「公正」の設計

経済学は「効率性」を最大の学問的要請としており、「公正さ」を考える学問ではない。
しかし、世界スケールで「効率性」を突き詰めるグローバル社会につき、むしろ「公正」の枠をハメルことこそが必要と思われる。
なぜならグローバル社会の極北には、「最少」幸福社会が待っているとしか思えないからだが、そのことに経済学は微力なのだろうか。
特に一国経済を崩壊させてしまうほどの投機マネーの跳梁跋扈にみられるようなグローバル社会の行き過ぎを抑えるには、何らかの「社会的公正」の考えに立脚した制度を設計しないかぎり、混乱と滅びへと続く道としか思えない。
ハーバードのサンデル教授が語るような政治哲学や倫理学の援用するとしても、経済的インセンティヴを生かして「公正」を実現できないかということである。
それに近い試みが、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行などのビジネスモデルである。
それは、アダム・スミスのいう「見えざる手」によるものではなく、むしろ人間の側の意図的な制度設計といってよい。
もちろん、ボランティアの精神、社会貢献や寄付などを引き出すNPO法人はあるが、それは社会に「公正」の枠を形づくるほどのものではない。
重要なことは日本の江戸時代の近江商人の「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)のように規範として意識され、できることなら「普遍的な」公正さとして共有されることである。
ところで先日、ローマ法王が韓国を訪問し大田(テジョン)のスタジアムでミサを行い その集会に5万人もの人々が集まった。
今年4月に起きた旅客船セウォル号沈没事故の犠牲者の遺族らも招待され、犠牲者を悼み共に祈りをささげた。
またローマ法王は、韓国カトリック教会の大田教区長と会見した席で、哀悼に意を表しつつ、法王は「この惨事が国民に団結と連携をもたらすように」と述べた。
そして「韓国民が、この事故を契機に“倫理的に”生まれ変わるよう望む」と語ったのである。
それを韓国民がどのように受けたったかどうかは知らないが、韓国は本来「儒教の国」つまり倫理や道徳を重んじる国だったハズである。
それを、ローマ法王が国ごとヒトククリに「倫理的」に生まれ変わるように望んだというのだから、一体何が韓国をそこまでにしてしまったのだろうか。
さて沈没したセウォル号は、日本の海運会社からクズ鉄+アルファの価格で買った船齢18年の貨物船だった。
それにに無理な改造を重ねて旅客船にして、規定大幅に超えた積載と無謀な走行などが重なって沈没した。
日本の自衛隊も救助を申しでたそうだが、韓国の大統領は「自分達で解決する」とそれを断っている。
それよりも、この船舶の運航を見過ごした港湾関係者、コンテナを鉄製器具で固定しなかった乗務員、さらには危険な海域での猛スピード航行など、いち船舶会社の不始末ではおさまらない。
また船長は真っ先に逃げ、人命救助をさえしなかったが、後からこの船長でさえ「契約社員」であることが判明した。
要するにこの大事故は、国民の安全をほとんど蔑ろにしている国の体制が問われたといってよい。
韓国は日本よりもインターネット環境は整備され、軍事的要請から国家のセキュリティなどは、相当なレベルで進んでいるはずである。
にもかわらず、国民の安全についてはここまで軽視しているのかと思わざるをえない。
さらに、旅客船沈没後も様々な「病弊」が続出した。
生存者の声が聞こえたとウソを述べた偽ダイバー、家族待機所に届いた毛布などをくすねた窃盗犯、さらには家族代表になりすました野党の地方選候補者などである。
ここ数年、韓国企業とくにサムソンやヒュンダイが牽引して世界市場を席巻した。
常に世界市場をめざし、グローバル化の度合いは日本より進んで、KPOPは世界市場を意識して作られているのがわかる。
一方、格差社会は広がり、地方は衰退し、農村は荒廃している。
そして、安全や生命に関わるものさえも「二極化」が進行しているということだ。
ここで隣国を日本と比較して批判するつもりはない。
日本とて、原発の安全確保や汚染水処理問題も棚上げにして再稼動をすすめ、JR北海道においては、異常な安全軽視の経営体質が露呈している。
グローバル社会の行き着くところ「最小幸福社会」を韓国に見る思いがしたにすぎない。

グローバル社会にともなう格差拡大、正規/非正規などの労働者の二極化、地方の崩壊などの進展に対して「公正」の観点から市場や制度をデザインすることはできないだろうか。
そういうヒントとなりうるのが「マッチング理論」で、もともと数学的理論だったものを経済学的に応用して、制度設計(マーケット・デザイン)に生かそうとするものである。
例えば、情報の格差は抜きにしても、現実の世界で需要と供給は、経済理論のいうようにチャント「出会う」ことができるであろうか。
需要と供給をお見合いに例えると、先々どんな人と出会うか未知であるため、初期の出会いで決めてしまうということはよくあることだ。
逆にもっといい出会いを期待して、最善の出会いを拒否することもある。
