セキュリティ破りの面々

「セキュリティ破り」とはコンピュータの世界で、セキュリティの欠陥をついてデータを盗みとるようなケースをさす。
この人がそれを悪用せずだれにも迷惑かけなければ、この人の行為は犯罪というよりも、セキョリティの穴を見つけたという意味では、社会の安全に寄与したということもいえる。
「フェイス・ブック」のマーク・ザッカーバーグを主人公とした映画「ソーシアル・ネットワーク」で、学校当局によばれた彼が自分は罪をおかしたのではなく、セキュリティの穴を見つけたのだから、むしろ感謝されてしかるべきだと主張する場面があった。
ザッカーバーグは、高校時代の2003年に友人とともに音楽再生用フリーソフトウェアのサービスを開始した。
これは利用者が以前に選択した曲をベースに、聞く曲目を予測してくれる機能をもつもので、大きな称賛を受けたソフトウェアである。
マイクロソフト社を含む幾つかのソフトウェア会社がこのプレイヤーに興味を示したが、正式な取引は行われなかった。
その後、ザッカーバーグはハーバード大学に入学し、自身のプロジェクトの案出を続けていた。
初期のプロジェクト「コースマッチ」では、同じクラスを履修している他の学生のリストを参照できるようにした。
またプロジェクトのひとつとして開設したサイトでは、ハーバード大学内に特定した、ランキングサイトのような「画像格付け」サイトであった。
しかし、ネット上に開設後すぐに、大学の管理部職員によってザッカーバーグのインターネットアクセス権が無効とされたため、サイトがオンライン上に存在したのはわずか4時間程だったという。
大学のコンピュータ業務部がザッカーバーグを連れ出したのち、彼はハーバード大学運営理事会によって、コンピュータのセキュリティを破りインターネット上のプライバシーや知的財産の規約に違反したとして処罰されたことがあった。
冒頭の「ソーシル・ネットワーク」で描かれた場面はこの場面であった。
ザッカーバーグは、自由で公然とした情報の利用を可能にすべきと考えていたことを主張した。
理事会側からの訴訟は公的には行われず、その後ザッカーバーグはSNAサイト「フェイスブック」を立ち上げるとともに大学を休学し、その1年後に中退している。

日本でザッカーバークほどのオチャメで創造性あふれる「セキュリティ破り」を探してもなかなか思い至らないが、少しジャンルを変えると白鳥由栄という人物の名が閃く。
とはいっても、白鳥はコンピュータのセキュリティではなく刑務所のセキュリティ破りである。
この場合のセキュリティ破りとは、外からの侵入を防ぐのではなく内側からの脱獄を防ぐもので、これを「セキュリティ」と呼のは少々変だが、アエテそうよぼう。
刑務所からすれば、侵入よりも脱獄を防ぐことこそが「セキュリティ」に違いないからだ。
白鳥は刑務所側の万全と思われる「セキュリティ」を打ち破り、脱獄を繰り返すことによって、囚人達の所内での人権意識のアップに貢献したのである。
作家・吉村昭が書いた「破獄」という小説では、実在の人物である白鳥由栄(「破獄」では佐久間清太郎)という超人的な「脱獄囚」について描かれている。
戦中の日本の食糧事情の悪化は刑務所にも影響し、人不足は看守の質の低下を招いていた。
冬期の厳しい寒さは凍傷によって体調を崩した囚人が大勢おり、時として非人道的な扱いを受けていたのである。
そして白鳥は1936年から11年間に4度の脱獄を成功してみせたのである。
白鳥は超人的な体力はいうにおよばず、緻密な頭脳とを併せ持ち、その脱獄の手口は大胆且つ繊細であった。
3度めに収容された網走刑務所は、究極のセキュリティをもっており、建物の造りも堅牢で過去に一度も脱獄の例もなかったのである。
白鳥は新たに刑務所に入るや、脱獄に必要な体力は日々養うことに励んだ。
手足の強靭な筋力を使って壁を4本の手足で壁を圧しながら10メートル上の天井の窓まで到達できたのである。
