戦略的「おとぎ話」

現在「モナコ公妃~最後の切り札」が上映中だが、グレース・ケリーで有名なモナコとはどういう国か。
この国は、今日本で議論沸騰のカジノ解禁との関連もあって調べてみた。
フランス南部、地中海に突き出した崖の岩山に要塞があった場所から始まった国で、その両側の山が海に迫った細長い場所がモナコ国である。
ヴァチカン市国の次に、世界で2番目に小さい国。
周りは全部フランスで、国境に検問所はなく、一本の裏道の真ん中がフランスとモナコの国境である。
人々の意識では、違う国なのに国境が見えないフランスの一部のような小国である。
船の発着は モンテカルロ港があり、穏やかな気候で、冬でも雪はめったにふらない。
すべては整然と整理されて人の手が感じさせられる国で、モナコで唯一海水浴のできるラルヴォット海岸でさえ人口的に作られた海岸である。
モナコといえば、「モナコグランプリ/グレース・ケリー」で、億万長者がいて税金が安くしかも安全となると、モナコは、金持ちになった人達に住みやすいように作られた国といえるかもしれない。
カメラが国中に配置されていて、エレベータの中や、ちょっとした道の曲がり角など、見上げると大体カメラがある。
公共の部分だけではなく、通常のアパート内にも数多くのカメラが設置され、いたる所に警察の目が光っている。
世界を見渡すと、たとえ税金が安くて安全な場所でも大概は長く住むのに退屈な場所となってしまうが、その点モナコは移動に便利で刺激も多い場所である。
そして今、かつてのカジノの国モナコから観光立国モナコに変わり、さらに産業を育成する方向に向かっている。
産業では、イメージの良い化粧品や薬品など付加価値の高い商品作りなどの勧業に力をいれている。
1911年以来の立憲君主制で、現在の君主は、2005年4月6日に亡くなったレニエ3世の息子、アルベール2世である。
母親はもちろんグレース・ケリー。
1929年アメリカで生まれたグレースは、カンヌ映画祭でモナコ大公・レニエ3世と会う。
翌1955年に結婚し、いわば「おとぎ話」の主人公となる。
当時、産業といえばカジノしかなかったモナコ公国は倒産の危機に瀕していたが「世紀の結婚」によってアメリカ人観光客が押し寄せるようになり、経済危機を救った面もある。
さて映画「モナコ公妃 最後の切り札」は、国の公妃となることの意味と、生身の女性として生きるグレースの苦悩と葛藤を描いている。
グレースが生まれたフラデルフィアは、アメリカ合衆国発祥の地といってよく、「自由の鐘」がそのシンボルである。
そのフィラデルフィアの市長選に立候補したこともある建築業を営む父親と、モデル出身の母親の裕福な家庭に生まれ、幼年期は何不自由なく過ごししている。
そんな経歴をもつグレースがモナコ公妃となるが、女性が政治に意見するのは「アメリカ流」だと釘をさされ、夫のレーニエからも公の場では美しいだけの人形でいることを望まれる。
失意のグレースが「ハリウッド復帰」の誘いに心を動かされていたその頃、レーニエ3世つまりはモナコ公国は過去最大の危機に直面していた。
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が、アフリカのアルジェとの戦いなどから、過酷な課税をモナコに強要する。
そして、承諾しなければ「モナコをフランス領にする」という声明を出したのだ。
軍隊のないモナコにフランスの軍事侵攻の可能性さえある窮地のなか、グレースは自分にしかできないある「秘策」を考え出す。
従来公妃を演じることに心理的な抵抗を抱き続けたグレースだったが、一転外交儀礼の特訓を受けて、完璧な公妃の「役作り」に励み、ド・ゴールを含む各国の指導者を招く「舞台」を用意する。
グレースがモナコ公妃を演じるきること、すなわち「おとぎ話」の主人公に徹することこそ、それが厳しい現実に立ち向かう方法であったのでだ。
ただし、グレース自身は「私の人生はおとぎ話のようだ」とよく言われるけど、そういう考え自体が「おとぎ話」だと語っている。
映画は、事実に基づくフィクションであるが、この映画をみる日本人は、大概イギリスのダイアナ妃や日本の雅子妃と重ねながら見るに違いない。
しかし正直いって、ニコール・キッドマンの名演技をもってしてもグレース・ケリーの品格を出すことはできなかった。
エリザベス・テイラーやイングリット・バーグマンならばグレース・ケリーに匹敵するかと思うが、何しろ同じ時代を生きてきた大女優である。
その「プリンセス オブ モナコ」も1982年別荘からモナコへの帰り道、山の急カーブで自動車事故にあい他界した。
ところでオードリー・ヘップバーンも「ローマの休日」でアン王女を演じ、いわば「おとぎ話」を通じて厳しい現実と戦った女優である。
しかし、それがフィクションであったことが、グレースとは異なっていた。
オードリーの両親ジョセフとエラは1926年にインドネシアのジャカルタで結婚式を挙げている。
その後二人はベルギーのイクセルに住居を定め1929年にオードリーが生まれた。
オードリーはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた。
母の実家がオランダであったこと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって、オードリー一家はこの三カ国を頻繁に行き来していたという。
