隔ての幕

昨年は、伊勢神宮の「式年遷宮」の年にあたった。
伊勢神宮では、ご神体を納めた建物などを20年ごとにつくり替えていて、その都度「遷宮」を行っている。
そうした一定の周期で行う遷宮を「式年遷宮(しきねんせんぐう)」という。
伊勢神宮の「式年遷宮」は、およそ1300年前の飛鳥時代に始まったとされ、現在までホボ絶えることなく続いている。
昨年10月「神様のひっこし」のテレビの画面に見入ってしまった。個人的に注目したい部分があったからだ。
日本の神事と古代イスラエルの祭祀にはシバシバ共通点が見られるが、その個人的関心とは、果たして「神様のひっこし」についても共通点を見出だせるかということだった。
古代イスラエルの人々は、エルサレムに神殿がつくられる前には「幕屋」でヤハウェの神を礼拝をしていた。
イスラエルは紀元前15C頃エジプトで奴隷になり、そこを「出る」にあたって、指導者モーセと祭司アロンがエジプトのパロに求めたことは、「主なる神はおおせられる。イスラエルのの民を行かせ、荒野で神を祭らせよ」ということだった。
するとパロは「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのか。私は主を知らない」と拒絶する。
その後、数々の奇跡と不思議を経た後に、イスラエル人はエジプトを「去る」ことを許された。
この神のワザが行われるに際して使われたのが「アロンの杖」であり、イスラエルの「三種の神器」のひとつに数えられている。
出エジプト後、シナイの荒野をさすらいながらイスラエルは、各宿営地に「幕屋」を設営して神を拝したのである。
イスラエル人は、故郷カナーンの地を目指したが、時に食料がなくなり神が「朝露」のごとき食料を降らせた。
そしてこの朝露のような食べ物が「マナ」とよばれ、「三種の神器」のヒトツとなっている。
さらにモーセがシナイ山で「十戒」を与えられえ、その「十戒」が刻まれた二枚の石板も、「三種の神器」のひとつとなっている。
神がモーセに与えたものは、この「十戒」ばかりではなく、幕屋のいわゆる「設計図」をも示したのである。
それは「出エジプト」26章に詳しく書いてあるが、新約聖書には次のようにマトメテ書かれている。
「まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後ろに、別の場所があり、至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。」(ヘブル9章)
そしてヘブライ王国(古代イスラエル王国)のソロモン王の時代に「神殿」がつくられ「幕屋」の時代が終わるが、神殿の構造も基本的に「幕屋」と同一である。
要するに「幕屋」とは、神と人が出会う場所であり、「会見の幕屋」ともよばれていた。
荒野を流離うイスラエル人にとって「幕屋」は、キャンプする際の生活の中心となり、ここで祭司や大祭司が神に仕え「聖所」で罪のための犠牲の動物を屠ったりした。
そして幕屋に入ることを許されたのは「祭司」にかぎられ、本人および民の罪をあがなうための「いけにえ」(子羊など)を携えることを必要としたのである。
さて、古代イスラエルには12部族がいたが、レビ人だけは「祭司職」を出す部族として区別された。
そして民が「神を礼拝すること」において、ソレを仕切る大きな責任は「祭司」に委ねられ、収穫の「10分の1」を働きの報酬として受けた。
「幕屋の構造」に関して最も注目すべきことは、聖所から至聖所に入るとき「第二の幕」が降りており、「至聖所」は大祭司が年1回だけ入る場所であった。
前述のごとくイスラエルの「三種の神器」は、いずれも「出エジプト」という民族的苦難の中で生まれたモノだが、それらは「契約の箱」に入れられて「至聖所」にオサメられたのである。

「幕屋」は古代イスラエルの宿営地の移動とともに移動したのだから、イスラエルでは「神様のひっこし」が時々行われたということである。
要するに幕屋は「移動式神殿」ということができるが、伊勢の「式年遷宮」に注目したのは、その段取りがイスラエルと似ているのではと推測したからである。
幸いにも、古代イスラエルの「神様のひっこし」の段取りは旧約聖書「民数記」4章に詳細に書いてある。
それによると、「幕屋移動」の際には祭司・アロン(モーセの叔父)の家系の祭司たちが「解体」して包み、幕屋に仕えるレビ族が「運搬」の任にあたった。
そしてレビ族には三つの氏族(コハテ氏族・ゲルション氏族・メラリ氏族)があり、その三つの氏族には「神様のひっこし」の「分担」が決まっていた。
