共同体と一般意志

政治や経済において「徳」を求めるのは「場違い」なことのなのだろうか。
ギリシアにも中国にも「徳治政治」という言葉がある。
少なくとも皇帝や国王については、「徳をもって治める」ことが求められたが、それでは、治められる側の「民衆」の徳はどうなのだろうか。
今日「政治家の質は国民の質を反映する」とされるが、民衆からすれば立候補した政治家はミナ似たりよったりで、他にイナイから選んだにすぎないということをツブヤキそうだ。
しかし一番の問題は、ソンナ候補しかいないということ自体が「政治が国民の質を反映している」ということの意味なのだ。
徳ある人物がタトエ語っても、国民にその言葉が通じソウモもなければ、立候補しないだろう。
または、長い視野から国民に「犠牲」を強いることを語れそうもないので、彼は最初から選挙に立たない。
地元の「利益誘導」とか「福祉」バラマキ型の似たような政治家バカリが立候補するようになる。
近代において、利己心の発揮を肯定した「経済学の父」アダム・スミスは、イギリスのグラスゴー大学で「道徳哲学」を教えていた。
個々の利己心が社会を豊かにするという「予定調和説」を唱えたが、利己心はアッテモ「徳を失った」人間マデを想定していたわけではなかろう。
日本においても、近江商人はじめ日本の商家の教えの中には「正直を第一とせよ」といったものが入っている。
さて、それでは「徳」とは何なのだろうか。
キリスト教ではパウロも「愛に徳を加えよ」といっているが、徳の本質は「自己犠牲」にある。
しかし「自己犠牲」を日常一般に求めるなら「有徳者」はあまり多くはいないが、せめえ利益を前にしても「自己抑制」が働くことを「徳ある」ことの第一歩とみたい。
3・11の日がもうすぐやってくるが、その時日本人が世界に称賛されたのは、危機にあっても「自己抑制」を失わない「徳」といってよかった。
老人が、若いものに食べさせろ、とオニギリを手渡すなどした。
自己抑制とは、自分のことはヒトマズ「おく」という周りを見る気持ちで、聖書でいえば「汝、貪るなかれ」という戒律にも近いであろう。
さて、古代ギリシアのアリストテレスは「人間はポリス的存在である」といった。
そして、「ポリティクス」(政治)は、ポリスを「語源」としている。
つまりアリストテレスは、共同体と個人との関係を最初に追及した人といってよい。
アリストテレスは、自分のことをハナレテ意見する人々が集まって「社会にとって何がいいことか」を議論し煮詰めていけば「共通善」に達するとした。
この政治の活動において、各市民は互いに相手を説得するワザを磨き、他人の目からものを見ることを学ぶ。
相手の視点から見ない限り、相手を説得できないからである。
さて「共通善」イクオール「公共の利益」とはいい難いが、「一般意思」を「公共の利益」を目指すものとするならば、アリストテレスいうところの「共通善」はルソーいうところの「一般意思」と近くなる。
ルソーの一般意志は自らの利益を求める個々人の「特殊利益」の総和としての「全体意志」とは異なり、あたかも国家が意志を持った1つの人格であるかのように、国家それ自体に属する意志である。
会社や財団などの「法人」が、「法的」に意志を持った一つの人格にナゾラエられることを思い起こせばわかりやすい。
会社の「取締役会」でそれが決まれば、ここの社員はそれに同意していなくても、対外的には会社の意志を述べなければならないからである。

さて、今日という社会を「共通善」や「一般意思」の観点から見ると、ナント離れてしまったことであろうかと思わざるをえない。
一般意志を念頭におきつつ、この社会がそこからドノクライ乖離しているかを見てみたい。
経済学で現実にはない「完全競争モデル」を想定して、独占や寡占の「社会的非効率性」を論じるが、ポイントはヤハリ「金の力」である。
日本では、1928年に「普通選挙制度」が始まって、皮肉にも「選挙運動」に金がかかるようになっった。
そして立憲民政党と立憲政友会の「二大政党」の時代には「疑獄事件」が続発した。
政党は「財閥の手先」という印象を与え、国民の信頼を失った。
また、議会の審議は議事妨害や乱闘が相次ぎ、反対派の「買収」などもおこった。
選挙に勝つために与党は内務省・警察を通じて野党の選挙運動に徹底的に「干渉」した。
そのため、与野党が入れ替わると現職の警察官は一斉にクビになることなどアタリマエで、地域が真っ二つになったところさえあった。
結局、政党が我が身のことダケを考えていたわけだ。
その結果、人々は「中立公平」に見える「軍部」や「官僚」に世の中を変えてほしいとの期待するようになる。
そして「昭和維新」と称するテロ事件が相次いだが、犯人は国民的な人気を博し、たとえば5・15事件の青年将校の「減刑嘆願書」は100万通を超えたほどだった。
