ガムが売れない

最近ガムが売れなくなったそうだ。そういえば自分がガムを買ったのは、何年前だっただろうか。
日本チューイングガム協会によると、国内の市場規模は2004年の1881億円をピークに、この9年間で約3分の2の規模にまで縮小した。
ひとつの商品の売れ行きが嗜好ばかりではなく、時代や文化の制約を受けるのは、ガムばかりではない。
しかしガムの衰退が、高齢化やスマホ世代の登場に深くかかわっていることを思えば、我々世代はガムと運命を共にするような気さえして、ガムが愛おしくなってくる。
ガム衰退の原因と考えられるものにはいくつかある。
まずはタブレット菓子やグミにとって代わられている。
噛むうちに味がなくなってしまうガムと違い、最後まで味が続くし、口の中だけでなくなってしまう。
街中でゴミ箱が著しく減っていることもガム業界にとっては逆風であろう。
さらに、若い頃にガムに親しんだ層が高齢化している。
一般に高齢者はガムを買わなくなる。
加齢にともない入れ歯や虫歯治療などの率が高くなり、ガムを噛まなくなっていくからだ。
そして意外な追い討ちが、スマホの普及がガムの需要を押し下げているというのである。
かつてガムは、「暇つぶしの友」だったのだ。
噛み終わったガムを風船のように膨らましつつ時間をつぶした。
スマホで売れ行きが悪くなったと予想されるものは数多くある。CDやビデオやデジカメも少なからず影響を受けている。
そして人々の視線は低くなりがちで、電車のつり革などの広告をほとんど見なくなった。
最近は電車の中でも街中でも、人々は少しでも時間があるとスマホ操作に忙しく、ガムをかんで時間をつぶそうなんて人はいなくなりつつある。
「絶滅黒髪少女」に加えて「絶滅ガム噛み少女」の時代なのだ。
こうした傾向は日本だけではなく、「ガム大国」アメリカにも表れている。
アメリカの地下鉄で、犯罪者が銃口をむけても皆スマホで夢中で気づきもせず、意気をくじかれた犯人が車両をかえて人を殺したというニュースもあった。
ところで、企業側もガムの売れ行き不振に対して、指をくわえて見ているばかりではない。
道路に吐き捨てられても簡単にはがすことができる素材の開発や、初期虫歯を治すことができることをうたったガムまで登場している。
それでも、ガム人気の回復のためには、イメージどうりのカタチに膨らますことのできる「イメージ・ガム」。
いいたいコトを我慢しながらかんだガムを他人につけると、他人が代弁してくれるような「代弁ガム」など、よほど斬新で画期的なガムの開発をしないと難しい。

先日のオバマ大統領が発表した限定的なイラク空爆およびウクライナ情勢の懸念材料もあって、日本の株価平均が450円程急落したことが伝えられた。
一方人々は、比較的安全な円に乗り換えたり、比較的安全な資産・日本国債が買われたのだという。
逆にいうと、世界における日本国債が依然「比較的安全」という評価がつくほど、世界情勢は厳しいということである。
しかし、日本ではこれから世界最速で少子高齢化が進み、この日本がまだマシという状況がいつまでも続くわけではない。
というのは、日本政府の財政再建能力に関係なく、大波のように押し寄せる「高齢化」によって、日本の「国債」の比較的安全という評価もちょうどガムの味が口の中で失われるように、自然消滅していく。
今、約1500兆円の個人マネーの半分以上を占める約850兆円が預貯金なのだという。
これだけの貯金が投資に向かえば、相当な成長を生む資本となるハズだが、実際にはソノお金は成長に向けて投資されているわけではない。
政府は900兆円以上の国債等の発行によって、GDPの約2倍の公的債務をまかなっている。
一方、金融機関は貸し出しが伸び悩み、国債投資を増加させてきた。
その「原資」こそが個人の預貯金なのであり、問題はこの仕組みがコノ先いつまで維持できるかである。
預貯金の6割方は、60歳以上の高齢者の保有だが、急激な少子高齢化によって2010年代の後半には貯蓄率は低下し、預貯金が減少傾向に入ると予想されている。
その結果、金融機関は国債の売却を余儀なくされ、国債価格の下落を生じることが懸念される。
国債の下落は利回りの上昇と同義で、利払いが急増して財政悪化が加速すれば、世界的にも「国債の格下げ」の評価を受けることになろう。
日本国債は、いつまでも噛んでいると味が薄れ、かえって虫歯になってしまう。かといって捨て場にも困るガムようなものなのだ。
今、世界各国の株式市場では、グローバルに共通する投資尺度で株価が評価される時代となった。
つまり各国の株価指数そのものが、その国の経済を象徴するといって過言ではない。
「日経平均株価」がソレだが、アベノミクスによって「日経平均株価」は当初より随分あがってきている。
