接点の妙

この世の出来事は、良くも悪くも人の関係が生み出すものである。
人の関係は、思想的立場や目の前の利害以外にも様々なカラミがあり、それが事態の予想外の展開をうむことがある。
対立してそうな人物が、表には出ないインフォーマルな「接点」があったりしで、結構仲良しだったりする場合もある。
また繋がりそうもない人間同士に深いキズナがあったりもする。
例えば、財界のトップと屋台の親父さんとが戦争中同じ部隊であったり、シベリアの収容所で一緒だったりする。
松本清張の「ゼロの焦点」や「黒皮の手帳」などの推理小説には、そういう表には出ない「接点」を探ることが、謎解きのポイントとなるものが多い。
また、予想外の人物が同級生あったり先輩・後輩であったりして、「非公式」(インフォーマル)な関係が「人脈」を生み出す。
だからソコをしらなければ「真実」が見えてこない。
かつて田中角栄首相は、政治家の情報をまとめた「国会便覧」を隅々まで記憶していたが、そればかりでなく、官僚の世界においても課長以上の官僚に対して個人情報を調べ上げた「リスト」をつくりあげていたという。
生年月日、出身大学、学部から趣味は何か、結婚記念日はいつか、親しい人物、親しい政治家は誰かまで、十数項目にわたっていたとされている。
官僚の世界は入省年次別に構成されたピラミッドであり、その秩序は寸分の狂いもなく作られている。
彼らが一番嫌うのは、位階・序列を無視して、大臣や政治家が自分達の人事に介入することだ。
一時的に成功しても、彼は二度と役人の協力は得られなくなる。
官僚にとって有能な政治家とは、彼らが汗水たらして作った法案を陽のめに合わせてくれる政治家である。
田中角栄が33もの数の「議員立法」を手がけたのは、官僚を知り尽くして「手足」のように彼らを動かすことができたからである。
政治の世界で、かつての悪名高い「国対政治」というものがあった。
敵対するはずの国対委員長どうしが頻繁に赤坂の料亭などの「密室」で会うち仲良くなって、インフォーマルかつアブノーマルな関係が出来上がっていたのだ。
有名なものでは、金丸信(自民)と田邊誠(社会)、渡部恒三(自民)と大出俊(社会)、梶山静六(自民)と村山富市(社会)などがソウデあったようだ。
その日程は「黒皮の手帳」なんかメモられていたはずだ。
ナラバ、あの委員会での舌鋒鋭い代表質問た議長席に詰め寄る姿は、国民に向けた「演技」だったのかと問いたくなる。
1993年細川「非自民」連立内閣以来、「密室政治」や「談合政治」という従来の批判をうけて、「国会対策委員」というポストをなくして、「国対政治」は影を潜めた。
ただしヒョウタンからコマ。「国対政治」は、「副産物」というにはアマリニ大きな「コマ」を生み出した。
自民党・社会党・さきがけの「連立」による村山内閣の成立である。
こんな国民の誰も予想できなかった「ウルトラE」政権が実現したのは、実は「密室」でセッセと築いた自民党と・社会両との「太いパイプ」によるものだったといってよい。

人と人との接点にサプライズを見出そうとするとき、日本を離れた「外国」は格好の舞台となる。
なぜなら異国の地で出会うということは、国内における地位や立場を捨てて、人間的な触れ合いができる開放感をもたらすからだ。
土佐出身の中江兆民は岩倉遣外使節団の一員としてフランスにわたっている。
中江は後に民権派の論客として主として文筆をもって藩閥政府を攻撃することになる。
その中江兆民は、意外なことにパリで五摂家筆頭で後に首相となる西園寺公望と出会い親交を深めている。
二人は意気投合しモンマルトルの居酒屋で飲みかし、西園寺は民衆のために戦ったフランスの自由主義貴族ミラボーのようになると意気込んでいたという。
そして西園寺は日本に帰国後、「東洋自由新聞」を発行し中江兆民を主筆に迎えている。
西園寺と中江の異色コンビの新聞はよく売れたのだが、天皇の側近である公卿の有力者が天皇の批判をするとは何事かという意見が強くなり、政府もついに新聞の廃刊を勧告するに至った。
西園寺は頑なに廃刊を拒否したがついには宮内省にまで呼び出され社長を退かざるをえなかったのである。これが西園寺の「限界」であった。
西園寺公望は長州の陸軍軍閥・桂太郎と交互に総理となり桂園時代を築く。その過程で社会主義政党を認めるなどリベラルな側面もみせてはいる。
一方、「東洋のルソー」とよばれる中江兆民は、西園寺が伊藤博文の知遇を得て立憲政友会の旗揚げに一役かっていた頃の1901年に55歳で亡くなっている。
中江の死により、西園寺公望と中江兆民との言論による「直接対決」は避けられたことになる。
後々「最後の元老」とも呼ばれるに至る西園寺にとって、中江兆民とパリで遊び呑み明かした時代は、いかなる感慨をもって胸にしまわれていたのだろうか。

