仕草のメッセージ

人々は、言語やモノ(記号)に限らず、言葉以外のしぐさや表情など、ノンバ-バル(非言語)な「サイン」に囲まれて生きている。
ノンバ-バルな仕草や行動は、その意味や意図を充分に読み取れない場合に、お笑い系からシリアス系まで様々な出来事を引き起こす。
そこが「青は行け/赤は止まれ」といったシグナルとの違いである。
誰かの話だが、オフィス・ビル2階の窓から女性が自分に向かって手を振っているので、本能的に手を振り返してしまったが、彼女が手の中に何かを持っている。
よくよく見るととそれは雑巾で、その女性は窓拭きをしていたらしかった。
こういう場合、振ってしまった手をどうするか、顔のユルミをどう後処理するかが問題である。
かつて聞いたことのある、女優の大竹しのぶさんのエピソードもすごかった。
中学生の頃、タバコ屋の手伝いをしていたら、若い男がきて自分にむかってピ-ス、ピースとVサインをおくる。
彼女もそれに応えてピ-ス・ピースといいながら何度もVサインを送り返したら、男はあきれたようにその場を立ち去った。
彼女がタバコに「ピース」という銘柄があり、あの男が出したVサインは「ピ-ス二箱」という意味だったことを知ったのは、女優になってからのことだったという。
ところで、ノンバーバルなサインが発する「メッセージ」を積極的に活用するケースもある。
例えば、国会議員は選挙期間中に握手をしてまわるが、それは議員には「握手の数しか投票はない」という格言があるらしい。
TVである女性国会議員が、握手をする時に男性に対しては相手を引き込むように握手して、女性に対して押し込むように握手するということを語っていた。
男性に対しては優しさ、女性にたいしては力強さをアピールするのだという。
最近では、サッカーのゴールシーンでは、色々な選手のアクションを見た。
それぞれの国の文化や歴史に根ざした自然なダンスもあろうが、相当に過剰なアクションをやってる感がある。
あれくらい大袈裟にやってこそ、皆がひとつになるという要素があるのだろうが、人知れぬ思いがこもった、誰とも分かち合えないパスやシュートもあったに違いない。
サッカー放送の裏の番組で、たまたまメジャー・リーグで活躍中の岩村選手のエピソードを知る機会があった。
岩村選手の母親が亡くなったそのの日(2005年)、横浜戦(神宮)を控えていた岩村は、当時の若松監督から帰郷するよう勧められた。
しかし、「プロとして目の前の試合を放棄するわけにはいかない」と、左腕に喪章を付け「3番・三塁手」で先発出場した。
この日、2本塁打を含む3安打4打点の大活躍を見せた。
この試合以来、岩村はホームランを打ってホームベースを踏む時、指をたて天に向ける仕草をみせるようになった。
一本一本のホームランを母親に捧げる気持ちをこめるのだという。
このたびのサッカーの試合中に、内戦の激化で多くの人々が亡くなったナイジェリアや、かつて激しい内戦を繰り広げた三つの民族がひとつとなって一勝をあげたボスニア・ヘルツェゴヴィナなど、その勝いの意味は、我々日本人のそれとは異なる意味があったのだろうと推測する。
ボスニアヘルツェゴヴィナの場合、勝利の後に歌う国歌の曲は流れたが、誰も歌わなかった。
三つの民族が賛同し共有できる「歌詞」というものが存在しないからである。
ただその思いの幾分かは、選手の表情から伝わるものがあったが、「国歌の歌詞が存在しない」ことこそ、この国の現況が発するメッセージともいえる。

さて、重要な宴席での中国人の習慣について、ひとつの疑問があった。
食事の場で、お酒を相手から注がれている最中、グラスの横で数回「トン トン トン トン トン」と、片手全部の指でテーブルを叩く習慣である。
