モノから始まる物語

モノから始まって「大きな物語」が展開されていくことがある。
それらのモノに託された気持ちや願いのツヨサが、そういう展開を生むのであろう。
一台のピアノから、一枚のコインから、一枚の写真から始まる物語を紹介したい。
佐賀県鳥栖に「伝説のピアノ」が保存してあるのを知ったのは、鹿児島の知覧であった。
今から10年上も前に、鹿児島の知覧(特攻隊の出撃基地)の平和記念館に行った時、ドイツ・フッペル製の白いピアノが展示してあるのを見つけた。
その「解説パネル」の中に、終戦間際に鳥栖の小学校でピアノを弾いた二人の特攻隊員の願いを永遠に残そうと、特攻隊員の仲間たちが、知覧の地に「同じ型」のピアノを残すことにしたのだそうだ。
またこの時、二人の特攻隊員が実際にひいた方のフッペルのピアノが、JR鳥栖駅前のサンメッセ鳥栖に展示されていることを知ったのである。
それでは、日本に2台しかないコノ「フッペルのピアノ」の物語とはナンなのであろうか。
それは、映画「月光の夏」で世に知られることになったフッペルのピアノである。
鳥栖小学校の体育館にかつて1台の古びたピアノがあった。
子ども達が乗って遊んだりボールを投げたりで危険なため廃棄が決まった。
そのことを聞いた一人の女性教諭が教頭に語った思い出が、思わぬ波紋を広げてゆくことになる。
この女性教諭の証言から、テレビのドキュメンタリー番組が作られ、映画制作委員会が設立され、この話は1992年に映画「月光の夏」として全国的に知られることになった。
1945年6月、鳥栖小学校で音楽を担当する上野歌子先生は、校長室に呼ばれた。
校長室に入ったとき、上野先生は、首に白いマフラーを巻き飛行服姿で立っている2人の青年を見つけた。
青年達は、自分達が音楽学校ピアノ科の学生であり、出撃の前に思いをこめてピアノをひきたいと告げる。
当時、全国のほとんどの小学校にはオルガンしかなかったが、この鳥栖小学校には名器と呼ばれた「ドイツ製フッペル」のグランドピアノがあったのである。
2人の青年は、そのウワサを聞いて、長崎本線の線路を三田川の目達原(めたばる)飛行場から、3時間以上(12㎞以上)の時間をかけて歩いてきたのである。
上野先生は急いで2人を音楽室に案内し、大好きなベートーベンの「月光」の楽譜を持ってきた。
それはマルデ青年の運命を知っているかのようであった。
なぜなら彼の専攻はベートーベンだったからである。
一人の青年が「月光」を弾き、もう1人の青年が楽譜めくった。
上野教諭は、1つ1つの音をシッカリと耳に心に留めておこうと、心をこめてその演奏に聴きいった。
演奏が終わり2人の青年が音楽室を去ろうとしたとき、上野先生は、この短い時間を「共有した証」を残してあげねばと思い、音楽室にあった白いゆりの花を胸一杯に抱いて二人に渡した。
そして、その時に学校にいた皆とともに二人を見送った。
二人は花束を抱え、何度も振り返りながら長崎本線の線路を走って戻っていったという。
その出来事から約2ヵ月後に戦争は終わり、上野先生は二人の青年との「再会」を願われたが、それもカナワヌまま彼らの消息は不明のままであった。
それから、数十年後「ピアノの廃棄」がきまって教頭に語った二人の特攻隊員の話が地元に広がり始めた頃、元新聞記者やテレビ局などの協力により、二人の青年の行方を探すことになった。
ただ十数年後、上野教諭は鹿児島の知覧平和記念館を訪れた時に、戦没者の写真によりピアノをひいた方の青年の死を知る。
しかしページをめくっていた青年の生存はどうかと、元音楽学校の名簿などをたよりにその人を探し出した。
ソノ青年は出撃後エンジン不調のために帰還され生存され、阿蘇の自宅で音楽教室を開いていた。
しかし鳥栖でピアノをひいた特攻隊の青年のことがマスコミで話題になった時も、それが自分であることを家族にも語らず胸にしまっておいた。
というよりも、それを語ることはソノ人にとってアマリにも辛いことであった。
特攻から帰還した者達をナニガ待っていたかについては、「月光の夏」(毛利恒之著)に詳しいのでお読みいただきたい。
この本の中で、福岡市の九電体育館あたりにあった帰還兵を収容するための施設「振武寮」が書いてあり、戦争の「非人間性」を象徴するような施設であったことがわかる。
ここに収容されていた人々の声は、ホボかき消されていったといってよいのだが、ソレは声をかき消すための施設であったということがいえる。
特攻にいったものが、帰還したのでは政府当局にとって都合が悪かったのだ。
そして45年の時を隔て、上野先生はその青年と再会され、人々が見守られる中その人は鳥栖小学校でベートーベンの「月光」を演奏された。
個人的に、鹿児島の知覧から帰った際さっそくサンメッセ鳥栖に行きフッペルのピアノを見に行った。
そして二人の特攻兵がひいた実際のピアノに寄せられた多くの人の思いを、数多くの寄せ書きや絵画、書そして花束などによって知ることができた。
ところで知覧の展示資料の多くを収集した板津忠正氏は、まさに「月光の夏」に登場した青年と同じように飛行機で出撃後、エンジン不調のために帰還されて終戦をむかえたのである。
その負い目から戦友の遺骨収集に精力を注がれ、それらが「知覧平和記念館」が誕生したということを付言しておこう。
ところで、2人の青年の出来事を伝えつづけた上野教諭は、1992年講演先で突然亡くなられている。
なお鳥栖文化会館では現在でもこの出来事を記念して毎年「フッペル平和コンサート」がひらかれている。
またフッペル社があるドイツのツァイツ市と鳥栖との間の交流も行なわれている。
ドイツ・ツァイツ市には鳥栖に近い大宰府光明禅寺をモデルにした日本庭園がつくられドイツ人を驚かせているという。
