ヘビー級レストラン

気軽に楽しめて美味しいレストラン(or料亭)もいいが、歴史の重さを味わいながら食事してはどうか。
もっとも、史実が重すぎても食がはかどらないが。
京都伏見に「寺田屋」という宿があるが、いわゆる「寺田屋騒動」の舞台となった。坂本竜馬もよく利用した元・船宿である。
1862年4月23日、薩摩藩「急進派」の有馬新七以下35名が関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して集結した。
薩摩藩は、このハネアガリ藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した。
この寺田屋にいくと、1泊6500円で宿泊可能であることを知った。
歴史ある京都の宿にしては安すぎが、気軽に利用するには「史実」が重すぎて宿泊をやめた。
ただ当時の建物は、鳥羽伏見の戦いで焼失し、現在の建物はその後再建されたものであるり、寺田屋横には、騒動で死亡した有馬らの墓が建っている。
京都といえば、宇治の料理旅館「花やしき浮舟園」にも重い歴史が秘められている。
昭和のはじめ、都市の人口と貧困の問題に真正面から戦った日本人がいた。
「生めよ増やせよ」の国策の時代に、人口増による貧困を訴え産児制限を唱えたが、右翼によって暗殺された。
学者出身の国会議員・山本宣治の死は、わずか39歳の時であった。
山本宣治は若い頃アメリカ大陸に渡って、当時の日本には無かった「自由と民主主義」の思想を身につけ、学者になってからも、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって世の中をよくする運動に身を投じた。
やがて労農党の代表として衆議院議員に当選し代議士になってからも、戦争へ戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対し、軍国主義者から命を狙われた。
実は、人々が「山宣」と呼ぶほどに親しんでんだその人は、宇治川のほとりにある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもあった。
画家・竹久夢ニもこの料亭で、絵筆をふるっている。
今でも、宇治の町ではの命日である3月5日、善法の墓地で「山宣墓前祭」をひらき、彼の意志を受け継ぐことを誓い合う集いをもっている。
墓碑銘にある「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」は、官憲によって塗りツブスまで建立を許されなかったものである。
しかし何度塗りつぶされても、いつのまにか誰かに彫りとらレ、「山宣ひとり孤塁を守る」の墓碑銘が浮き出したという。
東京にもヘビー級のレストランが現存している。
東京銀座には「ライオン」と名のつくビアホールがある。
その始まりは、1911年8月10日開店の、銀座四丁目の角の「カフェー・ライオンであった。当初は上野精養軒の前身・築地精養軒の経営であった。
この背景には、当時パリで知ったカフェの味を忘れられないフランス留学帰りの画家たちからの開店のすすめがあった。
「カフェー・ライオン」 の店名は、築地精養軒の経営者・北村宇平氏が英国を訪れた際に、ロンドンのピカデリー広場の角で営業していたレストラン「ライオン」名にあやかったという。
この「ライオン」は、ロンドンの店の創始者ジョー・ライオン氏の名前からとったものだが、その名はライオンが英国王室の紋章であったことにもよる。
「カフェー・ライオン」は当時西洋式レストランの元祖ともいえる店だが、明治、大正、昭和の3代にわたり多くの文化人に愛好された。
その後、「カフェー・ライオン」は1931年に日本麦酒に経営を移している。
現在の銀座7丁目の「ビヤホールライオン」は日本最古のビヤホールといってよい。
