秋吉、長嶺、石井

先日、バレエのブノワ賞を木田真理子さんという30歳の女性が受賞したニュースがあった。
ブノワ賞とは聞きなれない賞だが、「バレエのオスカー賞」とも称され、その年世界で一番活躍した個性的なダンサーが受賞するのだそうだ。
スウェーデン王立バレエ団の第一ソリストとして「ロミオとジュリエット」に出演し、世界的な評価を受けたという。
木田さんが幼き日に学んだ大阪のバレエ学校の先生が次のようなコメントをしていた。
西洋で生まれたバレエの世界で世界のトップダンサーになったのだから、人一倍の努力をしたにちがいない。
木田さんは体格的には恵まれてはいなかったが、幼い頃から表情に力があり存在感があったという。
個人的にTVで木田さんの踊りを見る限り、外国人の振り付けだそうだが、木田さんは自分の中に流れる血を表現された感じがした。
「ロミオとジュリエット」のアメリカ現代版が「ウエストサイド物語」だから、日本版「ジュリエット」誕生かという感じもした。
以上素人の妄言かもしれないが、芸術においてはローカルの追求がユニバーサルなものに繋がるケースはよくあることである。
世界で活躍する日本女性のパーフォーマーの中には、 単純な西欧のコピーではなく、自分の中に流れる血に正直であることにより、世界的評価を得た人がいる。
それも、日本女性パフォーマーが極めて稀少なジャズとフラメンコの世界においてである。

1980年代前半、サンフランシスコのユニオン・スクウェアあたりのビルの谷間から聞こえるジャズの音色が、五臓六腑に沁みこんだ。
ビルの狭間が自然の音響効果をもたらしたのだろうが、ただその音響感だけでジャズに痺れたとは、今でも不思議な体験ではある。
そのうち、ジャズ喫茶などに通ううち、世界的なジャスピアニストである秋吉敏子が福岡で演奏していた時期があったという話を聞いた。
1946年、16歳の秋吉敏子は両親とともに満州から日本に引き揚げてきた。家財道具一切を捨ててきた一家は、両親の故郷である大分県の中津に身を落ち着けた。
秋吉は、6歳の頃からクラシック・ピアノをはじめていたが、いとこがが住む別府に時々遊びにいった。
別府にはアメリカの兵隊達が闊歩し、ダンスホールで「ピアニスト求む」の広告が秋吉の目に入った。
秋吉は、医学を学ばせようと思っていた父親に内緒で働き始めた。
このダンスホ-ルでは、ピアノが弾けることが何よりも嬉しかった。
ある日、見知らぬ男が彼女のピアノを聞き、彼女の一生の運命を開くことになる。
ジャズレコードの収集をしていたその男は彼女のジャズの素質を見出して、いろいろな曲を彼女に聞かせた。最初に聞いたのがテデイ・ウイルソンの「スイート・ローレン」だった。
なんと美しい演奏だろうと思い、来る日も来る日もレコードを聞いて、憑かれたようにそれをコピーし始めた。
この時からジャズは彼女を捕えてしまった。
その後、福岡にでて進駐軍の将校クラブでピアノをひくようになった。
この時、クラブにあったレコ-ドを利用して、デューク・エリントンやハリー・ジェ-ムスを片っ端から譜面に書き写していった。
そして、のめりこむようにジャズを吸収した秋吉にとって、地方ではもう学ぶべきものは何もなかった。
1948年 その時19歳だった秋吉は東京にでてジャズのプロフェッショナルをめざすことにした。
東京の街には、アメリカの進駐軍とともにアメリカの文化があふれており、ジャズが米軍放送を通してどんどん流れていた。
彼女の仕事はもっぱら米軍のキャンプまわりであったが、東京にでて3年目、ついに22歳で自分のバンド「コージーカルテット」を結成した。
そして運命の日が秋吉に訪れる。その時、秋吉は西銀座の「テネシー」というジャズ喫茶の店で仕事をしていた。
階段の暗がりで彼女は、神様といわれたオスカー・ピーターソンの姿をみかけた。
どうしよう、と思う間もなく、気を取り直して舞台にあがったが、手足がぶるぶる震えてコーヒーカップさえ握れないほどであったという。
当時、有楽町にあった日劇でオスカーピーターソンは3日間演奏するのであるが、そのピーターソンが誰かに案内されて秋吉が演奏していたジャズ喫茶を訪れたのであった。