戦時中にドイツからやってきたたった1台のグランドピアノがこれだけのストーリーを展開をさせたのである。

日本軍人は「生きて虜囚の辱めをうけず」、つまり捕虜になるくらいならば潔く切腹した方がましという伝統的な考えがあった。
戦争で日本軍に捕らえられた外国人のための「俘虜収容所」設立にあたっては、命惜しさに生き長らえた卑怯者どもをナゼ我々が面倒をみなければいけないのかという意見さえあったくらいだ。
しかし国際法上は、捕虜は「人道的扱い」をしなければならないことが定められていた。
日露戦争の時にロシアのステッセル将軍から乃木稀介大将に送られたピアノがある。
日露戦争で降伏したステッセル将軍は、旅順軍司令官の乃木大将と水師営で歴史的会見をするが、その際乃木は、敗軍の将であるステッセルに帯刀を許した。
その礼節あふれる「武士道精神」に感激したステッセルは、アラブの愛馬一頭と夫人愛用の恩賜のピアノを乃木にプレゼントしたのである。
そして乃木は、このピアノを日露戦争でで最も多くの犠牲をだした金沢の連隊に「鎮魂」の思いをこめて託したのである。
その後ピアノは金沢市内を転々とし一時陸軍・偕行社に置かれていたが、戦後さらに人手にわたった後、金沢女子短期大学に収められたという。
しかし、ステッセルから送られたピアノの行方については、金沢の他に旭川、水戸、遠軽などの地にも同じような話が伝わっているために、確実なことはよくわかっていないようだ。
金沢は、旅順陥落後約6000人のロシア人捕虜がおくられた地でもあったので、ステッセルの「ピアノ伝説」としては金沢が一番オサマりがいいのかもしれない。
ところで、日露戦争でロシア人を収容した収容所としては、四国愛媛の松山俘虜収容所がある。
この松山俘虜収容所は、第一次世界大戦の捕虜を収容した徳島の阪東収容所と並んで、あらゆる面で後続の俘虜収容所の「手本」となった。
当時の愛媛県が県民にあてた勅諭には、「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとって、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行為はつつしめ」というものもあった。
日本赤十字社もロシア人負傷兵の救済に尽力し、 病院に収容されていたロシアの負傷兵と献身的な日本人看護婦との間で何らかのロマンスが芽生えたとしても不思議ではない。
2010年、松山城の二の丸にある防火用水を兼ねた古井戸より、表面にロシア語とカタカナが刻まれたコインが見つかった。
1899年製造のロシアの10ルーブル金貨だが、この「金貨の発見」が思わぬ波紋をよび、文字どうりにストーリーの展開を呼び起こした。
ロシア語は人名で「M・コスチェンコ」、カタカナは「コステンコ・ミハイル」それに「タチバナカ」と読める。
調査が進められ、「コスチェンコ氏」は、当時24歳のロシア人歩兵少尉であることが判明した。
では、「タチバナカ」も名前だが、「橘力」ならば日本人の男性である。
そのため当初、このコインは、「日本人男性と将校との友情の証ではないか」という推測がなされた。
さらに資料が調べられが、当時の不慮収容所の関係者に該当しそうな人物は見つからなかった。
その後、「チ」と思われていた文字が、「ケ」ではないかとの 指摘があった。
そうなると刻まれていたカタカナは「タケバ ナカ」ということになる。つまり女性の可能性がある。
そしてその名前で探した所、「該当者」が見つかったのである。
コインにはペンダントにしたと思われる溶接痕もあったという。
松山市の調査でタケバ・ナカさんは日露戦争当時この場所にあった陸軍病院に勤めた日本赤十字社の看護婦であったことがわかった。
また一方の、コステンコ・ミハイル氏は貴族出身のロシア軍少尉で、捕虜になって陸軍病院に入院したことが判明した。
では、松山城の古井戸で見つかったコインは、どのような状況で投げ入れられたのだろうか。
二人が実際にどんな関係にあったかは知るヨシもないが、当時の松山市長はこのエピソードをもとにした作品の提案を受けた時に、新設の「坊っちゃん劇場」の次のテーマはこれでいくことに決めたという。
そして、この話をテーマにしたモニュメントが作られ、劇作家の高橋知伽江氏に脚本と作詩を依頼し、ミュージカルがつくられた。
そして、地元の劇団「わらび座」によって2011年4月に「誓いのコイン」として上演がされたのである。
病院に収容されたロシア捕虜のニコライが、ロシア語の話せる看護師のサチに次第に心を開き、松山市民とも交流を深めるというストーリーである。
脚本の高橋氏はロシア人墓地保存会の会長への取材や多くの資料にあたり、松山市民が敵国のロシアの捕虜に礼節をもって温かく接した事実を劇中に取り込んだ。
市民が伊予漫才で、捕虜がロシア民謡で、歌って踊って新年を共に迎える場面が見ドコロのひとつとなっている。
さて、戦争は終わり、愛を誓ったニコライとサチに別れが訪れる。二人は1枚のコインに願いを込め、お城の泉に投げ込んだ。
しかし帰国したニコライは、革命の混乱の中で命を落とす。
実話をモチーフにした作品は評判となり、「誓いのコイン」は今年3月までの279回の公演で約8万人を動員した。
しかし「誓いのコイン」の話はココで留まらずに、思わぬ方向に展開する。
劇団の「ロシア招聘」の話が舞い込んだのである。
そうして「坊ちゃん劇場」の初の海外公演が実現することになった。
「坊ちゃん劇場」の舞台初日に招いた当時の駐日ロシア大使が、作品に描かれた日露の交流に「大変感激した」と述べたのが発端だった。