そういえば、ドリーム・カム・トゥルーの名曲「未来予想図」の歌詞には、有名なノンバーバルサインが登場する。
バイクで自分を送った後、彼が曲がり角で必ず五回ライトを点滅させてくれる。
それは、ア・イ・シ・テ・ルのサイン、だとか。
まさか、中国人の「トン トン トン トン トン」はア・イ・シ・テ・ルのサインではなかろうが、実はコレハ中国のひとつの故事に基づくもので、相手への感謝の気持ちを表すものだそうだ。
古来中国の皇帝が一般国民の生活を視察する為、市民の格好に変装し街に出てレストランを覗きに行った時のことである。
食事の場で、皇帝は一般人を装っているため、隣のお付きの者に気軽にお酒を注ぐ。
通常ではあり得ない行為に、お付きの者は大そう驚き恐縮した。
皇帝が一般人を装って視察している手前、お付きの者は、その場で感謝の意を大袈裟には表現できない。
その時、付き人は片手全指でテーブルの上を上下に叩いた。
指を自分の全家族と例え、皇帝に最敬礼をしている仕草をテーブル上で表現したとされる。
そして中国で、この仕草を簡素化したのが、乾杯の際に軽くグラスを円卓テーブル上を叩きコツんと音を鳴らす仕草になっているとのことだ。
最近、古代ローマ社会の風習は映画や漫画「テルマエ・ロマエ」によって巷間でも親しまれているが、一般市民が朝から晩まで浴場で休養し、寝そべって食事をとるなんてこと、どうして出来るのかと思うにちがいない。
これは、ローマ社会におけるいわゆる「パンとサーカス」を物語るが、有力政治家の人気取りバラマキ政策によるものである。
つまり食べ物と娯楽の「バラマキ政策」なのだが、その社会の暗部として、いいように使われている奴隷の存在があった。
ローマで奴隷といってもいろいろな奴隷がいて、普通の奴隷はラティフンディア(大土地)で農作業をした。
ローマに征服されたギリシア人も多く学者の奴隷もいたが、彼らは貴族の家で子供の家庭教師などをした。
またルックスに優れたな少年少女は貴族の家で、主人の身の回りの世話をさせられた。
そして、突出して肉体能力が抜群の者が「剣奴」にさせられた。
剣奴は真剣勝負の殺し合いをさせられる者で、ローマ市民たちがその決闘を見て熱狂する。
この戦いが繰り広げられたのが、コロッセウムで、地下にはライオンなどの猛獣をいれておく檻も備わっており、剣奴と戦うこともあった。
そして剣奴の養成所までもが各地に作られたのである。
強くて人気のある剣奴は「スター扱い」だが、負ければ死んでしまうこともある。
しかし、試合では必ずどちらかが死ぬまで戦うわけではない。
怪我をするとか、剣を取り落としてしまうとか、戦闘不能になって勝負がつく場合がある。
ポイントはどうトドメをさすかである。
勝った剣奴は主催者(有力政治家/有力貴族)を見る。
主催者は競技場につめかけた観客を見渡し、観衆が親指を立てて拳を突き出せば、「そいつは負けたけど、立派に戦った。命は許してやれ」というサイン。
他方、主催者も親指を立てて、勝者はトドメをささない。敗者は怪我の手当などを受けて助けられる。
逆に観衆が親指を下に向けたら、「そいつは助けるに値しない。殺せ」という意味で、主催者も同じサインを送る。
ローマ社会の有力者が、そうした民衆のサインをそのまま受け取って、奴隷の生死の決定をしていたというのが、当時のローマ社会の現実を雄弁に物語っているように思える。
こういう「民衆の見世物」となる戦いの不条理さに耐えかねて反乱や逃亡を行う剣奴がいて不思議ではない。
そして実際に大規模な剣奴の反乱がおこるが、それがBC73年のスパルタクスの反乱である。
ちなみに、欧米の習慣となっている結婚式における「お姫様抱っこ」も古代ローマ起源である。
ラテン人たちは他民族と戦いながら都市国家ローマを築いたが、長く戦いにあけくれて女性不在の生活だったために、子孫を残すスベがなくなっていた。