秋吉の演奏を聞いたピーターソンは、秋吉をすぐにプロデューサーに紹介し、彼によるトリオのレコーデイングのはこびとなった。
当時日本のジャズピアニストとして売り出し中だった秋吉は24歳にして、ジャズの本場アメリカにも立派に通じるプロとしてのテクニックをもっていたことになる。
さらにこの時のレコーデイングがきっかけとなって、1956年ボストンのバークリー音楽院への留学することになった。
卒業と同時にサックス奏者と結婚し一児をもうけるが、離婚し秋吉が子供をひきとることになる。
その後、生活が不安定で定期的収入を売る道として、一時コンピュ-タのプログラマの勉強などもしたが、ニューヨークの有名ジャズクラブが彼女を採用し、何とか定期収入の道が開かれた。
1974年、秋吉が当時最も心酔していたデューク・エリントンが肺炎を起こして亡くなった。
デュークへの追悼文の中で、いかに彼が黒人であることに誇りをもっていたか、彼の音楽がいかに黒人の伝統に根付いているかという内容に、秋吉はハットした。
彼の音楽、それは彼自身の歴史であると同時にそれはアメリカ黒人の歴史であった。
そしてデュークの肉体の終末を待つように、彼の音楽は蘇ったことを知った。
この時に秋吉は、日本の文化をジャズに融合させる努力をしなければならないということ、つまりジャズ・ミュージシャンとして自分が創るものは自分の歴史でなければならないと思ったという。
そればかりか、自分のミュージシャンとしての勝負は自分の「死後」にあるように思えたという。
そして秋吉は宮本武蔵の「五輪書」や世阿弥の「花伝書」をよく読み、両書により自分を無にすることや、そのためにイカニ日頃の訓練が必要かを教えられたという。
ところで秋吉が生まれ16歳まで育ったのが中国の満州である。
彼女の代表作「ロング・イエロ-・ロ-ド」は、彼女が小学校の時毎日歩いた、ほこりっぽい黄色い長い道を表現したものである。
その後コンサ-トのために書き下ろしたジャズ・オーケストラ「すみ絵」は日本の雅楽を取り入れた美しい作品で、批評家の絶賛を浴び、彼女の代表作の一つとなった。
アメリカ黒人のジャズに日本人女性としての感性が交わって、美しくデリケ-トな華を生んだ。
また最初のオ-ケストラ・アルバム「孤軍」は能の鼓を取り入れた作品として話題をよび、1977年にでた水俣病をテ-マにした社会性のある「MINAMATA」は、アメリカの「ダウンビ-ト」誌ではベストアルバムに選ばれている。
秋吉は、黒人が生んだジャズの世界でジャパニーズにこだわり続けることは、ジャズ世界の大御所からみれば疎んぜられる存在かもしれない。
しかし秋吉は、権力あるものに疎んじられた千利休や世阿弥に言及しつつ、自分を無用の者、遠島の者として表現しカエッテ自己を肯定することができたと語っている。

ジャスの秋吉が自分を「遠島の者」と位置づけるのなら、日本における稀少なフラメンコダンサー・長嶺ヤス子の場合にも、それがあてはまるように思う。
会津藩といえば戊辰戦争で最後まで徳川方として新政府軍と戦った藩、つまり「賊軍」である。
それならば、そこに住む人々は、よく言えば一徹、悪くいえば頑迷で固陋というイメージがある。
1986年TV放映の「白虎隊」を描いたドラマでは、堀内孝雄「愛しき日々」が主題歌となったが、その中の「かたくなまでのひとすじの道」とか「不器用モノと笑いますか」という小椋桂の歌詞は、そのままが会津人の「生き方」として、個人的にコビリついてしまった。
また藩もろとも青森県斗南に(実質的に)流罪といった体験をし、塗炭の苦しみを味わいながらも痩せ地を開拓しなんとか生き延びた人々でもあった。
しかし、こんな会津から飛翔した人々の中にユニバーサルな感覚をもち合わせた人が少なくない。
その一人が日本のフラメンコの第一人者の長嶺ヤス子である。
会津出身の長嶺ヤス子が踊るのがジプシーの踊りフラメンコ、そしてフラメンコの代表作が「カルメン」である。
長嶺は3歳の頃からモダンバレエを学び、19歳の時、スペイン舞踊に進んだ。
