積極的平和主義

「大切に育てた子牛が市場に売られていく」という歌はジョーン・バエズの「ドナ・ドナ」という歌だが、誰が聞いても悲しく聞こえる。
しかしこの歌、それ以上のことは語っていない。
もともとは1938年にユダヤとポーランドの俳優たちの共同演劇のためにつくられた曲であったらしい。
原曲には「屠殺」という言葉が登場する。
生まれてそう月日もたっていない子牛が屠殺場に送られるという内容は、ユダヤ人の歴史を想像するような内容である。
この曲を聞いて、個人的には日本の「五木の子守唄」に似た哀調を感じたが、「五木の子守唄」にも特別な背景があることを思い出した。
この民謡は「子守唄」とはなっているが、赤ちゃんをあやす唄ではなく、ムシロ子守娘の気持ちを唄った歌ツマリ「守り子唄」といわれている。
そういえば、赤い風船でヒットした「竹田の子守唄」も、「守り子唄」なのである。
五木村は、熊本県人吉市から西北へ25キロ入った山間にある。
昔、源平の戦いに敗れた平家の一族が五木村の隣の五家荘村に定着したので、源氏は梶原・土肥の武者を送って五木村に住まわせ、平家の動向を監視させたと伝えられている。
その後、これらの源氏の子孫を主として、三十三人衆と呼ばれる地主(よか衆とよばれる檀那階級)ができた。
その他は「勧進(かんじん)」といわれる小作人で、家・屋敷から農機具に至るまでを「よか衆」から借り受け、「農奴」として最低の生活に甘んじ、被差別者としての苦しみ続けた。
この歌で「勧進」とは小作人というより、「物乞い」「乞食」という意味合いの方が強い。
そしてこの五木村に住む若い娘達は、「よか衆」のもとにツライ奉公に出され、その子供を寝かしつける時に歌われた歌なのだ。
こうした日本の山村の状況は差別と貧困を歌ったものと、ユダヤの「ドナドナ」の歌詞の内容がまったく別世界のものだとはと思えない。
その哀調が重なるように、その内容も重なっているように思える。
それは「ドナドナ」が貧困や戦争を暗示しているように思えるからだ。
「ドナ ドナ」は、題名となった”Dona、Dona”の意は、一説によるとヘブライ語のアドナイ(わが主)と関連があるかもしれない。
聖書にはアブラハムが生贄としてイサクをささげんとした時に、イサクがアブラハムに羊はどこにいるのかと問われた時、「アドナイ エレ」(主は備えたもう)と応えている。
その「アドナイ」をナチス当局に悟られないように、「ドナ」と短く縮めて表現して「主よ、主よ」と歌ったものともいわれるが、正確なところは分からない。
ところで、1960年代に「風に吹かれて」のボブ・ディランを世に紹介したシンガーこそジョーン・バエズであり「フォーク・ソング」の女王とよばれた。
彼女は若者からみればディランとともに「反戦のシンボル」となった人物である。
実際、ジョーン・バエズの父親のアルバート・バエズは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、そのことはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動や反戦活動へ強い影響を及ぼしているとみられる。
そしてベトナム戦争に多くの若者が送られた当時の時代背景からすれば、「ドナ ドナ」の哀調は「戦場に送られる若い兵士」のことを歌っているように聞こえるのだ。
だからこの時代に人々の心を捉えたのではなかろうか。
さて日本で「集団的自衛権」が容認されるとなると、若い自衛隊員が戦場にいって武器をとる可能性がとても大きくなることはいうまでもない。
日本が自衛隊を海外に出すという議論が高まった背景には、湾岸戦争でお金は世界で一番出したのにマッタク評価も感謝されなかったということである。
その後、PKO法案が国会で成立し、自衛隊が海外にいく道が開けたものの、武器使用の制約があって多国籍軍と協調できないという課題があったといということもある。
しかしこうした動きの中で、日本の「誰が」世界の戦場に出かけていくのかと問う時、貧困な若い層が多くはなりはしないかと思えるのである。
格差社会が広がる今日、「大義名分」の名の下に自分の命を引き換えにして生活しなければならない若者が多くでてくるかもしれない。
しかし若者達は、自分達が戦場に送られるかもしれないに、強い反発をみせるどころか「右傾化」を強めているように見える。
ところで、アメリカという国は世界的にみて「特殊な国」で、独立戦争や南北戦争など内戦は経験したが、真珠湾攻撃以外には他国の侵略を受けたこともなければ自国が戦場となったことがない。
だから、第二次大戦中も戦争当事国でありながら国内では国民がフツーに生活していた。
パーティしたり、遊園地で遊んだり、娯楽映画を観たりしていたが、その一方では戦地へおもむいた兵士達は日夜をとわず人殺しをし、また殺されてもいたのである。
それは戦後のベトナム戦争やイラク戦争でもしかりである。
ところで日本は、朝鮮戦争勃発によりアメリカに基地を提供し、日常生活品などを供給したために「朝鮮特需」が起き、隣国の戦争が戦後復興に大いに貢献することになったのは皮肉な話である。
