光の賛歌とサロンの悲劇

現在、福岡市博物館で「印象派」展が開かれ、ピサロやモネの作品が展示され、多くの人々が訪れている。
そのパンフレットには「印象派」につき、次のように紹介してある。
「西洋美術の19世紀後半は、印象派の時代です。それは河畔や湖畔、海岸といった水辺が憩いの場所として注目された時代でもありました。
人々のあいだに休日のレジャーが普及すると、パリ近郊のセーヌ川沿いの町や村が身近な行楽地として人々を惹きつけました。さらに鉄道の発達も相まって、余暇を楽しむ人々の足は、美しい海水浴場や切り立った断崖、活気ある港など魅力的場所に恵まれたノルマンディ海岸にも向けられたのです。
本展では、セーヌやノルマンディの水辺を舞台に描かれた約80点の作品で、彼らが追い求めた光の中の風景にせまります」。
実は光の世界を追い求めた「印象派」は18Cのフランスで「落選展」とよばれる展示会から出発したことはあまり知られていない。
フランスでは17Cより「王立アカデミー展」がルーブル宮殿内のサロンで開かれたため、以前は「応接間」を意味するサロンが「王立アカデミー展」ソノモノを意味するようになっていた。
そして「サロン展」として親しまれるようになった王立アカデミー展を、サラニ広く一般に公開したのはフランス革命時の政治家ダビッドであった。
ダヴィッドは、共和派の政治家として「美術政策」上の中心人物として、「市民革命」の時代に相応しい政策を実行に移していった。
そのヒトツが、それまでアカデミー会員のみに限られていた「サロン展」への出品を、公式に美術教育を受ける機会に恵まれなかった独習の画家達にも開いたのである。
そして1858年のサロン展では9千点の応募があり、そのうち5千点が入選することになった。
そのためルーブル美術館には収容しきれず工業館も使われるようになり、高いところに展示された作品を望遠鏡で見ていたほどであった。
ただこれほどまでに「入選作」が多かったのは、審査員がお互いに「門弟」を入選させるべく、「裏取引」をしたからなのである。
「サロン展」への入選だけが画家の決定する手ががりで、落選はソレコソ死活問題に関わることだったから、「一票の貸借」はナカバ公然と行われたのである。
かくして「サロン展」は新しい試みなどとは縁遠い「権威主義の牙城」となり、真の芸術を競い合う場とはいいガタイものとなった。
「権威主義」で固まると、一転してサロン展は審査が厳しくなり、1863年のサロン展では5千点の絵のうち3千点が落選させられた。
画家達の騒ぎが大きいことに驚いたナポレオン3世は、「落選作」ばかりを集めてサロン展の二週間後にもうヒトツの展覧会を開催した。
これが「落選展」と呼ばれるものである。
この「落選展」にはマネ、ピサロ、セザンヌ、ホイッスラーなどが参加した。
多くの批評家ならびに大衆は落選作品を嘲笑したが、ココから後の「印象派」が生まれるのである。
「印象派誕生」にあたり、当時広まりつつあったカフェがフランス革命の「過激派」の拠点となったと同じように、先輩格のマネを中心として大きな役割を果たしたということを付言しておこう。

現在「落選展」という言葉は、パリ・サロンに限らず、「審査員制」のある美術展から「落選した作品」の展覧会全般に広く使われている。
展覧会が権威主義の権化と化す、つまり「サロン化」することにつき、昨年10月に朝日新聞トップに出たひとつの記事が思い浮かんだ。
それは「日展書道、入選を事前配分」という大見出しの記事であった。
日本美術界で最大級の公募展「日展」の開催が迫る中、書の「篆刻(てんこく)部門」で審査に不正があったというこのである。
「日展(日本美術展覧会)」は100年以上の歴史を持つ日本を代表する公募展の一つである。
