疑われる

人間はイツ、どんなカタチで疑いをかけられるか、知れたものではない。
何でもないことが、罪に問われることもある。
ある僧侶の学生時代の体験談が新聞にでていた。
僧侶は高校生のときから、平和や民主主義などにツキ考え方が近い政党のビラ配布を続けてきた。
2004年12月、オートロックのないマンションで、各戸のドア・ポストにビラを投函していたら、住民に捕まり「住居侵入罪」に問われた。
一審では「目的は不当なものではなく、ビラ配布のための立ち入りを罰する社会通念はない」と無罪だった。
しかし、二審・最高裁とも「マンションの管理権を侵害した」として有罪となった。
この僧侶は、表現、言論の自由と「国民の知る」権利は表裏一体のもので、ビラ配りは「表現の自由」と訴えたというが、裁判では受け入れられなかった。
つまり、「地方自治、地域の問題を知ってもらいたい」という趣旨のビラを入れた行為が、それだけで「犯罪」とされたわけである。
最高裁の「社会的通念」とはナンだろうかと思うが、下手に「表現の自由」など反論したこと自体が、裁判所の「心証」を悪くしたのではないか、とも推測する。
近年、NHKの番組で「わたしが子供だったころ」という番組を見た。
有名人が自分が小さな頃に育った街や学校を訪問し、育ってきた思い出を語るという趣向の番組である。
その時見た番組は、ロックバンド「THE 虎舞竜」の高橋ジョージというミュージシャンが、故郷の宮城・栗原という田舎町を訪れるというものであった。
個人的には、高橋ジョージの「音楽」は好きとはいえないが、中学生にしてこれほどのキツイ試練を与えられた人はザラにいないとツイ同情してしまった。
高橋氏の家庭では父は厳格すぎ、母は自由気ままな性格で折り合いが悪く喧嘩ばかりしていたという。
離婚話となり母は突然娘を連れて出ていってしまう。
高橋は母親に、父か母かどっちにつくかと聞かれて、今まで見たこともない悲しげな父親の顔を見て、父親にツクと答えてしまった。
その時、大好きだった母親の方は大泣きに泣いたという。
これくらいの「家庭不和」で心に傷を受ける中学生ならママいるが、その後高橋をトンデモナイ事件が襲う。
ギターが上手で、いつでも皆のリクエストに答えて曲が弾ける高橋はクラスの人気者であった。
音楽の時間、先生が用事で教室を離れた折り、学級委員の高橋は担任からクラスを静かさせることを一任された。
ところが高橋は、自分を含めて大騒ぎをしてしまい、教室に戻ってきた音楽の教師に「大目玉」をくらう。
そして、口元にアザができるほど殴られた。
ここまでならヨクアル話であるが、なんとその夜学校が燃え、出火した場所が音楽室であったのだ。
高橋らは近所の騒ぎで「火事」を知り友人と学校の様子を見に行った。
当日先生に怒られたこともあって、「ザマ~ア見ろ」と叫んでしまったのだが、折り悪くソレを聞いた者がいた。
また運悪く、コブシをあげている高橋の姿が「現場写真」に撮られていたのだ。
高橋は放火の「第一容疑者」となり、連日警察が訪れたった一人きりの高橋を問いつめるようになる。
高橋の人気を妬んだ者の仕業の可能性もあるが、父親がどんなに息子を守っても、田舎のことだけに「放火犯」高橋の噂はひろがり、皆が高橋を遠ざけるようになっていく。
それは高橋のソレマデでの自分の姿とアマリニモ大きな「落差」であった。
ある日、自殺を考え線路に寝転がって遠い電車の音を耳で聞いたりするうちに突然「怒り」がこみ上げてきて、こんな事の為に死ねるか絶対に皆に謝らせてやると思い直して、「マーチ」なんかを口ずさみながら自宅に戻ったこともあったという。
高橋は地元の高校に進学するが、ミュージシャンを志して高校を中退して東京に出る。
長い年月、売れない時代が過ぎ、34歳でようやく「ロード」が大ヒットしてその名を知られるようになる。
番組では、その高橋が故郷が近づくにつれて、逃げ出したいような気持ちに襲われるのが伝わってきた。