しかし、棚からボタモチというわけでもなかった。
日本銀行が意外なカタチで国連軍(米軍)の戦争に関わっているいることが明らかになっている。
実は、戦争がおきて相手をやっつけるには、核兵器や化学兵器ばかりが必要なわけではない。
相手の国の紙幣の印刷機または印刷工場を手にいれればそれでことたりるのである。
紙幣を大量に印刷し、ヘリコプタ-で大量にばら撒けば超インフレが起きる。
そして政府や軍は物資を調達できなくなる、すなわち戦争が出来なくなる、というわけだ。
実はこういう話は全くの架空の話ではなく、朝鮮戦争の時にあわや現実化しそうになった。
1950年6月北朝鮮軍は38度線を越えてソウルで韓国銀行(中央銀行)を襲撃した。
ここで北朝鮮軍は、韓国銀行券とみなされて通用していた旧「朝鮮銀行券」の印刷原版を発見したのである。
これが北朝鮮軍の手中に落ちた以上は、韓国経済は徹底的に破壊されるのが決まったも同然であった。
反対に北朝鮮は未発行の紙幣をバラマクことで、兵站維持に必要な物資を意のままに調達できるのである。
また新規に紙幣を印刷して散布し、韓国経済を収束しようもないインフレに突き落とすことすら、侵入軍(北朝鮮軍)に可能となったのである。
この上は一刻も早く、朝鮮銀行券の流通を禁じ、新たに韓国銀行券を刷ってそれへ切り替えさせなければならないというのに、当時の韓国政府の全機能は半島の南端の釜山に追い詰められていた。
つまり、新紙幣の印刷などできる状態ではなかったのだ。
しかし、これで万事休す、ということにはならなかった。
米軍当局は、韓国銀行券の印刷を日本の大蔵省印刷局に命じたのだ。
しかしその作業は徹夜の突貫作業のように過酷そのものだったという。極度の機密上、場外作業に出すことはできず、何があっても米軍が命じた作業計画の変更は許されなかった。
そしておよそ2週間をかけて2千万枚の「韓国銀行券」を刷り上げ納入を完了したのであった。
このケースの場合、武器使用をともなわない「集団自衛権」の行使が行われたとみることができる。
「紙幣」のこそは砲弾に価するものであることと、人間を外国の戦場に送ることばかりが集団的自衛権ではないということを教えてくれる「朝鮮戦争秘史」である。
1980年代大平首相が、目的とそれを達成する手段において、軍事力に限定せず「総合的安全保障」を打ち出したことを思い起こす。

10年ほど前に一世を風靡したマイケルムーア監督の「華氏911度」では戦場に送られる若者達をドキュメント・タッチで描いていた。
イラクでの米兵の死者は今3000名を超えたが、その死んでいった若者の多くは、製造業が死に絶え荒廃し、仕事も無い地方の学歴に低い若者である。
海兵隊は、そうした仕事の無い街にネライを定めて「誇らしげな」海兵隊リクルーターを派遣する。
仕事の無い若者にとって、給料も払われ奨学金をえるチャンスもあり、大学に進学する機会もある軍隊は、階層社会を登る唯一のハシゴといってよいのである。
そのチャンスに賭けて、多くの若者が「荷馬車」に乗せられていったのである。
自分の息子を戦場に送られ失った一人の母親は、ホワイトハウス近くまできて建物を見つめながら、どこにもブツケようもない悲しみを握り締めているようだった。
ところで1950年の朝鮮戦争では、福岡空港(板付基地)や小倉あたりから多くの兵士が出兵している。
小倉の町には足立山があり、この山には高さ20メ-トルもある十字架があり、ここから出撃して朝鮮戦争で亡くなったアメリカ兵への思いをこめて立てられたそうだ。
そしてこの十字架は、朝鮮半島を向かってたっている。
その一方で、小倉生まれの作家・松本清張は占領時代、朝鮮戦争に転任予定の黒人米兵が集団(300人)で小倉で強姦・略奪・殺人等を行った実際の事件を題材に「黒地の絵」を書いている。
1951年正月、米軍が38度線を越えてきた中共軍のため、再びソウルを放棄したことを伝えた。
小倉に増派された黒人兵達は、いつも自分達が戦争では最前線に立たされているということをよく知っていた。
「黒地の絵」の中には小倉祇園太鼓の響きと追い詰められた黒人の精神状態について、次のように描かれている。
「彼らが到着した日も、小倉の街に太鼓の音は聞かれていた。黒人兵たちは不安にふるえる胸で、その打楽器音に耳を傾けていた。音は深い森の奥から打ち鳴らす未開人の祭典舞踏の太鼓に似通っていた。黒人兵士たちは恍惚として太鼓の音を聞いていた。彼らは鼻孔を広げて、荒い息遣いをはじめていた」。
事件当時は国連軍が連戦連敗の「劣勢」で、黒人達は危険な戦場に送られる恐怖と自暴自棄に陥り、それが脱走・強奪につながったと推測される。
実際に生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死したという。
大事件ではあったが、当時の日本がGHQの占領下であったことから、「情報規制」のためほとんど報道されず、被害の詳細は今でもわかっていない。
朝鮮戦争でアメリカ人の父を失った俳優の草刈正雄は、このメモリアルクロスのある足立山から小倉の眺めを眺めることを楽しみにしているのだという。
