「日本式」の輸出

江戸時代の「からくり人形」をたかだか「殿様の玩具」と軽くみてはならない。
日本人のものづくりの「傑作」というばかりではなく、「原点」のように思えて仕方がない。
福岡県久留米で「からくり人形」を生んだ田中久重は、特別な「原理」を発見して応用したのではなく、ひとつひとつ工夫に工夫を重ねたうえで作ったのだ。
この人形の製作を、現代の「匠」と工学士が組んで挑戦しても、そう簡単にできるシロモノではない。
この「からくり」はとても複雑な連立方程式を基に動いているかのようで、果たしてその動作の「解」または「謎」は解けているのだろうかという気サエしている。
この田中久重が1875年に東京新橋につくった電信機の工場「田中製造所」がマツダランプの白熱舎を前身とする「東京電気」と合併して「東京芝浦電気」となり、1884年「東芝」と社名を短縮した。
ちなみに、福島第一原子力発電所で稼動する原子炉が、この「東芝」製である。
さて今年、貿易収支が大幅な赤字(106兆円)を計上するが、貿易収支は国のモノづくりの実力を反映する面が大きいので気になるところである。
もちろん円安による輸入品の値上がりも「貿易赤字」の原因のひとつだが、一番問題なのは「円安でも輸出が伸びていない」ということである。
1980年代には円高でも輸出が伸びたのに、円安でも輸出が伸びないのなら、もはや「貿易立国・日本」の看板は揺らいでいるといわざるをえない。
実は、1980年代より日本の「主要輸出品目」は自動車・エレクトロニクス・鉄鋼と基本的に変わっておらず、それらの世界シェアは新興工業国に喰われて伸びてはいないのである。
そしてテレビやスマートフォンでは新興国に圧倒されて大幅な赤字である。
それでは「貿易赤字」は本当に悪いことなのか。
ただし日本が置かれている状況は1980年代とは様々な点で様相が異なり、「貿易赤字」ノミに一喜一憂するのはオカシイという意見もある。
今日では「自由貿易」が国富を拡大するという理屈が通用しない。
自由貿易の根拠は「比較優位の理論」は、自国であらゆる産業を展開するより、相対的に有利な分野に特化して分業し、生産物を輸出・輸入するほうが互いに多くの利益を得られるというものである。
しかしグローバル経済の下で、この理論の前提条件が成り立たないからである。
その「前提」とは「資本、労働力、技術などは国家間を自由に移動しない」というものである。
グローバル経済の下で、資本も技術も労働も国家間を簡単に移動するので、産業が国ごとに「特化」しないことになる。
そしてどの国も同じような産業構造を作り出せるということだ。
また貿易で国が潤うということはいえなくなっている。
貿易で儲かるのはまずは特定の企業だし、その企業も「無国籍化」しているのだ。
ソコデもうひとつの指標に、貿易収支と所得収支、サービス収支を合わせた「経常収支」がある。
貿易赤字は大幅な赤字となったが、「経常収支」はカロウジテ黒字(3,3兆円)となっている。
経常収支が黒字になったのは、日本企業の海外子会社での儲けから海外企業の日本の儲けなどを引いた「所得収支」が15、8パーセント増えて過去最大の16、5兆円の黒字となったからである。
ということは、海外で活躍する日本企業の儲けをいれたらドウニカ黒字だといえる。
ただしその経常収支の黒字も、ピークだった07年の24、9兆円の7分の1に縮小した。
戦後、経常収支赤字になった最後の年が第二次石油ショック後の1980年であったが、ソコカラ高い技術力を生かして、輸出と企業の海外投資で稼いできた。
しかし、状況が変わったのはリーマンショック(2008年)だった。
新興国との輸出競争の激化に加えて、世界的な不況で輸出にブレーキがかったからである。
最近の日本の経常収支の状況は、貿易赤字を所得収支でカバーしてきたが、貿易赤字がアマリニ大きく所得収支でカバーしきれなくなっているということだ。
日本の企業は長く円高で工場を海外つくってソレを輸入するという「円高シフト」の下で経営を行ってきた。
それゆえに「輸入」が増えるのは当然で、円安だからといってすぐに工場を国内に戻すわけにはいかないという事情もある。
しかし世界に目をヤルと、経常収支が赤字でも人々が比較的豊に生きている国もある。
アメリカやイギリスのように、国内の消費や投資などの内需が大きく、輸入が多いために経常赤字となっている国である。
これから日本はどういう方向にむかうのか、モノ作りから撤退してサービスや金融に生きるということもある。
また、いっそ海外に生産拠点を移して配当や利子をうけとって生活するか、規制緩和によって海外資本を呼び込み成長を続けるかなど様々な生き方が考えられる。
しかし個人的な意見をいえば、日本人が世界のモノづくりから後退していくのは、歌うのを忘れたカナリアの気さえする。
つまりはモノつくりの喪失は、日本人のアイデンティテイに関わるということだ。
ヤハリ新興国の追い上げに対抗できる「高付加価値」つくる。たとえば例えば、三菱重工の小型ジェット機の生産や、日本人しか作れない「農作物」を輸出していくことなどである。
タダ日本の場合に「経常収支赤字への転落」が恐いのは、日本が抱える「特殊事情」によるといってもよい。
1980年以来経験したことのない「経常収支の赤字」は「財政問題」へと飛び火する可能性があるということだ。
これまで借金のために発行する国債を、輸出などで稼いだオカネで買い支える構図だったからである。
経常収支が赤字になれば、「外国人」に国債を買ってもらうようになり、イザというときに売られて国債価格が暴落するリスクが大きくなる。