そして、自分が放火したと疑いをかけられた中学校で、後輩の生徒たちの前で「ロード」を演奏し、長年の心のツッカエがおりたという。
高橋にとって故郷は「鬼門」であり、ようやくそこに踏み入れてこそ、自分を「回復」デキタといえる。
高橋のヒット曲「ロード」は、高橋にあてたファンである少女の手紙を歌にしたものだったが、歌詞の中の「なんでもないことが幸せだったように思う」というのは、当時の高橋自身の気持ちでもあったのだ。

人は予想外なことで「大きな陥穽」にハマッテしまうことがある。
そこに「官憲」が介入して、それによって人生が狂わせられていく人もいる。
赤川次郎の「真夜中のための組曲」(1996年)に集められた短編集には、平凡な日常の中に潜んだソウシタ「危険」が見事に描かれている。
特に昨今の動きと関連して「危険な署名」という作品がインパクトがあった。
4歳の娘をもつごく平凡な家族の父親である江本は、いつもどうり会社帰り道、東京の郊外とオボシキ街の駅に降り立った。
二十歳前後の大学生らしい女性が立っていて「署名おねがいします」の声がかかる。
礼儀正しくとてもかわいい娘で、「反戦の日」のための署名とカンパをお願いできないかという。
江本は、人並みに学生運動には参加したこともあったが、今では普通のサラリーマンである。
組織や団体に関係なく反戦を訴えていこうと思います」という娘の真剣なマナザシに、純粋だった頃の自分姿と重なった。
「署名するよ、寒いなか大変だね」とホンノ少しのカンパをした。
疲れた会社帰りに、江本に久しぶりに晴れがましい気分になった。
しばらくしたある夜、団地の主婦から「襟を立て帽子を目深にかぶった男」が、江本の部屋を見つめている男をみたという情報があった。
街灯のあたらぬ場所に、まるで「監視するように」見ていたというのである。
また、江本が昼休みに喫茶店にいると、同僚の女の子が見知らぬ男に呼び止められ、「江本のことが聞きたい」といってきたというのだ。
同僚がドナタですかと逆に聞くと、警察のものだといいい警察手帳を見せたのだという。
江本には何ら思いあたるフシがないのだが、帰宅してそのことを妻に語ると、妻は「帽子を目深にかぶった」男のことを話した。
別の日の帰り道、近所に住む会社員の山中に、江本さんも署名してましたねと声をかけらえれた。
駅前で山中が署名するとき、名簿に江本の名前があることに気がついたのだという。
そしてバスを降りて暗い道を山中と歩いていると、誰かに尾行されているのに気がついた。
江本は自分がそんな重要人物であるハズもなく「何かの間違い」と思いつつも、江本は、誰かに監視されていると気になり始めた。
妻はスーパーでアノ帽子の怪しげな男と出会ったことを語った。
そして会社では刑事が江本を尋ねてきたことがウワサになっていたが、こういうウワサは自然消滅するのを待つ外ない。
そして帰り道、久しぶりにあの可愛い娘が駅前に立っていた。無視して通りすぎようとすると、「きゃっ」というあの娘の悲鳴が聞こえた。
学生服姿で一見して「右翼」とわかる五人組の男達に「署名簿」を奪われようとしていたのだ。
江本は「やめろ」と叫び、倒された娘に駆け寄った。男達は虚を突かれたように身をひいた。そして江本はソノスキに娘とと逃げた。
そして江本は、パトカーのサイレンに気がつき、その娘を自宅まで送り届けるようにたのんだ。
それからシバラク尾行する男も刑事もあらわれず平穏な1週間が過ぎた。
ところがある日、妻から職場に「山中が亡くなった」という連絡を受け、江本は言葉を失った。
江本とともに帰り道に尾行されたアノ山中が死んだのだ。そればかりか「一家心中」なのだという。
その後江本は、山中が会社を首になったこと、山中が「過激派の幹部」だというウワサが会社で広がっていることを知った。
そして江本は、署名のことに加え、山中と知り合いというので、自分を調べにきたのかと想像した。
山中の「風評」は死後1週間もすれば消え去り、山中はイイ人だったという言葉しか聞かなくなった。
