イランと日本人音楽家

最近テレビで、映画「アナと雪の女王」の主題歌で大ブレイク中のMayJが、母・ホマさんと念願のイランへの里帰りをした時の様子が紹介されていた。
彼女によれば「日本の次に血が濃いのに、イランに行ったことがなかった」ことがずっと心にひっかかっていたという。
つまり今回の里帰りは自分のルーツを確かめる旅でもあった。
MayJは、関西出身の日本人の父とテヘラン出身の母との間に生まれたハーフである。
ホマさんは、35年前に留学のために来日し、東京大学の大学院で建築を学び、博士号も取得したという才媛である。
MayJは、本名、橋本芽衣で、「メイ」という名前には、イラン語で「才能豊かな」という意味が込められているという。
イランといえば、イスラム文化を色濃く残す国とばかり思っていたが、それほどでもなかった。
May.J自身、故郷イランに来るまでは、女性は全身黒のイメージでを抱いていたが、町行く女性たちはカラフルなスカーフを巻き、派手目なメイクでオシャレを楽しんでいるように見えたそうだ。
イランでは、厳しい制約の下、最大限のお洒落を行うため、ヒジャブやスカーフはとてもお洒落になっているという。
今や スカーフの色も割りと自由で、バザールには安値で可愛らしい柄のスカーフがたくさん売られていて、少女から高齢まで各々の個性でお洒落を楽しんでいる。
そしてMayJも、何百年も昔から賑わうバザールのファッションストリートで、ショッピングを楽しんだ。
さて、この歴史も古いイランのバザールは、映画「アルゴ」には緊迫の場面として描かれていた。
一昨年公開された映画「アルゴ」は、1979年のイランのアメリカ大使館人質事件を題材としたアメリカ合衆国の映画である。
イラン革命真っ最中の1979年、イスラム過激派グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人外交官が人質に取られた。
だが占拠される直前、6人のアメリカ人外交官は大使館から脱出し、カナダ大使公邸に匿われる。
大使館からの脱出者がいると知らせを受けたアメリカ政府は、すぐに彼らの国外「救出作戦」を検討し始めるが、脱出者がイラン側に見つかれば「公開処刑」の可能性が高くリスクの高いものだった。
そんな中、CIAの「人質奪還のプロ」であるトニー・メンデスは、6人にSF映画のロケハンに来たハリウッドの撮影スタッフのフリをさせるという作戦を思いつく。
またメンデスは、敵を騙すためには味方をもの騙すことが必要であると考え、そして映画界の面々はこのデッテ上げに「真実味」をもたせるため、脚本の権利を取得し、ニセの製作会社を設立、雑誌に広告を掲載、製作発表パーティを開催してニセ映画「アルゴ」を世界に向けて宣伝したのである。
さらに、6人の館員にカナダ人映画スタッフにみせかける特訓を行い、数日の訓練ののち一行は空港へと向かう。
そして、ニセの書類で税関をクグリ抜け飛行機に乗り込み、飛行機がイランの領空を抜けて脱出を成し遂げたのである。
この事件から30年以上が経ち、「ハリウッド」がアメリカの安全に貢献したという物語が、「ハリウッド映画」になった点でもユニークだった。
この映画は、我々にイランのイメージをある部分固定させたようだ。イランの民衆による騒然たる暴動を見ただけに、「MayJ里帰り」で見たイランは一頃より随分落ち着いた感じがする。
イランには「イスファハーンは、見ずしてペルシアを語るなかれ」という言葉がある。
MayJの故郷帰りでも 当然に親族とともに世界遺産イスファファーンを訪れた。
そしてMayJは、ペルシャ芸術の黄金時代の粋を集めたエマーム広場にあるモスクで“アナと雪の女王”を熱唱する体験をする。