また脱獄するためのアイデアも想像力に溢れており緻密だった。
また刑務所側をアザ笑うかのように、はずした手錠をきちんと廊下に並べ看守達を驚愕させた。
風呂の熱ででフヤケた手に、錠をおしつけて型をとるなどして手錠の「合い鍵」を作る。
なんといっても圧巻は、味噌汁を毎日手錠に吹きかけ腐らせていった点である。
さらに貧乏ゆすりのフリをして、膝に挟んだ食器の破片で毎日床板を切り取ったり床下からトンネルを掘り脱獄した。
ただ、この白鳥も刑務所脱獄後には意外とあっさりと捕まった。
どちらかといえば「脱獄」そのものを楽しんでいるかのようだった。再逮捕され収監されるやーブルースの「ホームラン」予告のごとく「脱獄宣言」を行いそして実行したのである。
また脱獄でもされたら、刑務官の昇進やその家族の生活にまでひびいてくるのである。
そして、身体を鎖でつながれた網走刑務所の脱獄後には、熊に喰われたのではないかという噂もたった。
こんな寒いところで身体を隠しても食糧はなかなか手が入らないし、「三食保証」つきの刑務所の方がよほど楽であったのか簡単につかまっている。
殺人を犯した白鳥という男に人権意識といったものがあったのか定かではないが、とにかく自分を人間として扱わない刑務所に対して「脱獄」という形でストライキしているかのようでもあった。
小説「破獄」には、次のような場面が描かれている。
白鳥は布団をか頭からかぶって寝るのを常としていたが、看守が規則を守らぬ白鳥に苛立ち頭を出すように注意すると、子供の頃からの癖だから大目に見てくださいという。
さらに看守が声を荒げて規則厳守を要求すると「そんな非人情なあつかいをしていいんですか。
痛い目にあいますよ。あんたの当直日に逃げられると困るんじゃないですか」という。そのうち看守が根負けするのである。
さて秋田刑務所脱獄後、白鳥は2週間ぐらいして知り合いの東京の戒護主任のもとに自首してきている。
検事が、なぜ戒護主任のもとに自首してきたのかと問うと、白鳥は「主任さんは、私を人間扱いしてくれましたから」と答えている。
さらに秋田刑務所破獄の動機については、看守は横暴で囚人を人間扱いしないので、処遇の改善を司法省に訴えるため破獄し、上京したという。
最も酷いあつかいをする看守を窮地に陥れようとして、その看守の当直の夜をワザワザ選んで破獄したとも言った。
4度の脱獄を成功させた白鳥を、戦後に近代的な刑務所設備を備えた東京の府中刑務所が迎え入れた。
ここで白鳥に脱出されては、府中刑務所の面目丸つぶれとなり、その存在意義さえ疑われるのだから超厳戒態勢であたった。
施設の特別強化もはかられたが、人間ワザとは思えぬ白鳥の能力を前にして、当時の府中刑務所・所長は大英断をくだした。
厳戒態勢を敷くのをやめて、白鳥に対してきわめて人間的な扱い方をほどこしたのである。
一般の囚人の中にいれ作業も一緒にさせた。
すると、脱獄の機会としてははるかに可能性が増したにもかかわらず、待遇改善後には白鳥は脱獄の兆しすらみせなかったという。
白鳥は1961年52歳で仮出獄し刑期満了後、1979年に71歳で亡くなっている。
内部から湧き出る反抗のエネルギ-の凄まじさを感じさせる白鳥のことであるから、その方向性が違った方向にむいていたら、と思わぬではない。
しかしながら、白鳥がこの世にあってもっとも情熱をたぎらせたものこそが「破獄」であったという推測も成り立つ。
ともあれ、網走刑務所の歴史の中で、白鳥由栄の「破獄」はもっとも不名誉な出来事として刻まれている。

最近の安部首相の言動を「セキュリティ破り」とよびたくなった。
6月23日(月)には、そのセキュリティ破りの要石とも目された小松一郎・元内閣法制局長官の死去が伝えられたが、それもナンノソノ法のスキマをついてよくやるものだ。
安部首相の「セキュリティ破り」という場合のセキュリティとは、権力の抑制装置をさしている。