そうなると、アベノミクスで日銀が買い込んだ国債は大幅に価値を落とすことになるし、ソレ以前に「高金利」は日本経済を一気に締め付けるだろう。

今年のソチ・冬季オリンピックでは、お家芸であるスピード・スケートでメダルを取れなかったが、今までにない分野でメダルを取れた点で、総メダル数が長野オリンピックに迫った。
「黒字」が稼げる分野を広げることだが、それは新分野にバカリを目を向けるのではなく、それは意外にも身近な足元にこ転がっているのかもしれないということだ。
ソレ示す一つの実例が「シェル石油」を創設したユダヤ人のサクセス・ストーリーである。
1872年のある日、18歳のマーカス・サミュエルという少年が横浜港に降り立った。
両親は、ロンドンで車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立ていた。
11人の子供のうち10番目の息で、高校を卒業した時、父親は極東へ行く船の三等船室の片道切符を1枚、「お祝い」として贈った。
懐に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円である。
日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。
彼は湘南の海岸に行き、ツブレそうな「無人小屋」にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。
そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。
よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。
手に取ってみるとその貝は大変美しかった。
彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。
そこで彼は、自分でもセッセと貝を拾い始め、その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は「手押し車」に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。
やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。
そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、ドンドン発展していった。
というわけで、マーカス・サミュエルは日本の貝殻をボタンや小物玩具に加工してイギリスへ輸出して成功し、多くの富を得ることができたのである。
その後、サミュエルはこの石油の採掘に目をつけた。
石油についての知識はなかったが、人に色々相談して、インドネシアなら石油が出るのではないかと考え。
そして、幸運にも石油を掘り当てることができた。
そして彼は、「ライジング・サン石油株式会社」という会社をつくって、日本に石油を売り込み始めた。
そこでサミュエルは「造船」の専門家を招いて、世界で初めての「タンカー船」をデザインした。
そして彼は世界初の「タンカー王」となり、自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけたのである。
これにつき、彼自身次のように書き残している。
「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」。
ところが、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対する反発が強まっていき、この会社を売らなければならなくなった。
というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊にサミュエルが石油を供給していたからである。
サミュエルは、会社を売らなければならなくなった時、いくつかの条件を出した。
その1つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること、第二に、この会社が続く限り、貝を「商標」とすることであった。
1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、本社を横浜の元町に置いた。
彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。
今日、日本の津々浦々でもよく見られる貝のマークの「シェル石油」である。

日本人とっての「あたりまえ」のなかで、海外展開すれば大きな価値を生み出す可能性があるものがある。
例えば、各地にある派出所、宅配やコンビニ、健診車、学習塾など、モノとサービスを「パッケージ」したものを売り込むことなどである。
それはとりもなおさず「日本式」を売りこむことだ。
「そろばん」や「カラオケ」や「回転寿司」は、そうした嚆矢だったといえるかもしれない。
最近みた「NHKスペシャル~日本式生活習慣を売れ~」では、健康や食事など、質の高い日本の「生活習慣」を新興国に売り込む動きが加速しているとことを伝えていた。
たとえば、スーパー銭湯が中国で人気となっている。
中国の家庭ではシャワーだけの浴室が一般的で、入浴施設も多くは水質や衛生面に問題がある。
