めぐりあう時間たち

人と人とは出会わずとも、時間や空間を超えて、様々なカタチで結びついている。
しかし同じ軌道で引き寄せながらも接触することなく、似たもの同志なのに気づかぬママ死に絶えていく、そんな星々のようなものかもしれない。
ただし、満天の星空に「星座」が見つけられるように、浮かび上がる「めぐりあい」というものがある。
2002年に「めぐりあう時間たち」(The Hours)」という風変わりな映画があった。
この映画は3つの時代、すなわち1923年、1951年、2001年における3人の女の「たった1日だけ」の生を描いた映画である。
3つの異なる時代の、それぞれの葛藤と悩みをもつ何の関係もない3人の女達である。
ただ彼女達は、小説家ヴァージニア・ウルフ(役:ニコール・キッドマン)が悩みツツ書いた本「ダロウェイ夫人」(1925年)によって結びついていた。
時と場所は違っても似たような境遇を生き、似た課題に向き合っていて、本人達が気づくことなく「ある時間」を共有している人々がイルことに思い至った。
それはまるで符節を合して回る独楽のようにも見える。そんな「めぐりあい」の時間を生きた人々を紹介したい。

明治の時代に、料理と洗濯の世界に、それぞれ「フランス料理」と「ドライ・クリーニング」とりいれたソノ二人は、「皇室御用」という点で接点をもち、二人の店はともに発展し今も場所を変えながら存続している。
築地精養軒の発展の基礎をつくりあげた秋山徳蔵と日本橋に白洋舎を創立した五十嵐健治である。
さて、「宮中晩餐会」の模様がテレビで一瞬中継されることがあり、壮麗なシャンデリアや、食卓を飾る美しい食器を垣間見ることができるのだが、一体どんな料理が出ているのだろうか、と思う。
明治維新後、長崎、神戸、横浜が次々に開港するとそこの外国人居留地に役人や商社の人が使用するホテルも少しずつ建っていった。
そして、ソコデ働く日本人料理人は、西洋料理の技術を着々と身に付けていた。
しかし、訪れた外国の要人を泊めるホテルや、彼らをもてなす「西洋料理店」は東京にはいまだなかった。
それを国恥として、当時岩倉具視の側近であった人物が、洋食店とホテル経営に乗り出すことになった。
そして、1872年に我が国初の西洋料理店「築地精養軒」を創設したのである。
築地精養軒創設の後、上野公園の開設とともに上野精養軒も開かれ、両精養軒では、開業当時から、フランス人を料理顧問におくなど、本格的なフランス料理への取り組みをはじめていた。
そしてその精養軒の黄金時代を築いた鈴本敏雄の弟子にあたるのが秋山徳蔵である。
1888年、秋山徳蔵は 福井県武生の比較的裕福な家庭の次男として生まれた。
秋吉は東京から来た軍用の料理人と知り合い、洋食をはじめて食べさせてもらう体験をした。
そして、その味が忘れられず、東京へ上京し西洋料理の道をひたすら究めようときめた。
秋山は精養軒ハジメいくつかの名店で修行した後に、1909年に料理の修行のために21才で渡欧した。
当時、学問のために留学する日本人は多少はいたが、料理のために留学する日本人ナド皆無だったといってよい。
秋山は言葉のハンディにかかわらず頭角を現し、フランスでシェフと呼ばれるところまでになる。
そして、大使館より「天皇ために料理をつくらないか」という話があり、1913年に帰国して、宮内庁内での料理人としての歩みを始めることになる。
秋山は弱冠25才で宮内省大膳寮に就職し、1917年には初代主厨長となり、大正・昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大礼の賜宴、宮中の調理を主宰した。
そしてイツシカ、人々は秋山のことを「天皇の料理番」とよんだのである。
現在のクリーニング・チェ-ン白洋舎の社長は五十嵐丈夫氏で、この五十嵐丈夫の父親が白洋舎を創設した五十嵐健治である。
作家の三浦綾子が100通を越える手紙のヤリトリを元に小説「夕あり朝あり」(1987年)を書いたことにより、彼の生涯がはじめて知られた。
五十嵐は新潟県に生れたが、高等小学校卒業後に丁稚や小僧を転々とし、日清戦争に際し17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して中国へ従軍した。
三国干渉に憤慨しロシアへの復讐を誓い北海道からシベリアへの渡航を企てるが、だまされて原始林で重労働を強いられるタコ部屋へ入れられた
脱走して小樽まで逃げた時、旅商人からキリスト教のことを聞き、市中の井戸で受洗したという。
上京して、三越(当時は三井呉服店)の店員として「宮内省の御用」を務めるが、そのことが彼の人生を大きく変えることになる。
宮内省をはじめ、宮様、三井家など上流階級の顧客を紹介してもらえた。
五十嵐は三越を通じて学者を紹介してもらい、当時の日本では未完成だったベンゾールを溶剤にして石鹸に似た物質を入れると、水溶性の汚れがよく落ちることに気づいた。
三越で10年間働き、29歳の時に独立し1906年に白洋舎を創立した。
独力で日本で初めて水を使わぬ洗濯法つまりドライクリ-ニングの開発に成功した。
五十嵐は洗濯という仕事が人々への奉仕であり、罪を洗い清めるキリスト教の精神につながると考え、洗濯業を「天職」にしようと決心したという。
1920年白洋舎を株式会社に改組した時、その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」をあげている。
また本社の近くや多摩川工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員にキリスト教の福音を伝えた。
五十嵐は1972年に亡くなったが、その2年後に秋山が亡くなっている。
さて、秋山と五十嵐はともに「天皇御用達」として同時代を生きたのだが、秋山が料理に出す際のテーブルクロス、シェフの服などは当然に、五十嵐の白洋舎でドライクリーニングされ純白になって戻ってきたのであろう。
互いに名前も経歴も知らぬ秋山と五十嵐の時間はかくして共有されていた。

鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。
幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家であった。
鉄川家がいつ頃から建設業にかわったのかは正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が青方得雄寺を建立した事実が同寺の棟札に記録されている。
明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に装飾としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。
15年ほど前に個人的に愛知県の明治村を訪れたことがある。
そこで、寺院建築と教会堂建築の「習合」形式の初期の建造物・「大明寺聖パウロ教会」をみることができた。
鉄川家が最初に携わった初期の教会堂建築とはそのようなものであったであろう。
鉄川家のもう一つの「転機」は、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことにあった。
これをきっかけに鉄川組は神父から西洋建築の手ホドキを受けて田平教会のリブヴォルト天井の建築方法などを学んだという。
1906年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業「鉄川組」を創業したとされている。
与助は家業をひきついで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきた。
その工事数はカトリック教会に限っても50を越えその施工範囲は長崎県を主として佐賀県、福岡県、熊本県にも及んでいる。
そして長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など今もそれぞれの地方の観光資源となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も鉄川組によって最終的に完成された。
特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にさらに大きな技術的な飛躍を与えた。
浦上教会の完成後、鉄川与助は福岡県大刀洗町の今村教会の設計と建設をはじめ最数的に双頭の教会を完成させた。
今村教会にみられる二頭の教会は日本では数少なく、鉄川与助の技術が西洋キリスト教建築の水準に到達したことを示している。
鉄川与助はその人生の大半を教会堂建築にささげ1976年97歳でなくなった。
さて、教会堂といえば賛美歌の伴奏をするためのオルガンやピアノが必ずといっていいほど一台は置かれている。
そして、日本国産オルガン製作は意外な展開から生まれた。
1851年山葉寅楠は紀州で生まれた。
徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
1871年単身長崎へ赴き、英国人技師のもとで時計づくりの勉強を始め、その後は医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に医療機器についての学んだ。
1884年、医療器械の「修理工」として静岡県浜松に移り住み、医療器械の修理、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をたてた。
或る時、浜松尋常小学校で外国産のオルガンの修理工を探していた時、校長は山葉のうわさを聞き彼に修理を依頼したのである。
校長の依頼を受けて修理に出向いた山葉は、ほどなく故障箇所をつきとめるとおもむろにオルガンの構造を模写しはじめた。
実は山葉の脳裏にオルガンの国産のビジョンが広がっていったのである。
音楽の都・浜松の種は、コノ時に播かれたといってもよいかもしれない。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの「試作」を開始した。
試行錯誤2ヵ月で国産オルガン第1号が完成し、学校に試作品を持ち込んだが、残念ながらソノ評価は極めて低かった。
そこで、山葉と河合の二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で専門家に教えを請うことにした。
当時はまだ鉄道未開通で二人は東京まで実に250kmを天秤棒でオルガンをかついで運び、「天下の嶮」とよばれた箱根の難所も超えて、それを記念する碑が箱根の峠に立っているという。
二人は、音楽取調所の伊沢修二学長の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
そして山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも国産第2号オルガンをつくり、伊沢修二は、この第2号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると太鼓判を押した。
山葉はその後単身アメリカに渡り、「ピアノの国産化」にも成功している。
さて、鉄川が建設した多くの教会堂には賛美歌とともにヤマハ製(山葉)のオルガンやピアノの音色が響いているにちがいない。
かくして「国産教会堂」の鉄川与助と、「国産オルガン」の山葉寅楠の時間は、全国各地のキリスト教会で響きあっているのである。

「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝は、広島県竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む家の三男として生まれた。
進学した忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)の一つ下の下級生には後に総理大臣となる池田勇人がおり、池田が亡くなるまで交流が続いた。
政孝の影響もあり、池田は国際的なパーティーでは国産ウイスキーを使うように指示していたと言う。
