人にはリアルと感じられることには個人差があり、その内容も天上のことから地上のことまで、多岐である。
何をリアルと感じられるか、「死後」や「戦争」に対する意識に個人差があることを考えればわかり易い。
一般に死は、身近なものの死によって、ようやくリアルに感じられる。
ただ、なんでも体験しないと、手に触れてみないと気がすまない性質の人はいる。
聖書の中の12弟子のひとりトマスのように、イエスの復活のうわさをきいて、実際に目で見て確かめないと「信じない」と言い張る人もいる。
そこでイエスはトマスに「見ないで信じる者は幸いである」といいつつも、自らの傷ついた腹部を手に触れさせている。
また人によっては、当面の衣食住の問題こそがリアルであり、それを超えた問題に関心を払うことのない人もいる。
あるいは、自分の過去の経験から想像できうることこそがリアルで、それを超えることは、どんなに証拠を示さえても受けつけない性質の人もいる。
またリアルなことを、「生(キ)のもの」、「野生のもの」、つまりは人間の手がはいっていないものとらえらる人もいる。
日本のスーパーの食品売り場に行けば、ほとんどのものが「調整済み」で、そこがアメリカのスーパーと趣が異なる。
その意味で言うと、横浜や神戸の中華街を通ると、とてもリアルなものが目にはいってくる。
さて最近テレビでイラクやシリアやウクライナやガザの情勢が伝えらるが、それらは日本人にとってどれくらいリアルなものだろうか。
テレビやマスコミが伝える映像は、お茶の間むけに「調整済み」のものばかりである。
しあし、基地近くで空母を見たり戦闘機が飛び立つ姿を見る人は、戦場というものが少し「近く」に意識されるのかもしれない。
つまり人を殺したり、殺されたりする世界に空想と現実感が交錯するような場面にいるということである。
最近、世間を騒がせた凄惨な事件の舞台を母校とする村上龍の小説「海の向こうで戦争が起こった」などで暴力を描いたのは、そういう状況と無縁ではないかもしれない。
最近は、第一次世界大戦100年周年で。新聞にはそれを問い直す特集がなされている。
その中に、新聞は戦争を競技のように報じていたという記事があった。
欧州各国の戦力一覧表や元首の顔を並べた紙面は、サッカー杯を報じる昨今の紙面をどこか連想させる。
また太平洋戦争の開戦の日を描いた山田洋二監督の「小さいおうち」は、小学生が「バンザーイ」と叫び、御用聞きの酒屋が威勢のいい言葉を並べる。
さらに、宮崎俊の「風たちぬ」は、零戦設計者の主人公がナンの道具を作っているか深く問うこともなく、たゆまず性能の良い戦闘機の設計に邁進していく姿を、肯定も否定もせずに描いた。
いずれも、戦争のリアリィティーから離れた人々の姿である。
ならば最近の若者は、戦争が格差社会の振興と深く関わっているリアルな現実を感じとれるだろうか。
戦前は今以上に格差社会であり、日本では明治時代に「徴兵令」ができたが、それは高学歴の富裕層や在外留学生を対象に期間を短くしたり猶予したりすることができた。
ところが、戦争が進展して国民一丸が求められる総力戦において、1918年の改正では、上のような特権を廃止して、皆尾同じように一兵士として扱われた。
学歴も貧富も家柄もなく、軍隊内の階級で扱いが決まり、民衆が軍に「平等」という幻想を見ることがでたともいえる。
そして何よりも軍隊がそれは雇用を生み出し、それが兵役の重さを忘れさせる一因でもあった。
皮肉な味方をすれば、今日財政問題に苦しむ政府は、教育と予算をけずって格差社会が強まれば、結果的に「兵役」の志願者を確保できるということになる。
不穏でリアルなことばかりではない。かつてTVで見た平穏でリアルな映像を思い浮かべた。
その番組で、水中カメラマンの鈴木あやのという人を知った。
東京から南へ200キロ、黒潮本流の真っただ中にイルカが集まるところで知られる御蔵島がある。
