孤軍の人

異国の地でたった一人で立つ開拓者。
いつしかその人に協力者が現れ仲間となり、ついには深いキズナで結ばれていった。
そういう生涯を送った人を、最近のテレビや映画で3人ほど知ったが、ここでは彼らを「孤軍の人」とよぼう。
以前、ジャズピアニスト・秋吉敏子の前半生について書いたことがあったが、最近放映のTV番組「ソロモン流」でその「後半生」を知ることができた。
秋吉は満州で生まれ。帰国して1947年より大分県別府市の駐留軍クラブ「つるみ」でジャズ演奏をはじめた。
博多でしばらく腕を磨き、その後に上京し1951年に渡辺貞夫を迎えてコージー・カルテットを結成する。
そして銀座で演奏していたとき、たまたま来日したジャズの神様オスカーピーターソンの知遇を得て1956年、バークリー音楽院に奨学生としてアメリカに渡った。
この時26歳だったが、その年にニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演してから全米でも注目を集めた。そして、サックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚する。
二人の間に子供が生まれるが2年で離婚した。秋吉は当初、和服でジャズを弾く日本人女性として注目された面もあったが、実際には仕事はほとんどまわってこなかった。
母子家庭で仕事もない日々が続き職業安定所通いをするものの、結局は音楽をおいて外自分が役立たずであることを思い知らされる。
しかしなんとか或るクラブと契約を結び、かろうして生活はできたものの、幼い娘を家に残したままではクラブでの演奏を続けることはできない。
秋吉は「娘かジャズか」の決断を迫られ、結局はジャズを選んだ。
娘は別府の姉夫婦が育てることになり、娘と分かれる時、娘は何が起こるのかを悟ったらしく泣きじゃくったという。
その姿を生涯忘れることができない。
一方、かつての夫マリアーノ氏と同じバンド活動のメンバーだったとタバキン氏と再婚し、1973年にトシコ・タバキン・ビッグ・バンドを結成した。
それ以来、数多くの名曲と名演を残し、人気を不動のものとしていった。
ところで秋吉は、生まれ育った中国の黄砂の町をイメージに「ロング・イエロー・ロード」という曲を作曲した。
しかしこの曲には、日本人女性としてひとりアメリカで生きたその思いが込められているという。
秋吉はすべてのコンサートの冒頭で、この「ロング・イエロー・ロード」を演奏する。
さてジャス・ミュージシャンとしての生活が安定すると、日本に預けた娘をアメリカに呼び寄せるが、娘からすれば母親に一度は「捨てられた」という意識があり、ぬぐい去ることのできない寂しさを負っていた。
母親にとっても消しがたい過去になったが、一方で秋吉は、日本的な音楽とジャズ演奏とを融合した独自の音楽を生み出すなどの挑戦をして、世界的ジャズピアニストとして評価されるようになる。
1999年アメリカジャズの殿堂入り、2007年には日本人でただ一人、ジャズメンとしての最高賞「ジャズマスター賞」を受賞している。
先日のTV「ソロモン流」では今年84歳を迎えた秋吉の新たな挑戦を紹介していた。
秋吉は、アメリカ人の音楽家ガーシュインの最高傑作オペラ「ポーギーとベス」を秋吉流のジャズ風にアレンジするものであった。
3時間もの大作であるこのオペラは、足の不自由な小柄の青年ポーギーと、乱暴な大男の娼婦ベスとの悲しいラブストーリーである。
耳の肥えた人の集まるジャズ・クラブでの演奏を前に、秋吉の緊張する姿が映されたが、「自業自得」と自ら言い聞かせている姿が印象的だった。
ところで、秋吉と最初の夫マリーノ氏との間にできた娘も両親の血筋に抗えず、8歳でモダン・ダンスとバレエ、11歳でフルートを始めた。
そして「マンデイ満ちる」の名前で芸能活動を始めた。
1987年、映画「光る女」に出演のために来日し、第11回日本アカデミー賞新人俳優賞ほかにも二つの賞を受賞している。
それ以後「秋吉満ちる」の名で映画、テレビ、CM、DJなどで活動している。
また、アニメビデオ「銀河英雄伝説」のオープニング・テーマの作詞・作曲をして、音楽的才能の高さを示している。
ところで秋吉敏子が渡米した時代には、敗戦国である日本への風当たりは強く、また日本人女性が異国でひとりジャズの世界で身を立てるということは、単純に「パイオニア」という言葉では表現できないものがあったに違いない。
しかし、秋吉自身は「好きなことをやってきたのだから」とサラリと応えて、その苦闘を周囲に語ることはないという。
さて秋吉は、能を世界を取り入れたジャズ音楽を創作したが、そのタイトルは「孤軍」。
このタイトルほど秋吉 の人生に相応しいものはないかもしれない。

最近、あるテレビ番組で「ウガンダの父」と呼ばれる日本人について知った。