さて、朝鮮戦争を描いたアメリカ映画に1970年に公開された映画「マッシュ」がある。
自分が高校時代であり、エラクふざけた戦争映画という印象しかなかったが、今は別の見方をするようになった。
オフザケの第一はこの映画のポスターそのもので、二本の足の上のおしり、そのおしり上に手が乗っかっていてVサインをしている。
その手の指に戦争ヘルメットがかかっているというものであった。
そして、この映画の中でイマダに耳に残っているのは、ラジオから日本語の戦後まもなくヒットした曲が流れていたことである。
さて「MASH」の舞台は朝鮮戦争なのだが、公開された1970年はベトナム戦争真っ只中であり、真っ向からベトナム戦争反対ともいえず、かといって戦争のヒロイズムを描くわけにもいかず、そうした立ち位置の微妙さがカエッテ傑作を生み出したのかもしれないと思う。
この映画の主役といえる三人は、人の命をあずかる外科医である。その三人をドナルド・サザーランド、トム・スケリットエリオット・グールドらが演じた。
この三人が朝鮮戦争中、最前線近くの野戦病院へ赴任するのだが、病院といってもヤヤ大きなテントがあるのと、粗末なバラックがあるだけのキャンプ場のようなものである。
三人以外に 天才的な物資調達係の「レーダー」、グラマーで美人のツンととりすました女性将校の「ホットリップス」などが登場する。
映画の出だしは異様に陽気でハイで、外科医達はヒマさえあればロクでもない「悪質」ないたずらばっかり考えている。
しかしついに前線から瀕死の負傷者がどんどんヘリで後送されてくる。
次々の傷病患者が運ばれて画面の様相はまったく変わってくる。
このおばかで悪ガキみたいな三人でも、いざとなるやるべきことはやる。
彼らはコノ先に何が起きるかが不安で苦しくて「悪ふざけ」でまぎらわす他ははなかったのかもしれない。
医療機器もないにわか作りの病院で、次々送られる傷病兵の命を預けられても、たとえ医者でもマトモナ神経ではやっていられない事態となっていく。
この対比のコントラストこそがこの映画の核心であり、監督や俳優たちのメッセージでもあったのではなかろうか。
この映画が公開された1970年といえば、朝鮮戦争をきっかけに高度経済成長を登り詰めようとした時代で日本では大阪万博があった。
最近、知ったことだが映画「マッシュ」とは、Mobil Army Surgical Hospital、つまり野戦病院の意味だった。
そういえば、大岡昇平が小説「野火」で野戦病院のことを描いている。
太平洋戦争末期の日本の劣勢が固まりつつある中でのフィリピン戦線が舞台である。
主人公田村は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からは食糧不足のために入院を拒否される。
現地のフィリピン人は日本軍を敵とみなしているし、この状況下、米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、全ての他者から排せられた田村は熱帯の山野へと飢えの迷走を始める。
この小説、特に冒頭部分がインパクトがあった。
レイテ島に上陸するとまもなく、「私」(田村)は喀 血した。5日分の食糧を与えられて、血だらけの傷兵 がごろごろしている患者収容所に入院した。
3日後、治ったと言われて復隊した。中隊では5日分の食糧を持っていった以上は5日は置いてもらえと言う。病院へ引き返したが、もちろん断られた。
中隊に戻るとぶん殴られて「おまえみたいな肺病やみ を飼っておく余裕はねえ。病院へ帰れ。
入れてくれなかったら、死ね。それがおまえのたった 一つの奉公だ」といわれる。
かくして野戦病院にさえ拒否され、すべての他者から拒絶される主人公の孤独を描いている。

1942年国の法学者クインシー・ライトが消極的平和とセットで「積極的平和主義」をとなえた。
その後、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは消極的平和を「戦争のない状態」、積極的平和を戦争がないだけではなく「貧困、差別など社会的構造から発生する暴力がない状態」と定義した。
この定義が「積極的平和(主義)」の世界での一般的な解釈となっている。
日本国憲法の理念は当初、この「積極的平和主義」に近いものがあったのではなかろうか。
「積極的平和主義」を今に当てはめていうと、多くくの人が高等教育・専門教育を受ける機会があり、かつ継続的に能力を発揮する場が存在する。
そして労働生産性の高い社会市場メカニズムに基づく自由で国内外に開かれた経済活動を行う社会の実現にある。
今日本で、経済的に格差社会を生み出す流れを放置したり、ムシロ積極的にそういう流れを作り出しておいて、集団的自衛権を容認するのは、上記のような「積極的平和主義」とは明らかに異なる立場である。
安部首相のいうアメリカと同盟関係を維持し安全保障が正しく機能するために集団的自衛権を容認するということは、一部の人々の安全で裕福な生活を日米でしっかりと協力して実現しようという所業にすぎないかに見えるのだ。