女性が人前で歌うことはほとんどないイランで、ましてやモスクで歌を歌うなどということが、特別とはいえ許されたのだから、イランもある程度自由になっているようた。
しかも、彼女が歌った「地点」というのが、広場全体に声(祈り)がよく通るように特別に設計された場所であった。
イラン人で、世界的に知られている歌手やダンサーの数は多くはない。
これは、イスラム教の厳しい規制のせいで、政府の中には「音楽を飲酒や豚肉食と同様に、神に反する行為である」と考える人たちがいるからだ。
イランのポップ音楽は1970年代に誕生し、イランの若い歌手は、国内だけでなく、トルコやヨーロッパでも活躍するようになった。
英語の歌を歌い、アメリカのスポンサーに支えられ、アメリカ音楽市場に出るきっかけも手にしたが、1979年の革命より、イスラム聖職者が音楽を禁止し、多くの若者の夢は泡となって消えていった。
革命を担い、新たな政府の下で権力を持った活動家たちは、前パーレビ国王政権の時代に活躍していた歌手や音楽家たちを「国王勢力」として断罪し、彼らの命さえも危ぶまれたのである。
革命を成就させたホメイニ最高指導者は、音楽を「ハラーム」とみなした。
イスラムで「ハラーム」は、「神様が禁止」している行動や物を指す。
ハラームの範囲は時代の流れに変化し、フェイスブックも現在、ハラームに指定されている。
ホメイニ師の決定を受け、イランの若い音楽家たちは絶望に直面し、多くの有力な音楽家たちは革命が起こるとほぼ同時にイランを発ち、アメリカやヨーロッパに移民していった。
ホメイニ師は81年に、音楽の一部について扱いを「ハラル(聞いても構わない)」に変更し禁止令は解かれたが、政府による厳しい規制は残った。
例えば、ダンス向けのリズム、愛や異性をテーマにした歌詞を持つ楽曲は、作ることも、歌う・演奏することも、聞くことも許されなかったのである。
さて、MayJは、イスファハーン訪問後母ホマさんが青春時代を過ごした思い出の地をめぐった。
その中には、まるで京都のように川のなか席をもうけ、食事をする景勝地などもあった。
そして、美形ぞろいのイトコやハトコと会いすっかり打ち解けた様子であった。
その時、4年前に他界した祖母ファリデさんが幼きMayJを抱いた写真をいつも知人に見せ、日本で歌手をしていることを自慢していたことを知る。
祖母はロシアから亡命しイラン人男性と結婚し波乱の生涯を送った。
そしてMayJは、会うことがかなわなかった祖母の墓参りをして、花を手向けた。
ところで、イラン人はもともと、音楽とダンスが大好きな国民である。
楽器はなくても、机や容器など、手元にあるものを叩き、皆で一緒に歌を歌うことで雰囲気を盛り上げる。
どんな狭い場所でもクラブの雰囲気に変えてしまうのだ。
イランの人々は、「Let It GO」と歌うMay.Jのブレイクを、遠い憧れをもって見ているのかもしれない。

日本人とイラン(ペルシア)の関わりでいえば、二人の日本人ミュージシャンのことが頭に浮かぶ。
10年ほど前に、日本古代の渡来人・秦氏のことを調べるために瀬戸内海に面した赤穂近くにある坂越という港町を訪れた。
坂越は秦氏が日本に渡来した際に上陸した地点といわれ、聖徳太子のブレーンとなった秦河勝が太子の死後、蘇我氏の追及を逃れて避難した場所でもある。
大避神社の境内に坂越の船祭りで使う船が奉納してあった。
その説明書に意外な名前を見つけることができた。この秦氏からいくつかの氏族が分れたのだが、その一つの氏族が東儀氏なのである。
この時、当時雅楽演奏でテレビによく出演される東儀秀樹氏が秦氏の子孫であることをはじめて知った。