東アフリカの元・独裁国家ウガンダ共和国にナゼ一人の日本人が住み、その人物がどうして「父」と呼ばれるに至ったのか。
その生涯もまた「孤軍の人」とってよいだろう。
「ウガンダの父」と呼ばれる柏田雄一氏は現在「フェニックス社」というシャツメーカーの社長である。
国内でウガンダ人に向けたシャツなどを製造・販売している。
柏田氏は1958年に大阪の衣料会社ヤマトシャツに就職した。ちょうど前述の秋吉敏子がアメリカに渡った頃である。
当時、品質の良いヤマトのワイシャツがウガンダ共和国で大人気になり、現地にシャツ工場を作ることになった。
そこで白羽の矢が立ったのが柏田氏で、その理由は彼が外語大出身だったから。
こうして柏田氏は家族を連れ未知なる秘境ウガンダへやってきた。
そこで雇用したのは現地のウガンダ人125名、彼らのほとんどが貧困に沈み込んでいた。
ところが工場が出来たことで従業員の生活は飛躍的に向上した。
柏田氏の工場で賃金を得たウガンダ人は家族を貧しさから救う事ができたのである。
柏田氏はやりがいのある仕事に満足していたが、ウガンダに来てから2年後クーデターが勃発。
それは初代大統領ムテサ2世を打倒すべく起こった反乱で、標的となったのはムテサ2世の出身である国内最大部族ガンダ族だった。
反乱軍は彼らの排斥運動を始め、ムテサ2世と同じ部族の出身という理由だけで、何の罪もない人々が次々と命を落としていった。
その運動は柏田氏の工場をも襲い、柏田氏はガンダ族の従業員人達を匿った。
すると、そこへ殺戮を行ったばかりの反乱軍の兵士がやってきた。
対応した柏田氏に対して、ガンダ族の従業員を差し出さなければ撃つと言う。
柏田氏は、彼らはここでヨウヤク生活をできるようになったのだから、彼らを引き渡すわけにはいかないと応えた。
銃口は和田氏の頭部に当てられたが、次第にその力が緩んだように思えた。
ウガンダ人のために自らの命を差し出す外国人の姿を目の当たりにして、兵士は銃をおろし、そして「妹をここで雇ってくれないか」と言った。
兵士の妹も多くのウガンダ人と同じように安定した職に就けず貧困に喘いでいたにちがいない。
彼は貧しい人々を救う柏田氏の姿に心打たれ銃を下ろし、そのまま立ち去って行った。
そして、この柏田氏の行動がウガンダ人の心をうち、従業員との間に深い絆が生まれた。
そしてヤマトシャツは政府からウガンダで初となる学校制服の製作を受注し、工場は大きくなり12年間に従業員は約8倍の1000人になった。
しかしまたもや戦争が勃発した。1978年にウガンダ・タンザニア戦争が起こりウガンダの首都は壊滅状態となった。
身の危険を感じた柏田氏は家族に日本に帰国させ、本人も隣国のケニアに避難させられた。
そして暴動によりヤマトシャツの工場は工場は略奪の限りをつくされ破壊された。
そんな中、柏田氏は自力でウガンダへ向かい、すっかり無残な姿になってしまった工場を確認し、全身から力が抜け、茫然自失になった。
ただ柏田氏の自宅は奇跡的に暴徒から守られていた。
住民たちが、柏田氏の自宅を力を合わせて守ったのだという。
そのことに感銘をうけた柏田氏はウガンダに留まることを決意して、約2年をかけて工場を再建した。
ところが或る時、政府の要人にシャツを届けに行くと「お前はこの国で金を儲けさせてもらっているのだろう。金がないからお前が金を出せ」と理不尽な要求をだしてきた。
柏田氏がそれを断ると後日、国会で「柏田はウガンダ政府に反抗した。奴は殺すべきだ」と糾弾してきた。
柏田氏は、こんなにも腐った人間もウガンダにいることを思い知らされたが、それよりウガンダにこれ以上留まる猶予さえもないことを悟った。
この事態を知ったヤマトシャツはウガンダからの撤退を決意し、柏田氏は1984年、志半ばでやむなく日本へ帰国することになった。
日本に帰国した柏田氏はウガンダでの功績が認められヤマトシャツの副社長に就任した。
それから15年の月日が流れ、もう二度とウガンダに行くことはないと思っていた柏田氏だったが、1999年、突然にウガンダ大統領ムセベニによって再びウガンダに呼び出された。
それはウガンダのシャツ工場を再建して欲しいという要請であった。
実は柏田氏がウガンダを去った後、ヤマトの工場は国有化されたが怠慢な経営により経営が悪化し工場は閉鎖されていたのだ。
ムセベニ大統領はウガンダの経済を立て直してほしいと柏田氏に直訴したのである。
しかし柏田氏はヤマトシャツの副社長であり、勝手にウガンダへ行くことなどできない立場にあった。
柏田氏はその要請を固く断ったが、するとムセベニ大統領は「I beg you」と何度も言って頭を深々と下げた。
柏田氏は、そこまでする一国の大統領の願いを断ることはできずに、再びウガンダの人々とその未来のため働く決意をした。
つまり「副社長」の地位を捨てヤマトシャツを退職したのである。
