果たされる契約

サッカーのアルゼンチン代表メッシが、八方ふさがりの中で新しい局面を開く瞬間は、「inspired」とでも表現したくくなる。
もっとも秀逸な仕事や作品を「inspired」と形容することがあるが、霊感をふきこまれた作品または仕事の意味である。
人々がサッカーの一流選手を「ファンタジスタ」と称するのも、芸術的なプレイという表現ではおさまりきれない何かを感じるからだろう。
さて、今なお途上にある「メッシ伝説」は一枚の紙ナプキンに書かれた「契約書」からはじまっている。
メッシが13歳くらいの頃、バルセロナの入団テストを受けた。
すると、入団担当者はそのあまりの天才ぶりにすぐにもメッシ選手と契約すると言った。
しかし、契約書は無いので、ともかく近くにあった紙ナプキンで「代用」したというものである。
コノ話本当の話なのかと思ったが、あるテレビ番組でソノ「紙ナプキン」の存在が確認されていた。
そして確かにその紙ナプキンは存在し、そこには「いかなる障害があろうとも、メッシと契約する」と書かれていた。
この「いかなる障害があろうとも」がヒッカカル文言だが、当時の入団担当によれば、当時バルセロナはメッシ選手の入団を望んでいなかったらしい。
メッシ選手は当時140cm程度しか身長がなく、低身長症という病気であったからだ。
そんな病気を持つ子供が活躍できるかどうか、バルセロナとしては不安視していた。
したがってバルセロナ入団はなかなかかなわず、3ケ月も待たされたらしい。
そんな若いメッシの不安を払拭するために入団担当者が、バルセロナの他の誰が反対しようともメッシ選手を入団させるという契約を書いた紙ナプキンをメッシに渡したのである。

旧約聖書や新約聖書の「約」というのは、「古い契約」と「新しい契約」を意味している。
一般に、契約は中身コソが重要だが、さすがに紙ナプキンの契約書や、砂に書いたラブレターでは心もとない。
実は新旧の契約の違いは、内容の違いばかりではなく、「石に刻んだもの/心に記したもの」という決定的な違いがある。
聖書は、「新しい契約」について次のようにいっている。
「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約は、わたしが彼らの先祖をその手を取ってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしが彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後に、わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは律法を彼らの内に置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ記31章)。
旧い契約が結ばれたとき、イスラエルはエジプトの地でエジプトの王・ファラオの奴隷であった。
しかし神はモーセをファラオに遣わして、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよ」(出エジプト4)といわせしめた。
ところがファラオはなかなか聞き従おうとはせず、神はイナゴの大群を出現させたり、ナイル川を血の色に変えたり、紅海が割れるなど様々の奇跡や不思議を行ってイスラエルをエジプトから導き出した。
そしてシナイ山において神はイスラエルに「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたは、わたしの他になにものをも神としてはならない」と語った。
そして神は指導者モーセに石の板に刻まれてた「十戒」を授けたのである。
そしてこの「戒律」を守り行えば、神はイスラエルを子々孫々に至るまで祝福するという契約であった。
これが「旧い契約」であるが、イスラエルは、蜜と乳の流れる地カナンの地に入り、豊かさと安楽が手にはいるや、カナンの神々の方に心を向けて「偶像崇拝」の罪を犯すようになる。
結局イスラエルは、モーセに与えられた石版に刻んだ契約を守ることができず、主なる神から離反するようなことを繰り返し、神がコレマデになした導きも恵みも忘れようとしたのである。
そこで神は「古い契約」を御破算にするのだが、だからといってイスラエルを放置せずに、もう一度「新しい契約」を結び直す。
前述のエレミヤ記によれば、神はその「新しい契約」を石の板ではなく、人々の内や心に記したとしている。
では、心に契約を記すとはどういう意味であろうか。
新約聖書には、エレミヤ記の記述に応じるようなパウロの言葉がある。
「それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、”石の板”にではなく人の”心の板”に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」(第Ⅱコリント3章)。
ここにパウロは、新しい契約が神の霊により「心の板」に書かれるものとしている。
パウロは厳格な律法学者の家に生まれ、律法を忠実に守って生きることこそが、神に仕えることだと信じて疑わなかった。
ところが、ある「衝撃的な体験」を通じて、今までの自分は「文字に仕えて」いたにすぎず、「生ける神」に仕えていたのではなかったことを悟る。
この点は、イエスが律法学者やパリサイ人を攻撃した「観点」と共通している。
ある日、イエスの弟子が安息日に病の人を癒すと、パリサイ人らは「掟には安息日には働くなとに書いてあり、彼らはしてはいけないことしている」(マタイ12章)と非難したところ、イエスは「安息日に羊が穴に落ちたからといって助けないものがあろうか」と反問している。
さらに神は、生贄ではなく憐れみをこそ求めておられるのだと、「文字」(戒律)に忠実に仕えることをモッテ自ら義人と思い込んでいるユダヤ指導者達を激しく攻撃したのだ。
それでは生ける神に仕えるとはどういうことだろうか。パウロは次のように書いている。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である 」(Ⅱコリント3章)。
さて新約聖書には救いの条件が簡潔・明瞭に書いてある箇所がある。
それは「人は水と霊によらなければ神の国にはいることができない」(ヨハネ3)である。
これはイエス十字架での死による「罪の贖い」(洗礼)と、聖霊を受けることで、これこそが神の契約を心の中に書くことの意味でであり、「新しい契約」の本質であるといってよい。
つまり聖霊に導かれることこそが「生ける神」に仕えるということであり、「戒律」(律法)に従って生きるのは「古い契約」にトドマッタまま、「来るべき良きものの影」(ヘブル10章)を生きているにすぎないということである。
西欧で神学論争が果てしなく繰り広げられるのも、この字ヅラにこだわる結果である。
「聖霊は一つ」(エペソ4章)であるから、聖霊に導かれるのならば人々に争いや分裂をもたらすことはナイが、キリスト教にあっても「文字に仕える信仰」は、際限のない争いや紛争の原因となっている。
かつて律法学者であったパウロは、「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(Ⅱコリント3章)とまでいいきっている。
そして実際に、ペテロやパウロといったキリスト教の使徒達の働きは、けして聖書の「文字」に基づいたものではなく、その時々の「聖霊」に導かれたものであった。