さっそく東儀秀樹氏のホームページを開くと、東儀秀樹氏が長年夢見ていた自分の祖先である秦河勝の墓を訪れ雅楽を奉納することがついに実現した時の思いが記載してあった。
 そして、この坂越という港町には生島という小島が浮かんでいる。
この生島は秦河勝の墓があるところで、対岸の大避神社には秦河勝のマスク(面)が保存されている。
そのマスクは鼻梁の特徴などから中近東ペルシア人の顔の特徴を著しくもつものであった。
 雅楽のルーツをたどると、中近東のペルシアあたりからの流れと中国からの流れとがあると聞くが、こういう点からみても、秦氏や東儀氏は中国経由とはいえそのルーツは中近東にあるのではないかと勝手に推測した。
ところで、日本の古代文化はきわめてコスモポリタンな文化であった。
そのことを示す最大の証拠は奈良の正倉院にある。
正倉院の宝物は、中国・朝鮮の宝物ばかりではなく、シルクロードをつたわってきた中近東ペルシアの文物も含んでいる。
この正倉院宝物の多くは聖武天皇のものだといわれている。
そして、正倉院にはインド起源とされる五絃琵琶や古代ペルシアが起源とされる四絃の螺鈿紫檀(らでんしたん)の琵琶が現存する。
 聖武天皇は、古代国家が氏族の闘争により分裂しかかった頃、仏教の力で国をおさめようと国ごとに国分寺をつくらせ、全国各地にある国分寺のセンターとして奈良に東大寺をつくったのである。
752年、東大寺大仏の開眼式では、僧正が手にした筆から伸びた紐を聖武天皇・光明皇后などが手でもって大仏に目をいれたのである。
そしてその式典は同時に日本国主催による国際音楽祭の様相を呈したのである。
日本ではあるコンサートホールが建つとその建造物の権威を高めるために、一流のオーケストラなどが招かれ演奏会がおこなわれる。
東京・丸の内の日生劇場ではベルリンオペラが開催されるといった具合である。
東大寺の完成式(開眼式)では、アジア各国の楽人達が独自の演奏をおこなったのである。
中でも、奈良時代にペルシアから(中国経由)より渡来した琵琶は「楽琵琶」として、現在でも雅楽の演奏に用いられている。
「楽琵琶」では声楽は伴わず、合奏の一部として用いられている。
琵琶を弾きながら「平家物語」を語るのを平家琵琶といい、鎌倉時代に始まったといわれている。
この平家琵琶は、雅楽に用いる楽琵琶に形は似ているが、小形で撥は楽琵琶よりも大き く広く角張っている。
そして我が地元・福岡で生まれた筑前琵琶は盲僧琵琶として生まれた。
筑前琵琶は、遡ること奈良時代・桓武天皇の頃九州筑前にある天台宗、成就院の橘玄清を祖とする。
玄清は延暦7年最澄が比叡山創建の際に大いに貢献し琵琶を弾じ地神教を読誦、その法力を認められ朝廷より「法印」の号を賜った。
太宰府の四王寺山山頂付近には、筑前琵琶創始者「玄清法印」の石碑がたっている。
筑前琵琶のことを調べていくうち、女優・高峰三枝子の父が博多の対馬小路出身の高峰筑風であることを知った。
対馬小路といえば、オッぺケペー節で一世を風靡した川上音二郎もここで生まれている。
創始者の玄清法印は太宰府近くに成就院を建て、この寺は現在福岡市南区高宮に移転している。
そして今日、高宮の成就院境内には「筑前琵琶の碑」がたっている。

1978年、ゴダイゴの「ガンダーラ」ヒットの背景には、当時の「シルクロード・ブーム」があった。
1979年の「日中友好条約」締結と、平山郁夫画伯が1966年以来中央アジア深くに入って描いたシルクロードの絵が脚光を浴びた。
またジュディ・オングの「魅せられて」(1979年)はエーゲ海が舞台だったが、オリエンタルな雰囲気が漂っていた。
そんなオリエンタル・ブームの中で久保田早紀の「異邦人」が140万枚を超えるメガ・ヒット曲となった。