設計は新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵で、当時の建築技術を結集した。
第二次世界大戦の勃発により空襲のため、ほとんどのビヤホールは焼失または疎開のために取り壊されたが、わずか「銀座ビヤホール」と「横浜ビヤホール」だけが空襲を免れた。
「銀座ビヤホール」は1945年の9月11日進駐軍専用のビヤホールとして接収され、1951年12月31日に「接収解除」となるまで一般の人々は入れなかった。
今「ビヤホールライオン銀座七丁目店」に入ると、正面にタイル張りの壁画があり、創建当時の噴水も復活している。
壁画は「豊穣と収穫」をテーマとしたもので、壁画を見ながら飲むビールの味は、重厚そのものである。

さて、東銀座に由緒ある料亭「金田中」があり、大正期からの料亭で今でも一見さんお断りの店である。
香港映画のアクション・スターであるブルースリーは、この店をよく利用していた。
とはいっても、香港のミラマホテル内にあった「金田中」である。
ブルースリーと「日本食」の橋渡しをしたのは、意外や福岡出身の映画カメラマン西本正である。
ブルースリー主演の映画「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ格闘シーンはブルースリーの映画の中でも圧巻であった。
このシーンをとった人物こそ、日本人カメラマン・西本正であった。
西本正は1921年2月、福岡に生れた。少年時代を満州ですごし、満州映画協会の技術者養成所に入った。
1946年、敗戦とともに日本に帰り、日本映画社の文化映画部をへて、翌年新東宝撮影部に入社した。
新東宝で西本は、中川信夫監督作品などの撮影監督をつとめ、「亡霊怪猫屋敷」(1958)や「東海道四谷怪談」(1959年)など、特撮技術を駆使したホラー傑作映画を生み出している。
その後、香港へ渡りブルースリーの映画の撮影などを行った。
実は、日本における映画技術は、「戦意高揚」のための映画づくりによって磨かれていた。
それは太平洋戦争の「負の遺産」ともいえるが、アメリカのウォルトディズニーでさえそうした戦争映画に関わっていた時代である。
アメリカの陸・海軍はそうした「戦意高揚」映画に全面協力し撮影のために本物の飛行機や戦車をいつでも動かしてくれたが、日本の映画づくりでは、実際の飛行機を飛ばしたり、戦車を動かすのに予算がたりず「特撮」という技術を開発せざるを得なかったのである。
また日本軍部は機密保持がきわめて厳しく資料や写真も公開してくれなかった。 そこでミニチュアの飛行機をワイヤーで吊るして飛ばし、大きなプールに模型の戦艦を浮かべた特撮セットがつくられ、「らしく見せる」ための様々な工夫がなされた。
日本の特撮技術の発達にはそうしたお家の事情が作用していたのである。
戦争が終わり日本で高度経済成長がはじまった1960年代に日本は世界トップクラスの特撮技術をもっていた。
特に新東宝の特撮技術・設備は世界一を誇っていた。そして円谷英二監督によって怪獣映画「ゴジラ」が制作され一世を風靡した。
こうした怪獣映画はそうした特撮技術をもって実現したのである。
そして香港に渡った西本正は、日本の高度な映画技術(特に特撮技術)を伝達し「香港カラー映画の父」とも呼ばれた。
さて話は、1972年「ドラゴンへの道」のローマロケのことである。
連日のイタリア料理にうんざりしていたブルースは、西本が通う日本食レストランに同行した。
食べたものは、すき焼きにマグロの刺身。酢だこも好物になった。
ブルースは、ローマ・ロケが終わって香港へ帰っても日本料理が忘れられず、撮影が終わる度に西本に「ヤマトレストラン! スキヤキ!」と叫んだ。
大和レストランは香港島にある有名店で、九龍のハイアットホテル裏にも支店を出していた。
現在も「大阪レストラン」という名で営業している。
