民主主義の果実

カナダのバンクーバーの高級スーパーでは、とんでもなく高価なスイカが売れている。
スイカ1個200カナダドル(約19000円)で販売した。
このスイカは、普通のスイカとは違うことはひと目でわかる。
なにしろこのスイカは四角いカタチをしているので、このスイカが売れるのは、「物珍しさ」が大きな要因であるのは確かである。
この高級スーパーがバンクーバーの店舗に四角いスイカを輸入したのは10年ほど前のことで、当時の価格は99ドルだったが、いまは約200ドルになっている。
実は、この四角いスイカは日本で育てられた。
香川県善通寺市で栽培されており、栽培技術は特許になっている。
遺伝子組み換えではなく、強化プラスチックの箱に入れられ、1日に数回チェックするのだという。
丸いかたちのスイカと比べて、積み上げやすく保存しやすいのも利点のようだ。
ただし、基本的にはディスプレイ用で、熟す前に収穫されるので、食用には向かないものだそうだ。
しかし、日本では「おいしい四角」をつくるための試行錯誤がなされている。
開花の約2週間後に木製容器にいれ、容器の大きさを1辺20センチとすることで、黄帯の消失が早まり果実の着色不良が解消され、通常のスイカと大差なく、オイシク食べられるという。
しかし、栽培に手がかかるため、日本でも毎年数百個しかつくられないという。
2014年には6軒の農家が450個を出荷する見込みで、カナダには114個が輸出される。
最近TVで、福岡県宗像の直売所で売られた「果肉が黄色いスイカ」が紹介されていた。
黄色いスイカは、色の違いだけではなく、味や食感も赤いスイカとは異なり、気品がある味と香りがある。
さらに、アミノ酸の一種「シトルリン」の作用により、むくみの改善や利尿効果が期待でき、夏バテや腎臓病の予防に効果がある。
通常、赤いスイカは収穫後にJAの共選所というところに運ばれ、JAの技術員の検査やセンサーによる空洞のチェックなどが行われる。
そのうえで「格付け」され、箱に詰められて全国に出荷される。
しかし、クリーム・スイカは生産量などの問題からそうはいかず、「個選」といって、各農家が個別に選別を行う。
畑から持ち帰ったスイカの外見と、手で叩いた音でスイカの出来を判断する。
音から中身を判断するまでになるには、経験が大きくものをいう。
この世の自然に存在しないものを生み出そうという飽くなき「挑戦」の話は、「四角いスイカ」や「黄色いスイカ」ばかりではない。
かつて小椋桂は、「真綿色したシクラメンほどスガシイものはない」と大嘘の作詞をしたことがある。
布施明の大ヒット曲「シクラメンのかおり」である。
「大嘘」とは、シクラメンは赤色しかなく真綿色のシクラメンなどあるハズがない。
ついでにいえばシクラメンの球根は豚のエサとなるもので、和名で「豚の饅頭」という名前がついて、見た目とはウラハラに、実情はスガシイと言える花ではない。
しかし、嘘が真になってしまうのが、この世の中の面白さであり、または恐ろしさでもある。
この歌のヒットを機に、なんとか「白いシクラメン」をつくろうという努力をした人がいて、今や実在する花になってしまった。
歌に登場する果実または花の中で、一度を見てみたいのが「黄色いさくらんぼ」や「青いバラ」(ブルー・ローズ)である。
1960年代初めに流行った歌謡曲に「黄色いサクランボ」があったが、歌詞が「若い娘が、うっふん」で始まり「ありそうで うっふん なさそで うっふん」と続く。
「黄色いサクランボ」が赤く色づく前のサクランボという意味でいうとすれば、それは確かに実在するものだ。
一方、「青いバラ」というのは存在しないものだった。バラには一般の青い花に含まれる青色色素を作る能力がないため、”Blue Rose”とは、「不可能」の代名詞だった。
つまり「青いバラ」も、「青色ダイオード」と同じくらい実現が難しかったが、それがいまや実在するようになった。
サントリーは、バイオテクノロジーを用いて「青いバラ」に挑戦し、14年の年月をかけて2004年にようやく開発に成功した。
そしてブルーローズの花言葉は、「夢 かなう」となっている。

次に紹介するのは、「夢かなって」実在のものとなった果物の話である。
メロンといえば、果物屋さんの一番高い棚においてあった気がする。子供心にあのメロンを思いっきり食べる夢さえみたくらいだった。
メロンは、太古の昔、西アフリカをれる大河、ニジェール川この川のほとりで生まれた。
その芳醇な甘さは食する人を虜にし、時を経て、地中海を渡りヨーロッパに伝播すると、支配階級の間で絶大な人気を誇る嗜好品となった。
16世紀、世界を制したスペインの王カルロス1世も、その美味に魅せられた一人で「メロン王」というニックネームがついた。
日本でも、古くは弥生時代から栽培されていたといわれ、万葉の時代には広く日本中で食べられていたらしい。
「高級メロン」の代名詞マスクメロンが日本で初めて栽培されたのは、明治時代に入ってからのことである。一説によれば、栽培を命じたのは時の宰相・大隈重信だったという。