1930年代後半、アメリカで生まれた「日系二世」の二人の男の運命が、ジャズ音楽を軸にして展開しはじめる。
ティーブ・釜萢は、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれのジャズ・ミュージシャン兼シンガーで、日本のジャズの草分け的な存在である。
ティーブ・釜萢の息子がフォークシンガーのかまやつひろしである。
ティーブ・釜萢は日系アメリカ人ニ世として、洋服店を営む日本人の両親のもとロサンゼルス近郊で生まれた。
このティーブ・釜萢と奇縁で結ばれたのが、同じ時期にサンフランシスコで育った森山久である。
森山は、かの地で写真術を学び、サンフランシスコで写真屋を営んでいた。
森山久は、シンガー森山良子の父、森山直太朗の祖父にあたる人物である。
その頃、互いを知らぬ二人だったが、中国における日米の利害対立に起因する日系移民に対する排斥運動のため、日系人が職につく機会が極めて限られた状況にあった点で共通している。
日本でジャズをやればカネになるという話があり、1933年に釜萢は日本に渡り、その翌年には森山も日本に渡っている。
釜萢は、戦前より東京をベースにジャズシンガーとして活躍していた淡谷のり子のバックバンドをやったりした。
そして、日中戦争が勃発した1937年に淡谷の「別れのブルース」が大ヒットし、スターダムへ登りつめていた。
一方、森山の方は昼間レコード会社のスタジオでトランペッターをし、夜は赤坂のジャズ・ホールで歌っていたため、釜萢と森山の二人が知り合ったのはこうしたセッションであったことが推測できる。
二人は日本語は下手だったが、釜萢と森山は日本におけるジャズ仲間もでき、日本に帰化することを選んだ。
そして釜萢は日本人女性と結婚する一方、森山も釜萢の家に遊びにゆくうちに、家に出入りしていた釜萢夫人の妹と仲良くなり、やがて結婚する。
二人はジャズ、日系二世、日本帰化、妻どうしが姉妹という多くの共通項をもつ奇縁で結ばれたのである。