これを鳥瞰図的に見渡せば、いくらでもピタリの出会いがあるのに、ボタンの掛け違いのように一組としていいカップルが生まれないことだってありうる。
さて、従来の経済学においては、市場の「見えざる手」により導かれて需要と供給が一致するよう調整機能が働くことになっている。それは多数の売り手と買い手が競争している場合である。
一応、需要と供給が不一致な時に均衡価格を模索する過程を理論化したものがあるにはある。
ひとつは「ワルラス的調整過程」、もう一つは「マーシャル的調整過程」といい、いずれも古典派経済学の巨匠が理論化したものである。
前者が価格調整、後者が数量調整の違いがあるものの、「せり人」(仲人)もいない世界で、需給が不一致の時、「均衡価格」へとスムーズに向かうメカニズムが本当に存在するものだろうか。
最近、そういう安穏な経済学の伝統に一撃を与える理論が登場した。
ハーバード大学のアルビン・ロス教授とUCLAのロイド・シャプレー教授は、「比較的少数」の経済主体間の戦略的な駆け引きをなど加味して需要と供給の組み合わせを考察した「マッチング理論」を生み出した。
伝統的な経済学では市場や社会制度を「与えられたもの」として分析したのに対して、マーケット・デザインでは経済制度は「設計」するものとして従来の経済学の考えを刷新し、2012年のノーベル経済学賞を受賞した。
しかしマッチング理論のルーツは意外にも古く、シャプレー教授がデビット・ゲール氏と共に書いた1962年「男女の結婚」という問題を端緒とするものであった。
男性は女性たちに対する希望順位(好みの順番)をもち、女性も男の性達に対する希望順位を持つ。
マッチング主催者の目的は、男女のグループをうまく組み合わせてなるべく望ましい結果を得ることだ。
当然ながら、全員が希望どうりの結婚相手を見つけられるとは限らない。 そこでマッチングの「安定性」という性質を考えた。
「安定している」というのは、「男性Aは現在の結婚相手より女性Bが好きで、女性Bも現在の結婚相手より男性Aが好きだ」という組み合わせがいないことを指す。
この不幸な組み合わせを排除していく方法は、「ゲール・シャプレー・アルゴリズム(計算方式)」として定式化された。
簡単に説明すると、マッチング主催者は参加者全員から希望順位リストを提出してもらい、以下の組み合わせをする。
第一段階で、各男性は自分の第一希望の女性に求婚する。
女性は、自分に求婚してきた人の中で、最も希望する男性だけを「確保」し、残りの男性すべてを拒否する。
第二段階では、第一段階で希望した拒否された男性は次に希望する女性に求婚する。
女性は、第一段階で確保した人と今回新たに求婚してきた人の中で最も希望する男性だけを確保して、残りの男性をすべて拒否する。
以下、同様に新たに求婚を拒否される男性がいなくなるまで繰り返し、その時点でようやくマッチングを確定する。
この方式では求婚を最後の最後まで受け入れず、ずっと保留しているのが特徴的である。
つまり最初に少しいいと思った人とカップルにならずに、もっといいカップルとなるチャンスを待てるということだ。
両氏の功績は、どんなに人々の好みが様々でも、「安定マッチングが必ず存在する」ことを示したことである。
例えば、男性Aが同方式の結果よりも女性Bを希望したとしても、どこかの段階で男性Aは女性Bに対して 拒否されているはずだ。
女性Bが拒否した理由は、より希望する他の男性を結婚相手に選んだからである。
したがって、男性Aと女性Bが不幸な組み合わせになっていることはありえない。
この問題は抽象的な数学理論として研究されてきたが、アルビン・ロス教授がいちはやくソノ経済学的な価値に気がつき経済理論として発展させた。
しかし実際のやりかたはそれほど難解なものではなく、昔TVでやっていた「ちょっとまったコール」で知られた合コン番組でのヤリカタをを思い出すくらいである。
「マッチング理論」は、カップル同士の最適な組み合わせをさぐるため別名「結婚安定問題」とよばれるが、この問題は学校選択制のもとで学生と学校をどう組み合わせるか、医学部を卒業したての学生は、実践的なスキルを身につけるために病院で研修医となって働くが、なるべく学生と病院の希望を叶えるために、米国の研修制度では、学生と病院が希望する相手のリストを提出して、マッチ主催者がそのリストを元にアルゴリズムを使って配属先を決めている。
また、腎移植で患者とドナーをどう組み合わせるかなどにも応用でき、実際に可能な限り多くの人々が移植の機会を得られるような方法を明確にして、アメリカにおける腎臓移植ネットワークの設立と運営に現在大きな役割を果たしている。
結局、マッチング理論はアダムスミスのいうような「見えざる手」に任せるのではなく、需給の不具合に対して人間の力で「よりマシ」な解決に導くようなマーケット・デザインをするものである。
この方法は、全員が少しでも多くの満足を見出すこと、つまり「不幸」(不満)を最小化するという意味で「公正」の制度設計のひとつといってよい。

さて、グローバル化の異常な進展にタガをはめる「社会的公正」を組み込んだ制度を考えるうえで、サンデル教授が「白熱教室」でしばしばとりあげるジョン・ロールズという人物がいる。