西本が一度連れて行って以来、この店はブルースのお気に入りとなり、プライベートや打ち合わせでもしばしば利用した。
西本は、リンダ夫人も含めて3人で鉄板焼きを食べたこともあったと話している。
ミラマホテル内にあった「金田中」は、有名人がよく来る高級日本料理店として評判だった。
ブルースは日本そばを気に入り、よく日本そばを食べに来ていたという。
現地では日本そばを「ブラウンヌードル」といい、ブルース・リーもそのようにオーダーしていた。
実は最期を迎えた1973年7月20日の夜も、この店で共演者と打ち合わせをするために予約を入れていたのだ。
ちなみに香港の金田中は閉店し、現在は「桔梗」という日本料理屋になっている。

香港との関わった映画人といえば、「日活」の創業者・梅屋庄吉が思い浮かぶ。
梅谷は明治時代1868年に長崎の米屋に生まれた。
場所柄、大陸や南洋に憧れる冒険心あふれる人物であったようだ。
朝鮮で不作の時に米を売って大もうけするが、次の年には朝鮮が豊作であったという単純な理由で借財をつくってしまった。
日本に居づらくなり南方を歩き回った梅屋は14歳で上海にわたり、24歳の時に香港の現在のクイーンズロードセントラルで写真館「梅屋照相館」を開業している。
経営は出張撮影などのサービスが評判になり、大成功を収めた。
そしてかの地で梅屋は、中華革命に挫折した中国人やそれらを支援する華僑と出会った。
孫文の清朝打倒のための最初の広東武装蜂起が失敗し、逃れてきた彼らは香港に集まり次の機会を狙っていた。
梅屋は彼らを匿ううちに血が滾るのを覚えた。当時の梅屋はどんな思想や理念があったかは不明だが、いつのまにか興中会などの地下組織と繋がっていった。
そして写真館の常連客であったイギリス人の宣教師で医学博士ジェームス・カントリーと知り合い、その教え子である孫文を紹介される。
そして孫文の「人々が平等で平和な社会をつくる」という理想に共鳴し、梅屋は孫文に「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と告げている。
しかし梅屋の動きは官憲に知られるところとなり、香港を去りシンガポールに渡った。
そしてこのシンガポールで梅屋は人生を変える出会いをする。それは映画・興業師との出会いであった。
シンガポールにはフランスの映画会社のパテ社の支店もあったために、香港で買い込んでいた映写機を使ってその興業師とともに上映活動などをしてそれが成功したのである。
梅屋は革命亡命者という立場で、興中会からの後押しで、テントや椅子・設備などを貸してくれ宣伝なども行ってくれた。
しかし1904年に日露戦争がおこり、シンガポールにも渡ってきた戦争実況映画をスクリーンに映すなかで、梅屋自身の心の中にも変化が起こった。
これに先立つ1900年、中国の恵州武装蜂起に失敗し日本に亡命した同志が、革命の拠点を東京に移し1905年には「中国革命同盟会」が結成されたことを知ったからだ。
中国革命の父といわれる孫文は、1866年、広東省香山県翠享村の貧しい農家に生まれた。
14歳のとき、母に連れられ、ハワイで成功をおさめていた長兄の招きで渡航し学校にはいるが、キリスト教徒となったために長兄の怒りを買い、郷里にもどって農業に従事する。
しかし彼の才能を惜しむ郷里の人々の助力で、広東と香港の医学校に学ぶ。1892年孫文は香港の医学校を首席で卒業し、澳門・広州で医院を開き医師としての名声をえる。
孫文は日清戦争勃発により清朝政権のもとでの改革に望みを断ち、兄のいるハワイにわたり1894年1月ハワイで革命結社・興中会を組織し、広東で挙兵した。
しかし武装蜂起計画が事前にもれて失敗し、孫文の首に懸賞金がつけられ清朝から追いまわされる反逆者となった。
孫文は1895年11月日本に密航して難をのがれた。横浜で孫文は辮髪を切り、清朝に対する絶縁の意を公然と示した。
出発の際、孫文は陳少白を日本に残して日本での興中会活動にあたらせた。
