グローカルな人

フィンランドの首都ヘルシンキは青い空にのんびりとかもめが空を飛び交う。
2006年、フィンランドを舞台にした日本映画「かもめ食堂」が静かなるブームをよんだ。
日本人女性サチエ(小林聡美)が経営する「かもめ食堂」を舞台に、夢かウツツか会話も少なくストーリーといえるものもない。
それでも、なぜか見るものをひきこむ不思議な魅力をもつ映画であった。
この映画は、サチエがかもめ食堂にやってきた日本かぶれのフィンランド青年に「ガッチャマン」の歌詞を質問される。
そこで、たまたま見つけた日本人女性(片桐はいり)に「ガッチャマンの歌詞を教えて下さい!」と話しかけると、彼女が全歌詞をメモに書き上げるシーンではじまる。
この映画は、制作者の何らかの体験に基づくものだろうが、個人的にはフィンランドの青年が日本の「ガッチャマン」を知っているという設定はどうか、という疑念が残っていた。
しかし、ほんの数日前に見たテレビ番組で、その疑念は氷解した。
ヘルシンキ郊外の公園では「桜まつり」が行われていて、桜を愛でながら和太鼓に剣術、また東京神楽坂発祥のパラパラ・ダンスまでが演じられていたのである。
というわけで、フィンランド人がガッチャマンを知っていたとしても、何ら不思議ではない。
それにしても、このフィンランド人の「親日ぶり」の背景には一体何があるのだろうか。
この番組では、フィンランドと日本との「接点」に一人の日本人がいたことを伝えていた。
その日本人とは、旧五千円札の肖像でなじみ深い新渡戸稲造である。
新渡戸稲造は第一次世界大戦後に設立された国際連盟の事務次長として、常任理事国だった日本を代表する世界のリーダーの一人として国際的な役割を果たした。
また、日本人の精神を「BUSHIDO」として世界に紹介した人物でもある。

近年、フィンランドの子供達が数年連続で学力世界一となったニュースで、日本でもフィンランドへの関心が高まっている。
そして、何から何まで日本と対照的かと思っていたフィンランドは、意外にも日本と共通点が多い。
国土面積は日本とほぼ同じだが人口は520万人と少なく、フィンランドの名は18万にも達するという湖の数の多さから「沼の土地」という意味であり、広大な森の恵みに満ち溢れている。
フィンランドの先住民はアジア系(フィン人)で、その位置はヨ-ロッパで日本に一番近い国なのだ。
これは意外だったが、飛行機でヨ-ロッパに行くときは北極圏を通過するので、そのことを実感をもって体験できる。
そして日本人と同じくキャラクターが大好きな国民性である。
サンタクロースの生誕地でムーミンを生んだ国、そしてサンタクロースは季節をかまわずに活躍している。
フィンランドは森と湖の国であり、国土の4分の1が北極圏で幻想的な白夜やオーロラをみることもできる。
そしてフィンランド人と日本人は、「風呂好き」の点でも共通している。ただフィンランドで風呂といっても日本のようにザンブとはいる風呂桶などはなくシャワーとサウナである。
そのかわり目の前の湖が風呂桶がわりになったりする。
フィンランドには1500年もまえから「スモーク・サウナ」と呼ばれサウナがあり、本来は麻の乾燥や肉を燻製にするためなどに使用されていたという。
ほとんどの家にサウナはあり、サウナはフィンランド人にとって、家族団欒の場所、リラックスできる社交場ともなっている。
サウナの後に森の湖に飛び込むのもさぞや爽快だろう。
高齢化がとても早く進行している点で日本と共通している。
フィンランドはEU諸国の中でも、最も速いスピードで高齢化が進んでおり2030年には高齢化率25%に達するといわれており、日本もOECD諸国中でそれが最も速く進んでおり同年には28%になると予測されている。
それにともないフィンランドの福祉施設は大型収容型から小規模生活型に移行し「在宅ケア」が非常に充実している。
個人的に唯一接したことのあるフィンランド人は、福岡県の高校でALTとして働く女性であった。
見上げるばかりの長身の彼女によると、フィンランドでは10人~20人の学年の違う生徒が同じ教室で学力に応じて与えられた課題を互いに教えながら学び、分からないことがあるとブースに入って先生から教えてもらうのだそうだ。
フィンランドが高学力に繋がる客観的なデータの一つは図書館の利用率が世界一といことで、そうした読書体験をよく家族で話すという。
小さな頃から寝る前に親が色々な話を読み聞かせるという習慣がムーミンのようなファンタジーを生む原因なのかもしれない。
彼女のによれば、日本の進学校の生徒達でさえも、その子供っぽさに驚いたと語った。
フィンランド人の子供達が大人びているというのは、ファンタジーばかりではなく現実世界の「過酷さ」をはやくから教えられることと関係しているからかもしれない。
この国の人々は民族の生き残りを日本人以上に真剣に考えてきた人々でもある。
