海のないシマ

数カ月前、アメリカの地下鉄で「発砲」により一人の人がなくなった。
皆がスマートフォンに夢中で気がつかなかったという。
それどころか、誰を撃っても良かった犯人の「銃口」が、自分に向けられていることにサエ気がつかなかった。
「とりつくシマもない」乗客の風景だ。
ひとりひとりが陸の「孤島」のような存在なのかもしれないと思ったが、思い直した。
隣に座った人とは関わりなくとも、スマホで繋がった「独自のシマの住人」なのかもしれないと。
ソーシアル・メディアで繋がったシマである。
たとえば、大学の講義で時折隣に座る学生はマッタクの他人同士なのに、ソーシアル・メディアでつながる者が友人となる。
同じ人物と何度出会っても「仲間意識」はできないのに、このシマでツブヤキあっていると「相手の正体」をよく知らないママ「親近感」がわくものらしい。
シマの住人達はある種の「錯覚」に陥り、それを利用した「詐欺」の温床になっているという。
現代社会には、海に囲まれた島以外にも、いろんなシマがあるようだ。
清水一行が描いた経済小説「兜町」は、「兜町」をシマと読ませ、株式取引が日々行われるアノ町のことを「シマ」とよぶ。
また、様々のナワバリのことを「シマ」とよぶことがある。
個人的に、「シマ」を描いた映画をいくつかみた。
アガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」、横溝正史「獄門島」、「シヤッターアイランド」などは知られた映画だが、少々地味だがアメリカ映画で「ヴィレッジ」(2004年)は現代社会における「孤島」を描いたものである。
深いい森に囲まれ、外界から孤立し数十人が自給自足で暮らす素朴で小さな村がある。
そこでは皆が家族のように平和に暮らしていた。
ただ村に決して森に入ってはならないという、古くから伝わる「掟」があった。
村人は森の向こうにいると伝えられる「怪物」を恐れ、境界線を守って暮らしている。
そして「掟」を守る限り、森の中で暮らす「平和」が破られることは無かった。
そんなる村に暮らす盲目の少女アイヴィーが無口なルシアスという青年に恋をする。
やや知能が低いノアという青年が、嫉妬からアイヴィーの彼氏のルシアンを刺してしまう。
アイヴィーは森の向こうの「街」に行って薬を取りにいくと主張するが、村の長老達はイイ顔をしない。
ところが父親は、「怪物」とは村の長老達が替わりばんこに演じている「作り物」だったとに教える。
ところがイザ森に入ると、アイヴィーの前に「怪物」があらわれる。
おかしいと思いつつ怪物を誘って「穴」に落とし込む。
村人が怪物のコスチュームを剥ぐと、ルシアンを刺したノアであった。
ノアはルシアンを刺したあと地下室に閉じ込められたのだが、怪物のコスチュームを床下から見つけてイタズラで着こんでいたのだった。
しかし、ノアは落とし穴の中で死んでしまっていた。
そしてアイヴィーは森を過ぎて「街」に出るが、普通に車が走って警官は現代風の格好をしている。
警官は当然100年前から時が戻ったようなアイヴィーの服装やら様子やらをみて怪しむ。
そして、この村の「秘密」が明らかになる。
実は、この村は、「ウォーカー自然公園」公園の中にある空間で、アイヴィーの祖父の財産で作られた「シマ」だったのだ。
そして、村の長老たちは皆、街で家族を犯罪で殺されるなどの「悲しみ」を負った人たちばかりだったのだ。
ウォーカーさんの私財でもって、争いやお金サエもない「保護区」を周囲に警備員を置いてまで作ろうとしたわけである。
そこで、森の中の「怪物」とか「掟」とかは、次世代までも含めて村に閉じ込める「仕掛け」であった。
この映画は、現代社会の「シマ」を連想させる何かを考えさせる映画であった。
この「シマの話」を延長すると、ある種の国家が秩序を維持するためには、国民が恐れる「怪物」も必要だし、「情報の遮断」という統制も必要というわけだ。

明治初期と昭和の時代に九州の二つの村で起きた「出来事」は、「海のないシマの悲劇」といってよい。
広漠たる田園風景の中、福岡県の大刀洗町近くを通ると唐突な建造物が飛び込んでくる。大刀洗の今村カトリック教会である。
この大刀洗には特攻隊の歴史だけではなく、もうひとつの「悲しい歴史」を刻んでいた。
江戸時代にキリスト教は「禁制」になり、ここ大刀洗にもキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れた。
今村カトリック教会自体が殉教者の墓の上にたてられたものであり、周辺の「ジョアンの殉教碑」なども弾圧の歴史を物語っている。
ここ今村の信徒達がどのようにしてこの地に根づいたのか定かではないが、島原の乱(1637年)で弾圧をうけた信徒達がこの村に逃れてきたことが、その始まりであったと伝えられている。
弾圧の中、多くの信徒が幕府に隠れて信仰を守った。
日本が開国すると、キリシタンが弾圧された日本に、キリシタンが今ナオ存在するかは、ローマカトリック教会の最大の「関心事」であった。
