山川健次郎も、会津若松城が燃える光景にナンドも回帰しつつ、明治日本の光景のドコカに自分を描こうかとモガイタのではないか。
薩摩の西郷隆盛のように、明治の時代に「自分の光景」をツイニ描けなかった人もいる。
さて東京・丸の内には日本を牽引する超一流企業が立ち並ぶ。
1980年代のハジメ頃、丸の内の地下街の昼食時間に、中年以上の男バカリが黒山のように集まっているのを見かけた。
ハンパな数ではなかったので、「異様な光景」といってよかったが、男たちが見ていた視線の先には、NHKのドラマ「おしん」の画面があった。
「おしん」にでてくる風景は山形県庄内地方だか、彼らにとっての「光景」はソコに集約されていたにちがいない。
そしてふと、アノ世代には終戦時の「焼け跡」のような「強烈な光景」を共有しているに違いない。
人間は過去をクラって、未来をカジッテいく存在である。同じ光景は「同じ方向」に駆り立てたるのではなかろうか。
また、長く棲みついた光景が人々を「宿命」のように導く一方で、「一瞬閃いた」光景で遺伝子が震えたのか、人生が決まってしまう人もいる。
そうした極めて個人的な体験を引き起こす光景を「個人的光景」とよぼう。
、 中国からの留学生・魯迅が東北大学の階段教室の幻燈の中でみた「或るひとつの光景」が、医師から作家になる「転換点」となったのは有名な話である。
さて、以前テレビによく出ていたニ胡演奏家のチェン・ミンさんは、中国・蘇州生まれの上海育ちである。
幼い頃、タマタマ通りかかった家の二階で二胡を弾く女性を見た時に、自分もアノヨウに美しく二胡を弾きたくなりたいと、早くも将来を固めた。
音楽教育家の父から二胡を習って、上海戯曲学校でも二胡を専攻をした。
卒業時には、上海越劇オーケストラの「メーン奏者」に成長した。
女優の母譲りの美しい容姿、約束された音楽家としての未来はユルギナキように見えた。
しかし、このままココデニ胡を演奏し続けて終わるのか、と満ち足りないものがあった。
自分の未来の光景はアマリニ「単純」に見えてしまっていたのかもしれない。
そこで日本に留学することにした。
日本へ来日した当初、日本語も話せないママお金もなく4畳半のアパートに暮らし、アルバイトをかけもちして2年間で学費をためた。
この2年間は孤独で貧しく、タダの一度も二胡に触れることはなかったという。
その後、日本文化を学ぶべく、共立女子大学入学を果たしたが、二胡を奏でてみるが弓が逃げてしまって弾けない。
二胡をヤメルオカと自分に問いつつ、何とか練習して弾けるようになってくると、驚いたことに二胡の「音色」が以前とマッタク変化している。
そして、自分が変わったら音色が違うことに気がついた。
そうして、幼き日にみた「二胡をひく女性」の光景が、ようやく自分と重なり始めた。
ソレカラハ、二胡に夢中になったという。
1997年大学を卒業後、本格的に演奏活動を始めた。
2001年にリリースしたアルバムで脚光を浴び、中国から日本への「二胡ブーム」の「火付け役」となった。

幻のようにみた一瞬の光景が人生を導き、シカモ世界を変えることがある。
随分前に、ラスベガスのフラミンゴ・ホテルに泊まったことがある。ソノ高いところから見たラスベガスのサンザメク光景に愕然とした。
砂漠の中に忽然と出現した「不夜城」ラスベガスはどうして出来たのか。
サンフランシスコからヨセミテに向かうあたりにリノというカジノの町がある。
この町は「西部黄金狂時代」に押し寄せた採掘労働者達が集まった場所なので、町が出来るのもワカルがラスベガスは「黄金」とは関係ナキようである。
数年後に、たまたま「バグジー」(1991年)という映画を見た。
その映画は、自分がタマタマ泊まったフラミンゴ・ホテルを創設した男の物語であった。
そしてこの映画で、この男こそが、ラスベガス発展の礎を築いた人物であることを知った。