そして69歳の時、再びウガンダへと渡り、「フェニックス社」を設立した。
ウガンダの人々は、ウガンダ発展のために人生を捧げてきた柏田氏のことを、いつしか「ウガンダの父」と呼ぶようになった。

「世界を変えた男」(原題:「42」)は、2013年制作のアメリカ合衆国の映画で、最近この映画を「試写会」で見る幸運にめぐりあった。
この映画は見た人々の中には、映画「ザ・ダイバー」(2000年)を思い出した人もいるに違いない。
「ザ・ダイバー」は、アメリカ海軍史上、黒人として初めて「マスターダイバー」の称号を得た潜水士の物語で、実在の人物「カール・ブラシア」の半生を周囲の人物との友情とともに描いたものである。
いずれも白人のオンリーの世界に、最初の黒人の「風穴」を開けた苦闘が描かれいていた。
彼らは「パイオニア」であっただけに、並々ならぬ差別の壁を超えなければならなかった。
「世界を変えた男」は、アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンを描いた作品である。
アメリカとカナダでは公開から初登場1位となり野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てたという。
1947年、ブルックリン・ドジャース(ロサンゼルス・ドジャースの前身)のゼネラルマネージャー・ブランチ・リッキーは、ニグロリーグでプレーしていたアフリカ系アメリカ人のジャッキー・ロビンソンを見出し、彼をチームに迎え入れる事を決める。
リッキーは、多くの黒人には野球ファンが多く、批判攻撃されてもかまわないとロビンソンを迎え入れる。
そしてロビンソンに野球のプレイを磨くことよりも、予想される差別に耐え抜くことが条件であることを伝える。
それはどんな不条理な差別であったも、もしもロビンソンがそれを反撃するようなことがあれば、黒人に野球プレーヤーの道は開けないという厳しい要求でもあった。
当時アメリカで起きていた人種差別の壁は高く、当時のMLBは白人選手のみのリーグとして存在し、黒人選手はニグロリーグでプレーすることしか許されない暗黒の時代だった。
それでもジャッキーは類まれな野球センスで、28歳のときにドジャーズに昇格したが、メジャーリーグは白人だけのものだったことから、彼の入団は球団内外に予想された異常の大きな波紋を巻き起こすことになる。
ロビンソンは他球団はもとより、味方であるはずのチームメイトやファンからも差別を受け孤独な闘いを強いられる。
球団の移動も別行動、食事もシャワーの使用も別行動、そして球場で浴びせかけられる野次は耐え難いものであった。
ビーンボールを受けたり露骨な敵意のこもったスライディングを受けたり、ひどい野次を受けたり、脅迫状を受けたり。
さらには「黒人お断り」のホテルが並ぶ中、彼はチームと別に一人で宿探しをするなど。
結局、ロビンソンはそうした差別を、観客を魅了するプレーで打ち消してていく以外に、生きていく道はなかった。
控え室でバットを叩き割るようなこともたびたびであったが、リッキーとの約束どうりあらゆる中傷に対して反撃しない「自制心」を貫き通す。
それが、後続の黒人がプロスポーツへの扉を開く道であったからだ。
そして、そんなロビンソンのプレーに、批判ばかりしていたチームメイトやファンたちの心は、やがてひとつになっていく。
そして、そのプレーは黒人ばかりではなく白人をも魅了していく。
そしてジャッキー・ロビンソンは、ナショナルリーグMVP1回/ 新人王/ 首位打者1回/ 盗塁王2回/MLBオールスターゲーム選出6回/など「黒人プレイヤー」のパイオニアとして、アマリある成績を残している。
しかし、球団の白人ジェネラル・マネージャーであるリッキーは、自らも「攻撃の矢面」に立ってまで、どうして黒人に門戸を開けようとしたのだろうか。
ロビンソンが或る時ソレを問い詰めると、リッキーはその秘められた「過去」を語った。
ちなみにリッキーを演じたハリソン・フォードは本作の脚本に魅了され、リッキー役を是非とも演じたいと、本物のリッキーに見た目を見せるため、自ら特殊メイクを願い出ている。
そしてロビンソンの「孤軍」の戦いは次第にチームメイトの共感をよび、球場内の殺気だった差別的雰囲気の中にあって、ロビンソンへの野次に反撃する者や、あえてロビンソンの肩を抱いて、自分の気持ちを観客に表明する選手も現れていった。
ところでオバマ大統領は、最近の演説でメジャーリーグでの人種の壁を破ったロビンソン選手に大いに影響を受けたことを明かしている。
ちなみに、原題のタイトルの「42」はロビンソンが付けていた背番号である。
現在アメリカの全ての野球チーム、すなわちメジャーはもとより、マイナーリーグ、独立リーグ、アマチュア野球に至るまで「永久欠番」となっている。