そこで、日本から進出したスーパー銭湯のきれいなお湯の湯船にゆったりつかれるため人気になっている。日本円にして大人2000円と少々高額にも関わらず、家族連れで楽しめるレジャー施設が少ないためか、上海のレジャー施設の中でナンバー1の評判を得ているという。
チベットではもともと医療機関が少なく、日本の病院が設計・開発した特別な「健診車」が活躍している。
健診車はバス車両の中に身長・体重に始まり、視力や聴力、そして心電図やエコーまで数多くの検査を効率よく受けられるよう日本製の検査機器を「装備」したものである。
時に、首都ラサから300キロ離れた中学校の先生の健診をするために出動したりしている。
運営しているのはチベットの中心地ラサの病院だが、日本の病院がパートナーとなって、送られて来たデータの分析・診断し、健康指導まで行っているという。
ベトナムでは、給食サービスで「食中毒」がたびたび発生し、調理現場の「衛生管理」が問題となっている。
そんなベトナムで、日本の大手給食サービス会社が、この日系企業の社員食堂の運営を受託している。
新たなメニューをふやし栄養のバランスも抜群で、味もさることながらソレ以上に高い評価を受けているのが、日本式の厳しい「衛生管理」である。
またベトナムでは、小学生の間でも「肥満「が増え社会化している。
日本の「味の素」は、進出して20年以上になるが日本の「食育」を参考にした栄養バランスに配慮した「給食メニュー」のレシピを作った。
そして、ホーチミン市内すべての公立小学校に無償で配布し、子どものころから食習慣を改善する取り組みに一役かっている。
そのレシピにウマ味調味料やマヨネーズを使い、小さい頃から「味の素」製品の味に慣れ親しんでもらうというネライもある。
また、インフラの面でも日本人が重視してきた「安全」「清潔」「快適」を実現するシステムを輸出しようという動きが加速している。
新興国では人口増加を受けて地下鉄などの整備が急がれている。
ベトナム・ハノイ市で2015年にも開業する都市鉄道で、運営や維持管理を支援してほしいという要望があった。
鉄道が整備されていないベトナムのような新興国は鉄道の運行会社そのものが存在しない。
運賃や運行計画、保守、運転士の教育まで、日本の鉄道会社が当然のように担う業務を一から教え込んでいく必要がある。
また分刻みどころか秒キザミに近い列車運行の正確性には「スジ屋」といわれる人々の存在がある。
JRや東京メトロのように、複数の路線が乗り入れる首都圏をはじめとする広大な鉄道網、一括したシステムで管理できる運行ノウハウは、これから路線拡張が見込まれる新興国で真価を発揮することだろう。
インドネシアのスラバヤ市では、「タカクラ」と呼ばれる家庭の生ゴミを堆肥にする技術がある。
タカクラとは、北九州市内の企業の技術者、高倉弘二氏が開発した「高倉式コンポスト」をさしている。
高倉氏はスラバヤの家庭を一軒一軒訪ね歩き、コンポストの技術を助言して回った。
高倉氏の熱意は地元住民の絶大な信頼をつかみ、今では「高倉式」はスラバヤ市内の3万世帯に普及している。
その結果、スラバヤでは生ゴミの量が大幅に減るとともに、市民の環境意識も向上したと言われている。
また北九州市は13年前からスラバヤ市の職員を研修生として受け入れる人材交流を続けていている。
北九州市で研修を受けたスラバヤ市職員は21人にのぼり、このなかには、当時美化局長だった現在のスラバヤ市長も含まれているという。
こうしたことは、北九州市ならではの「強み」を生かしたからこそ実現できたといえる。
その1つは「官民連携」という強みで、かつて深刻だった公害を官民一体で克服した経験があり、行政と企業との距離が非常に「近い」ということである。
もう1つの強みは、30年以上にわたって環境面での国際協力を続けてきた実績で、公害を克服する過程で、市内企業には様々な環境技術やノウハウが生まれたという。
そして「健康問題」は自治体が入り口にあり、問題解決の努力を続けたために日本的生活インフラのノウハウは地方自治体に、コソ蓄積されているので、ソレを生かさぬテはないということだ。
こうした技術やノウハウを、これから同じような問題に直面することになる新興国や発展途上国に伝えようと、北九州市では30年以上前から企業が主体となって「官民連携」で海外から「研修生」を受け入れてきた。
受け入れた研修生の数は、世界150カ国から7000人以上にのぼる。
北九州市は今、スラバヤでゴミ処理だけでなく、省エネに水道事業、それに都市交通の4つの分野にわたる生活インフラの「パッケージ輸出」を進めようとしている。
北九州市が独自に開発した「高度浄水処理装置」は、ベトナム・ハイフォンに導入された。
「日本式」の安全・安心で快適な生活インフラを「街ごと」移転しようという「壮大な試み」ともみえる。
北九州の取り組みは日本の方向性に様々な教訓を与えてくれる。
第一に「負の遺産」コソがプラスに展開する可能性があるということがある。
日本人は、原爆、水俣病、サリン事件、津波原発事故など、世界に「先駆けて」取り組んだ。
日本人の伝統の上に、そうした取り組みのプロセスのなかで「安心 安全 快適 清潔」というジャパンブランドを確立したきたといえるのかもしれない。
日本という国は、「安全」や「安全」「信用」を提供できる国だからこそ、日本の製品を買おうとするし、日本に学ぼうということになる。
日本が受け入れた研修生が日本生活インフラの「伝道師」になっているのは、そういう思いからであろう。
そして、日本の「デジタルコンテンツ」の浸透も含めて、ジャパナイゼーションは想像以上に世界で進行しつつある。