自分はいわばラスベガスのいわば「基点」に宿泊していたことになる。
ラスベガスに人が住み始めたのは1931年4月、コロラド川の氾濫をせき止める為に、大恐慌の失業者対策すなわちニューディール政策の一環として「フーバーダム」の建設が始った。
多くの労働者が集まり、同時に飲酒、ギャンブルが解禁となり、ラスベガスの街も次第に賑わう様になってきたものの、当時はまだまだヒナビタ町だった。
1935年にフーバーダム完成した。このダムの完成により、世界最大の人造湖「ミード湖」が誕生し、水の確保と広域の電力供給を補ったもののこの時のラスベガスはまだ、人口25人ほどのさびれた街だった。
そこへ、ラスベガスを大きく変える1人の男が登場する。
ベンジャミン・シーゲル、あだ名は、「バグジー(Bugsy=虫けら)」という男である。
あたりまえだけれど彼はバグジーと呼ばれることを、毛虫のように毛嫌いしていた。
1937年、ニューヨーク・マフィアであったシーゲルは、アメリカ西海岸の「縄張り」確立の為に、ロサンゼルスに移住してきた。
その当時、ラスベガスは駅周辺のダウンタウンに、カジノバーが数件あっただけのサビレタ砂漠の街にすぎなかった。
1944年、シーゲルは愛人だったハリウッド・女優バージニア・ヒルと一緒に、任されたダウンタウンのカジノの様子を見に行った帰り道、砂漠のど真ん中にビルが林立する光景を「一瞬の閃き」のように見たのである。
そしてシーゲルは自らリゾートホテルの建設を思い付いた。
マフィアのボス達から資金を調達し、カジノとホテル、プール、ギフトショップ、ゴルフ場、射撃場から乗馬クラブまで揃った「一大リゾート」の建設開始した。
ところが、バグジーの構想は妥協を許さなかった為、当初予定だった建設資金が6倍にも膨れ上がった。
本人はホテルがオープンして客が押し寄せれば、何とか「許される」と思っていたようだが、組織からは批判され「バグジー」という有難くないニックネームを頂くことになる。
そしてついに完成したホテルの名前は、愛人・バージニア・ヒルのニックネームから「フラミンゴホテル」と名づけられた。
1946年12月26日に、盛大にオープンしたが、ラスベガスには珍しく大雨が降り、ハリウッドスターを乗せてくるはずだったチャーター便も欠航となり、寂しいオープンを迎えた。
その後ホテルは経営不振の為にワズカ2週間で「一時休業」に追い込まれた。
3ヶ月後ホテルを再開したものの、組織は600万ドルもの損害を出した男を許さなかった。
シーゲルは、身の危険を感じ、厚い壁と防弾ガラスで防護した自分の特別室を厳重に見張らせた。
1947年6月21日、ビバリーヒルズの邸宅で、9発の弾丸を浴び射殺された。
この時バグジーは42歳、バグジー亡きあとフラミンゴは他の経営者の手に渡った。
皮肉なことにフラミンゴは、シーゲルの死後に有名となり、シーゲル命を賭けて建設したホテルを一目見ようと大賑わいを見せ、その後次々とホテルが建設されて今のラスベガスが出来上がったのである。
フラミンゴホテルは、1971年にヒルトンの傘下に入り1993年には開業当初の建物を全て壊して「新築」された。
というわけでラスベガスは、沙漠のど真ん中にビルが林立するというシーゲルの幻のごとき「個人的な光景」が生み出したものであった。
フラミンゴホテルに似た話が、ラスベガスに近いサンバーナーディーノの町でおきた。
ロサンゼルスから東へ90キロ離れたこの町で、ドライブインをつくってハンバーグを売っていた店があった。
その店のメニューはハンバーガー、フライド・ポテト、シェイクなどわずか9種類のみであった。
客席は取り払ってあり、紙やプラスチック製の食器が使ってあった。ハンバーガーの調理は流れ作業となっていたため価格は安く客は1分以内にハンバーガーにありつくことができた。
