山の上の舟

沈没船の引き揚げは昔から行われているが、5千メートルもの高山に乗っかった船を引き降ろすなんてこと~あるかもしれない。
場所はトルコの山岳地帯のアララテ山で、最古のキリスト教国・アルメニアに接したあたりにところに位置する。
この3月、「ノア 約束の舟」が全米公開され、興収収入全米「初登場1位」デビューを果たしたという。
監督は「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー監督で、主演は「レ・ミゼラブル」の好演が記憶に新しいラッセル・クロウである。
旧約聖書の創世記の「ノアの方舟」伝説を映像化したスペクタクル大作で、日本では6月中旬より全国公開される。
さて旧約聖書「創世記」5章をみてみよう。
//ノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。
あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。
それはその種類が全地の面で生き残るためである。
それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである」。
ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。//
ところで、この「ノアの方舟」の話は本当にあったことなのか、昔から議論をよび調査もなされているが、5000メートル級の山にノアの方舟の「痕跡」を探すのは容易なことではない。
いくつかの疑問点として、ソンナ世界規模の大洪水ナンテあり得ないということ、ノアとその家族だけでソンナ大きな船を造ることができたかということ、あらゆる動物を入れるのは不可能だということなどである。
第一の疑問は、メソポタミアの地層の解明により、とてつもない大洪水が起きたことは明白で、それは古代シュメール人の「ギルガメシュ物語」とも合致している。
第二の疑問は、船を作るさいの神の「指示書」が具体的カツ詳細であるということである。
それは8名と動物を残すために神様は見事な計算の上で、サイズを指定してノア達に造らせたのである。
この箱船の縦・横・高さの比率は現在のタンカーにも応用されている安定した舟のサイズであることが判明している。
しかし、ノアは神が命じられたとおりに船を造ったにせよ、木材の切り出しや運搬が可能だったかという疑問が残る。
一般の感覚からすれば大洪水なんて本当に起きるのかと信じがたく、周りはノアの行為を批判したり嘲笑したりであろうから、ノアの家族は「信仰」と「忍耐」をもってこの大事業に臨んだに違いない。
大雨が降るなんて信じていない人々は、こんなところにコンナ大きな船を造っているノアを馬鹿にしたであろうから、そんな人々の嘲笑をものともせず作業を続けたということになる。
そして、船をつくりあげる「時間の長さ」に意味があったことが、新約聖書の次の言葉で知ることができる。
新約聖書には「むかしノアの方舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者」(ペテロⅠ3章)とある。
つまり神は、ノアが方舟をつくる過程で、人々の気持ちが「神に向かないか」ということを見守っていたということなのだ。
キリスト教では「悔い改め」というが、これを善悪の次元で捉えるならば、多くの人々は「悔い改め」なんて必要ではないと思うかもしれない。
しかし聖書のいう「悔い改め」とは、この地上のことでイッパイの心を神に向けるということなのだ。
しかし「神が寛容」にもかかわらず、結果的には方舟に入ったのはノアの家族8人しかいなかったのである。
フト思ったことだが、船という字が「舟」に「八」と「口」と書くのは、単なる偶然の一致なのだろうか。
第三の疑問であるが、ノアが地上の動物を集めて方舟にいれたわけではないというこは聖書の文言からよくわかる。
「こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った」
色々な動物がツガイで入れられたのだが、その動物たちはノアがあちこちから集めるのではなく、自分たちでやって来たということなのだ。
これは不思議なことだが、災害が起そうなときに、動物は人間よりも早く動き出すという話があるが、そうした「動物の本能」の働きもしくは神の働きがあったのではなかろうか。
さて注目すべきことは、すべてが入り終えて方船の扉が閉まるが、これはノアが閉めたのではなく、神によって閉められている。
「それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7章16)
そして聖書には、扉が閉じられて後に四十日四十夜雨が降り注いだのだが、この「扉が閉じられる」というのは恐ろしく響く言葉である。
新約聖書にも「扉が閉められる」という場面を含むシーンがある。
それは「10人の乙女」のタトエ話である。
// 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日その時を知らないのだから」//(マタイ25章1節ー13節)
さて「方舟の扉」が閉められた後のノアの家族達の話は次のとうりである。
そして大雨が降り続き、世界が大洪水によって水没し、全ての生き物は地上から姿を消した。
その後、方舟は40日間漂流したが、水が引く様子がない。
ノアは、まず始めにカラスを放してみたが、そのカラスは戻って来ることはなく、何の手がかりもつかめない。
次に、鳩を放してみたが、羽を休める場所が無かった鳩は、しばらくすると戻ってきた。
しかし7日後、諦めずにもう一度鳩を放してみたら、オリーブの枝をくわえて戻ってきた。
「やっと、水が引き始めたようだ」
ノアはさらに7日待ってまた鳩を放ってみると、安らげる大地を見つけた鳩は、もう戻っては来なかった。
そしてノアの方舟は、水面に突き出た山の頂き(アララト山)に着地したのである。

従来、聖書の物語は、神話や作り話として「反証」を意図した考古学的調査もおこなわれてきたが、結局は「物語」の周辺環境や事件を否定できる考古学的資料が出てこず、結果的に聖書の記述を「補強」するところに落ち着くというのがひとつのパターンである。
一人の羊飼いの少年が「死海文書」を見つけた時に、聖書の原本らしいものが出て、学者の中には聖書の誤りが文献的に指摘できると思った人々が多いらしいが、聖書はいまだにビクともしていない。
「ノアの洪水」伝説にせよ、地質学上の調査で、人類が古代において大洪水にあったことを示す「大断層」が残っているし、方舟がたどり着いた標高5165mのアララト山麓で、方舟をかたどった跡が発見されていることなど、「ノアの洪水」を単なるつくり話と見ることは、あまりに早急にすぎる。
聖書の中には時々「荒唐無稽」な話がでてくるが、実際の調査ではそれを否定するとむしろ説明が出来ない事例が数多く存在するのである。
そこで聖書の記述の中で、最も「荒唐無稽」に思われる話に対して、科学がどう向かったか実際にあったエピソードをひとつ紹介したい。
40年前のNASAの科学者が、惑星の軌道計算などのためにコンピューターを使って計算したところ、過去の「1日が消滅」しているとしか考えられない事態に直面した。
原因がわからないのだが、とにかく解決しないと、当時の悲願である月面着陸が実現しない。
そのとき一人のクリスチャン科学者が、聖書に太陽と月がほぼ1日動かなかった日があることを指摘した。
ヨシュアがアモリ人との戦いで完全な勝利を得るために、日を延ばしてくれるように神に祈ったときのことである。
「ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。
『日よとどまれギブオンの上に/月よとどまれアヤロンの谷に」』日はとどまり/月は動きをやめた…主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった」(ヨシュア記10章)。
多くの科学者たちは本気にしてはいなかったが、ほかに方法もなかったので、これを事実としてコンピューターに入力したところ、誤差が大幅に調整された。
しかしそれでも、まだ40分計算が合わない。
そこでもう一度聖書を探したところ、「列王記下」20章、死の床にあったヒゼキア王の寿命を15年延ばした印として、神が日時計の影を10度後戻りさせたとの記述を発見した。
10度は時間に直すとちょうど40分である。
これを入力すると、計算がピタリと合い、コンピューターは正常に作動したという。

キリスト誕生以前から、アルメニアにはアララト山の山頂に方船が存在するという伝説が残っている。
古代、そして中世の人々はノアの方舟がそこに漂着した状態で存在していることを当然のように考えていたのである。
1893年、当時の副司教を務めていた人物がその目でノアの箱舟を目撃したという声明を発表した。
また1916年夏、空軍偵察機に搭乗した人物とその乗員が山頂上空を滑空中、氷河の割れ目の中に巨大な船の一部分を目撃したという。
更に同じ年、およそ150人から編成されたロシアの調査団がアララト山の違う側面から山頂を目指し、船を発見したという記録がある。