まず祭司アロンの子たちがいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをモッテ「契約の箱」をおおい、その上にじゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にサオをさし入れる。
また「供え」のパンの机の上には、青色の布をうちかけ、その上に皿・乳香を盛る杯・鉢および灌祭の瓶を並べる。
また、金の祭壇の上に青色の布をうちかけ、じゅごんの皮でこれをおおい、そのサオをさし入れる。
ちなみに「じゅごん」は人魚伝説のモデルとなった海の哺乳類である。
「宿営の進む時」には、アロンとその子たちとが、聖所と聖所の「すべての器」を覆うことを終ったならば、その後にコハテの子たちはソレを「運ぶ」ために入ってきた。
次にゲルションの子たちは、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、 また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、それに用いるすべての器を運んだ。
さらにメラリの子たちは、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、 庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものを運んだ。
この段取りで注目したいことは、コハテ氏族は、聖所に収められた「聖なる物」、聖所の中で使われる「器具」に触れてはならず、触れれば「死ぬ」とされた。
そこで彼らが神に打たれて死ぬことがないように、まず祭司達が聖所に入って器具を「覆う」ことになっており、運搬するための「担ぎ棒」をつけている点である。
その後に、コハテ氏族がそれを運ぶのだが、コハテ氏族の人々は自分が運ぶものが聖所の器具だと知っていたとしても、生涯ソノ器具を見たり、直接に触れたりすることができないということである。
一方、主に「幕関係」を運ぶゲルション氏族や板や主に「材木関係」を運ぶメラリ氏族については、それらを見たり触れたりしても問題なかったという。
こうした「宿営のすすむ時」つまり「神様のひっこし」に関わる人数として8580人にも達したいう。
この「担ぎ棒」をつけて運ぶというヤリカタ、そして布で器具を覆って見えないようにしている仕方が、テレビ画面でみた伊勢神宮の「式年遷宮」とよく似ている。

2013年10月5日夜、伊勢神宮で「遷御の儀(せんぎょのぎ)」が行われたが、これこそが「式年遷宮」のクライマックスで、「ご神体」を新しい社殿に移すものである。
「ご神体」を別の場所に移すといっても、ご神体を移す先の建物は、それまでの建物のスグ隣にある建物である。
ただ、器物を移動するに際して、伊勢の場合は白布で覆ったが、イスラエルの場合は「青紫の布」で覆ったという違いがある。
伊勢神宮では、内宮と外宮の建物をはじめ、鳥居などを新しく造り替えることになっていて、その数は65棟に及ぶ。
樹齢およそ200年のヒノキ1万本が必要で、昔は周辺の森から切り出していたが、現在は長野県と岐阜県にまたがる山林で大半を「調達」している。
古い建物は遷宮が終わった後、解体されて更地になる。
解体した建物の柱などは、境内の鳥居に再利用されたり、各地の神社に配られる。
実は、新しくつくるのは、建物だけではなく、内宮や外宮に納める宝物と装束の数よそ「1600点」が前回と寸分違わないものがつくられる。
「三種の神器」などは、木製の器の中に納められている。
「遷御の儀」の際、また、白装束に身を包んだ神官が木製の箱の中に入れて運ぶが、周りを白い布で覆ってしまうため、その様子を見ることはできない。
「遷御の儀」とは別に「お白石持行事」というものがあるが、神々しく光り輝く御正殿の真近に「お白石」を奉献する行事である。
白装束に身を包んだ神職の人々が、「お白石」そのものを白い布で包んで運んで、御正殿の真近に「お白石」 を奉献する。
さて、今回の「遷御の儀」費用の総額は、570億円で、全国からの寄附や神宮の資金でまかなうという。
建物をスベテ新しくするのは、国内では伊勢神宮だけで、世界でもほとんど例がない。
では、ここまでナンのために「新しくするのか」という疑問がおこる。
ひとつには、常に若々しく、すがすがしくありたという神道の「常若(とこわか)」の精神を表したという説がある。
また20年に1度という点では、宮大工などの技術の伝えるのにチョウド適した期間といった説まである。