波間に揺れる船から海に潜った鈴木あやのさんが、深さ5メートル付近で斜め上方向に浮き上がり、あおむけに泳ぎながらイルカの群れに近づいた。
5メートル離れた所では夫である福田克之さんがカメラを構えている。
やがて船上に戻り、二人でモニター画面で写真を確認する。
そこに鈴木さんの泳ぐ肢体と、無邪気に戯れるイルカの曲線美が絶妙な構図で収まっていた。
その海中でのシルエットは、まるで人魚とイルカが泳いでいるようだった。
つまり、鈴木さんは「水中カメラマン」であると同時に、「被写体」でもあるわけだ。
男性でも使いこなすことが難しい「足ひれ」(長さ75センチ/重さ3キロのバラクーダ)を自在に操り、指先の形まで美にこだわる。
このあたりの大海原は波穏やかとわけではなく、けっこう過酷な自然を相手の仕事に違いない。
しかし、海中で捉えられた写真は、そのことを忘れさせてしまう。
鈴木さんの話を聞いて印象的なのは、あおむけでイルカにゆっくり近づくと目と目が合い、お互いにコミュニケーションをとりながら自由に泳ぐことができるのだという。
プロのスイマーでさえ脱帽なのは、鈴木さんが目でイルカを引き寄せる力があるどうだ。
その結果、鈴木さんが映したイルカは、他のカメラマンが撮ったものに比べ、シグサや表情がとても豊かなのだという。
鈴木さんは、子供の頃から生物に興味があり、東京大学・大学院にすすんだ。
鈴木さんの両親はともに高学歴で、鈴木さんもあたりまえのように東京大学に進んだ。
出来て当たり前だから、褒められることが少なく、出来ないでいる自分に悩んだ。
結局、両親の期待に沿わねばという思いにいつも縛られていたのだった。
研究の道は楽しかった反面、続けていく自信がなく、大手化学薬品会社に就職し、酵素の研究に従事した。
しかしどんなに魅力的な研究テーマでも、ビジネスにならない研究はボツになる。
そのことを疑問に感じると同時にヤリガイを失っていった。
その後大手食品メーカーに転職したり、友人が設立したベンチャー企業でも働き、「本当は何をやりたいのか」とモガキ続けた。
そしてついには袋小路に入り、休職して自宅に引きこもってしまった。
そして、逃げるように結婚したが、その結婚も長くは続かなかった。
そんな時、たまたま行った小笠原諸島・父島でイルカと出会った。
それまでは海にもイルカにも興味がなかったが、間近に寄って来る愛らしい姿を見て恋に落ち、雄大な自然と無邪気なイルカの表情を見て、心が解放されるのを感じた。
そして、イルカの気持ちに近づきたいと、「素潜り」の練習に打ち込み、御蔵島でイルカを見るツアーに参加し、福田さんと出会った。
実はこの時、福田さんも「傷心旅行中」だった。
福田さんは半年前、乳がんで妻を失い半ば「もう死んでもいい」といった状態であった。
しかし死ぬ前に、妻が好きだったイルカを見に行こうと決めた旅であったのである。
福田さんは、鈴木さんと出会って話すうち「まだ自分には人の役に立てる」と思い、気持ちが変ったのだという。
そして二人は互いに再婚した。仲人は「イルカ」ということになろうか。
ところで、シンクロナイズドスイミングの小谷実可子さんにも人生を変える「イルカ体験」がある。
海と一体化し自分のちっぽけさを知り幸福感に浸り、人生観が変わった。
中米バハマでイルカと並走して泳いだ時に体の中に電流のようなものが走ったという。
イルカはこちらの心の持ちようで親しみ方が違うのだそうだ。
かっこよく泳ごうとか、カメラ映りをよくしようとか、こちらの気持ちに邪心があるとイルカは近寄ってさえ来ない。
自分が自然と一体化して、イルカとたわむれようという気持ちになったとき、イルカも近づいてくる。
だからイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったそうである。
長くオリンピックの「代表争い」など、点数を伸ばそう、自分少しでも大きく強くしようともがいてきた。
