政治家とスポーツ

個人的には「競馬」とは全くの無縁の人間である。まして競走馬を育てる世界は未知の領域である。
あえて競馬との接点をといえば、松本へ向かう中央高速道のバスの中で、松任谷由実の「中央フリーウェイ」にでてくる調布の競馬場が、歌詞どうりの場所に位置するかをシッカリ確認したことがあった。
それともうひとつ、白川道の小説「天国への階段」という小説で競走馬の世界を知った。
北海道で競馬用の馬を育てる場面や、北海道の草原と競馬のトラックの間に介在する様々な人間模様など未知の世界は新鮮であった。
とはいってもそこは人間の世界、そうそう美しものではなく馬主、馬喰(ばくろう)、調教師などを含むそれは、人間の慾や利権や金をめぐる思惑が渦まいている世界といってもよい。
テレビ化されたこの物語は、牧場を騙し取られ父親を自殺に追い込まれ、最愛の女性を失った男・柏木圭一がその復讐の為に実業家となり、26年をかけて資産家に復讐を仕掛けるというものであった。
たぶん作家の体験が織り込まれているのではないだろうか。
作家の白川道自身、バブル期の不正取引で告発され刑務所暮らしを経験している。
さて、福岡県久留米藩のお殿様の名は、競馬の世界で「有馬記念」として名をとどめている。
そしてこのお殿様、ソフトバンクとしばしばリーグ優勝を競うことになる「北海道日本ハムファイターズ」の設立にも関わっているのである。
久留米藩十二代・頼万(よりつむ)の子・有馬頼寧(よりやす)は、農民運動や水平社運動に理解を示した融和運動家として知られ、戦後は中央競馬会の理事を務めた。
競馬の有馬記念は有馬頼寧の功績を記念してできたものである。
伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれた有馬頼寧は、東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。
1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選し、1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となり、日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立にも関わっている。
終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪とされ釈放され、引退または隠遁生活を送ることになるハズであった。
実は、有馬の農林大臣時代の「秘書」であったのが、有力政治家となる河野一郎である。
有馬は河野をとてもかわいがり、河野は農林大臣になったときに恩返しに、有馬を「中央競馬会」の理事長に推薦した。
そして有馬は1955年に農林省に招請され、日本中央競馬会第二代理事長に就任したのである。
また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られている。
日本短波放送によるレースの実況放送や、競馬場に家族連れでこられるように、花壇や公園や託児所をつくったり、観覧席も随分きれいにした。
1956年にプロ野球のオールスターゲームを真似て人気投票で出走馬を選ぶ中央競馬のオールスター戦を発案し、競走名を「中山グランプリ」としした。
なお、中山グランプリは第1回を盛況に開催したものの、それから程なく1957年に有馬頼寧が急性肺炎にて逝去したため、第2回からは、交流の深かった河野一郎により、彼の功績を称え「有馬記念」と改称された。
「有馬」と「競馬」と名前上で繋がる偶然も面白いが、有馬が創立に関わった(現日本ハムファイターズ)が競走馬の産地北海道に本拠地を移転した偶然もまた面白い。
有馬頼寧は、スポーツに対する造詣が深く、職業野球球団「東京セネターズ」のオーナーを務めたが、ここの出身者が後に、現・北海道日本ハムファイターズの前身の創設に関わることになる。
後に有馬は、日本野球連盟、日本野球報国会等の相談役を歴任し、1969年には野球殿堂入りをしている。
ところで有馬頼寧の三男が、推理作家の有馬頼義(よりちか)で一時期社会派推理作家として松本清張と並び称された時期があった。
同盟通信社社会部記者などをしていたが、敗戦後、父・有馬頼寧が戦犯容疑者として財産差押えを受けると貧窮生活に転落し、カストリ雑誌の常連執筆者となる。
その後1954年には、「終身未決囚」により第31回直木賞受賞し、1959年には、「四万人の目撃者」で日本探偵作家クラブ賞受賞している。
1970年には、「早稲田文学」編集長に就任したが、1980年に脳溢血で死去した。
なお有馬頼義に師事し作家となった最近亡くなった早稲田出身の立松和平である。
さて久留米の殿様の息子が、有馬記念や現北海道日本ハムファイターズに設立に関わったとは意外だったが、久留米から西鉄電車の急行で次の駅の柳川の「お姫様」はテニスとの関わりが深い。
柳川といえば名門・柳川高校が幾多の名選手を輩出しているが、柳川には「テニスに青春」をかけたあるカップルの思いがつまった場所でもあった。