その後、日露青年交流事業で来日したロシア訪問団のオレンブルク国立大学日本情報センター長がロシア大使館の計らいで「観劇」する機会をもった。
訪問団長は「戦時下なのに日本人がロシア人を大切にしたことを初めて知った」と語り、その働きかけでオレンブルク州政府などが動き、「誓いのコイン」のロシア公演が決まったのである。
ロシア公演は、日本大使館や日露青年交流センター(東京都)などが主催し、2012年9月14日~19日、ロシアを代表する劇場「マールイ劇場」(モスクワ市)と国立ドラマ劇場(オレンブルグ市)で計4回上演されるという。
芸術大国ロシアに日本の劇団が招致されるのは極めて異例である。
劇中にも「心の国境を越えたい」という言葉が登場する。
終幕後は、大勢が立ち上がって拍手し「ブラボー!」の声が場内に響いていたという。

1枚の写真が人の運命を変えるというのは、撮られた側バカリではなく撮った側にも起きることである。
アフリカで餓死しそうな子供を狙うハゲタカを撮った写真はピューリッツァー賞をとったが、そのときナゼその子供を助けなかったかという批判をうけ、カメラマンは命を絶ってしまった。
ところで「戦場カメラマン」といえば、まるで「自殺願望」でもあるかのように「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパという人がいる。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目で写した写真はよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そこまでデキルのかということは誰もが抱く疑問だが、キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎氏は、その疑問を「一枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
さて、ロバート・キャパとえいば、スペイン内戦におけるワンシーンを撮った「崩れ落ちる人」は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
何しろ兵士が撃たれ崩れる瞬間を捉えている写真だからだ。
しかしこの「奇跡の一枚」は、、コレが本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであった。
実際に自分が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
ところで、沢木耕太郎氏には、「テロルの決算」という作品がある。
社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺したまだ17歳の少年について追跡したものらしい。
そういえば、「刺殺シーン」が見事に写真に映し出されている。
壇上にあがり浅沼氏を刺さんとする少年と、腰砕けになりながらも、なんとか刃を避けようとする浅沼委員長の表情は、どんな言葉によっても表現できない。
そして少年の動きを阻もうとする人々の姿が「臨場感」いっぱいに捉えられている。
この写真が「正真正明」の本物であることは、その周囲の人々の表情によって疑問のないところだ。
ところがロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、イツ、ドコデ撃たれたのか全くわかっていない。
そして、この写真の「真偽の解明」が始動したのは、この写真が取られる直前の「連続した40枚」近い写真が見つかったことによる。
この写真はスペイン内戦の時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、「山の稜線」からアンダルシア地方と特定することができる。
そして連続した写真の解明から「驚くべき真相」が明らかになっていった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかったのである。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」を撮ったのは、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローであった可能性がきわめて高いことが明かされた。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのである。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され「帰らぬ人」となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」といってよい。
そしてそのことにより「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに「帰す」ことになったのである。
ちなみに、タローという名前はモンパルナスに滞在していた岡本太郎の名を貰ったものだという。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線に躍り出てシャッターを押し続けたのは、ある意味「自分との決着」をつけたかったからではないだろうか。
キャパは、危険な最前線にでていかなければ、自らがバランスを失い「崩れ落ち」そうだったのかもしれない。
しかし、そのキャパも、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。