世にあって、様々な競争やシガラミに巻きとられてきた自分を見つめなおした。
鈴木あやのさんと小谷実可子さんの共通点は、期待される自分を必死に生きてきて、リアルな自分が何なのかがわからなくなっていた。
ところが、海の中のイルカと波長を合わせて泳ぐことによって、手付かずの自分つまりリアルな自分を発見できたということであろう。
近代社会目指したのは、「リアルなもの」を遠ざける方向だったといってよい。
我々が、見たり、聞いたり、触れたり、食べたりするもののほとんどに「手が入って」いるもので、そのプロセスはほとんどがみえない。
この世の中、殺生は日常なのに、屠殺や食肉の解体や犬猫の殺処分など、人の目から覆われている。
そこで、人はハンティングや魚釣りによって、自分の内なるリアルを回復したりできる人もいる。
ある本で、ジュゴン漁について読んだことがある。
ジュゴンは海で泳いでいると人魚のような姿を見せるが、この肉は牛肉以上といわれるほど美味らしい。
そのジュゴンの掴まえ方というのがすごい。
まずは海の中でダイナマイトを爆破させジュゴンを気絶させる。
さっそく人間が海にもぐりジュゴンに抱きついて、いちはやく二つ鼻の穴に栓をして窒息死させる。
本来、食するということは、その捕獲や殺しも含めたプロセス全体が「食する」ということなのだ。
獲物を自分で食べることがないにせよ、こういう全身で獲得した食料を他のものとものとを交換するプロセスは、それこそ「魂の交換」のでもあったのだろう。
しかし市場社会では、そのプロセスはグローバル化によってまったく見えることなく、かえって人々を危険にさらしている。
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例えば、マクドナルド製のハンバ-グが、南米の森林をごそっと伐採して生産した飼料を食って育った牛の肉であるとはほとんど見えない。
この世の中から覆われること、隠されることには官僚主義や政治的意図やらマジョリティーの快適さの追求や色々なものが含まれている。
ある講演会の中で、大学教授がひとつの体験を語られた。父親は大川の家具職人で選挙用の投票箱をつくることになった。
父親が何日もかかけて丹精を込めて作った投票箱が、選挙直前になって白い布に覆われてしまったことに、子供ながらに社会の「何か」を感じとったという。
白い布で覆うのは法で決まったことではなく、なんでも一律に整えていくことによって、削られるものや捨てられるものに想像がおよんだのかもしれない。
さて、元東大教授・姜尚中氏の実家は熊本市内で「廃品回収業」を営んでいた。
「日本名」永野鉄男は、日本が高度成長のキッカケをつかむ「天佑神助」となる朝鮮戦争勃発の1950年に熊本で生まれた。
6歳の時「在日」の集落的「共同体」から離れて、日本人だけの環境の中で生きた。
そこで「陸の孤島」のような心細い感覚を抱いた。
豚と糞尿の混ざったような匂いの集落で、永野氏の家にも「どん底」を生きる人々が出入りしていた。
そして廃品の中には色々なものがあった。
旧陸軍の軍刀や鉄兜も含まれていた。そうしたものの中には血のりで赤褐色に錆びたものサエあった。
戦争の「血なまぐさい」記憶がコンナ処までついてきたのである。
色んな人々が出入りしたが、「犬殺し」のおじさんもいた。
徘徊する犬を処分する「犬殺し」おじさんは、酒に酔ったいきおいで、戦争中に若い中国人女性を殺したことを、ナンともつかないニガ笑いとともに語った。
また、永野商店の近くにはライ病施設もあった。
当時、隔離政策があったとはいえ、患者が周辺を行き来するくらいの外出はあった。
ひとりの患者さんが、人差し指と中指ではさんで差し出した100円札を、友人の母親が箸でつまんで「蒸し器」の中に入れた。
いつもは優しいお母さんのその「一連の動作」が、いつまでも脳裏から離れなかったという。