それ以後もトルコ空軍などから「ノアの方船」かと思われる痕跡の撮影がなされている。
最近では2003年、民間の商用画像衛星によって撮影されたアララト山(トルコ)の「ノアの方船」の高解像度画像が一般公開された。
コノ公開された「方船」と言われる物体の画像は、アララト山腹北西部、標高4663mの地点で撮影されたものである。
物体は氷河の中に埋没した状態で、その氷床下はまだ明かではない。
しかし米ヴァージニア大学リッチモンド大学助教授、ポ-チャー・テイラー氏によれば、物体の形態は旧約聖書に描かれるノアの箱船とピタリと符号しているという。
テイラー氏は、聖書に描かれるノアの箱船の縦横比率が6:1(300キュビット:50キュビット)とされていることを挙げ、衛星写真に映し出された物体がやはり6:1の比率を示していたことを指摘している。
ちなみにテイラー氏はこれまで13年間、ノアの方船の研究を続ける一方、ワシントンD.Cの国家安全保障専門家として30年、また戦略国際問題研究所に5年間勤務している人物である。
そして最近、タイタニック号を発見したことで有名な探検家ロバート・バラード氏は、本格的に「ノアの箱舟」の調査に乗り出す予定であるという。
「アララトの不思議」と解釈される物体があるのは確かだが、様々な厚さの雪と氷に覆われた岩と影で出来上がったものにすぎないとの説もあることを付言しておこう。

ノアの洪水の話は、「救いの型」を示している。
ノアの洪水では、神が地上に満ちた暴虐を怒り、洪水によって人類が滅ぼされるのであるが、その際にノアとその一族8人だけは方舟によって救われる話である。
大洪水というカタストロフィーによって人類がリセットされ、新しい世界が始まるなどは、未来の「神の国」の到来を思わせられるものでもある。
新約聖書には、ノアの洪水が洗礼(バプテスマ)という「救いの型」を示しているとはっきりと語っている。
「その方舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずか八名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたを救うものである」(ペテロ第一3章)
また、ノアの物語の中には、あまり目立たないがもうひとつの「救いの型」が存している。
ノアには、セム・ハム・ヤペテという三人の子供がいたが、ある日ノアが酒に酔って裸で寝っころがっていたところ、3人の息子のうちで、ハムはその姿を見ておーい見てみろと嘲り、ヤペテとセムは、ノアの醜態を見ないようにして、着物をかけてあげたということが書いてある。
些細な出来事のようだが、その時の息子の態度により、セム・ハム・ヤペテの子孫達の運命が定まった。
おおまかにいうとセムの子孫がユダヤ人やアラブ人などで、ヤペテの子孫が白人系、ハムの子孫がアフリカ人となる。
そしてノアの三人の息子の子孫について聖書の預言をそのまま書くと次のようになっている。
「カナン(ハムの子)はのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。
セムの神は、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。
神はヤペテをおおいならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。 カナンはそのしもべとなれ」(創生記9章)。
セムの天幕にヤペテが住むよいうのは、セム系が生み出したキリスト教の下に白人が住まうということか。
世界の歴史の大きな流れからみて、この預言はあたっているように思える。
さて、酔っ払って寝入ってしまったこのノアについて神は次のように評している。
「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつまったき人であった。ノアは神とともに歩んだ」(創生記6章9節)
そして、神様はこのノアをその目から見て「良し」として、その家族を救おうとされたのである。
神から見て良し悪しは人の観点とはダイブ違うようで、肝心なことは「心を天に向けている」か、「神とともに歩もう」としているかということなのである。
時に酒に酔うことはあっても、ノアはそういう意味で「信仰の人」であったことは間違いない。
ヤペテとセムが、ノアの醜態を見ないようにして着物をかけてあげたということには、「救いの型」が示されている。
ヨハネは、イエスの十字架の血による洗いつまり「洗礼」は、人間の弱いところや罪深いところに覆いをかける「白き衣を着させる」(黙示録6章)ことと書いている。