オードリーは、このような生い立ちもあって英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。
オードリーの両親は1930年代にイギリス「ファシスト連合」に参加し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった。
その後両親は離婚し、第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラはオランダのアーネムへの帰郷を決めた。
オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも「中立」を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。
オードリーは、「アーネム音楽院」に通い、通常の学科に加えバレエを学んだ。
しかし1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして「偽名」を名乗るようになったという。
そしてナチの危険は、オードリー一家に迫っていた。
1942年に、母方の伯父は「反ドイツ」のレジスタンス運動に関係したとして処刑された。
また、オードリーの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監され、もう一人の異父兄アールノートも強制労働収容所に送られることになったが、捕まる前に身を隠している。
連合国軍がノルマンディーに上陸してもオードリー一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による作戦の砲撃にさらされ続けた。 そしてオードリーは、1944年ごろにはひとかどのバレリーナとなっており、オランダの「反ドイツ・レジスタンス」のために、秘密裏に公演を行って「資金稼ぎ」に協力していた。
ドイツ占領下のオランダで起こった「鉄道破壊」などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。
飢えと寒さによる死者が続出し、オードリ-たちは「チューリップの球根」の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐありさまだった。
戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、「連合国救済復興機関」から物資を満載したトラックが到着した。
オードリーは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。
しかし、この時救援物資を送ったのがユニセフの前身「連合国救済復興機関」であった。
そして、オードリーが少女時代に受けたこれらの「戦争体験」が、後年のユニセフへの献身につながったといえよう。
オードリーは女優の仕事から退き、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。
オードリーがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、アフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。
また1992年終わりには、「ユニセフ親善大使」としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である「大統領自由勲章」を授与された。
この大統領自由勲章受勲1カ月後の1993年に、オードリー・ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂がんのために63歳で亡くなった。

ヨーロッパ中世は「魔女裁判」などがあり暗黒時代ともいわれる。
フランスの救国のヒロインであるジャンヌ・ダンルクが魔女として火刑に処せられている。
ところが、自由と民主主義を標榜した現代アメリカで、それが突然に蘇ったような事態が生じていった。
これが現代の「魔女狩り」と言われた所以は、思想調査の公聴会に出席した際に、共産主義者ではナイというだけでなく、仲間の名前を言わなければ、なかなか「身の潔白」を証明することができなかったからだ。
「共産主義者」の友達がいるだろうといわれ、仲間を裏切り、密告、偽証する者さえ現れた。
そして「マッカーシー旋風」の最初のターゲットとなったのが、「ハリウッドの映画界」であった。
あのウォルト・ディズニーでさえも「自由の国アメリカから共産主義をあぶり出すべきだ」と先頭をきった。
共産主義者のブラックリスト「ハリウッド・テン」が作られ、そして300人以上の映画人が追放された。
その中に、後に「ローマの休日」の脚本を書いたダルトン・トランボがいた。
トランボは、1940年代初期「反フアシズム」で米・英・ソが「共同戦線」(人民戦線)をハッテいた時期に、アメリカ共産党に入党している。
1947年9月トランボは非米活動委員会に召喚され、翌月に非米活動委員会「公聴会」が開始された。
