食のエピソード

食は人間の根元であるためか、世界史には料理や飲みもののエピソードが豊富にある。
アメリカ史では、七面鳥料理とアメリカンコーヒーのエピソードがある。
イギリス発のピューリタン101名(ディズニーの101匹ワンチャンはコレに由来するか)を乗せたメイフラワー号が新大陸(プリマス)に着いた際に、先住民が七面鳥料理をふるまったことから、アメリカの「サンクスギビングデイ」(収穫感謝)では、「七面鳥」料理でお祝いをするという習慣が定着した。
また、アメリカン・コーヒーがなぜ「国民的飲料」として定着したのかというと、「イギリスの紅茶なんか飲んでいられるかい」と反発した植民地人たちが、「紅茶の代用品」として飲み始めたからである。
北アメリカ大陸に13の植民地が出来た頃、イギリス東インド会社の茶(紅茶)しか植民地での販売を認めないという法律が「茶法」である。
当時お茶はイギリス人にとって国民飲料になっていた。「国民飲料」というのは、その国の人たちにとって食事の時に絶対欠かせない飲み物である。
イギリスでは、東インド会社が中国から茶を輸入して以来、お茶がアッという間に国民の間に広がった。
紅茶は、イギリス人にとって、これがなかったら食事もできないというほどの生活必需品なのだ。
だから、「茶法」は植民地の人たちにとって、イギリス本国の「強引さ」のシンボルとなった。
だからこそ植民地人は、この法律にヒドク反発したのである。
そこで、本国イギリス政府のやり方に腹を立てた一部の過激な植民地の人々が、インディアンに「変装」してボートに乗り込んだ。
そして、ボストンの港に入港した東インド会社の貿易船に近づいていった。
そして、貿易船に乗り込むや、積み荷の茶を海に次々と投げ捨てたのだ。
そして、9万ドル分の茶がパーになった。
これが、世にいう「ボストン茶会事件」である。
これは事件としてはササヤカなものだったが、植民地人が本国に対して「実力行使」をしたという点で、画期的な出来事だった。
そして、これが植民地人たちの「反抗心」に火をつけ、アメリカ独立運動への「一歩」を踏み出していくのである。
こうした出来事のせいか、現在のアメリカ人はあまり紅茶を飲まない。そしてその代用品がコーヒーだったのである。
しかし、コーヒーは濃すぎては何杯も飲めない。
そこで紅茶に近づけようと、できるカギリ味をウスメにしたのが、アメリカン・コーヒーである。

イギリスには、「ラム酒」と「カクテル」にまつわる強烈なエピソードが残っている。
ナポレオンが旭日のごとくヨーロッパを席巻した時代に、ポオレオンの勢いを止め、フランス革命が波及するのを防ぐためヨーロッパは何度かの「対仏同盟」をくんだ。
そしてその連合艦隊を指揮したのがイギリスのネルソン提督である。
当時の海戦において、砲撃で敵艦を沈めるのは困難であり、最終的に接近戦・移乗攻撃で決着をつけるのが「定石」であった。
そこで、まず砲撃戦で敵艦の戦闘能力を削いだ上で、接舷し、接舷された側も反撃手段が残っていないため、白兵戦に移行する前に降伏するケースが多かった。
しかし、ネルソンの戦法の特徴は、「接近戦」を早々に行った事であり、相手のフランス側も「反撃準備」をしての戦闘となったのである。
旗艦ヴィクトリー上で指揮を執るネルソンは4つの「勲章」を胸にしており、敵船からの「狙撃」をおそれた副官らからコートを羽織るように進言されてていた。
しかし味方の士気をあげるために、すでに右目と右腕を失っているにもかかわらず、甲板に立ち続けた。
そして、ネルソン提督率いる連合艦隊はフランス艦隊を打ち破るのだが、ネルソン提督自身は弾が当って戦死するのである。
ネルソンの「遺骸」は腐敗を防ぐために、樽に入れてラム酒漬けにして本国まで運ばれた。
しかしそのネルソンを漬けたラム酒は、水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は「空っぽ」になっていたという。
一説によると、偉大なネルソンにアヤカろうとした行動だったという。
このエピソードからラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることもある。
翌年ネルソン提督は、君主以外では初となる「国葬」としてセント・ポール大聖堂に葬られた。
現在でも、ネルソン提督は「イギリスの英雄」として称えられ続けており、ロンドンのトラファルガー広場中心にはネルソン記念柱が据えられている。
イギリスの歴史には「ネルソンの血」とは趣が異なり、本当に「血なまぐさい」エピソードから、「ブラッディ・メアリー」というカクテルが生まれた。
ヘンリー8世といえば、自身の離婚問題のためにカトリック教会からイギリス国教会を独立させた人物として有名である。
そして生涯6回もの結婚をして複数の子供をもうけたが、不思議と男の子にめぐまれなかった。
ヘンリ8世の最初の妻はスペイン出身で、コロンブスの航海を援助したイザベラ女王の娘カザリンであった。
当時のイギリスはまだまだ貧しく弱い三流国であったが、スペインはメリカ植民地経営で富を築き「絶頂期」にあった。
あまりにも「露骨」な政略結婚だから、ヘンリ8世としてはあまりカザリンに愛情を抱けない。
そんなヘンリ8世はカザリンの「侍女」アン・ブーリンの方を好きになってしまった。
ヘンリ8世はアン・ブーリンと正式に結婚したいと思い、そのためには当然カザリンと離婚しなければならない。
しかし、「離婚する」ということは神への誓いを破ることだから、ローマカトリック教会は認めない。
それなら、ローマ教会なんか抜けてやると、カトリック教会の信者をやめてしまった。
そして新しい教会組織を作るが、その新しい教会が「イギリス国教会」であり、教会の最高指導者は「イギリス国王自身」ということにしたのである。
ヘンリ8世はめでたくアン・ブーリンと結婚し、二人のあいだには女の子が産まれた。
しかし、王子が欲しかったヘンリ8世はまた別の女性に目移りして、ナント邪魔になったアン・ブーリンをロンドン塔に幽閉したうえ「処刑」してしまったのである。
その後ヘンリー8世が亡くなり、三番目の妻の子でただ一人の王子エドワード6世が即位するが、即位してまもなく死んでしまう。
エドワード6世がなくなったあと、王位を継いだのがヘンリ8世の娘メアリ1世である。そしてメアリの母こそがカザリンであった。
メアリとしては自分の母を離婚した父親ヘンリ8世が好きでないし、離婚の結果できたイギリス国教会も大嫌いである。
メアリは母親と同じようにローマカソリック教会を信じているわけで、彼女は即位するとイギリス国教会をやめてカソリック教会に復帰した。
しかし、かつてヘンリー8世によりローマ教会から土地を没収して分け与えられたジェントリ(地主)たちにとっては、財産がどうなるのか気ガキではない。
自分たちの財産を守るためにもイギリス国教会の方がよかったのだ。
さらにメアリ1世はスペイン国王フェリペ2世と結婚した。フェリペ2世はカール5世(カルロス1世)の息子で当然ローマ・カトリックである。
メアリ1世がフェリペ2世の子供を生んで、この子がスペイン王とイギリス王を兼ねるようにでもなれば、「イギリス」という国がナクナッテしまう可能性だってあったのだ。
当然メアリ1世は人気がなく反対者が多い。そこでメアリは自分の宗教政策に反対する臣下をどんどん処刑していったのである。
そして彼女についたあだ名が「ブラッディ・メアリ」「流血のメアリ」である。
ところがメアリ1世は男の子が生まれぬまま即位5年で亡くなり、次に王位についたのがエリザベス1世である。
エリザベスはヘンリ8世とアン・ブーリンのあいだの子供で、メアリの「腹違いの妹」にあたる。
メアリーは異母妹エリザベスを、母カザリンを離婚に追いやった女アンブーリンの娘として終生憎み続け、メアリは自分が王位についているあいだ妹のエリザベスをロンドン塔に「幽閉」していた。
エリザベスはいつ殺されるかわからない状態だったが、メアリの突然の死で王位が転がりこんできたのである。
ただしメアリーは死の前日になって、しぶしぶ自分の後継者としてエリザベス指名したのである。