カナリ突飛な推測だが、いまだ歴史の霧のむこうに行方不明のとなっているイスラエル10部族と日本との間にナンラカの接点があるのなら、イスラエルの幕屋と「式年遷宮」との間に、何らかの「記憶」の繋がりがあったのかもしれないと思うのである。

旧約聖書によれば、イスラエルの宿営が進む時に、ある特別なことが起きている。
それは「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト13章)とある。
そして、この雲の柱は、ただ前を進むだけではなく、時に後ろへまわり、イスラエルの陣とエジプトの陣の間へ入り込み、イスラエルの陣を守る役割を果たした。
そして、次のように記されている。
「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」(出エジプト40章)。
さて、新約聖書は「幕屋」とは「天をかたどったものである」と驚くべきことを語っている。
そして「大祭司」の役目を次のように語っている。
「大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
彼は自分自身、弱さを見におうているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さゆえに、民のためだけではなく自分自身についてもささげものをしなければならない」(ヘブル4章)。
「キリストは模型で幕屋の中ではなく、本物の天の幕屋にご自身の血を携えて入られ、ただ一度の贖いを成し遂げられた」とある(ヘブル7章)。
つまり、キリストは「永遠の大祭司」であるばかりではなく、ご自身が「完全ないけにえ」となったといっているのである。
「天にあるもののひな型は、これらのもので清められる必要があるが、天にあるものは、これよりさらにすぐれたいけにえで、きよめなければならない。ところがキリストは、ほんとうのものの模型に過ぎない手で造った聖所にははいらないで、上なる天にはいり、いまやわたしたちのために神のみまえに出てくださったのである」(ヘブル書9章)
聖書における「幕」は、単に幕屋の中の聖所を区別するものばかりではなく、神と人間との間にある「隔て」を表す「たとえ」として語られる場合が多い。
また神と人との間の「隔て」は「顔覆い」が掛かっているというタトエでも語られることがある。
シナイ山で「十戒」を受けて、下山してきたモーセの輝きが異常で、民はその顔をまともに見ることが出来ず、モーセの顔に「顔覆い」がカケたのである。
そして新約聖書では、イスラエル人の「思いは鈍く」なり、今日に至るまで、同じおおいが取り去られないままで残っているとしている。(Ⅱコリント3章)
「モーセの律法」の中に生きている大多数のイスラエル人は、いまだにイエスの十字架を受け入れず、十字架の死後下った「聖霊」をしらない。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜならそれはあなたがたと共におり、あなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ14章)
しかも聖書によれば、この「顔覆い」が取り除かれる日が来るとしている。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(Ⅰコリント13章)。
そしてイエスの十字架の死の直後に「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とある(マタイ27章)。
その結果「こういうわけで、わたしたちは、イエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった 新しい生きた道を通って、はいっていくことができる」(ヘブル10章)としている。
つまりイエスの十字架によって、天における神と人との「隔ての幕」がなくなり、祭司ばかりではなく、すべての人々に「聖所」への道が開かれたということである。
そして聖所への道は「人は水と霊により生まれなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章)と示されている。
またパウロは次のように語っている。
「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」(使徒行伝17章)
神と人との間にある「隔ての幕」を取り払われた者にして語られる言葉である。