明治の新政府になっても依然としてキリシタン弾圧は続き、その多くが山口県津和野の「乙女峠」にある寺にキリシタンは送られ、多くの信者が「殉教」したことが伝えられている。
1867年2月26日、浦上の四名の信徒により今村の「潜伏信徒」が発見され、浦上の信徒とヒソカに交流を保ちながら信仰を守り通した。
そしてロ-マカトリック教会は、調査のために幕末から明治の初期に宣教師を送りこんだ。
しかし大刀洗のキリシタンにとっての「悲劇」は、江戸時代のキリシタン迫害のために幾人かの殉教者を出したことバカリではない。
それ以上に「悲劇的」だったことは、この地を訪れた外国人の宣教師により大刀洗の信者達が「汝らキリシタンに非ず」と宣言されたことであった。
この出来事の詳細は、「汝らキリシタンにあらず」(三原誠著・勁草出版)という本に紹介されてある。
実は大刀洗の信者達は「陸の孤島」のような環境にいたのである。
宣教師も来ず他地域の信者との連絡もない場所で信仰を守り続けたために、その信仰が土着化し本来のキリスト教信仰とは相容れないものに「変容」していたのだ。
明治時代にキリスト教が「解禁」になると、「信仰の建て直し」と誇れる教会堂をという信者の願いから、ドイツ人宣教師らのハカリしれない努力によって建造されたのが今村カトリック教会である。
1908年に本田保神父により計画され、諸外国特にドイツからの寄付や、信徒達の労働奉仕のうえ、1913年にロマネスク様式赤レンガ造りの現教会が完成したのである。
もうひとつの悲劇は、古代神話の古里である高千穂近くで起こった。
高千穂・天岩戸神社からさらに4キロほど山峡を登った山奥深くに土呂久村がある。
この村では「約半世紀」近く原因も分からぬまま多くの人が亡くなるということが続いていた。
日本でようやく公害問題が騒がれ始めた頃、土呂久村の48歳の婦人が公害報道をテレビで見て何か「胸騒ぎ」を覚え日記をつけ始めた。
そのうち不自由な目と弱った足で村人の「健康調査」を始めた。
それまでは「一歩も」村の外へ出たことがなかった彼女が宮崎県人権擁護局へ訴えを起こしたのが、ハジマリといえばハジマリだった。
しかし「彼女の訴え」は一顧だにされることはなかった。
そのうち一人の「新任教師」が岩戸小学校に赴任してきた。
彼は土呂久のの娘と恋に落ち結婚を考えるようになった。しかし彼女が病弱なのが気になった。
彼女の小学校時代の記録を知ろうと「指導要録」をみたところ、そこに見たものは彼女ばかりではない生徒達の「異常な欠席数」だった。
教諭は、この村には何か秘密が隠されていると思った。
そして教諭は土呂久からきている生徒を家庭訪問した時のことを思い出した。
生徒は体調不良で欠席が多かったので家庭訪問したのだが、彼が住む集落一帯が古い「廃坑」地帯であったことを思い起こした。
江戸時代にこの地域は銀山が栄えた時期があったことは聞いていた。
しかしその後は静かな山里に戻っていた。
さらに土呂久の歴史を紐解くと、この山奥の村でおきたことが、実はアメリカのアラバマで起きた出来事とつながっていることがわかった。
1920年、アメリカ・アラバマの綿花地帯がゾウリムシの被害を受けていた。そしてゾウリムシ撲滅に「亜砒酸」が欠くべからざることがわかり世界的に亜砒酸の値段が上がった。
そして一人の男が、この村にやってきて廃坑になっていた銀山跡から「硫砒鉄鉱」を採掘し、土呂久川べりに亜砒酸の「焼き窯」を築いたのである。
昭和の30年代ころまで、、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる「亜砒焼き」が行われたいたのだ。
「亜砒酸」は農薬・殺虫剤・防虫剤・印刷インキなどに使用された。
亜砒焼きが始まると、土呂久の谷は毒煙に包まれ、川や用水路に毒水が流れ、蜜蜂や川魚が死滅し、牛が倒れ、椎茸や米がとれなくなった。
実はこの教諭は、土呂久から岩戸小学校に通ってくる生徒達の体格が他にくらべて劣っていることにも気がついた。
そして他の教諭とともに土呂久住民の「健康調査」に取り組んだのである。
そして、各家庭に配布した健康調査表が回収されるにつれて、土呂久地区の「半世紀にわたる被害」の実態が明らかになっていったのである。
そして1971年1月13日、岩戸小学校の教師15人の協力による被害の実態が教研集会で発表された。
1975年にようやく住民による土呂久公害訴訟が起こり、1990年にようやく和解が成立した。
認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月現在)を数えている。
明治になって今村にやってきた宣教師にせよ、土呂久村の新任教諭にせよ、村にとって救いの「ニューカマー」ではあった。
村の住人にとっても、あまりに長い村のマドロミは、なんとも「無念」なことであろう。

N・オ-エンなる人物から10人の男女にあてて招待状が届く。
島に集まった見知らぬ人々は、マザー=グースの歌に乗って1人1人殺害されていき、「そして誰もいなくなった」。
いうまでもなく、アガサクリスティーの推理小説のストーリーである。
このストーリーの怖さは、連続殺人という「恐怖感」にあるのではなく、島で生きること自体の「潜在的な不安」を伝えているような気がする。