そして今や「赤いダイヤ」と呼ばれる最高級メロンが、夕張メロンである。
表面を覆う美しく精緻なネット、そして香り高く甘い果肉は、見た目にも鮮やかで美しい。
そして品種名「夕張キング」の種は、北海道夕張市の農協の耐火金庫に大切に保管されている。
この品種が「赤いダイヤ」とよばれたのは、同じ夕張の主産品であった石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれたのに対してつけられたものである。
しかし、その誕生の裏には、地域の生き残りをかけた農家の壮絶な戦いがあった。
1950年、夕張は燃えていた。朝鮮戦争の特需をうけ、第2次石炭ブームに沸いていた。
人口10万人、町には人があふれ、豊かな町の中心部は、夜でも明かりが消えることはなかった。
一方、中心街から10キロ離れた沼ノ沢地区の農家は貧しさの極致にあった。
周囲を夕張山系に囲まれた盆地で、寒暖の差が激しい。
やせた火山灰の土であったため、穫れる作物といえば長イモとアスパラとわずかな夏野菜だけだった。
このままでは夕張の農家は全滅するという危機感の中、農業改良普及員のひとりの男が「メロンはどうか」と提案した。
夕張でわずかに生産されていたスパイシー・カンタローブは香りがよく、赤肉が特徴のメロンだった。甘みがなく砂糖をかけて食べなければならない代物だったが、これを改良して新たな品種を作れないかというアイデアだった。
そして1960年、17戸の農家が立ち上がった。
開拓者の2代目や3代目の若者達は、「交配」するための種子を求めて全国を飛び回った。
他のメロン産地の農家に土下座して、やっと手に入れた別品種と交配することができた。
しかし、季節はずれの大雪に、突風がビニルハウスを壊し、栽培は困難を極めた。
温度管理を間違うと、たちまちにして枯れたため、農家はハウスに寝泊まりし、苗を見守り続ける他はなかった。
そして1970年、育て上げたメロンを東京市場に出荷するところにまでこぎつけた。
しかし、市場関係者の中には「こんなカボチャメロンは売れない」と否定的なものもいた。
さらに難題はメロンは日持ちせず、東京に着いたコンテナから出された時にはすでに腐っていた。
トラックに鉄道、空輸とあらゆる輸送作戦を試み、1979年にようやく「産地直送システム」を確立した。
地道で這うような「交配品種」の探しから、繊細で微妙なメロン栽培の難しさ、そして輸送法の確立まで、幾多の困難を乗り越えて「夕張のメロン」は全国区の最高級果物としてそのブランドを確立することができたのである。
青森の「奇跡」といわれたリンゴを育てた人は、木村秋則氏である。
木村氏が岩木山で突然にヒラメイタ事とは、リンゴを無農薬で育てるにはまず「土を育てる」ということであった。
それも、「土の表面」ではなく、「土の中」を育てるということだった。
木村氏の挑戦の最初の7年間は、害虫との闘いといって過言ではなかった。「無農薬」のリンゴの木は、葉は出てくるものの、花は咲かず、毎日毎日「害虫取り」をしても追いつかなかった。
逆説的にいうと、木村氏ほど「農薬」のアリガタミを味あわせられた人はいなかったかもしれない。
その間木村氏は、収入のない生活が続いた。
そのうち家を二度も追い出されて、世間からも「変人」あつかいをされた。
そして木村氏の話し相手は、ついにリンゴしかいなくなっていた。
実をつけぬリンゴの木1本1本に「ごめんなさい」と声をかけて回り、周囲からは「気が狂った」と思われたこともあった。
戦後の大ヒット曲「リンゴの唄」に「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる」という詞があるが、木村氏の心は本当に リンゴに通じたのかもしれない。ついに、転機が訪れたからだ。
それは、木村氏が絶望に打ちヒシガレ岩木山に登って、弘前の夜景を眺めつつ佇んでいた時に起きた。
下を向くと、足元の草木等が小さな「りんごの木」に見えてきた。
しゃがんで土をスクッテみると、畑の草はすっと抜けてしまうのに、何もしていないのに根っこが張っていて抜けなかった。
またソノ土のニオイは畑の「匂い」と全然違っていた。
木村氏はこの時、土の「粘り」(根張り)こそが重要だと気づき、大切なのは「土の表面」ではなく「土の中だ」と思い至った。
そして、木村氏には大豆の根粒菌の作用による粘り強い土を作るための知識があり、挑戦6年目にして、大豆を土のバラ撒いた。
そうすると、年を追うごとの改善が見られ、落葉が少なくなり、花が咲くようになった。
そして、8年目になって小さなリンゴが実り始めた。
そして翌年、ついの畑一面にりんごの白い花が咲き乱れた。
木村氏は、その風景を見た時に足がスクンデ身動きできなくなり、涙が止まらなくなったという。

ところで、福岡県田主丸町の巨峰も、青森の無農薬リンゴ同様に「土をが育つ」ことによって誕生したが、それは意外にも「アメリカの民主主義」と結びついて生まれたものだった。