(*現在ではライ予防法は廃止され、国も患者や家族に対して謝罪をしている)。
この社会は、いろいろ目に見えぬように、つまり人々が「快適に」暮らせるようにされればされるほど、表面的「美しさ」を追い求め不快体験や痛みの体験を奪い去ることが、実は人間から「幸せ感」(つまりリアル感)をも奪い取っているとは考えもおよばない。
この世の中は「老・病・死」があまり目につかないように覆いがかけられているのだ。
20年ほど前に、ICU(集中治療室)に2ヶ月ほど通いづめだった時期があったが、そこではじめて人間が行き着くところがリアルに感じられた。
人は裸で生まれ裸で死ぬ。つまり、人というものは案外「平等」なんだと気づいて、妙な安堵感を覚えたことがある。
さて、この世の中には、「リアル」の求道者のような人がいる。
たまたま男性音楽ユニットある「エグザイル」を検索していると、ロバート・ハリスという人物を知った。
この人、我々世代が受験生時代に大変お世話になり、また「百万人の英語」で有名なJB・ハリス先生のご子息であることが判明した。
エグザイルは、日本語で「放浪者」とか「亡命者」とかいう意味だが、このロバート・ハリス氏、アメリカ人と日本人の母との間に生まれ、映画制作・DJ・文筆業・俳優など多彩な活動をする世界を股にかけたエグザイル氏であった。
ロバート氏の人生哲学は「楽しんだもん勝ち」という哲学があるそうだが、その著書「人生の100のリスト」にみることができる。
つまりロバート氏は100をクリアすべく生きてきたそうだが、100のリストには「親父よりも有名になる」から「ファッションモデルと付き合う」「娼婦と恋をする」「刑務所に入る」「氷河のオンザロックを飲む」「離婚する」「映画で殺し屋を演じる」「イルカと泳ぐ」「ヌードモデルになる」「セラピーをうける」など過激なものもある。
凡人からみると、楽しむのに苦労しそうで、健康のために病気になってしまう健康オタクみたいな状態に陥りそうだ。
ともあれ、一見温厚そうに見えるJBハリス先生のイメージからするとかなりアナーキーな人物だが、その根本は「リアル」を追求する求道者のようにも思えた。
さて、山手通りと井の頭通りが交差するあたりの小田急線代々木八幡駅近くに「春の小川」の石碑がたっている。
唱歌「春の小川」は大正元年に生まれて、今年100年にあたり、現在も小学3年生で習うようだ。
作詞の高野辰之氏は、渋谷の代々木に暮らし、渋谷川の支川・河骨川の景色を詠みんだ。
しかし今や、渋谷駅から上流は蓋をされて暗渠となり、下流では開渠ではあるものの、深く掘りこまれたコンクリートの三面張り水路となっている。
東京オリンピックに際しては都内14河川の全部または一部の暗渠化が決定され、その後、急ピッチで工事が進められた。
すなわちオリンピックを開催するために江戸から連綿と続く風土・景観が切り捨てられたのである。
加瀬竜哉というロック・バンド・ミュ-ジシャンは、小さい頃、宇田川という川の側に住んだが、川の存在を長くしらなかった。
東京オリンピックの開催の頃、まるで臭いものにフタをするようにフタがせられた。
この行為は大人たちの愛、つまり後年自分達が安全に清潔に生きるための選択だったのだろう。
後に自分が川の上にいて生きていることを知ってショックをうけた。
そして知らなかったことが無念だと思った。何かを得るために何かを犠牲にしていることを知る。
以後加瀬は、東京中の暗渠を訪ね歩くことになる。
そして町の表には出てこない川の暗渠を探しだし、見つけては(フタ)をあけてはいりこみ、まずは「ごめんね」といって涙を流す人である。
ひとりのロッカ-が暗渠にいりこみ、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。
加瀬氏にとって「春の小川」こそロック魂の原点なのだそうだ。
つまり、加瀬竜哉というロック・ミュージシャンも、本質的に「リアルの求道者」なのだ。