1960年、在学中の青山学院を中退し、単身マドリッドに留学した。
血みどろの修行を経てスペイン最高峰といわれるタブラオ・コラル・デ・ラ・モレリアに日本人として初めて出演し絶賛を浴びた。
長嶺はフラメンコと日本の古典芸能とを融合し 独自の創作舞踊の世界を築きあげてきた。
50人の僧侶による声明をバックに、人間の原罪と救済を追及した「曼陀羅」を上演し、ニューヨークで大反響を巻き起こした。
長嶺の創作芸能の原点は「戦争」にあると語っている。
太平洋戦争が直接の体験ではあるが、祖母から聞いた戊辰戦争のなまなましい話も記憶に織り込まれている。
そして死者を弔う「お経」というものの得体の知れない恐ろしさに魅せられ「お経」をいつのまにか音楽としてとらえるようになったという。
たまたまアドバイスがあって裸足でフラメンコを踊ると、この裸足での舞踏が「フラメンコの原型」の再現ということで現地で絶賛された。
大地の上で裸足で踊ることで、自分が宇宙の一点となり、踊ることが「祈り」にも近くなっていく感じだという。
戊辰戦争で破れ離散した会津と放浪のジプシーが重なり合う。
そして、会津若松に立ち昇る炎の燎原に、長嶺ヤス子が裸足で舞う「カルメン」の映像が、一瞬脳裏を横切った。

石井好子といえば福岡県久留米出身で、日本におけるシャンソンの「草分け」といってよい。
そして父親は佐藤栄作内閣時代の石井光次郎自民党幹事長である。
石井は東京藝大学卒業後クラシック歌手をめざしていたが、ティーブ・釜萢(かまやつひろしの父)や森山久(森山良子の父)がいたジャズバンド「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、ボーカルを担当した。
そして駐日連合国軍(主にアメリカ軍)の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をするうち、バンド仲間の一人と最初の結婚をする。
しかしアメリカ育ちの夫と価値観があわず結婚生活は4年で破綻した。
すすむべき音楽の道を模索するなか、手探りでシャンソンを歌い始めた。
離婚の痛手から立ち直れず、また目標も定まらない中、石井はアメリカに渡ることを決心した。
父親は別荘を売って費用を出したという。
そしてサンフランシスコの一番高い丘の上の高級住宅地にある音楽学校に入学が許可され、8人の女性が下宿するアパートで暮らした。
プライベートレッスンに通う毎日の中でオペラからミュージカルまで色々なものを見て過ごし、お金はどんどん消えていった。
そんな中、石井好子に運命の転機がおとずれた。
石井は当時「黒真珠」と呼ばれたジョセフィン・ベーカーの歌うシャンソンの虜になっていた。
学校の午後の授業は全部さぼってベーカー出演の劇場に入り浸っていたが、劇場の支配人がベーカーと会わせてあげようと声をかけた。
会うだけでも感動なのに、石井を楽屋へ連れて行ってくれたのである。
ちょうど秋吉がオスカー・ピーターソンと出会った時のような運命的なものだった。
その時ベーカーは石井に、シャンソンを勉強したいなら、パリへ行かなくてはだめとアドバイスしたという。
そして石井は当時付き合っていた年下のアメリカ人のボーイフレンドを振り切ってパリへ渡った。
その二日目に「パスドックの家」という店で、歌手としてのテストを受けることになった。
ある歌を歌うと、一人の紳士がこの歌を作ったのは私だと近寄ってきた。そしてその紳士・ミシェル・エメの推薦でその店で歌うことになった。
石井はそれがシャンソン歌手としてのスタートであり、自分の進む道がシャンソンであることを確信した出来事でもあった述懐している。
そしてある日、当時パリで名声を得ていたいた画家・藤田嗣治が、石井の舞台を訪れた。
新聞で見た日本女性を応援しようとやってきたのだが、フジタが花を捧げた歌手というので、翌日から石井を観る観客の目が変ったという。
それほどフジタはパリでは有名な画家だった。
その後、モンマルトル広場にある「ナチュリスト」という店で、なんと365日無休で舞台出演という契約を結んだ。