現在、世界の葡萄の品種は2000を超えるが、戦前の日本で目にすることができたのは甲州葡萄を含め、わずか3種類しかなかった。
静岡の中伊豆町で「栄養周期説」を提唱していた大井上康博士の苦労に苦労を重ねた品種交配により1940年に「巨峰」が誕生した。
しかし、在野の学者であったがゆえにその説は日の目を見ることはなく、戦中の「果樹亡国論」などもあって全国的に巨峰の栽培例はなかった。
終戦間もない1946年のある日のこと、福岡県の田主丸町にひとりのアメリカ人がやってきた。
彼の名はジエームス・ヘスターで、久留米にあった駐留米軍の教育課長として働いていた。
このアメリカ青年は、田主丸の村人たちに「民主主義とはなにか」を流暢な日本語でわかりやすく語った。
その晩、ヘスター氏の宿となったのは老舗の「造り酒屋」若竹屋酒造であった。
若竹屋の十二代目、林田博行氏はスキヤキをつつき、酒を飲みかわしながらヘスター氏と夜遅くまでこれからの町づくりについて語り合った。
林田氏が、なぜアメリカ人はそんなに体が大きいのかと尋ねると、ヘスター氏はミルクや肉など良質なタンパク質をいっぱいとっているからだと答えた。
そしてヘスター氏は、将来を担うこどもたちの身体をつくることが大切で、乳牛がこれからの地域振興につながるので、できるだけ牛を集め立派なこどもたちを育てなさいと提案した。
林田氏が、こんな田舎でも牛を手に入れることができるかと問うと、ヘスター氏は北海道にに多くの牛がいるので、我々も最大の援助をしようと米軍の協力を約束した。
こうして3年間で200頭もの乳牛が田主丸へとやってきた。
しかし牧草の不足から田主丸の酪農は8年で行き詰まってしまう。
実は、この8年間がとても大きな意味をもつのだが、多くの酪農家は再び田畑へ戻り、新たな農業の指針を建て直そうと模索した。
そして、田主丸の農民達の失敗が思わぬ「副産物」を生むことになった。
田主丸の再生のためには、農民もこれからは勉強しなければと、研究者をよんで新しい技術を身につけようとした。
そして越智通重という研究者と出会うことになる。
越智氏は、品種交配により新しい葡萄品種「巨峰」を生み出した前述の大井上康博士の一番弟子だったのである。
そして47人の農家が出し合った開設資金をもとに、越智先生を招いて「九州理農研究所」を設立した。
田主丸の農民がつくりあげた九州理農研究所は、全国でも例のない農民による農民のための研究所であった。
彼らを中心に、より高品質な巨峰の栽培を追及する「果実文化」という機関紙も発行されていた。
越智氏が師匠の大井上博士から受け継いだ「栄養周期説」とは、あらゆる植物は発芽から枯れるまで同じ育ち方をするのではないので、その段階に応じた手入れや施肥をするというものだった。
農民たちは毎日のように研究所に通い、議論し、時に越智が愛する酒を酌み交わしながら、巨峰栽培の情熱を語り合っていた。
越智氏は彼らと研究をすすめるにつれ、大井上博士の遺志「巨峰」をこの地で花開かせることができるかもしれないと考るようになった。
この土地が山砂まじりの排水性の高い土であるうえ、不思議と十分に肥えた地力を備えていたからである。
実はその土には、アメリカの「民主主義」を説いた教育課長ヘスター氏との出会いで導入された牛達の糞が染み込んだものだったのである。
その後、越智氏生が持ち込んだ葡萄の苗木は、悲願の大粒の実をつけることに成功した。
そして田主丸は、全国初の「観光果樹園(果物狩り)」という商法を編み出し、「巨峰ワイン」を生むなどして「巨峰のふるさと」として知られている。
実は、ヘスター氏との出会いから53年後の1999年は「巨峰開植40周年」であるが、田主丸の農民達はヘスター氏の消息をたどった。
すると驚くべきことがわかった。
ヘスター氏は、田主丸を訪れた翌年に帰国し、その後再釆日して1975年には東京青山の「国連大学」の初代総長として、その創設に関わっていたのである。
さらには、グツゲンハイム財団のトップとして、アメリカ教育界の重鎮であることも判明した。
農民達が手紙を出すと、若竹屋酒造の十二代目の林田氏のもとにヘスター氏からの返事が届いた。
そこには、田主丸の産業へ思わぬ寄与ができたことへの驚きと喜び、そしてできるならば田主丸を訪れてみたいとの一文が記されていた。
林田氏は、ヘスター氏が日本に来ることになったら、またスキヤキを一緒に食いたいと返事を書いた。もちろん巨峰ワインとともにである。
そうして、その年の秋の「巨峰ぶどうとワイン祭り」で林田氏とヘスター氏の二人は再会した。
アメリカ民主主義が田主丸に放牧を引き寄せ、放牧は失敗に終わったものの、それが巨峰つくりに相応しい土に変えていたという驚くべき展開である。
その意味で、巨峰は「民主主義の果実」といえるかもしれない。
福岡県田主丸の巨峰畑の一角には、この町に巨峰を最初に実らせた「越智先生感謝の石碑」がある。