大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学)の醸造学科にて学ぶが、「洋酒」に興味をもっていた竹鶴は、当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造に入社した。
入社後は竹鶴の希望どおりに洋酒の製造部門に配属され、入社間もなく主任技師に抜擢される。
その年の夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかったぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発した。
しかし竹鶴が製造した赤玉ポートワインは徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったという。
このことで竹鶴の酒造職人としての評判が世間に広がることになる。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで「純国産」のウイスキーは作られていなかった。
そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画する。
1918年、竹鶴は社長の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだ。
彼は現地で積極的にウイスキー醸造場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。
スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生の姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め1920年に結婚した。
同年、リタを連れて日本に帰国するが、実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん竹鶴が分家するという形で一応の決着をみたという。
帰郷後、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の「戦後恐慌」によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまい、1922年竹鶴は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるなどした。
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画し、社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たという。
そして、同年6月、竹鶴は破格の給料で寿屋に正式入社した。
1924年京都に山崎工場が竣工され、竹鶴はその初代工場長となる。
竹鶴は酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考え、醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行った。
1929年4月1日、竹鶴が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されるが、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず、販売は低迷した。
その後、竹鶴は寿屋を退社し、スコットランドに風土が近い北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意したが、ウイスキーは時間と費用がかかるため、「大日本果汁株式」として、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。
そして1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売し、社名の「日」「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名した。
1941年には、工場の地元、旧制余市中学校(のちの北海道余市高等学校)校長に頼まれ、中学校に「ジャンプ台」を寄贈している。
このジャンプ台は当初桜ヶ丘シャンツェと命名されたが、その呼称は定着せず、「竹鶴シャンツェ」と呼ばれている。
このジャンプ台で訓練して札幌オリンピックで後に金メダルをとったのが笠井幸雄である。
ところで、ウイスキーを造るためには樽職人の仕事が欠かせない。
樽職人は、原木の見極めから樽の組み立て、内側の焼き入れ(チャー)、旧樽の補修まで多岐にわたっている。
木の一本一本の木目が異なるように、目的とする原酒に応じたひとつひとつの樽をつくるには、熟練した技と勘が必要である。
ニッカウヰスキーの樽づくりの技術は、創業以来、「名人」とも評される匠たちに培われ、伝えられてきた。
創業時からニッカの樽づくりを担ったのは、小松崎与四郎で、当時、竹鶴政孝が工場長を兼任していた横浜のビール工場から迎え入れた樽職人である。
当初はスコットランドから輸入したウイスキー樽を分解したりして研究していたが、元々確かなビール樽づくりの技を体得していた小松崎は、ほどなく立派なウイスキー樽をつくり出していく。
小松崎は「木には個性があり、癖がある。人間と同じ。修理のときも元の木の癖を読んで、それに沿って新しい木を入れなければならない」とい語っている。
ウイスキーが歳月をかけて熟成するように、樽職人が育つにも経験を積む長い年月が必要である。
樽の中のウイスキーは5年、10年と時を経るに従って琥珀色になっていく。
そして樽職人も少しずつ先達の域に近づいていく。
小松崎の厳しい指導、樽づくりの難しさ、そして重労働のために16人いた職人のうち2人だけしか残っていなかった。
その一人長谷川清道は、2001年に、スコットランド樽職人組合から「世界の樽職人15人」のひとりに選ばれている。
ウイスキー造り竹原と樽職人の小松崎の時間は、長い醸成の時間のように共有されている。