その後、そしてエリザベスはイギリス国教会を復活させ、1559年「信仰統一法」という法律でイギリス国教会を確立した。
さて、メアリーは即位後300人にも及ぶプロテスタントを処刑したことから「ブラッディ・メアリー」と恐れられたが、いつしかウォッカをベースとするトマトジュースを用いたカクテルに、その名がつけられることになったのである。

世界史にはパンのエピソードがあり、特にクロワッサンとサンドイッチにまつわるエピソードが知られている。
クロワッサンは、「三日月形」に作るフランス発祥のパンで、バターを多く使ってサクサクした食感と甘みが特徴的である。
生地を伸ばしてバターを均一にはさんで折りたたみ、それをまた伸ばしては折りたたむことで、生地とバターがそれぞれ多重に薄い層をなし、それを焼き上げることで生み出される。
クロワッサンはフランス語で「三日月」を意味し、形状が名前の由来となっている。
生地の生成に手間がかかるためかつては高級パンの代名詞であったが、現代では機械で成形することが可能になり価格が大きく低下、一般家庭でも親しまれるパンとなった。
ではなぜ「三角形形」のパンを作ることになったか。1683年にトルコ軍の包囲を打ち破ったウィーンで、トルコの国旗の三日月になぞらえたパン、クロワッサンを焼き上げたという。
トルコなんかクッチャえということか。
クロワッサンはそのまま食べることが多いが、切り込みを入れてサンドイッチにも使用される。
そしてサンドウイッチとよばれるパンにも、あるエピソードがある。
第1代サンドウィッチ伯爵であるエドワード・モンタギュー提督の指揮する艦隊が1660年、国王チャールズ2世をイングランドに連れて帰る途中にサンドウィッチに停泊したことから、サンドウィッチ伯爵の地位を獲得した。
その孫のサンドウッチ伯・ジョン・モンタギューが、1762年のとある日、カードギャンブルに没頭し、食事時間を省略するためにスライスしたパンの間に肉を挟んで持ってくるように頼んだ。
やがて、伯爵の友人たちも「サンドウィッチと同じものを」(same as Sandwich!)と頼むようになり、手軽で人気のあるパンが誕生したのである。
しかし伝記作家によると、海軍、政治、芸術と大忙しだったために、サンドイッチは、賭博台よりは執務の最中に仕事机で食されたのが真相に近いらしい。
ともあれ「サンドウィッチ誕生」を記念して、5月12~13日に、サンドウイッチの町が位置するロンドン南東部のケント州で祝賀行事が開催される。
ここケントが「サンドウィッチ発祥」の地ではないものの、このサンドウィッチ伯爵にユカリのある場所として「祝賀行事」が開催されている。
当日は、バゲットとサンドウィッチの対決が行われる予定で、サンドウィッチと姉妹都市の関係にあるフランス・オンフルールの住民がノルマンディー地方の「伝統衣装」を着て登場する。

フランス料理の発展を考える上でタレーランというフランスの外交官をヌキに考えることはできない。
元・聖職者で、国民議会議長を務め、さらに革命の激化で粛清の嵐が吹き荒れるとイギリス、アメリカへの亡命で乗りきり、1796年に総裁政府の外務大臣に就任した。
そしてナポレオンを皇帝の座に就け、そして彼を追い、新政権の中枢に座った世渡り上手な男である。
タレーランはナポレオン没落後も活躍し、1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、イギリス大使を務めている。
ナポレオンがエルバ島に流された後のウィーン会議では、フランスが敗戦国でありながらも出来る限りその領土を保全し、イギリス大使時代にはイギリスと強固な同盟を結ぶことに成功した。
タレーランは、いろいろと問題の多い人物ではあったが、有能な外交官であったことは間違いない。
ウイーン会議のフランスの代表タレーランだが、何しろ敗戦国だから一番立場が悪い。
ヨーロッパを大混乱させたのはフランスだ、責任をとれ、と言われたら、返す言葉がない。フランスの領土をよこせ、多額の賠償金を支払え、と各国から要求されても文句を言えない立場であった。