フィンランド平和でのんびりといった感じの国だが、実はその歴史には重いものがあり「徴兵制」のある国の1つでもある。
1939年ソ連のスターリンはフィンランドへ侵攻し、フィンランドは敗戦国の立場に立たされたが地理的にも西側の支援は期待できず、ソ連と友好協力相互援助条約を締結し、独立および議会民主制と資本主義の維持と引き換えに国際的には事実上の東側の一員として行動することとなった。
また、マスコミにおいて自主規制が行われ、冬戦争におけるソ連の侵略などに対する言及はタブーとなり、これらの現象を示す「フィンランドックス」という言葉は西側諸国において、政治的に否定的な意味合いをもって用いられた。
そしてフィンランドでは、1980年ころまでは実際にソ連に批判的な言論はできない雰囲気があったのである。
フィンランド人の男子は基本的に短くて6ヶ月は義務で軍で訓練に就き女の子の場合は志願制となっていて、希望すれば男の子と同じように軍で過ごす。
女性ALTが兵士の姿で森の中を機関銃をもって走っている姿の写真をみせてもらったことがある。
この写真を生徒に見せたら、生徒達がALTを見る目が全然変わっていたに違いない。

国連事務次長であった新渡戸稲造が直面した大きな問題は、現在の「ウクライナ情勢」の北欧版といったものだった。
フィンランド南西部の島オーランド諸島は、もともとフィンランド大公国の一地方としてスウェーデン王国に帰属していた。
しかし、スウェーデンが1809年に、ロシア帝国との戦争に敗れたことからフィンランドが割譲されたため、オーランド諸島もフィンランド大公国の一部として「ロシア領」となった。
1854年にクリミア戦争に参戦したイギリス・フランスはスウェーデンの参戦を確実にするため艦隊を派遣して同地のロシア軍を攻撃した。
スウェーデン政府は一旦は中立政策をとっていたものの、クリミア半島でのロシアの劣勢を見たスウェーデン政府は参戦の意志を表したが、すでに戦争は終結に向かっていた。
そして1856年のパリ条約によって、スウェーデンとフィンランドとの中間の海域にあるオーランドは「非武装地帯」に指定された。
しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始した。
ところが大戦末期になるとフィンランドにおいてロシアからの独立の気運と、オーランドにおいてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こった。
オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出する一方、フィンランドはオーランド分離を阻止すべく1920年にはオーランドに対し広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させた。
オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる結果となったのである。
このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の「裁定」を託し、フィンランドもこれに同意したのである。
1921年、新渡戸稲造を中心として、オーランドのフィンランドへの帰属を認め、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めた「新渡戸裁定」が示された。
そして1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立したのである。
その内容というのが、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
しかしこのおかげでオーランド諸島は今や「平和モデルの島」となり、領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになったのである。
ここの住民達は、新渡戸氏がこの島に平和にしてくれたことに感謝しており、新島をとても尊敬していると語った。
ところでフィンランドが日本に親近感を覚えているのは、この「新渡戸裁定」ばかりではない。
それは、トルコが「親日国」となったまったく同じ理由である。
日露戦争で日本がフィンランド人にとって長年の脅威であったロシアを打ち負かせたことで人々に勇気を与えたということである。

さて、新渡戸稲造の領土問題の裁定のバックボーンは、新渡戸のもつ国際性だけでは説明できない「何か」があるように思える。
新渡戸稲造は、幕末に生まれた。
新渡戸の祖父にあたる新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった灌漑事業と森林伐採事業を成功させ盛岡藩の財政を立ち直らせた人物でもあった。