旧約聖書には「神の霊」という言葉は登場しても、「聖霊」という言葉はでてこない。
なぜなら聖霊はイエスの十字架後に、「約束の御霊」として降るものであるからだ。
イエス自身の次の言葉はそのことをよく表している。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父に別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ14章)。
かくして、旧約聖書には「聖霊」という言葉は登場しないが、神が選んだ特別な人々に「神の霊」が臨むことは、しばしば起きている。
例えば天地創造の場面において、「神は天地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(創世記1章)とある。
また「神の霊」が臨むことによって戦う力を得たり、預言をしたり、優れた知恵や技能を発揮する人々が登場する。
たとえば、神の霊がギデオンに臨んだので、彼はラッパを吹いて民を集め、ミデアン人を破ってこれを皆殺しにした(士師記6章)。
また、神の霊がサムソンに臨んだので、彼は山羊の子を裂くように、若い獅子を裂いたとある。
また神の霊によって優れた匠(たくみ)としての才能を表した人もある。
「主はモーセに告げて仰せられた。見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである」(出エジプト記31章)。
さらに神の霊は、「預言をする」霊としても特定の人々に働くことがある。
神の霊がユダヤ王国の初代国王サウルに臨んだので、サウルは、預言者の中にあって預言したことがある。(Iサムエル10章)。
さらには、神の霊は「聡明の霊」としてソロモン王に臨み、夢を解する悟りの霊としてダニエルに臨み、また荒廃地を復興させる力として、ネヘミヤに臨んだのである。
以上のように旧約の世界では、神がご自身の計画を実現しようとする時、特定の人に対して「神の霊」が臨んでおり、聖霊のように人々に「宿る」ものではナイことに注意したい。