久保田は、東京・国立(くにたち)の通訳の父に生まれ、4歳頃からピアノを習い始める。
小さい頃から教会にかよい、教会音楽特にバッハが好きだった。
子供の頃、父が仕事でイランに赴いた際に購入してくれた現地のアーティストのアルバムを繰り返し聴いたことが、「異国情緒」をともなう音楽性を養うことにつながった。
そして自分で曲を作り、自分で歌う女性歌手に憧れをもつようになる。
久保田が心酔した松任谷由実も教会音楽に親しみ「バッハ」の音楽に心酔していた点で共通している。
高校の頃に、詩を書く文学少女がいて、彼女に曲を書いてといわれて曲を作りはじめた。
短大時代、八王子から都心へと通学する電車の中、広場や草原などで遊ぶ子供達の姿を歌にして「白い朝」というシンプルな曲を書いた。
「子供達が空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までもつかもうとしている」と。
そして、自分の曲がプロの世界で通用するかチャレンジしてみようと、自分の歌を弾き語りで録音したカセットテープを送った。
そしてこのテープにある「哀愁のある声」に注目した、新進の女性音楽プロデューサーがいた。
その音楽プロデューサー金子文枝は、「魅せられて」の制作スタッフの一人で、久保田の声の「哀愁」に自分が探していたものに「出会った」と感じた。
金子文枝は、ポルトガルの郷愁を帯びた音楽「ファドの世界」に引き込まれていた。
そして久保田のテープを聞いてポルトガルのファドに近い曲がデキナイカと考えた。
そして久保田にファドの女王「アマリア・ロドリゲス」のレコード数枚を渡した。
それは郷愁に溢れた曲で、レコードを聴いた久保田は、何も「恋愛」を歌う必要はないと思ったという。
一方、金子文江の中には「次はオリエンタルなもので行こう」という思いがあり、オリエンタルの雰囲気を強く出そうと、中森明菜「少女A」などで知られる萩田光雄に「編曲」を頼んだ。
萩田光雄は、シルクロードの雰囲気をだすために「ダルシマー」というペルシアの民族楽器を使い「シルクロード」のイメージを完成させた。
そして、分厚いオーケストラと「ダルシマー」の音色が溶け、久保田の透明な声がよく響き合い、そして壮大な「郷愁の世界」を築きあげた。
さらに「異邦人」ヒットには、CMタイアップの「仕掛け」もあった。
シルクロードをコンセプトとする「企画」を狙っていたプロデューサーにより、「シルクロード」を背景とした大型カラーテレビのコマーシャルソングとして使われた。
そのオリエンタルで神秘的なムードのCMソングに注目が集まり、ジワジワと売上げを伸ばしてブ大レイクする。
久保田本人によれば、自分のデビュー曲がCMにも流れ「雲の上を歩いている」感じだったという。
この「夢の中」のような物語は、久保田にとっては大きな「悩みの種」となった。
次も売れる曲をつくってくれ、ヒットするとはどういうことかわかってるよね、とプレッシャーをかけられた。
電車の中で作った「白い朝」が、音楽や画像の専門家集団によって「異邦人」という曲に変えられてしまったのである。
久保田自身は努力をしたわけでもなく、ナゼ曲が売れたかわからないから、次に売れるものを作ってよと言われてもわからない。
次の曲を作っても、最初の輝きを越えることはできなかった。音楽がイツシカ「音苦」になっていた。
そして久保田は自分は何者か、自分のルーツは何かと自分自身に問うようになる。
そして久保田がタドリ着いたのは、幼い頃に聞いた教会音楽であり、賛美歌であった。
1985年に結婚とともに引退し、今は「音楽宣教師」として各地の教会をまわっている。
東北の被災地の教会でも賛美歌をピアノ演奏した。
リクエストがあれば「異邦人」を演奏するという。