この体験が拠り所となって、どんなつらいことでも乗り越えられると思うようになったという。
石井はだんだんパリの虜になり居ついてしまいそうな気がしてきた。フジタもそれを勧めたが、石井は日本でスベキことがあるように思い帰国した。
しかしパリで成功した石井を、当時の新聞は大々的に取り上げ、父が自由党の幹事長ということもあって世間は放っておくはずはなかった。
一方でこの状態では、まともな仕事ができないという危機感を覚え、石井は再びパリヘ戻った。
その後革命前のキューバ行きの話があったが、かつての恋人がいるニューヨークへ向かった。
ところがニューヨークで出会ったのは、読売新聞の特派員の土居通夫である。
「運命の人だ」と感じたが、彼には妻があり単身赴任の身だった。
苦しい思いを断ち切って4年間、石井は一度も土居と会わず、ただ手紙だけをたよりに待ち、土居の離婚成立後に、再婚している。
その時石井はすでに39歳であった。媒酌人は佐藤栄作首相夫妻であったという。
しかし石井が歌手生活35周年を迎えたようとした年、最愛の夫がなくなりその9ヵ月後、父・光次郎も逝ってしまう。
ちなみにシャンソン歌手として最も有名なエディット・ピアフが最も愛したのは、若きボクシングの世界チャンピオンであったマルデル・セルダンである。
セルダンは、ピアフのニューヨーク公演を見に行く途中に、飛行機事故で亡くなった。
セルダンへの思いは断ち切りがたく、「愛の賛歌」はセルダンに捧げたものであった。
パリの日本街近くに今もオランピア劇場であるが、ここがピアフが長く専属歌手を務めた劇場である。
ところでジャズの秋吉、フラメンコの長峰ともに創作の「求道者」であり、ローカルをユニバーサルに転じることに成功した。
一方、石井はシャンソン歌手であり表現者にすぎないが、石井の交流の多彩さに目を見張る。
石井好子が日本の「閨閥」の一人だったからだろうが、それだけの能力とスケールを持ち合わせた人だったように思える。
それは多くのシャンソン歌手を発掘し、育てたことにも表れれている。
1957年、石井が帰国したころは日本でシャンソン・ブームがおこり、紅白歌合戦でも石井、越路、高の他に、淡谷のり子、中原美沙緒、芦野宏など多くのシャンソン系の歌手が登場した。
石井好子の後輩というべき人々の中にも、多くのスタ-が誕生した。石井がジャズを歌っていた時代の渡辺弘とスターダスターズの専属歌手には学校を出たばかりのペギー葉山がなっていた。
1962年、銀座に石井音楽事務所を設立した。田代美代子という明治学院の演劇部の学生が歌が歌いたいと入ってきた。
浜口庫之助作曲の「愛して愛して愛しちゃったのよ」をマヒナスターズと共に歌い、突如スタ-となった。またキングレコ-ドの推薦で岸洋子も加わった。
岸洋子は1964年「夜明けの歌」で日本レコ-ド大賞歌唱賞を受賞した。岸は芸大音楽科卒業で初めオペラ歌手を目指したが、体が弱かったのでマイクがつかえるシャンソンに転向したという。
小さな事務所でははみだしそうな広がりとなり、石井好子を会長に「シャンソン友の会」が設立された。
シャンソン友の会設立と並行して、日本におけるシャンソンの普及をめざしてコンクールも行った。
その第2回コンク-ルで優勝したのは、東大の3年生の加藤登紀子であった。
1960年代はシャンソンの時代ともいえる。三輪明宏らも西銀座の「銀巴里」を舞台にシャンソンを歌い、1966年にはシャル・ルアズナブ-ルが来日した。
1967年のシャンソン歌手アダモの来日は、日本のシャンソン界に大きな刺激を与えた。
そしてアダモの「雪が降る」はゴ-ルデン・ディスク大賞を受賞している。
個人的には「腹がへる パン屋は来ない」などとオバカな替え歌を歌って遊んでいた中学の頃が懐かしい。
石井好子は多くの日本人シャンソン歌手を育て1992年には、フランス芸術文化勲章「コマンドール賞」を受賞している。
石井は2010年7月87歳で亡くなった。
誰かかの歌詞に「B4の紙切れに収まる人生なんて」というのがあったが、石井好子の人生をまとめようとするならば、B4用紙では「枚挙」につくせぬ人生だった。