イエスの復活と昇天の後に聖霊が降る場面は、新約聖書に次のように記されている。
「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響き渡った。また舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした」(使徒行伝2章)。
この場面は、旧約聖書で特定の人物に神が臨むといったものとは異なり、集まった一同に聖霊がくだったものであり、初代教会が誕生する場面である。
聖霊が「降る」ばかりではなく、人々に「宿る」ものなのである。エレミヤ記にある「心に記す」新しい契約とはこのことを意味している。
イエスは次のように明瞭に語っている。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊(みたま)をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(ヨハネ7章)。
また、「旧い契約」がイスラエルの民との間で結ばれたものであるのに対して、「新しい契約」はイスラエルも異邦人とも区別なく全人類との間に結ばれたものである。
ところでこの聖霊は、どのように与えられ人々を導くのだろうか。
新約聖書の「使徒行伝」は様々な場面でそれを具体的に示している。
そのもっとも劇的な出来事こそ、「パウロの改心」である。
実はパウロはイエスの十二弟子に入っていない。それどころか厳格な律法学者の家に育ったパウロは、自分の良心に従いながらキリスト者を弾圧する立場にあったのである。
大祭司の命令でステパノといわれる信者が石で打ち殺された時も、パウロはその現場に居合わせた。
そして多くのキリスト者を捕縄するために鼻息も荒くダマスコという町に入った時に、突然光がさして「サウロよサウロなぜ私を迫害するのか」という声がして目が見えなくなってしまう。
その後聖霊の導きでアナニアという人物に会って洗礼をうけ、バルナバという使徒を通じて、パウロを弾圧者と恐れる使徒達に紹介されてその仲間に加わったのである。
そしてローマ帝国の各地を伝道旅行し、多くの教会を設立し、それらの教会の信者と手紙のやりとりをしている。
その手紙こそが新約聖書における様々な「パウロ書簡」である。
パウロの改心は、多くのユダヤ指導者層を困惑させた。ある者は「博学がお前を狂わせている」といい、パウロは「神を知る知識に比べたら、そうした知識は糞土のようなもの」と語っている。
パウロは親が裕福であったためにローマ市民の権利をもっていたのであるが、新しい宗教を語りローマの平穏を乱す疫病のような存在として逮捕される。
そしてローマ市民たるものがユダヤ総督の裁判だけで結審されるのはおかしいと自ら上訴し、ローマに送られ、ローマ皇帝の前でキリストへの信仰と救いを堂々と開陳するのである。
その後、ローマに番兵一人をつけて住むことを許され、その間訪れる人々に福音(救い)を伝えるるが、そのうち大迫害がはじまり、ローマの城壁の外で殉教している。
イエスの十字架の時に離散していった弟子たちは、使徒として別人のように活動をするが、彼らは人々に人生を語るでも人の道を説くでもなく、ただただイエスの名による洗礼による罪の許しと聖霊をうけることを人々に勧めている。
そして同時にそこには、病の癒しや不思議が次々と起こっている。
「使徒行伝」を読む限りその主役は十二使徒ではなく、聖霊そのものであるかのようである。

さて新約聖書は「聖霊の賜物」ツマリ聖霊のお恵みついて様々な観点から書いている。
「あなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。
もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。さらにもし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(ローマ8章)。
また、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは”アバ、父よ”と呼ぶのである」(ローマ8章)。
さらには、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子ならず万物をも賜らないことがあろうか」(ローマ8章)。
加えて、「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨(みむね)にかなうとりなしをして下さるからである。 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8章)
さて、旧約聖書を読んで印象的なことは、神の契約を果たすことできない人間の不実や無力に対して、神の側の次のような対応である。
「彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼしつくさず、彼らと結んだわたし契約を破らない。わたしは彼らの先祖と結んだ契約を、彼らのために思い起こす」(レビ記26章)
ところで、日本人が考える契約の時限は、住宅ローンの連想で、せいぜい30年ぐらいのスパンである。
ところが、聖書の教えるところ、神の契約は五千年のスパンを超えてでもで果たされるものである。
例えば、モーセの十戒からさらに遡って神がアブラハムとの間に立てた契約に、「あなたの子孫にによってすべての民族は恵まれる」とあるが、ユダヤ人の叡智に人類はどれだけの恩恵をうけただろうか。
またイエスの十字架後のユダヤ人の離散から2千年の時を隔てて、ユダヤ人は再び集められてイスラエル建国(1948年)を果たしている。
このように、人間の側がタトエ契約を忘れたり、神を捨てたりしたとしても、神が「成す」といったことは、幾世代も先のことであっても、必ずヤ果たされるということである。