そこでタレーランはフランスを守るために「正統主義」という理屈を持ち出してきた。
フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」つまり正しい状態である。
だから、すべてを革命前の状態に戻そうという主張である。
だから、国境線も、革命前の状態に戻す。つまり、フランスの領土は減らさない。賠償金も支払わない、というわけである。
諸外国は、フランスは他のヨーロッパ諸国に多くの被害を与えたのに、責任をとらないのはオカシイじゃないか、と主張する。
タレーランはこれに対して「フランスも被害者です。悪いのはフランスではなくて、革命なのです。革命によって、国王ルイ16世一家は殺されました。私たち、フランス貴族も特権を奪われ、多くの土地や財産を奪われました。皆さん方と同じ、被害者なんですよ。悪いのは、あくまでも革命であり、市民階級の連中なのです。」
そして他国の代表者たちも、タレーランの「正統主義」を受け入れる。
ナポレオン後のヨーロッパの情勢を決定したウイーン会議は「会議踊るされどすすまず」で9ヶ月もの長期にわたり舞踏会バカリが行われていたのである。
実は「フランス革命以前に戻す」(正統主義)をベースになんとか決議に至ったのは、ナポレオンの「エルバ島脱出」の報が届いたからであった。
実は、このウイーン会議は美食家・タレーランの「料理外交」の見せ所でもあった。
ウイーン会議を意のままに操ったのには、「料理」のチカラを無視することはできないということだ。
このタレーランの下で料理人として働ていたのが、アントナン・カレームなる人物である。
パリで子沢山の貧しい家庭に生まれたカレームは、10歳になるかならないかのうちに、貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出された。生きていくため安食堂に住み込んで見習いとして働き始めた。
1798年、後にパトロンになるタレーラン邸にも出入りしていたパテシエのシルヴァン・バイイにに弟子入りし、才能を認められた。
カレームは、バイイによってアミアンの和約成立記念祝宴のデザートを任されるという大抜擢を受け、また「ピエスモンテ」によってパリで名声を得る。
タレーランはカレームをたびたび激励、カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭した。
カレームにとってタレーランは、単にパトロンと言うにとどまらず、課題を課され結果を吟味する「審判者」としての役割も兼ねていた。
カレームは、重複した料理のない、かつ季節物の食材のみを使用した1年間のメニューを作る事をタレーランに命じられ、台所で試行錯誤をさせられたという。
ウイーン会議で出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名は一躍有名になった。
そしてウィーン会議が終わったときヨーロッパの地図と上流階級の食べる料理は「刷新」される事になったのである。
カレームは料理の考案や作成のみならず著作にも情熱を燃やし、フランス料理レシピの百科事典的な書籍をいくつかモノしている。
この時代に貴族が没落したことによって「お抱えの料理人」が職を失い、その結果、彼らは街でレストランを開くようになった。
こうして、フランス宮廷料理は一般へと門戸を広げていく。
また、新大陸からの様々な食材、例えばジャガイモや唐辛子が普及した他、ステーキやカレーもフランス料理の中に登場してくる。
ウィーン会議が終わるとカレームはイギリスの摂政皇太子(後のジョージ4世)の料理長としてロンドンに赴く。
その後カレームは、サンクトペテルブルクでロシア皇帝アレクサンドル1世、ウィーンでオーストリア帝国皇帝フランツ1世などに仕えた後、パリに戻って銀行家ジェームス・ロスチャイルド邸の料理長に就任した。
1833年、パリにおいて48歳で没し、モンマルトル墓地に葬られている。