まず、国会の改正手続きも経ず、首相がリードしての閣議決定で「解釈改憲」を行い、多くの人間の命を左右しかねない改変ができるというのは、大発見であった。
また国運を左右しかねない憲法問題につき、当然に「憲法改正の手続き」にのっとり国会議員の3分の2以上、国民の過半数の賛成を必要とするものだと思いこんでいたが、こんな一部の話し合いで決定できるのかと意表をツカレてしまった。
また、日本国憲法というものは、そういう首相の独走をゆるし、ついでに憲法の質自体をかえてしまうくらいの変更を許すくらいのモノだったのかということも教えられた。
確かに自民党幹部(高村氏や石破氏)らの説明どうり、今までの憲法で「集団的自衛権」を認めないというのは一つの解釈であったにすぎず、自衛権の中に集団的自衛権を含めるといったところで、憲法上の文言からみて何ら問題ではないという理屈はなりたつのだ。
安部首相は国会答弁で、憲法が国家権力を縛るのは「王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方」であり、憲法とは「日本という国の形、理想と未来、目標を語るもの」と語った。
これはおそらく自分が理想としている憲法のことを語っていると思うが、少なくとも我々が教科書で習った考え方とは随分と異なる。
「国民主権」を掲げる今の憲法は、国民が権力をシバルための約束であり、権力の制御装置つまり国民の人権にとっての最後のセキュリティなのである。
もし安部首相の言葉のように「憲法が日本の国の形 理想と未来」というのならば、日本国憲法コソが戦後の「価値観」を表象するようなものではなかったかと思うが、首相はそれを超えるような憲法観をもっておられるのだろう。
たぶんそれは、「戦後レジームの脱却」とか「美しい国日本」といった言葉に表われているが、これはアメリカが築いた戦後秩序への挑戦ともうけとめられ、安部首相が集団的自衛権で結束を強めたがっている当のアメリカからも、不快感を露わにされている。
冷戦終結後にアメリカが日本に基地をおく理由が薄れ、日米安保条約があっても日本が集団的自衛権を認めなければソレが正常に機能しないという危惧があるのならば、首相の靖国神社参拝は大きな失点となったことは否定できない。
自民党は池田内閣ぐらいから「高度成長」をうたい国民を保守化させることに成功したが、日本の民需中心の企業文化を支えたのも、やはり専守防衛に徹する「平和憲法」であったからだ。
1990年代に小沢一郎氏がかつて「普通の国」を標榜し、憲法9条に第3項を加える「改憲」によって国際指揮下での海外派兵を可能にしようと主張した時期があった。
この時は、内閣法制局が主導の「解釈改憲」によって、日本が国連主導のもとでの「国際貢献」という名目で武力を行使しないという限定つきで参加することが可能となった。
この段階で日本国憲法の「変質」ではあったとしても、「質の転換」にまでは至っていなかった。
日本が原発の輸出大国になっていくにつれて、そういう戦後的価値がナシクズシになったようにも思えるが、安部首相のいう「日米同盟」の強化につながる集団的自衛権の容認や武器三原則の見直しなどによって、日本人の「戦後的価値」はほぼ完全に葬り去られることになるといってよい。
さて安部首相の「セキュリティ破り」は様々な人事に介入することに、典型的に表われているのではなかろうか。
思い浮かべるのが日銀人事、郵政人事、NHK人事への介入で、決定的なのが内閣法制局長官人事である。
これまで内閣法制局には専門性に基づくある種の自立性が認められてきた。それは長官が局内から昇格する人事の「慣習」にもうかがえる。
ところが安部首相はナント「集団的自衛権」に積極的な元駐仏大使という部外者から任命したのだ。
これによって内閣法制局は解釈改憲を進めようとする首相と一体化したはずだったが、小松一郎法制局長官は病のため辞任し、先日亡くなった。