1954年にこの店に一人のセールスマンが訪れたのである。
レイ・クロックというこの男は、高校を中退し15歳から働き出し楽器店を開いたり、紙コップのセールスマンとして働いたこともある。
そしてこの時、52歳になっていたレイロックは、この時ミルクシェイク用のミキサーを売りにきていたのである。
だがマクドナルドという名の兄弟がキリモリするコノ店を見たときに「霊感」のようなものが走った。
この店がアメリカのあらゆるアメリカの交差点に立っている「光景」を見たのである。
すっかり感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスで食堂にやってきたとき、システムをフランチャイズ形式にして、システムそのものを売る商売を始めてはどうかと勧めた。
兄弟は「自分達の為にこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりは無い」と消極的だった。
しかし「兄弟はこの店以外干渉しないし、クロックはこの店には干渉しない。
さらにはマクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使うということで「合意」した。
兄弟が提示した契約金はカナリ高かったものの、ともかくもその契約金を払ってクロックは夢の「第一歩」を踏み出す。
マクドナルド兄弟の店は今はないが、クロックの「個人的な光景」、つまりアメリカ中の交差点にコノ店が立つ光景は現実となり、さらには世界中の街角にも広がっていくのである。

一瞬の閃光のような「個人的な光景」もあれば、長く棲みついた「個人的な光景」というものもある。
最近、「徳洲会」の名前がよく出るが、創設者の徳田虎雄氏は、鹿児島県徳之島に生まれ、貧農の8人兄弟の長男として育った。
つまり、徳田氏が医者を目指すキッカケとなったのは、少年時代に幼い弟を病気で無くした体験に深く根ざしている。
3歳の弟が下痢と嘔吐で苦しみ始め、漆黒の山道を何度も転びながら走り、往診を頼みに行ったが、医者は来てくれなかった。
医者にみてもらえずに死んだ弟のことを思い出すと、悔しさでイッパイになり、「医者になろう、医者にならなければならない」と思いが込み上げてきた。
徳之島にはクンマというサトウキビをしぼる原始的な機械がある。
これを引いて回す牛と一緒に人々はただ黙々と同じ円周の上を、グルグルと回っていく。
ほおっておくと、牛はすぐに立ち止まってしまう。
そこで一刻も休まず、牛の尻を叩きながら、後を追い続けていなければならない。
徳田氏の少年期の思い出によると、疲れたり寒かったら休めと父は言ったが、牛だって朝から重いクンマを引き続けている。
ただ後ろからクッツイテいくだけの人間が休んだら、牛に負けることになる。
途中でやめたら何か大切なものが失われるような、自分が駄目になるような、ソンナ気がしたという。
かつて、この「クンマと牛と人間」の風景の中に徳田虎雄の原点があるように思えた。
個人的に沖縄で、クンマがサトウキビを潰して砂糖のエキスを搾り出す光景を見たことがある。
数本のサトウキビを巻き込み押し潰していくのだが、ほんのわずかな「甘い汁」しか搾り出せない。
ところで、米軍が奄美大島や徳之島を信託統治下においたのも、沖縄に基地をつくる労働力の供給源としてであった。
つまり徳之島は島民が島民自身の幸せのために働いたことはなく、その為、差別感や屈辱感を抱き続け、農民達は、殺されることを覚悟でムシロ旗をふり、一揆をおこしてきた。
そして医療において取り残されたようなこの島で、貧しい人の為に本当の医療を願った徳田氏の気持ちと通じるモノがある。
「クンマと牛と人間」の光景こそが、徳田氏を日本医師会との戦いを戦い抜くための「個人的な光景」であったにちがいない。