終戦まもなく、「そして誰もいなくなった」を連想させる事件が太平洋上でおきた。
マリアナ諸島に位置する孤島アナタハン島は、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな「小島」である。
この孤島で、南洋興発株式会社社員の妻と同社社員の男性上司、帝国陸海軍の軍人・軍属31人の計32人の日本人は当初は全員で共同生活を送っていた。
1945年8月の終戦で、米軍は拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は誰も信じなかった。
、彼らはB-29の残骸を発見し、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変え、2丁の拳銃が作られていたという。
これ以降、銃の存在が権力の「象徴」となり、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになったという。
1950年6月、米国船の救出によって女性が「脱出」し、翌1951年6月には生き残った男性19人も救出された。
この事件で死亡した男性は行方不明を含め13人にのぼった。
近年公開された映画「東京島」(2010年)は、この事件をモチーフに「現代」に置き換えて制作されたものである。
ところで、陸でもシマが形成されるのは、九州の二つの村で起きた「悲劇」にみたとうりだが、情報が途絶された理由だけでソレが起きるとはかぎらないと思わせる出来事があった。
情報が多さが問題なのではなく、情報の伝わり方に「危険性」がヒソムということである。
1973年12月8日、愛知県豊橋市で起きた、女子高生の何気ない会話から始まった1週間の話である。
下校中の電車車内で、豊川信用金庫に就職が決まった女子高校生Aを、友人B・Cが「信用金庫は危ないよ」とからかった。
この発言は同信金の経営状態を指したものではなく「信用金庫は強盗が入ることがあるので危険」の意味で、ソレスラ冗談であった。
しかしAはそれを真に受け、その夜、Aから「信用金庫は危ないのか?」と尋ねられた親戚Dは、信用金庫を豊川信金だと判断して同信金本店の近くに住む親戚Eに「豊川信金は危ないのか?」と電話で問い合わせた。
9日 Eは美容院のFに「豊川信金は危ないらしい」と話した。
10日Fが親戚Gにこの話をした際、居合わせたクリーニング業Hの耳に入り、彼の妻Iに伝わった。 12日、街の至るところで、豊川信金の噂の話題が持ちきりとなる。
そうした噂を聞いたアマチュア無線愛好家が、無線を用いて「噂を広範囲」に広める。
その後、同信金窓口に殺到した預金者59人により約5000万円が引き出される。
同信金の支店に客を運んだタクシー運転手の証言によると、昼頃に乗せた客は「同信金が危ないらしい」、午後の客は「危ない」、夕方の客は「潰れる」、夜の客は「明日はシャッターは上がるまい」と時間が経つにつれて噂は誇張されていったという。
14日には、「職員の使い込みが原因」から「理事長が自殺」という二次デマが発生し事態は「深刻化」していった。
「信金側」の依頼を受け、マスコミ各社は「デマ」あることを報道し騒動の「沈静化」を図る。
15日、自殺したと噂された理事長自らが窓口対応に立ったことも奏功し、事態は沈静化に向かっていった。
女子高生のナニゲナイ会話から、ワズカ「1週間程度」で地元の信用金庫が「取り付け」の危機に瀕したわけである。
この事件の背景として1973年当時、10月にはトイレットペーパー騒動が発生するなど、オイルショックによる不景気という「社会不安」が存在し、デマが流れやすい下地があった。
口コミで情報が伝わるうちに、「情報」が変容したのがパニックをもたらした。
事件の7年前の1966年、小坂井町の隣の豊橋市の金融機関が倒産するという事件があり、出資者の手元に出資金がほとんど戻ってこないという大きな被害を与えていた。
デマの伝播経路の中のクリーニング業者がこの7年前の倒産被害者であったため、「善意」で周囲の人間にデマを広めてしまった。
この出来事は、狭い範囲で別々の人から「同じ情報」を何度も聞くことで、それに「信憑性」があるものと思い込んでしまい増幅された感がある。
そういうことから、豊橋信用金庫の取り付けさわぎも、「シマ」の危うさを伝えているように思える。
現代のネットワーク社会は、地域の地理的な閉鎖性や外部情報との遮断は「無縁」になったったかと思う反面、ソレデモあらたな「シマ」の存在を浮かび上がらせていることに気がつく。
人が根無し草的な存在になると、「とりつくシマ」を求めようという「傾向」が生じるのではなかろうか。
先日、浦和レッズのサポーターが、埼玉スタジアムで「Jpanese Only」と掲げた横断幕がたった。
「差別的表現」の裏側に、そういうシマつくりの心理があるのかもと思ったりする。
ちなみに、横断幕を掲げたサポーターの1人は、「ゴールの裏側は我々の聖地なので、外国人によって統制をみだされたくなかった」と語っている。