ところが江本は、会社で自分を外出させている合間に「緊急会議」が開かれていることに気がついた。
また妻が幼稚園から妻が呼び出され、危険がほかの生徒におよぶので、娘を幼稚園からやめて欲しいと言われたという。
幼稚園に「右翼」と思われる人物から「脅迫状」がきているのだそうだ。
それを知った夜、外を見ると相変わらずアノ帽子の男が立っていた。
江本は、妻の制止をふりきって、街灯の下で帽子の男に掴みカカッテ問いつめた。
男は自分ではわからないと、車で江本を警察に連れて行った。
そして警察幹部らしき男が現われて、「反抗するものは教育をする必要がある、法と秩序を守るのが我々の仕事だ」と語った。
江本は「署名するのがなぜ悪い」のかと問うと、その警察幹部男は「反国家分子を勇気づける」からなのだという。
江本は背筋の寒さをおぼえつつ、資料を持ってやってきた一人の女性警官の顔を見た時、戦慄がハシッタ。
その女性警官は、アノ時「署名活動」をしていた娘だったのだ。
そして男は、江本に部下を助けてくれたことに感謝を告げた上、アンナ署名活動には加わらないと誓っていただきたいと言った。
江本は「断ったら」と聞い返すと、男は「警察を甘くみてはいけない。あなた一人をツブスぐらいは何でもないことだ」と語った。
そのとき、江本の頭に娘のことが浮かび、自然に「誓いましょう」と言ってしまった。
すると男は、「それでは、あなたの名誉回復のためにトリハカライましょう」と語った。
そして、江本はソノ「誓い」を胸にきざみつつ日常に戻った。
すると、昔過激派だったという江本のウワサは嘘のように消えてなくなり、娘もナニゴトモなかったように幼稚園に通うようになっている。
ところで、小説家の赤川次郎の父・赤川孝一は東映で「白蛇伝」などを製作した映画人である。
戦争中は甘粕正彦理事長の「満州映画協会」につとめていた。
そして日本の敗戦が決定的となった日、甘糟正彦の拳銃による自死を見届けた人物でもある。
実はこの「危険な署名」で赤川が警察幹部の言葉として語らせた「反抗するものは教育をする必要がある、法と秩序を守るのが我々の仕事だ」という言葉に、或る「人物像」が浮かんだ。
その人物とは、赤川孝一が仕えていた甘粕正彦である。
個人的に、こうした甘粕の人物像をドコカラ得たかといえば、佐野真一著の「甘粕正彦 乱心の荒野」にヨルものである。
甘粕正彦といってもピンとコナイ人は、映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた面妖な人物を思い出して頂きたい。
赤川次郎は福岡市博多区生まれた。3歳の頃に手塚治虫の漫画に影響を受け、小学生の時には漫画を描き始めるも挫折した。
赤川の父は、他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていないという。
中学時代に「シャーロック・ホームズの冒険」に出会い、小学校3年生の時に見ヨウ見マネで小説を書き始める。
この辺は、福岡市博多区生まれで東京芸大の受験に失敗し漫画家となった長谷川法世氏と似ている。
卒業後は本屋勤務を経て、日本機械学会事務局職員経た後に1975年頃から小説(シナリオ)を投稿するようになり、1978年には「三毛猫ホームズの推理」がベストセラーとなり、以後この連作を中心に人気作家になる。
ライトミステリーの旗手的存在として知られているが、初期作品には、社会の歪みや虐げられる人々に目を向けることが多い。
「危険な署名」もそうした初期作品のひとつだが、今という時代に妙にリアリティーがある。

新聞に、戦時中タダ単に外国人に旅行の話をきいただけで、「軍機保護法違反」の疑いをかけられて、厳しい拷問などで、若くして病を患い27歳で命をおとした青年の話が出ていた。
その外国人もゾルゲ事件に次ぐ刑をうけたが、終戦により捕虜交換船でアメリカに帰国している。