柳河城は蒲池鑑盛によって本格的な城として作られた後、立花氏12代の居城として明治まで続いた。
立花氏家老の小野家は明治以降に有力な財界人を生み出し、ジョンレノンの妻オノヨ-コもこの小野家出身である。
1872年、正月18日火を発し慶長以来の威容を誇った天守閣が一夜にして焼失するという出来事が起こった。
そして、この「城址」にこそテニスの名門・柳川高校のテニスコ-トが設営されているのである。
柳川高校の「創立者」である大沢三入氏が立花家15代当主の鑑徳に協力を依頼し、1943年5月柳川高校の前身となった「対月館」が設立された。
その時、立花氏当主は名誉会長となり対月館と米蔵が校舎として使われ、2年後柳川本城町の現在地に移転し柳川高校となった。
対月館は解体され新校舎に使われ、当主が作ったテニスコ-トの基礎であるグリ石も校舎建設のために使われた。
なお対月館の名前は、「御花邸」の中に残っている。
ところで立花藩・4代目鑑虎の時、四方堀を巡らした花畠の地に「集景亭」と言う邸を構えて、遊息の場としたが、その地名から柳川の人々は立花家のことを「御花(おはな)」と呼び親しんできた。
ここを料亭旅館「御花」としたのが16代当主の立花和雄氏の妻・立花文子さんである。
「御花」は1950年、夫である和雄氏(1994年死去)と二人三脚で始めた料亭で、終戦直後多額の「財産税」を課せられ苦境に陥った立花家の生き残り策でもあった。
立花の「お姫様」から人に仕える女将への転身には、何もそこまでと涙する士族出身の人々が少なからずいたが、文子さんは苦境にもひるまず料亭をきりもりした。
それも学生時代にテニスの全日本チャンピオンでもあったという精神力のなせるわざだったかもしれない。
文子さんは立花家15代当主・鑑徳の二女で活動的な父の影響で、女子学習院時代には スキー、水泳が得意なモダンガールで、学習院高等科のころはテニスのダブルスで「全日本女子の王座」についたのである。
文子さんの夫で16代当主で「御花」社長も務めた和雄氏は、海軍元帥・島村速雄の次男で学生時代よりテニスを愛好し、国内のスタープレイヤーとの交流もあったという。
和雄氏は、女子テニスチャンピオンの名前「立花文子」の名前を、まさか将来見合いして結婚する相手になろうとは思いもせずしっかりと覚えていたという。
立花和雄氏と文子さんとの間に「テニスコ-トの恋」が芽生えたかどうか定かでないが、お姫様(文子さん)とその夫・和雄氏が居した柳川は、柳川高校によって「テニスの柳川」として世に知られていったのも何かのめぐり合わせであろうか。

福岡のプロ野球球団として1950年代終わりから60年代にかけ黄金期を迎えた西鉄ライオンズの淵源1949年に遡る。
この年の夏、西日本鉄道株式会社第四代社長を引退後も影響力絶大だった村上巧児氏は、戦後復興に尽くす福岡の人々に明るい話題を届けようと、「費用は惜しまないから日本一の球団を作れ!」と社員達に檄を飛ばした。
西鉄は1946年6月に社会人野球チームを発足させていたが、社員らはこの日を境に球団結成に動き出した。
村上氏は単に野球好きというだけでこうした激をとばしたわけではない。
福岡に球団をつくることが、西鉄の経営に大きなプラスをもたらすことを見込んでのことであった。
当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、3交代制の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。
朝夕ラッシュ時以外の電車やバスの乗車率も上がるはずだと考えたのである。
1949年は日本のプロ野球の画期となる年であった。
日本野球連盟総裁だった正力松太郎(読売新聞社主)が同年4月、米大リーグに倣い、球団数を増やして2リーグ制を導入する構想を表明したからだ。
これを機に毎日新聞や西日本新聞、近鉄、大洋漁業などが続々と加盟を申請し、遅れじと西鉄も10月に申請したのである。
正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。
困った村上氏は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎元総理の父)に助けを求めた。
麻生は村上氏に、それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいとアドバイスを与えた。
そして村上氏は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎を密かに訪ねたのである。
その後村上氏は、西鉄事業部に親戚筋の中島国彦という人物がいた。
中島氏は、旧陸軍仕込みの行動力を買われ、球団設立の特命を担い、白洲との折衝役をつとめた。
中島氏は上京する度に、24年1月に発売されたばかりの福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参した。
白洲はこの博多の珍味を非常に気に入り、パンに塗って食したという。
その後、白洲やGHQが正力や野球連盟にどんな圧力をかけたのかは不明だが、とにもかくにも加盟交渉は急にスムーズになり、1950年11月にパ・リーグへの加盟を果たした。