上述のとうり、個人マネーの行き場が預貯金だけでは成長の力とはなりにくいのなら、株価の上昇によって、個人マネーが株式市場に向かい、成長とともにあがる税収によって財政再建をはかっていくのが健全な姿である。
したがって個人マネーが「ガム一辺倒」から、タブレット菓子やグミへの魅力へと嗜好が広がることは悪いことではない。
そこで一番の課題は、成長戦略であり黒字が稼げるイノベーションが欠かせない。
それこそが日本の財政再建への筋道といえる。
1980年代まで、日本はは円高でも輸出品の売れ行きが伸びたが、最近では新興国の台頭により、円安になっても家電や半導体で黒字を稼げなくなってきている。
かつて、日本は貿易収支は黒字で、ソノ黒字でもってアメリカ国債を買ってきたが、最近では貿易収支自体が赤字となり、貿易収支が赤字でも日本企業が海外で稼いだお金や海外直接投資などの「所得収支」が黒字でなんとかカバーし、なんとか経常収支の黒字を維持してきた。
日本企業の海外子会社での儲けから海外企業の日本の儲けなどを引いた「所得収支」は黒字とだったからである。
ということは、海外で活躍する日本企業の儲けをいれたらドウニカ黒字だったといえる。
しかし経常収支の赤字は、貿易赤字がアマリニ大きく所得収支でカバーしきれなくなっていることを物語っている。
日本の企業は長く円高で工場を海外つくってソレを輸入するという「円高シフト」の下で経営を行ってきた。
それゆえに「輸入」が増えるのは当然で、円安なったからといってすぐに工場を国内に戻すわけにはいかないという事情もある。
ただ、日本の場合に「経常収支赤字への転落」が恐いのは、日本が抱える「特殊事情」による。
つまり「経常収支の赤字」は「財政問題」へと飛び火する可能性があるからである。
これまで借金のために発行する国債を、輸出などで稼いだオカネで買い支える構図だったからである。
経常収支が赤字になれば、「外国人」に国債を買ってもらわなければならなくなり、イザというときに売られて国債価格が暴落するリスクが大きくなる。
そうなると、今アベノミクスで日銀が買い込んだ国債は大幅に価値を落とすことになるし、同時に「高金利」は日本経済を一気に締め付けるだろう。
ただし最近のニュースでは、消費増税によ国内での自動車需要が冷え切ったが、円安とアメリカの景気回復で「外需」がそれを打ち消すほど伸びて、自動車産業に関しては、「史上最大益」という予想外の利益を出すに至っている。

数日前に、「2040年の厳しい未来図」という記事がでていた。
人口減が進む「近未来」の暮らしの厳しさを具体的な数字であらわしていた。
税金や社会保険料を納める現役世代が急減するために、医療や介護は今の水準を維持できず、現役世代に税や保険料負担も重くなる。
財務省の試算では、今の税・社会保障制度のままでは、40年の国の借金は約4倍の4千兆円超に膨らむ。
これでは、明らかに借金を返せないえあろう予測から国債が売られ、金利が急騰し「財政破綻」が避けられない額である。
あまり政府機関は明示しないが、ある有名シンクタンクは、破綻回避に必要となる「最低水準」となる負担と給付の数値を試算した。
それによると、消費税率は段階的に25%まであがり、年金をもらえるのは69歳からとなる。
すべてのお年寄りには、2割の医療費自己負担を求められ、それでも平均的な会社員世帯では給料の30%を社会保険料、10%などを負担しなけれならなくなるという。
現在時点で、これだけの負担をしている国にスウェーデンがある。
参考のためにソノ国民の生活をやや仔細に見ると次のとうりである。
消費税は25%であるが、食料品については12パーセント、新聞は6%、である。所得税は31%で「累進性」はない。
保険料を含む国民負担率は、66%で、日本の39%と比較して二倍近くあり、相当高いといってよい。
ただし、ライフラインである電気・ガス・水道は無料に近いほどの低料金で、住居は集合住宅であってもかなり広い。
子供は、病院代は歯医者も含めて18歳まで無料で、大人でも一回の平均で1800円程度、手術をしても、12000円以上はとられない。
社会福祉は「在宅主義」で、自立した生活への補助こそが基本理念である。
老人の側にも子供には別の生活があるという意識から、ほぼ独立した世帯での生活をしている。
家族と離れた老人に対しては介護ヘルパーが1日6回自宅にくる。看護士・ヘルパーが責任をもって必要な薬をとどてくれ、緊急ブザ-でいつでもきてくれる。
年金についでは、収入が低く保険料を支払えなかった人でも、最低限の給付を受けられるようになっている。
教育については、全くといいほど費用がかからない。
大学でも学費がかからないので、学資資金の積み立てなどの必要もない。
スウェーデンは、子供をもつ家族にとってはとてもすごしやすい国なのである。
義務教育の小学校では、早くも円卓で授業している。教室に5つくらいに円卓が置いてあって、どんな授業でもグループごとに討論していく。