徳州会は、徳田虎雄氏が「生命だけは平等だ」を理念に掲げ、離島僻地医療や「24時間救急受け入れ」などで急成長した。
都市部で高度医療を実現する大規模病院から、若い研修医を「離島僻地研修」として2ヶ月交代で、僻地に送りこんできた。
カツテ徳之島のクンマは、人間に与えた数々の試練のように見えてくるし、牛を「僻地医療」または「年中無休24時間医療」と読み替えてみると、その「牛」を追いかけてきたのが徳田氏である。
しかし今や徳州会は同族企業としての状況をはるかに超えて、政治色をミにまとってしまった感がある。
徳田氏は、手足ばかりか首も回らなくなった難病との闘いの中で、長男の選挙において大掛かりな選挙違反までして「徳洲会」の権益を守ろうとした。
人々は徳田氏の「理念」の下に集まってきたが、今度の選挙違反はソノ理念を大きく傷つけたことは否定できない。
結局、徳田氏の晩節は、黙々と同じ円周上をグルグルと回ってホンノ少しの「甘い汁」をシボリだす「クンマと牛と人間」の光景には、あまりにソグワナイ。
徳田氏とその一族が、クンマとは全く「異なる歯車」の中に投げ込まれてしまった感じがしてならない。
そして、もう1人同じく医師を目指した男の光景が脳裏にうかぶ。
それは、「ムツゴロウ青春期」に登場する畑正憲氏の父親の姿である。
ムツゴロウこと畑正憲は、福岡市で生まれたが、父が満州国に赴任したため、幼年時代を満蒙開拓団の村で育った。
「ムツゴロウ青春期」に次のような文章がある。
「人の世には運命というものがある。どんなにもがいても逃げられず、たとえちっぽけな真実であっても一生こだわり続けねばならぬような父の一生がそうだった」
父親は百姓の長男に生まれ、ごく平凡に百姓になるつもりだったらしい。
麦の取り入れの際、ちいさなゴミが目に入ったことで医者にいくと、その目からゴミを取り出した医者が、その前に淋病患者を触診し、その手の消毒が不完全であったため、一人の若者の運命をもてアソブことになる。
全治には、約1年半の歳月が必要で、その間父親はイツ目がつぶれるかという恐怖とタタカワねばならなかった。
それだけに畑氏の父親じゃ、献身的な医者の看護が身にしみ、もし目が元通りになったら、無医村へ行こうと決意した。
是が非でも「医師免状」を手にいれようと決心し、父は昼間働き、夜間中学に通い始めた。
幸い、母は手には助産婦の免状があった。
畑氏は父が「中学2年生」の時の子であり、校歌を子守歌として育った。
畑氏は振り返って、家庭を省みず融通の効かなくなり始めた頭で「コンチクショウ」と勉強に精を出す「父親の姿」を誇りに思うと書いている。
さらに父が医師を目指した満州の地には、畑氏にとってカケガエのないもうひとつの「個人的な光景」が広がっていた。
それは狼と犬のハーフ犬を飼ったり、水門でナマズを捕まえるなどして動物と親しんだ「光景」である。
畑一家が満州から帰還して父の実家のある大分県・日田市ですごしながら、東京大学への憧れを抱くようになる。
父親が日本の医師国家試験を受けに東京大学のことを「土産話」として語ってからである。
父親は東大の赤門をくぐって試験を受けにいったので「赤門出だ」と冗談をいっていた。
畑氏の東大受験の話は「ムツゴロウ青春記」に詳しいが、父からは医学部医学科への進学を望まれていた。しかし畑氏の「個人的光景」の方が優り、父に無断で理科Ⅱ類に進学し、理学部動物学科を選択して「動物学」を専攻した。
卒業後学習研究社(現・学研ホールディングス)の映像部門に就職し、理科関係を中心に学習映画などの作成に携わる。
文学への関心も深く、1967年、「われら動物みな兄弟」を刊行して翌年、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。