そして1954年にパ・リーグ初優勝、56年からは日本シリーズ3連覇を成し遂げた。
これだけの短期間で黄金時代を築いた背景には、中島氏らの強力な「選手獲得」の働きがあったればこそである。
1年目は巨人から福岡・久留米商出身の川崎徳次投手を引き抜いた。
川崎は球界の情報に精通していたこともあり、翌年には川崎投手に交渉させて三原脩監督の招聘に成功した。
次には青バットで有名な東急フライヤーズの大下弘選手で、なんと約7か月間も接待を重ね、移籍させている。
新人獲得では、南海ホークスの名将である鶴岡一人監督が目をつけた選手を狙った。
その一人が、大分・別府緑丘高の稲尾和久投手で、大分出身だった西鉄の初代社長から当時の別府市長に入団を勧めてもらったという。
また香川・高松一高の中西太選手を入団させるため、高松に行くたびに、母親が行商していた野菜を定宿の旅館にすべて買い取らせ、坂道でリヤカーを押す手伝いをして信頼をえて、早稲田大への進学を志望していた「怪童」を翻意させた。
はじめ球団名は「西鉄クリッパーズ」(高速帆船の意)とした。参戦1年目の25年は7球団中5位に終わったが、2年目は、セ・リーグに所属する西日本新聞社所有の「西日本パイレーツ」を吸収し、「西鉄ライオンズ」に改称し、そこに総監督に招かれたのが、読売巨人軍を戦後初の優勝に導いた名将、三原脩であった。
ところで、西鉄ライオンズの栄枯は、産炭地の盛衰とよく重なっている。
3年連続優勝後の1959年~60年には三池炭鉱争議が起き、その後石炭産業は斜陽化する。
そんな時代背景だけに、1963年の前半終了時点で首位と14、5ゲーム差からの奇跡の逆転優勝は産炭地の人々にも希望の光となった。
しかしこの時の優勝からまもない1963年11月9日、福岡県最南部の都市・大牟田を悲劇が襲った。
三池炭鉱三川坑(大牟田市)の鉱炭じん爆発事故が起き、犠牲者458人と一酸化炭素中毒患者839人を出したこの事故は産炭地の衰退を決定づけた。
そして1997年3月に閉山した。
しかしこうした悲劇の中、1965年大牟田から甲子園初出場を果たしたた三池工業高校の優勝は、人々を勇気づけた。
三池工業の監督は原辰徳現巨人軍監督の父・原貢である。
原貢は、鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退しノンプロの東洋高圧大牟田(現三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任した。
無名校を初出場にして全国大会優勝へと導き、三池工フィーバーを起こしたのである。
その後、東海大学の創設者・総長松前重義の招きで東海大相模高校野球部監督に就任し、「東海大相模」の名を全国に轟かせた。このチームで1年からレギュラーで3番を打ったのが原辰徳である。
そして今、原貢氏の娘の子である菅野智之が2011年巨人に入団しエースとして大活躍している。

福岡県で炭鉱といえば、三池炭鉱と筑豊炭鉱の歴史ばかりが語られるが、福岡市内および近郊にもかつて炭鉱があった。
西の姪浜炭鉱(1962年廃鉱)と東の志免炭鉱(1964年廃鉱)である。
志免炭鉱の「東洋一」といわれる竪鉱は「産業遺産」として保存され、いまだに聳え立っている。
他方、西の姪浜には一見すると炭鉱の面影を見出すことはできないようにみえるが、愛宕山のふもとにあたりこそは姪浜炭鉱が広がっていた場所で、今でもかつての炭鉱の施設が様々な形で利用されている。
姪浜炭鉱・早良鉱業所は閉山に備えて従業員の再就職・施設の活用など様々な施策をすすめためで、炭鉱の病院は早良病院で、姪浜自動車学校、福岡鋼業所、西部産建などはかつての炭鉱と関係した施設であった。
また炭鉱を経営した早良興業は小戸ヨットハーバー近くにあって、現在は鉄鋼業や不動産業などをおこなっている。
姪浜炭鉱の名残といえば、今でも愛宕山中腹には炭鉱の守り神があり、姪浜炭鉱の創業者・葉室豊吉の顕彰碑が立っている。
創業者・葉室豊吉の孫がベルリンオリンピックの200メートル平泳ぎの金メダリスト・葉室鉄男である。
葉室鉄男氏は修猷館高校(旧制中学)から日大水泳部とすすんだ。
1936年のベルリンオリンピックで200メートル平泳ぎで、ドイツのエルビン・ジータスとの間でデッドヒートを繰り広げ、金メダルを獲得した。
この決勝戦はアドルフ・ヒットラーも観戦しており、表彰式ではヒットラー自身も起立し、右手を前方に挙げるナチス式敬礼で葉室の栄光を称えている。
選手引退後は、新聞社の運動部記者として活躍した。
1990年に国際水泳殿堂(米国)入りを果たしたが2005年10月近所のプールから帰宅後、体調の不調を訴えそのまま帰らぬ人となった。
葉室の88歳の死をもって、戦前の日本のオリンピック金メダリストは全員亡くなったことになる。
ちなみに葉室鉄男が卒業した修猷館高校には、1964年東京オリンピックの五輪旗が保存されている。
東京オリンピックの大会組織委員長は、安川第五郎・安川電機社長であり、IOC会長から「五輪旗」が安川氏に送られ、母校である修猷館高校に寄贈されたのである。