ところでアメリカ政府は、敗戦後の日本を占領する期間、賢明にも日本軍と前線で戦い憎しみのカタマリとなった兵士を占領軍として日本には送らなかった。
まだ若い戦争体験の浅い兵士を日本に送り込んだのである。
彼らの渡すチューインガムやチョコレートに日本の子供達が群がったのは、当時の映像や写真によってよく知ることができる。
そして、そうした若き米軍兵士の中にジョン・ロールズがいたのだ。
そしてジョン・ロールズが日本で見たも焼け跡に見た勝者と敗者の圧倒的な差は、彼の内面で「正義の思想」を喚起する契機となったのではなかろうか。
ところで、ジョン・ロールズは「無知のベール」という思想で知られている。
それは、人々がホッブスのいうような政府が作られる前の状態で、新しい社会を形成するための契約を結ぶ時に、多くの人々の属性も能力もまったく無知である状態をさす。
ロールスが日本の「焼け跡」で見たようなゼロから出発する人々の姿コソ、そのような状態だったにちがいない。
そういう状態で、人々はどのような「社会形成」のあり方に合意するだろうか。
ロールズは、人々がこれから出来て行く社会の中でどのように評価され、自分がどのような社会的な地位をしめるか、完全に「無知」である状態を想定するのである。
その時に、人々は「底辺」に位置した場合のことを念頭におき、底辺であったとしてもできるだけ「優位な最低」であることを願うのである。
今、「無知のベール」の意味を考えるうえで、3人で順位をつけて順位に応じて100万円をわけるゲームをするとしよう。
ただし皆がこのゲームに励んで総得点をあげればご褒美として100万円+α、励まなけれ総得点が減り罰として100万円-αになることにする。
「無知のベール」がかかる中、つまり1位になるかもしれないし、3位になるかもしれない情況では、取り分のルールを(1位:6割、2位:3割、3位:1割)などとするだろうか。
誰もが最下位なる可能性があるから、最下位の取り分をもある程度確保しようと望むだろう。
そこで、取り分のルールを(1位:5割、2位:3割 3位:2割)で合意する可能性の方が前者の組み合わせよりも高い。
しかし問題は、あまりに取り分の差をなくすと、1位になろうという3位になろうと大して変わらないと士気が衰えてペナルティー減が生じ、当初の100万円さえ得られなくなる可能性がでてくる。
そこで、1位になろうと皆がやる気をだす「差」を認めることも必要だが、ソノ差をどこまで認められるかが、ロールズがいう「マクシミン原理」である。
それはソノ差によって皆がゲームに対する士気を高め、そこで最下位になったとしても、その取り分が「絶対量」として他の取り分の組み合わせの中で「最大」になるまでの「差」を認めるというものである。
これがロールズのいう最低を最大化する、つまりミニマムをマックスにするという意味で「マクシミン原理」といわれるものである。
そして「マクシミン原理」も、マーケット・デザイン同様に、「最小不幸」をめざす制度設計といえる。
人が頑張ったり能力を発揮したりすることに対して何らかの「差」が生じなければ、社会全体のパイは大きくならない。
しかし、差をつけるにせよ、最低の人の「分配」が最大になるように差をつける制度設計というのが「マクシミン原理」である。
そこで、ロールズの考え方は、特に「所得移転」がともなう場面では「公正」の考え方として有効である。
所得税の最高税率のひき下げ、相続税や贈与税の税率をの引き下げ、また課税最低限を引き下げなどの税制改革の議論から医療費や介護費の本人負担の割合の程度などをどこまでにするかなどなどである。
しかし、現実の世界はロールズ・モデルの「無知のベール」観とは異なり、生まれてまもなく教育、医療、情報などへのアクセスの機会などに圧倒的に格差があることをかなり早い段階で知る。
しかも、富者は自分の優位性をまさます安定させるように政治的に働きかけようとする。
こうした格差社会では、ロールズの言う意味での人々は「最低限」の生活を底上げしようという社会的合意への誘因は失われることになる。
ロールズは、あくまで「自分が陥るかもしれない不幸を最小限にする」というインセンティブによって「社会的公正」の実現の可能性を説いたが、グローバル社会の進展は無知のベールをしだいに剥ぎ取るプロセスだったともいえる。
そのいい例が、アメリカで底辺の人々を救済するために斬新な奨学金制度である。
この制度は、アメリカで、将来所得が多い者から奨学金を返すという制度だが、学生が「無知のベール」に覆われていれば、うまく機能する制度ではあった。
しかし学生は早くも自分の将来の社会的な位置づけをヨミとったのか、この制度に申請したのは成績が悪い学生ばかりであった。
そのため、貧しくとも前途有望な学生を援助しようという奨学金制度の趣旨は生かせずに廃止となってしまった。
ロールズの「無知のベール」論は、社会的公正の基準となるひとつの枠組みを提供したという意味で価値あるものだが、「かのように考えてみよう」というモデルにすぎない。
現実の世界は、金持ちはお金を出して人の遺伝子を完璧に読み取り、「赤ん坊」をデザインするほどにベールが剥がれた世界なのである。