そこでラテン人は近隣のザビーニ族を招いて酒宴を催し、酒がまわったところでザビーニ族の女性たちを「お姫さま抱っこ」をしてさらっていき「花嫁」としたのである。
ザビーニ族の男たちは怒って女性たちを取り戻そうとしたが、意外なことにラテン人の男性達はザビーニの女性達に情熱t的かつで優しく、花嫁たちは特に不満もなさそうだったので、戦争にまでには至らなかったという。
この出来事から、結婚式で男性が女性を抱き上げる「お姫さま抱っこ」が見られるようになったという。

しばしば思うことだが、歴史に名を残した絵描きというのは、絵画中に人が気付きにくいが、わかる人にはわかってほしいサインを必ずといていいくらいに描きこんでいる。
そして絵画の中の人物の「ひとつの仕草」が、歴史的に大きなメッセージを発する場合がある。
19世紀初頭、フランスの御用絵描きダビッドの大作に「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」がある。
1804年12月2日に行なわれたナポレオンの戴冠式を描いたもので、歴史の「一瞬」を見事に描いたルーヴル美術館でも最大級の大きさの絵画である。
この絵画のポイントは、ナポレオンがローマ法王によってではなく自ら戴冠し、王妃に王冠を与えようとしている。
しかしこの場面には「御用絵師」らしく、様々な脚色が施されているらしい。
当初の構想では皇帝ナポレオンが自身で戴冠する実際の場面が描かれる予定であったが、ダヴィッドは皇帝は自身にではなく妻ジョゼフィーヌに戴冠する姿に代えた。
これは、ローマ法王に対する配慮が働いたとも思われるが、ナポレオンは教皇に完全に背を向けてジョセフィーヌに戴冠している。
一方、無理やりこの場に出席させられた教皇は、ナポレオン皇帝の正当性につきローマ教皇が祝福し賛同しているようにみせた。
そのことを表現する為に、ナント聖母マリアの受胎を祝福する天使のポーズと同じ手の仕草に変更したのだという。
これによって皇帝ナポレオンが、妻ジョゼフィーヌに戴冠することで、画家は絵の中の主人公が誰であるかを明確した。
このような脚色を通じて、ナポレオンの皇帝としての権威を高めようとした意図があり、ナポレオンはこの絵を見てダビッデを賞賛したのだという。
さらに、本来ならばもう少し年配であったジョゼフィーヌは、美しさと初々しさを演出するために、ダヴィッドの「娘」をモデルにして描かれたとされている。
そういえば、ひとつの「仕草」が決定的な役割を果たす「映画」があった。
フレデリック・フォーサイスの原作を映画化した「ジャッカルの日」(1973年)である。
この映画は実際にあった大統領暗殺計画を、狙う側と狙われる側、双方のストイックな闘いが淡々と描かれている。
1960年代のフランスでド・ゴール政権に不満を持つ秘密組織が、大統領暗殺を目論むが、ことごとく失敗に終わってしまう。
そこで最後の手段として、凄腕の殺し屋ジャッカルにド・ゴール暗殺を依頼する。
この計画をいち早く察知したフランス警察のルベル警部はジャッカル暗殺計画に立ち向かうが、ジャッカルの照準は着実にド・ゴールを追いつめていく。
ドキュメンタリータッチの演出もあいまって、観る者をひきこんでいくサスペンス映画の最高峰といえるのだが、そのクライマックスの狙撃の場面は不評が多いようだ。
大統領が予期せぬ動きをしたため、ジャッカルの放った弾丸がそれてしまう。
それで、映画が終わるなんてあっけなさ過ぎる。というわけで、多くの人にとってアレッ?で終わってしまう。
ところが、原作の方は、その瞬間なぜ大統領は動き、ジャッカルは狙いをはずしたのか、その説明が書いてある。
そこで、原作から、その場面を引用しよう。