扱うのは、日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5科(分野)で、参加費1万円を払えば誰でも応募でき、審査を通った作品は展覧会でお披露目される。
仕組みの上ではキャリアや所属など関係なく同じ舞台に立つことになるはずだが、実際の審査には様々な「力関係」が働いているという。
しかもこれは、芸術系志望の高校生でも知っている「公然の秘密」なのだそうだ。
具体的には、書道会の重鎮である日展顧問の指示により、「有力8会派に入選数を事前に割り振る不正」が行われていたというのである。
まるで建築業界の談合を思わせるものだが、実際に8会派に所属していない人たちは1人も入選しなかったらしい。
この「内部告発」が真実であれば、有力会派に所属していない参加者は、事実上「門前払い」されていたことになる。
新聞はほかにも、階級があがるほど弟子からの「上納金」が増える仕組みなど、芸術院会員を頂点とするピラミッド型の組織構造を詳しく報じていた。
また、「出品して入選するには、絵を購入しなくてはいけない」「訪問時には手ぶらで行ってはいけない」などの芸術家の生々しいエピソードもあり、「公募展」とは名バカリであることを伝えている。
ところで、俳句の世界においても「サロン的」傾向があると聞く。
そうした「サロン的」世界のヒトツの悲劇として杉田久女という女流俳人の姿が思い浮かぶ。
俳句の世界にノメリコンだ杉田久女は、間違いなく才能豊かな女性といってよい。
個人的には、澤地久恵が書いた「試された女達」といいう本で杉田久女の「悲劇」をハジメテ知ったが、松本清張の初期作品にも杉田久女を材とした「菊枕」という小説がある。
松本清張と杉田久女は「小倉」という接点があるが、それ以上に杉田久女が抱えた「懊悩」というものに作家の想像力を刺激した要素が多くあったに違いない。
久女は明治23年に官吏だった父の郷里、鹿児島で生まれている。
明治41年に御茶水高女を卒業し、翌年に画家の杉田宇内と結婚した。
夫が小倉中学校の図画の教師になって赴任したため、小倉に住むことになる。
1916年の秋ごろ、「ホトトギス」や「曲水」に俳句を投稿し高浜虚子に認められ、「女流俳人」として世にデビューした。
久女が俳句を始めたのは次女が生まれた26歳の時、実兄が自宅に滞在した際に手ホドキを受けたのがきっかけであった。
俳句に出会ったことで、北九州市立美術館の1枚の絵画の前に立ったのは、その結末からすれば運命のイタズラといえるかもしれない。
その絵は、杉田久女の夫となる杉田宇内(うない)が東京美術学校を卒業する時に描いた「自画像」だった。
久女は、芸術家との結婚を夢見て数多くの縁談には目をツブッテきたお嬢様育ちの女性であったが、実際に「芸術」が縁結びとなったのである。
久女は結婚当初、夫・宇内の画家としての大成をヒタスラ願っていた。
だが、宇内が絵画に心血を注ぐことはなく、それが久女を「幻滅」させ、夫婦の間にはしだいに「亀裂」が生じてくる。
そんな折に久女が出会ったのが俳句だった。
1917年、高浜虚子が主宰する俳誌「ホトトギス」に久女の句が掲載される。
上京して句会にも出席し、虚子にも初めて会い、久女は、虚子の門下の女流俳人たちが、華やかにデビューし、名声をほしいままにしていくのが眩いばかりに映ったに違いない。
これを機に久女は、作句に熱中し始める。
そのころの句で「足袋つぐやノラともならず教師妻」という句が知られている。
当時、文化の先端の新劇で話題をさらっていた「人形の家」のノラ。夫の人形でいる甘い生活を捨てて、真の自分を求めて家出をしたノラ。