スペース・シャトル・チャレンジャーの宇宙飛行士・エリソン・オニズカは我が故郷である福岡県南部筑後地方の浮羽町をルーツとしている。
 オニズカの祖父は、移民としてハワイにわたりコーヒー栽培などを行っていた。
ところが1941年に真珠湾攻撃が行われると彼らの運命は暗転する。アメリカ政府の官憲からスパイ容疑者として財産を奪われ監視されるようになった。
こうした日系人はアメリカ星条旗への忠誠を表そうと志願してイタリア戦線に参加し、多くの戦功をあげたのである。
日系人こうした名誉回復の働きがあったからこそ、八ワイに住む一人の日系三世がスペースシャトルの搭乗員として選ばれたのである。
男5人女2人白人・黒人・日系人と多様な顔ぶれであった。その意味でもエリソン・オニズカは、多くの日系人の英雄であった。
エリソン・オニズカとともにクリタ・マコーリフという名の教師がミッションに参加していた。
彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であった。アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。
これは世界ではじめてのスペースシャトルからアメリカにむけてさらには世界中にむけての授業となる予定であった。
当初打ち上げ予定であった1986年1月26日はとても風が強くミッションは1月28日まで延期された。
そして11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。
最初の1分30秒間は正常な飛行がなされたが、次には悲劇的な悪夢がチャレンジャーを襲った。
チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は全員死亡したのである。
彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走りハワイの英雄の死を悼んだ。
なお、エリソン・オニズカのルーツである浮羽町の家近くに小さな川があるが、その川に架かる橋には宇宙飛行士姿のオニズカの写真が埋めこまれており、「エリソン・オニズカ・ブリッジ」と名づけられている。
ところで、ハワイの日系人の一人で「イタリア戦線」で戦い勲章を得た人物の一人が、ダニエル・イノウエである。
そしてイノウエのルーツが、オニズカと同じく福岡県南部の筑後地方であることを知った。
ノウエの祖父母は、一家の失火による借金を返済する為に、1899年9月福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)からハワイに移民し、祖父母とともに渡米した父母のもと、1924年当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれた。
その後ホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。
陸軍少尉時代のイノウエハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦った。
イノウエはイタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、右腕を負傷して切断し、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄として称えられた。
1947年に陸軍大尉として名誉除隊したが、右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学を専攻し同大学を卒業している。
イノウエは、1963年から50年近くにわたって上院議員に在任して、2010年6月に、上院で最も古参の議員となり、慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出された。
上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第三位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。
2012年12月、イノウエは88歳で死去したが、アメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に遺体が安置されるのは、リンカーン、ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、アジア系の人物としては初めてとなった。
ところでエリソン・オニズカは、第二次世界大戦中イタリア戦線でのハワイ出身の日系人の働きがなければ、チャレンジャーの搭乗員になることはなかっただろうと自ら回顧している。
そのイタリア戦線で戦い右腕を失ったのがイノウエだったのである。
同じハワイ出身で福岡県筑後をルーツとする日系人オニズカとイノウエはこうした奇縁で結ばれていたのである。
しかし、これを奇縁とよぶだけでは十分とは思えない。
あくまで個人的な推測だが、オニズカが日系人初の宇宙飛行士に選ばれた背景に、上位議員イノウエの直接的「後押し」があったのではなかろうか。

博多湾に浮かぶ能古島を舞台とする。能古島には、壇和雄の文学碑があるが、そこから糸島半島の妻リツ子さんの終焉の地・小田の浜も見える。
というわけで、そこに文学碑が立つ理由がよくわかるのだが、能古島の頂き近くには、もうひとつ「折れたコスモス」と題された歌碑がある。
この歌碑には「小さきは 小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く」とある。
この歌の作者は、世界各国で特殊教育の講演を続けて今年107歳で亡くなられた元・福岡教育大学教授・昇地三郎氏である。
昇地氏が100歳を超えてからも、世界各地に活動の場を広げてこられてきた事は驚きという他はないが、この歌碑がナゼここに建っているのだろうか。
昇地氏と能古島を結ぶ接点とはナンなのだろうか。
さて、昇地三郎氏は、ご自身のお子さんが二人とも障害児として生まれ、当時は特殊教育も発達していなかったために、自ら福岡市南区井尻に「しいのみ学園」を設立され、試行錯誤の末に日本の特殊教育の先駆者となられた。
ご子息二人は、すでに亡くなられたが、能古島の「折れたコスモス」の歌碑は、日本の特殊教育の「記念碑」ともなったのである。
ではどうしてこの記念碑が能古島に建つことになったのだろうか。
ことの発端は、能古小学校出身で当時高校二年生の上村啓二君が交通事故で亡くなったことであった。
この上村君は、能古小学校時代に書いた作文で小中学校作文コンクールで西日本新聞社・テレビ賞(1978年)を受賞したことがあった。その中に次のような一節があった。
「その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。
コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。
秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。
白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。 他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。
でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった」。
さて、福岡教育大学での昇地三郎氏の教え子達の間で、氏の長年の功績に対する記念碑を建てようという動きが起こった時のことである。
その教え子の中には、特殊教育を専攻した歌手(俳優?)の武田鉄矢氏もいた。
そして、この上村君の「倒れたコスモス」と昇地氏の「折れたコスモス」を結びつけたのが、能古小学校校長の中野明氏であった。
実は、筑紫中央高校時代に武田鉄矢氏が生徒会長、中野校長が副会長という関係にあった。
また教育大学でも、中野校長と武田鉄矢氏とは一緒にJR南福岡駅から大学がある赤間まで通ったという。
中野校長は、教育大学のかつての先生である昇地氏の碑を何処に建てるか土地を探していた時、上村君の父親から「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」と要望され、歌碑建立の運びとなったのである。
昇地三郎氏の障害をもつ二人のご子息への思いと、交通事故で息子を失った上村君の両親の思いがコスモスの花を介して、能古島で交わったのである。