「照準器の十字の線の中点がこめかみに合わさった。やわらかくやさしく彼は引金をしぼった。次の瞬間、彼は信じられないという表情で、駅前広場を見下ろしていた。
炸焼弾が銃口から飛び出す前に、大統領は、ついと頭を傾けたのだ。ジャッカルが茫然として眺めていると、大統領は、前にいる退役軍人の両頬に、おごそかに接吻した。大統領は長身なので、祝福の接吻を与えるためには、ちょっと前かがみにならなければいけないのだ。
この接吻は、フランスその他のラテン系民族の習慣で、アングロ・サクソンであるジャッカルは不覚にもその動作につき、予測できなかったのである」。
「ジャッカルの日」は、実際の事件に基づいたフィクションだが、現実に歴史を変えた「ワンアクション」も多くあるにちがいない。
1889年当時、ベルリンの壁が崩壊へと至る一連の出来事のきっかけに、同年8月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた 「汎ヨーロッパ・ピクニック」なる企画があった。
もともとハンガリーは、東欧社会主義圏の中では、最も開放的な国であった。
そのため、とりわけ夏には、避暑のためにやってきた東独市民と西独市民が再開し、旧交をあたためる場所となっていた。
この事実に注目した民主化グループは、ハプスブルク家当主の助けも借りて、「汎ヨーロッパ・ピクニック」を計画し、これをゲリラ的に推進したのである。
汎ヨーロッパ・ピクニックとは、ハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショブロンに集まってきた東独市民を、一挙に大量に西側(西独)へぼ亡命させてしまう策略である。
NHKの特集番組には、ある感動的な場面が映されていた。
国境のゲートを走りぬけようとする多数の東独市民の中に、一人、赤ちゃんを抱いた女性がいた。
彼女はあわてるあまり、ゲートの直前で赤ちゃんを落としてしまう。
そこに国境警備兵が近づいてくる。「もうおしまいだ」と思った瞬間のワンアクション。
警備兵はその赤ちゃんを抱き上げて、優しくその女性に手渡したのである。
当時のハンガリー政府は、東独市民の国外脱出を黙認し、また支援もしたのである。
そしてハンガリーの国境警備兵は、東独市民の逃亡を見逃すように命令をうけていたのだ。
汎ヨーロッパ・ピクニックで、一度に国境を渡った東独人は、約1000人だといわれている。
その後、続々とハンガリーに集まってきた、約6万人の東独市民の越境を、ハンガリー政府は、密かに支援したのである。
ベルリンの壁崩壊の陰にネーメト首相のハンガリー政府の決断があったといってよい。
そしてハンガリー政府は、西独大使館員が、東独の亡命者に発給する場所を提供したのである。
さらに、ネーメト首相は、密かに西独に渡り西独コール首相に、ハンガリーに不法滞在する東独の人々を、何の見返りもなしに、西独に出国さえるつもりであると。
コール首相は、この勇気ある決断に感謝し、泣き崩れたという。
他方で、ハンガリー政府は、東独市民の強制送還を要請してきた東独政府に対して、同じことを通達したのである。
これによって、東独国内では民主化(つまり移動の自由)を求める大規模な街頭デモが繰り返され、これ以上の暴動を恐れる東独政府は、「壁」の開放を容認せざるをえなくなったのである。
ところで、ほとんど「死に体」の北朝鮮が倒れない理由は単純である。
中国も韓国も日本も、難民が押し寄せるのを恐れて「逃げ道」を用意するどころか、場合によっては「脱北者」を送り返しているからである。
しかし、ハンガリー政府とベルリンの壁崩壊の教訓は、北朝鮮の人々の逃げ道を「密かに」用意してあげるだけで、コトが始まるということである。