1941年、北海道帝国大学2年生の宮澤弘幸の容疑は、「樺太に旅したときに偶然見かけた根室の海軍飛行場を、友人のレーン夫婦に話した」ことだった。
レーン夫妻の夫は、宮沢が通った北海道大学で英語を教えていた。宮沢は「軍機保護法違反」で逮捕され、懲役15年の実刑判決を宣告された。
宮沢は、取調べ中の拷問と過酷な服役生活で結核になり、敗戦後、釈放されたが、27歳の若さで亡くなったという。
一方のレーン夫婦は、夫のハロルド・レーン氏は懲役15年、妻のボーリン・レーンさんは懲役12年の実刑判決を受け、米国に送還され、敗戦後の1951年に北海道大学へ復職したが、後に札幌市で死去した。
「観光でたまたま写した風景に軍事施設が写っていた」という理由で、このような事態に陥ったのである。
日本で戦争中に「尾行」をうけた人々の中には、外国人の血が流れている人々がいた。
倉場富三郎は、幕末薩長に武器を売り込んだイギリス人グラバーと日本人の妻との間に長崎で生まれた。
倉場は、太平洋戦争の末期には、官憲の監視オヨビ長崎における原爆投下もあり、精神的な不安定状態に陥り、自ら命を絶っている。
また「佐賀にわか」で有名な筑紫美主子にも外国人の血が流れていた。
筑紫の本名・古賀梅子は、1925年北海道旭川で産まれた。
父親は亡命白系ロシア人、母親は日本人女性であった。
母親は、父親との別離の後、人目をはばかり娘を「捨て子」ということにして佐賀に住む伯父夫妻に預け、そのまま姿を消した。
梅子と命名された筑紫美主子は、両親の顔も知らぬまま、養父母のもとで育てられる。
青い目をした赤い髪の女の子は、周囲の「好奇の目」にサラサレれつづけた。
小学校6年生の頃、学校から佐世保に戦艦「陸奥」を見に行くが、筑紫さんには外国人の血が流れているという理由で、立ち入りを拒否された苦い思い出もある。
筑紫が12才の時、養父が知人の保証人になったため差し押えられ破産し、家からが追い出された。
農具小屋を立て替えて生活をはじめるが、事業に失敗して台湾から帰国した養父の弟家族も加わり、2家族9人が狭い農具小屋で生活することになった。
この頃、家は極度に貧しく、子供達は暴れる、病人は苦しむで、まさに修羅場のような生活あったという。
1935年、働きづくめの養母を失う。筑紫さんは養父母のもとで踊りを習っていたが、亡くなった母親の願いをうけて14歳で踊りの師匠となる。
そして1937年、日華事変が起こり、戦火は激しさを加えていった。
戦争中は誰よりも「日本のために」という願いが強かったのに、「青い目」の筑紫は「スパイ扱い」され、始終「尾行」がツイタという。
筑紫は1940年、旅芝居劇団の古賀儀一と結婚した。
周囲は年も離れ生活が不安定な儀一との結婚には反対であったが、筑紫は儀一氏が彼女をけして「特別なもの」として見なかったことに安らぎを覚えたという。
そのうち「皇軍慰問団の一員」として銃弾飛び交う最前線へと送り込まれることになった。
映画スタ-や有名歌手は高級将校などのいる比較的安全なところに送りだされたが、筑紫らの無名村芝居劇団は一番危険なところに送られた。
1941年難産の末、男の子が生まれる。
しかし大分巡業中、生まれてまもない男の子は白髪染め用の劇薬を飲んでしまう。病院に運ぶが軍医は戦争にいって不在、しかも洪水で交通機関は不通となっていた。
筑紫は、ひたすら神仏にすがる他はなかった。
たまたま、お年寄りが卵の白身を子供に飲ませると子供は黒い塊を続けざまに吐き出し命をとりとめることができた。
筑紫はこの出来事以来、仏門とエニシを結んだという。
彼女は、娘時代、恋に破れて堀に飛び込み命を長らえた。その前に、父のいない「混血児」として生まれ、父と母に拾われて育てられた。
50まで役者の仕事をしたら、髪をおろして仏門に帰依したいと、その時に心に誓ったという。
1968年福岡県二丈町に愛仙寺を建て、一命をとりとめた息子が先に得度しこの寺の住職となられた。
昨年10月に92歳で亡くなれた。