「革新官僚」は軍部独裁に道を開いた面があるが、新設された厚生省で「国民健康保険制度」などをはじめ、財閥を弱める経済統制や社会的な弱者を守る「借地・借家法」の整備を進め、国民の支持をえた。
現在は軍はないし、官僚は不人気である。
しかし、既成政党への不信感から「第三極」に突破口を求める風潮は今と近いものがある。
東京と知事選で、元自衛隊幹部の田母神氏やネット選挙を唱えた家入氏が「高得票率」を得たのは、そういう動きのひとつであろう。

2012年は、18世紀フランス思想家ジャンジャックルソーの生誕300年祭にあたる。
今、個人の自由と公共性の相克やポピュリズムなどの「現代の課題」を考える上で、ルソーをどうよめばいいのか。
たとえば「脱原発」が一般意志が、電力消費を抑えるために不便な生活に耐える義務が生じることをどう考えるか。
公共と個人の利益が相反する問題に向き合うときにルソーの思想はヒントとなる。
社交界になじめなかったルソーは世間から距離をおき、出版物というメディアを通じて不特定多数と関係を結んだ人なので、ネット社会のコミュニケーションに通じるという。
今はポリスの時代ではなく、資本や人は国境さえ、軽々と超えていく時代である。
最近、早稲田大学教授の東浩紀氏のJJ・ルソーの「新解釈」は興味深い。最近のソーシャル・メディアの発展と重ね合わせた「解釈」だからである。
我々は「みんなの意志」として「世論」をイメージするが、世論がいつも正しく「公共の利益」に向かうかといえば、そうとはカギラナイことを知っている。
そこでルソーは、そうした個人個人の利益の総和にすぎない「全体意思」よりもサラニ抽象度が高い「一般意志」という概念、つまり「誤ることなく公共の利益をめざす」意志を措定したのである。
ルソーはジュネーブのような小さな都市国家での「直接民主制」を理想として、「代議制」を必要悪と考えた思想家だった。
つまり政治的権利の他者への「委譲」なんということはアリエず、有権者の権利というものは、アクマデモ直接国家に結びついていなければならないとした。
ならば議会政治の前提としてある政党、つまりその中で勢力拡大や権力奪取をはかろうとする「政党」に価値を求めるべきでない。
しかし、ルソーの「直接民主制」への固執は、通常考えられる以上にはるかにラディカルである。
ルソーは「社会契約論」の中で次のようなことを言っている。
「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民はいかなるコミュニケーションもとらいないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はツネニ良いものとなるであろう」と。ちょっとビックリな考えである
ルソーがいいたいこととは、市民は十分な情報が与えられた上で、互いのコミュニケーションをとってイナイほうがヨイ、といっているのだ。
ルソーは結社ばかりか政党をも認めず、「一般意志」を形成するための市民間の討議や意見の調整さえも、認めてイナイという面がある。
そしてコレは、ネット社会でしばしばいわれる「集合知」を思わせるところがある。
ルソーは、一般意思は特殊意志の単純な和(全体意志)ではなく、むしろ「差異の和」だとした。
ルソーによれば、みんなの利益を意味する「一般意志」は、皆の意見の差異が消えて合意が形成されて生み出されていくのではナク、差異のアル多様な意見が公共の場に表れて「一気」に成立するものとしている。
こういう考え方だと、「二大政党制」などというものは、「差異」の数を最小限に限定するものであり、モットモ「一般意志」の条件から遠いものであるといわざるをえない。
ルソーは、一人一人の人間は「孤独」で不完全な存在ととらえている。
だから皆を利する「一般意志」と、特殊意志の総和たる「全体意志」とが異なるのは、ソレゾレの人間が何が本当に幸せであるかを分かっていないからである。
現代において、ネット上のブログの書き込みを見ると、人々のナントナク表出した「無意識」みたいなものでしかない。
また検索においても、一文字打ち込むと多くの人々が打ち込んだ文字の組み合わせの数が多いものから表示され、多くの人々はその検索のパターンを無意識にタドリつつ情報を集めたりしている。
そうやって「無意識」が形成した政治意識みたいなものがナントナク「みんなの意見」を形成している。
それがルソーの「一般意志」と等しいとはいえないにせよ、差異が差異のまま一気に「みんなの意識」が溢れ出ているという感じは、似かよったものがある。
ルソーはもちろん、インターネットやソーシャル・ネットワーク社会を予知したわけではないが、まとまっていないことにこそ価値がある「集合知」というものの価値にはやくも気づいていたといえるかもしれない。
ところで、日本の社会にもホンノ少しだけ「集合知」の条件に近接した社会があった。
ということを、山本七平の「日本人とは何か」という本の中に見出した。