内閣法制局の権威には法的な根拠はないが、は実際には「法の番人」と「権力の従者」という二つの顔を巧みに使い分けてその存在感を示してきたといえる。
政権から要求があれば「ここは無理だけで、ここまでは理屈でなんとかしましょう」と貸しをつくった。
その代わり政権は法制局の権威を認め、手を突っ込むことはしなかったのだ。
内閣法制局は、議員立法などを事前にチェックするのだから、司法の独立ほどではないにせよ、政治の介入が当たり前になったとしたら、法解釈の正しさを標榜する権威性がなくなってしまう。
ところで、最近ある学者が新聞に日本は「象徴憲法制」の国であるという記事を書いていた。
国民は憲法典を統治機構の設計図というよりも、もっぱら「戦後的価値」の象徴として意識していたということである。
だからその後の改憲論争は「戦後を肯定するか否か」の象徴闘争になってしまった。
だから、憲法改正についてはオール(改正派)・オア・ ナッシング(護憲派)で、個別の条文の語義を詰める作業は、その道のプロにまかされた。
その道のプロとは内閣法制局で、首相自ら「解釈権」があるかのようなことはしなかった。
日本文化を表す言葉に、「空虚な中心」というのがある。
古代以来、君主たる天皇は「空虚な中心」で、中国の皇帝のようには直接政治を指揮しない。
代わりに摂政・関白らが担当し、文化面でも冷泉家のように臣下のイエが世襲職として、和歌のノウハウを口伝で伝えていく。
戦後の憲法もまた「空虚な中心」で、内閣法制局といういわば「解釈道」の家元が、一子相伝の名人芸でその文面に内実を与えてきた。
例えば、2003年3月、イラク戦争が始まるとアメリカは小泉内閣に自衛隊の地上派遣を要請してきた。
日本は自衛隊派遣のためのイラク特別措置法作りに取り組んだが、もっとも悩ませたのが、憲法9条との整合性だった。
自衛隊が戦闘に関与すれば「武力行使の一体化」として憲法違反となる。
自衛隊の活動父気は、他国の戦闘行為とは一線を画さなければならない。
そこで内閣法制局がヒネリだしたのが「非戦闘地域」の概念だった。
小泉内閣はイラクの中で比較的平穏だったサマワ地域を選び「非戦闘地域」と判断し、自衛隊の活動地域を限定することで「武力行使との一体化」にはあたらないという理屈を生み出したのである。
このように自衛隊が海外で活動できる範囲は、内閣法制局が現行の憲法解釈の枠内で理屈を生み出し、少しずつ広げてきたのである。
集団的自衛権の行使を容認するとなれば、その範囲は飛躍的に広がるのである。
また日本の場合、戦前の価値が否定されたので、戦後国民の共有できる価値というのは、憲法の徹底した「平和主義」の中にあり、それが国民に浸透していたのではなかろうか。
それは国民に「規範」のようなのものとして植えつけられていたので、理想主義的に過ぎるなどという批判はあまり大きくはならなかった。
規範は理想を裏づけにしているからだ。
日本が「専守防衛」を旨としてきたのは、日本が「平和」においてはたさなければならない「特別」な使命があるという意識があったということだ。
それは被爆国であったということだけでなく、アジアに惨禍をもたらしたという意味でも、日本は「普通の国」であってはならないという意識であり、それが日本人の戦後的価値ではなかったかと思う。
安部首相による集団的自衛権の容認は、国際社会は依然として「力がものいう世界」であるということを認めるという、平和についての価値観の大転換をもたらすものである。
つまり日本は「非軍事的な手段」で国際紛争の解決をめざす国であることをヤメ、米国の軍事活動に関与を深める「普通の国」をメザスという方向転換を意味するのである。
安部首相は「立憲主義」という国民の「セキュリティ」の拠り所を大胆にツイタ点でも、後世に名を残す首相といえるかもしれない。