自分で学んだことを他者に伝えうること、他者が学んだことを取り入れうる事が重要という教育理念がある。
これは「共生の思想」を自然に育てているということにもなる。
給食は児童の好みに応じて希望の多い順から20種類ほど提供している。
人間の能力と人々の繋がりが社会的インフラになっていくので、教育は重要な「経済政策」でもある。
福祉・医療・教育にしっかりとセーフティネットがはられ「安心」が提供される。安心は失敗をおそれずチャレンジできる環境ともなっている。
スウェーデンには、有名なボルボという自動車会社や、ノキア・エリクソンといった通信機器の世界的企業が存在している。
そして、失業者に単に失業給付金をマルマル与えるのではなく、働きうる能力を育てるサービス(リカレント教育など)を提供すれば、仕事の範囲を広げられるし、働くことに新しい喜びを発見できる可能性もある。
つまり、サービスを提供する側にも、される側にも「新しい雇用」が生まれるのである。
スウェ-デン社会では、社会福祉が新たな雇用を生むという内容でプログラムされているといってよい。
スウェーデンの雇用大臣によると、国の政治責任は「全ての人が働いていなければならない」ということである。
裏をかえせば全ての人が税金を払ってもらわなければならないということだが、そういう意識の為に全国に雇用が広くいきわたり、森と湖のスウェーデンには「限界集落」というものがないそうだ。
北欧などで高負担・高福祉が実現できのは、政府や行政の「透明性の高さ」ということがいえる。
さて日本人が、消費税率25%なんてことを国民が納得して受け入れるには、よほどの「政治の透明度」が求められる。
今日本では、兵庫県議会の号泣議員によって「政務活動費」の使い道が問題となっているが、 スウェーデンでは、議員に対して交通費、通信費、交際費などなど「丸投げ」というようなカネの使わせ方をしていない。
国会議員が使った「タクシーの領収書」一枚でもすべてがファイルにしてあり、それを国民はいつでも閲覧できるようになっている。
居酒屋タクシーもなければ、身内が議員パスで都合よく旅行したりできない「透明感」があるのだ。
政治家が一般人と「違う」行動をすれば、それだけ次期の選挙で当選する可能性はサガっていくと思ってよいそうだ。
国会議員の給与は900万円で、日本の議員の2分の1である。運転手ツキ公用車はなく、秘書などスタッフも少ない。
一流ホテルのような議員宿舎なんかなく、国会の中に簡易な議員宿舎がある。320人の議員のうちの半分ぐらいは、そこで寝泊りできるそうだ。

個人的に、小さなニュース「ガムが売れない」が、井上揚水の「傘がない」と同じように奇妙に脳裏にくっついて離れないのは、シンボリックだからである。
つまり、ガムの売れ行き不振がが、何か日本国の行く末と近似性を感じさせるからだ。
それがスマホに熱中する若者の姿とか少子高齢化による影響に加え、もうひとつガムのようにへばりつく政・財・官の「癒着」体質といったものを連想させるからかもしれない。
スマホに夢中になる若者の視線は、どうしても下を向きがちで、その姿勢が先々を見据えようとしないメージとなっている。
先を見たってどうししようもないので、あえて見ようとしないのだろう。
こういう気持ちが危険ドラックの蔓延と関係しているのかもしれない。
もうひとつ、新聞で見たシンボリックな風景がある。
「右翁左媼(うおうさおう)」の団地のソバに子供の公園が隣接していると、「よい子は静かに遊びましょう」という看板がでている。
現代社会において、住民が直接統治の意思決定に参加することは、きわめて難しい。
このため住民は代表としての政治家を選ぶ。 政治家は官僚という専門集団をその僕として用いる。
官僚は政治家の指揮命令に基づいて人民を統治する。
この三者うまくが機能する場合に、民主主義はその機能を発揮する。
だがこの国では民主主義の基礎となるこの3者の関係が正しく機能していない。
政治家は選挙でやぶれれば失業者となる不安定な労働者である。
コレに対して官僚は身分が保証され、かつ民間企業より恵まれた正規労働者である。
加えて官僚は政治家の「黒衣」という理由で多くの場面で責任を回避している。
さらに統治メカニズムである法制度やその手続きを複雑多岐にすることで、実際には政治家を「操縦」してる。
消費税増税の動きは、政治家を「操縦」した典型といえる。
今の日本では、政治家が民の僕はなく、官僚の僕に堕しているといってよい。
国民が税金を払う、つまり財布の一部をアヅケルには、政府への信頼度が一番なのだが、国民は多くの税金が「原子力ムラ」「道路ムラ」「福祉ムラ」などとよばれる独特の利権構造の原資になってしまうことをよく知っている。
つまり預けた財布に対して、対価としてのサービスは還らず、かなりが他人の財布を潤すために使われるということだ。