そうしたノラヘ魅かれながらも、踏み切れずに夫の足袋を繕うような貧しい生活を続けている自分への、いらだたしいような、哀れみ慰めてもやりたいような、そんな複雑な心情が感じ取れる句である。
だが、幼児2人を抱え、多忙な家事をこなしつつ、俳句に打ち込むのは容易ではない。
久女は信じるままに突き進む性格で、夫は久女の才能を認めていたものの、そして「明治の男」である夫とのキシミは深まり、一時は離婚話も出たこともある。
そして世間では、家庭を顧みない悪妻といった「久女伝説」のようなものが生まれる。
久女は1932年の「ホトトギス」10月号で同人に昇格している。
この時点で九州の同人は2人だけだったから、ソレガいかに名誉だったかがわかる。
また崇拝する虚子から「清艶高華」と評され、久女は俳句に一層の精力を注ぎ込んだに違いない。
しかしそれから4年後、「ホトトギス」36年10月号に1ページ全面を使った前代未聞の社告が出る。
久女が、師である虚子から突然に同人を「除籍」されたのだ。
理由の明記はないままで、真相はいまもって不明である。
久女は虚子の恩顧を求め6年間に230通におよぶ手紙を書いたことがわかている。
それは現代風にいえば、ストーカー的行為ということかもしれない。
理由はどうあれ、長く心服し傾倒していた虚子からの「勘当」で、俳人の生命を絶たれたも同然だった。
久女が悲願とした句集の出版も、虚子に求めた序文を書いてもらえず、かなわなかった。
久女は「ホトトギス」を除名されてからは句作を断念し、以後入院生活となり1946年1月、数え年57歳で他界している。
ところで前述のとうり松本清張は、久女を題材とした小説「菊枕」を書いているが、久女は「ぬい」という色白で背が高い女性として書かれている。
一方、高浜虚子は宮萩梅堂という名で登場している。
松本清張は、久女の「白妙の菊の枕をぬひ上げし」「ぬひあげて菊の枕のかほるなり」などの句からとって「菊枕」というタイトルにしたという。
菊枕をすると、菊酒とおなじように、この枕で寝ると邪気を払い、延命効果があるといわれ、梅堂に脳溢血の経験があるのを知って、ぬいは何日も掛けて菊の花を摘んで、それを芯にした枕を縫い上げた。
それを持って再び梅堂宅を訪れたぬいだが、カケテきた期待は見事に裏切られる。
梅堂は素っ気なく冷ややかだった。知人の取りなしでやっと得た一言に上気したぬいを、またも色仕掛けという中傷が取り巻いた。
小説「菊枕」の終わりには次のように書いてある。
//ぬいは1944年、圭助につれられてある精神病院にはいった。
はじめは、俳句を作らねばならぬなどと口走り、しきりと退院をせがんだが、その後は終日、ひとりで口の中で何か呟いていた。
ある日、圭助が面会に行くと、非常によろこび、「あなたに菊枕を作っておきました」と言って、布の嚢をさしだした。
時は夏であったから、菊は変だと思い、圭助が内部を覗くと、朝顔の花が凋んでいっぱいはいっていた。
看護婦がぬいにせがまれて摘んできたのである。
圭助は涙が出た。「狂ってはじめて」自分の胸にかえったのかと思った。//

福岡、大分の県境にそびえる英彦山は古来、山形県の羽黒山、奈良県の大峰山と並んで日本「三大修験場」の霊峰として知られる。
そこは俳人、杉田久女が最も多く吟行した場所の一つでもある。
久女はこの豊かな大自然を好み、俳句の修業の場として何度も通ったという。
1931(昭和6)年、高浜虚子が選者を務めた「日本新名勝俳句」で、全国の10万3000余句の中から帝国風景院賞(金賞)の20句に選ばれたが、久女の代表作のひとつであるこの句は英彦山で詠まれたものである。
「谺して山ほととぎすほしいまま」
さて、大宰府や二日市は歌碑や句碑がとても多いところである。