人が氏族や大家族に属している場合、家長権等を無視して意志表示を行うことなどまず望めない。
しかし「縁」を断ち切って「出家遁世」し、「個人」となって僧院に入り「平等な」立場で仏陀に仕えている立場だと、自由とか独立の意志を示すことができるということである。
だが、寺院といえども組織には上下があり、その組織の長は人事権を握っている。
特に平安時代は「鎮護国家」の時代で僧は国家公務員だから、あるゆる俗世の作用を受けやすい。
しかし時として、氏族や大家族と違い血縁や序列のない「一味同心」的な集団が表れることもあったというのだ。
比叡山延暦寺では衆徒3千で、集会は大講堂の庭に集まる。そのときの服装は異形であり、全員が袈裟で顔を覆い隠して意志決定が行われた。
つまり「秘密投票」が守られた。
ちなみに多数決を採用した多くの民族において、その結果は「神慮」や「神意」が現われたと考えられたので、投票結果は全員を「拘束」することになる。 だから、こういう場で賄賂などで動かされれるようなら、それこそ「神仏の冒涜」となるのだ。
この比叡山での意思決定方法を見ると、シガラミに拘束されない「集合知」を生かしているようにも思える。
まとめていうと、「群集心理」は「同調」によって生みだされるが、「集合知」は「差異」によって生み出されるということだ。
このような「ルソー的解釈」によって「一般意志」に近づこうということが、果たして正しいことなのか、危険なことなのかはよくわからない。
少なくとも、「合意」というプロセスを欠いているので、それを実行する段階で大きな問題がある。
アメリカの大統領選にあれだけの時間をかけるのは、「合意」のプロセスを大事にして、そこに「共同体」意識を持ってもらおうという意図があるからだ。
さて、グローバリゼーションとインターネットに覆い尽くされた社会では、世界を一つの「共同体」と見なすことは可能だが、そこに「一般意思」を見出すなど途方もないことのように思える。
そればかりか、情報の広がりや人の動きは格差や紛争やテロの蔓延に力を貸しているような気さえするからだ。
そんな中、長く紛争を続けてきた国どうして「共通の教科書」を作ったというニュースに驚かされた。
第一次世界大戦中の西部戦線では、スイス国境からフランス領内を通ってイギリス海峡まで抜ける、数百キロに及ぶ塹壕が掘られた。
死の迷宮とも呼ばれた塹壕に若者達はこの長大な線上で死を待った。
それから約100年、死の線上近くの町で2006年、一冊の本が完成披露され、世界の教育関係者を驚かせた。
独仏の研究者が共同で執筆した高校教科書「歴史」であった。
歴史「事実」は国を超えて共有できる。しかし歴史「認識」は共有できないし、すべきでもないという考え方が強かったのを打ち払った。
2003年 仏独青少年議会で高校生が提案したのがきっかけで、シラク大統領とシュレーダー首相がその場で賛同し、「政治主導」で動き出したという。
日本と周辺諸国では、「政治主導」で嫌韓・嫌中が生まれているのとは正反対である。
要するに政治のリーダーシップと市民社会のイニシアティブが交差したのがこの発議だった。
ともあれ、国境を越えて歴史認識を共有するとは、国民国家を「超越」することである。

現在、アメリカの選挙はお金に支配されている。
とてつもない資金を集めて、それを選挙活動に使った。
ソノ多くはネガティブ広告や中傷に費やされた。
お金の役割があまりに大きくなり、草の根民主主義を生かす役割がとても小さくなった。
現実には富裕層が巨額のマネーを政治献金に投入している。
数百万ドルも資金を使うことで、彼らは本当の民主主義を体現するものからはるかに遠いところにいってしまった。
富裕層や大企業による献金が政治システムに大きな打撃を与え、市民の欲求不満を高めて、行き詰まり感が生じている。
アメリカの「二大政党」は党派性ムキダシの紛争を繰り広げ、ほとんどんど何も成し遂げることができない状態にきているという。
二大政党による「分断政府」が登場したことによって、財政問題の表れたように、国内政治の状況は悪化した。
サンデル教授は、こういう事態をアリストテレスの共同体の思想から解釈するため「新アリストテレス派」といわれる。
サンデル教授によれば政治の正義を語ることは、利益を分配するかではなく、どう責任を担うかという二面性があるはずなのに、今日の政治は責任や負担を語ることから逃げているという。
だからこそ一般市民が政治家達に共通善には利益の共有だけではなく、負担の共有の側面があることを忘れさせないようにしなければならないという。
こうした自己負担や犠牲をも論じることによって、「共通善」は次第に実現していくという。
今の日本で、「脱原発社会の実現」や「集団的自衛権」の容認するしないの問題にせよ、今の政治家のトーンは、その点でカナリ低いように思える。