いわゆる「思想調査」がはじまったのである。
皆、共産主義者でないという「身の証」を立てねばならず、自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げてしまう。
密告を恐れて、古くからの友人同士が口もきかなくなったりする。
そんな風潮の中、トランボたちは「証言しない」ことで「赤狩り」に抵抗した。そして、長い「悪夢」が続いているようなものだったと振り返っている。
1950年6月、アメリカ最高裁はトランボに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄された。
しかし、トランボは投獄が決まってからも、「架空の名前」で脚本を執筆し続けた。
嵐が吹き荒れる中で、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」であった。
「ローマの休日」はヨクヨク考えると、主人公が二人とも「ウソ」をつきあっている。
ワイラー監督は、トランボの脚本にはなかった嘘つきが手を入れると手を失うという伝説がある「真実の口」のシーンをとりいれた。
しかしそのシーンは、意図しない二人のアドリブだったという。
となると、「真実の口」の微笑ましいシーンは、「赤狩りの舞台」となった公聴会がマルデ「踏み絵」の場と化していたことと、ドコカで関連しているのかもしれないと思えてくる。
トランボの経歴をいうと、1905年コロラド州の靴屋の息子として生れ、南カリフォルニア大学でジャーナリズム作家をめざした。
1935年(30歳)アシスタント・ライターとして映画界に入った。
34歳の時に、「ジョニーは銃を取った」を出版した。1971年にトランボ唯一の監督作品「ジョニーは戦場へ行った」は、この本を土台にしている。
映画「ジョニーは戦場に行った」は戦争ですべての四肢を失った兵士の物語で、この映画の監督が「ローマの休日」の脚本を書いたなど、いまだ信じがたいものがある。
トランボは1979年9月10日亡くなっている。
ところでトランボは、「ローマの休日」で親友の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を借りている。
このことはハンターにとっても危険な事であった。
それがトランボの脚本だとわかれば、二人の関係が疑われハンターも職を失いかねなかったからだ。
1954年の「ローマの休日」公開の翌年マッカーシーは失脚し、「赤狩り」の嵐も収まっていった。
1993年、ダルトン・トランボはスデに他界していたが、「映画公開40周年」を記念して、アカデミー 選考委員会によりトランボにオリジナル・ストーリー賞が授与された。
その授賞式では、トランボ婦人が亡き夫に代わってオスカーを手にした。
なお、2003年、映画公開50周年を記念して、ついに「ローマの休日」にトランボの名前がスクリーン 上に流れたのである。
一方、ウイリアム・ワイラー監督は「ローマの休日」の制作で、映画会社に譲歩して予算の関係でモノクロ映画となったが、ローマ行きにはこだわった。
ウィリアム・ワイラー自身は共産主義とは距離を置いていたが、当時の有名監督やグレゴリー・ペックなどスターたちと抗議団体を設立して「赤狩り」に反対し、ブラックリストにあがった「ハリウッド・テン」をまっさきに応援した一人であった。
ハリウッドが行き詰まっていた時に、ローマが自由な映画活動ができる所だったからだ。
ローマでなら、内容について注文がついても、「知らなかった」で済まされるし、ワイラーの意のままに撮影できたのである。
アメリカではなくローマだから、「赤狩り」で追われた人間とも仕事ができるし、自由に新人俳優も入れて、オールロケーションで映画を撮れる。
ワイラーは信頼できる人物だけをローマに連れて行き、1952年夏 ローマで撮影が開始された。
脚本担当のトランボは、刑務所に投獄される状況の中で、お金を作る必要もあっただろうが、誰よりも優れた映画を作って人々を感動させることこそが、自分を追放しようとする者に対するプロテストではなかったのだろうか。
そしてワイラーは、ハリウッドから追放された人達とともに仕事をすることを望み、それが「ローマの休日」として結実したのである。
このようにみてくると、「ローマの休日」のラスト・シーンは、「何か違った」メッセージが込められているようにも思えてくる。
ローマを去る最後の日の記者会見で、写真を見せられたアン王女はここで初めて、ジョー・ブラッドレー(新聞記者)が「スクープ記事」をネラッテいた事を知る。
しかし、二人は信頼を確かめ合う言葉を密かに交わす。
(アン王女)「永遠を信じます」
「人と人の間の友情を信じるように」
(ジョー)「王女のご信念が裏切られぬ事を信じます」
(アン王女)「それで安心しました」
このラストシーンの言葉は、この映画を作った者達の互いの「約束」の言葉のようにも聞こえてくる。
人間抑圧と猜疑の暗黒に抗し人間性を回復させるには、底抜けの「人間賛歌」を謳い上げることだった。
ワイラーが映画監督としてマッカーシーの「赤狩り」と闘う方法~それが、イタリアに場を移しての「ローマの休日」の制作であった。
それは、グレースが現実に演じた「モナコ公妃」同様に、逼迫する現実と戦うための戦略的「おとぎ話」あったといえよう。