JR二日市駅を降りると「野口雨情」の歌碑があり、二日市温泉・御前湯の玄関横には、夏目漱石の句碑がたち、「温泉(ゆ)のまちや 踊ると見えてさんざめく」とある。
漱石は22歳ころから俳句を作り始め、明治29年6月に赴任先の熊本で結婚し、この二日市温泉の句は結婚間もない9月の始めに一週間ばかり二人で九州旅行をした時に詠んだものである。
また二日市温泉の老舗旅館の一つ「玉泉館」は俳諧の宿とも呼ばれ、俳人たち、殊に「ホトトギス」の高浜虚子一門に愛されている旅館である。
玉泉館の玄関脇には高浜虚子の「更衣したる筑紫の旅の宿」という句碑が立つ。
この句は、虚子が1955年5月14日「ホトトギス」700号大会のために空路福岡に来た際詠んだものだという。
また玉泉館の中庭には、息子の高浜年尾と孫娘稲畑汀子(いなはた ていこ )の句碑がある。
「ゆ温泉の宿の朝日の軒の照紅葉 年尾/梅の宿偲ぶ心のある限り 汀子」
ちなみに、稲畑 汀子は、神奈川県横浜市に、父高濱年尾、母喜美の次女として生まれた。
小学校のころから祖父高濱虚子と父年尾のもとで俳句を教わった。
聖心女子学院英語専攻科在学中に病を得て中退し、以後俳句修行に専念し、祖父と父に同行して全国を廻っている。
1956年24歳で稲畑順三と結婚し、のち二男一女の母となる。「ホトトギス」同人から雑詠選者、そして1979年、父高浜年尾の死去により「ホトトギス」主宰を継承した。
1982年より朝日俳壇選者となり、以後世界各地を吟行し諸外国との俳句親善に努め、1987年日本伝統俳句協会を設立し会長に就任している。
またNHK俳壇の講師・選者や朝日新聞俳壇選者として知られている。
ちなみに杉田久女は、二日市温泉近く太宰府市五条の筑紫保養院に入院し、3カ月後に他界しているが、この病院は高浜虚子一門に愛された玉泉館の近くに福岡県立精神医療センター太宰府病院として存している。
さて、もうひとり福岡の病院(松浦病院)で亡くなった悲運の芸術家に青木繁がいる。
青木繁は1904年、22歳で東京美術学校を終え、白馬会展に「海の幸」を出品し彼の名を一躍、美術会に知らしめた。
同じ画家の福田たねとの関係も深まり男の子が産まれる。それを励みに制作に没頭し1911年に東京都勧業博覧会に「わだつみのいろこの宮」を出品した。
しかし彼の渾身の力作は「三等末席」というカロウジテの受賞に留まってしまった。
あまりの評価の低さにショックを受けた青木は、父危篤の知らせに故郷久留米に帰る。
その後文部省美術展(後の日展)に作品を出品するがいずれも落選し、しかも家族との折り合いも悪くなり九州各地を放浪する。
その間、神経衰弱、結核も進展し福岡市内の病院で亡くなる。
ところで彼は「文展」に「女の顔」「秋声」などの作品を出し落選しているのだが、「文展」の審査は黒田清輝を含む9名でおこなっており旧派・新派の違いはあるものの、1人を除いてすべて東京美術学校の教師であり、残りの一人も彼らの指導を直前まで受けていた人物なのである。
要するに審査陣は、作品を多様な角度から見られる陣容ではなかったことがわかる。
実は青木繁は東京美術学校当時、助教授・藤島武二からの感化を多くうけて、日本神話の幻想への傾倒を深め「日本武尊」や「わだつみのいろこのみや」などの作品を描いている。
審査員の多くは西洋崇拝が基調にあり、必ずしも青木の日本油彩画の独自性を理解できたとはいい難い。
しかも青木の不遇は、彼の作品を理解することができたであろう師・藤島武二の渡欧による「不在」というめぐり合わせにあった。
今福岡で開催中の「印象派展」つまり元「落選展」の「光の讃歌」が、二人の芸術家の「サロンの悲劇」をイッソウ浮かびあがらせている。