天皇陛下が東北巡幸をされた折に、十和田(青森県)の新渡戸家を訪問して稲造の祖父が開拓事業をおこなった三本木を訪れて広大な水田を見てその功績をほめ、家族・子孫たちはその志を継ぎ、今後ますます農業に励むようにという言葉を与えた。
東京にいた新渡戸はこのことを知り、自分の家族の歴史と今後の自分の責任の重さを実感し胸が高まったという。
新渡戸が学んだ札幌農学校の先生クラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の学長の時、日本政府からの要請を受け、札幌に約8ヵ月滞在し、札幌農学校(現在の北海道大学)の基礎を築いた。
1876年、日本から使者がやってきて「日本で酪農を教えていただきたい」と頼まれる。
当時の日本は戊辰戦争後で、多くの若者が傷つき、復興には、若者を教育することが必要だった。
しかし、学長が2年間留守にすることはできないと反対の声があがる。
クラークは、日本の置かれた状況に同情した。南北戦争で多くの教え子を失った経験から、ぜひ未来ある若者たちに、農業を教えたいと考えたからである。
1876年に横浜に到着し、24人の第一期生が札幌農学校に入学した。
当時、札幌農学校の入学生は元武士の次男や三男で、戊辰戦争の「敗戦組」がほとんどであった。
農民と同じ仕事をすることに抵抗を感じて酒を飲んで荒れる生徒もいて、授業もままならなかった。
そこでクラークは生徒を集めると、大好きなワインを投げ捨て、禁酒を宣言したので生徒たちにも酒を禁止した。
クラークは、「Be gentleman!」だけを規則としたという。
1877年、クラーク博士の帰国が近づいたころ、西南戦争が始まる。別れの日、生徒たちは父を失うような思いだった。
馬上のクラークは、「Boys, be ambitious, like this old man」少年を大志を抱け、この老人(クラーク)のごとく、と言い残して去っていった。
アメリカに帰国後も文通を続け、教え子たちの教師であり続けた。
新渡戸稲造は、札幌農学校第二期生で、クラークの指導は直接受けていないが、クラークの後継者として来日したアメリカ人教師たちによって、英語で教育を受けた。
この時代、日本の文化や伝統をよく知りしかもそれを英語で世界に発信することができた人物として新渡戸稲造のほかに、内村鑑三、岡倉天心などがいる。
この三人の共通点は、歳がほとんど同じで「論語」を教材にした江戸時代の教育を受け、十歳にある前に明治維新を経験し、新しい西洋の学問を外国人教師から直接教わったということである。
まさに「和魂洋才」の生きた見本である。
ところで「新渡戸裁定」のもうひとつのバックボーンに、戊辰戦争で敗れた新渡戸一族の開拓魂があるように思う。
新渡戸は札幌農学校卒業後に農商務省に勤務しており、新渡戸は人間や行動を理解するうえで土地土地の「地域性」(ローカリティ)が占める大きさを身にしみて感じたかもしれない。
そして新渡戸は、各地の地誌や習俗などに大きな関心をもつようになった。
新渡戸のこうした強い郷土への関心の背景には、新渡戸が戊辰戦争で賊軍であった南部盛岡藩出身であったことを忘れてはならない。
柳田国男が民俗学の大家となったのも、農商務省の先輩・新渡戸稲造との交流があったのではないかと推測できる。
柳田は、農商務省の役人時代の農村調査から次第に農民の生活の背後にある伝承や祖先信仰などに惹かれて行く。
柳田も山人や漂泊者といった一所不在の人々に関心をもちその研究に力を注いでいるのも、自らの境遇と重ね合わせ共感しているからではなかろうか。
そして1910年、東京小日向の新渡戸稲造邸で、柳田は貧困に苦しむ農民の救済と自立という共通の問題意識をもった新渡戸稲造とともに「郷土会」を発足させている。
その例会では有識者を招いて、様々な顔ぶれが集まり、新渡戸はよきホスト役を務めた。
新渡戸は自宅にすぐ近い拓殖大学の学長もつとめたことがあるが、この会には外国人の飛び入り参加や学生の参加などもあり、かなり自由な雰囲気で報告・発表などがなされていた。
実は柳田国男が「遠野物語」を書いた時、その副題として「外国人に捧ぐ」と書いている。
おそらく日本の辺鄙な農村の有り様が、何らかの国際的な普遍性を持ちうるという認識があったにちがいない。
ところで「グローカル」という言葉はグローバルでありつつもローカルであることを意味する。
グローカルの例として、世界的な企業が設立する現地法人などで、地域の文化や需要に応じるために独自の商品を開発したりするケースで、ハンバーガーショップの日本の店舗における「てりやきバーガー」などがソノ典型例である。
グローカルを人間にあてはめようとすると「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」という言葉が知られるが、新渡戸稲造ほど「グローカル」という言葉がふさわしい人間はいない。
ただし新渡戸の場合、「ローカルに考え、グローバルに行動した」というのが真実に近いかもしれない。