その後ハワイ経由でイギリスにわたり、約10ヶ月ロンドンに滞在し、毎日のように大英博物館の図書室に通って革命理論を学んでいる。
イギリスで清朝の官吏におわれた孫文は、再び来日し、中国人留学生の中に革命気運が一気に高まった。
実は、「興中会」以外にも「華興会」「光復会」など、清朝の統治を覆そうとする革命組織が各地で結成された。
約1万人の中国人留学生の中には、黄興を指導者と仰ぐ湖南省出身者と孫文を中心とする広東人のグループが大きな勢力をもっていた。
興中会を率いる孫文は、ばらばらに革命活動を進めるより力を合わせることが「最優先」だと主張した。
そして孫文は1905年7月、宮崎滔天の勧めで神楽坂の中華料理店「鳳楽園」で黄興と会うことになった。
初対面の孫文と黄興はすっかり意気投合し、旧知の仲のように語り合った。そして革命組織を統一し、「中国同盟会」の結成することで合意したのである。
現在、神楽坂に中華革命の歴史的レストラン「鳳楽園」は存在しない。
しかし神楽坂といえば1972年日中国交回復の際に中国を訪問した田中角栄の「庭」といってよい場所であった。
田中角栄氏は新潟の高等小学校卒業後上京し、1931年19歳の時に知人の紹介で千代田区飯田橋の建築業者 ・坂本家の住居の一部を借り受け田中建築事務所を開設した。
翌年、坂本家の娘”はな”と結婚し、以後、飯田橋を本拠とした。
さらに建築業を拡大し、「田中土建工業」を設立し、年間工事実績で全国50社に数えられるほどの急成長を遂げた。
この頃から金銭の羽振りが良かったらしく、飯田橋から程近い神楽坂の花街に通い始め、田中のいわば「庭」となる。
さて、1905年8月「興中会」「華興会」「光復会」が合同して「中国革命同盟会」の創立総会が開かれ、孫文の「三民主義」が綱領として採択された。
その翌年、梅屋庄吉は日本の土を再び踏むが、この頃彼の名前は中国革命同盟会にも良く知られる伝説上の人物になっていた。
そして彼のトランクには、日本人がまだ見たこともない色彩フィルム大作がつまれていた。
そしてさっそく新富座をはじめ映画興行を行い人々の注目を集めていく。
映画人としての成功をある程度おさめた梅屋は、新宿区大久保百人町の地に撮影所を兼ねた自宅をたてた。
そして1913年、第二革命に失敗した孫文を日本で出迎え、孫文が第三革命のため中国へ帰国するまでの2年8ヵ月の間、撮影所兼自宅に匿ったのである。
ところで、東京にあってインドの独立革命の志士ラス・ビハリ・ボーズを匿った新宿中村屋は比較的知られているが、日本における中国革命の「発信源」ともなった日々谷「松本楼」の存在は今ひとつ知られていない。
孫文が日本に滞在していた期間、梅屋庄吉は孫文を日本の名士たちに紹介するため、日比谷松本楼で幾度も宴会を催している。
梅屋夫妻は孫文が宋慶齢と結婚した際にも媒酌をつとめている。
、 2003年の日比谷公園100周年の年、二胡の名手である呉汝俊の名演奏をバックに、孫文と梅屋の友情物語を題材にした劇が披露された。
2010年5月6日胡錦濤国家主席の来日に際して、日本政府が非公式の夕食会場として設定したのがこの「松本楼」であった。
そしてもうひとつ松本楼は中国との関わりをもつ人物と縁がある。
1978年に締結された日中平和友好条約の立役者・福田赳夫元結婚の際の披露宴会場は、松本楼であった。
松本楼は、銀座で洋食店を開業していた小坂梅吉により、1903年に日比谷公園開園時に当時の東京市による公入札によって創設された。
多くの著名人も訪れ、夏目漱石「野分」・高村光太郎「智恵子抄」の舞台にもなっている。
その後、松本楼の創業者である小坂梅吉の孫と梅屋庄吉の孫が結婚したため、梅屋庄吉の資料は小坂家に引き継がれた。
宋慶齢が愛用の山葉製(ヤマハ)の国産ピアノ第1号のピアノや記念写真など、貴重な品々を松本楼が譲り受け、現在も松本楼の1階のロビーに展示されている。
まさにヘビー級レストランである。