「住」のエピソード

ヨーロッパに行って、住まうことの意識が日本人と根本的に異なることを感じた。
それは、人々がソコニ「住む」ことにある種の覚悟をもっているかのような気がしたからだ。
ナンドも戦火に見舞われ、蹂躙されたヨーロッパの歴史は、多かれ少なかれ「住む」ことが戦いであったといってもいい。
戦いが起きても、そうやすやすと住む場所を変えたりはせず、この場所で闘いますよという感じなのだ。
そうした「住む意志」の強固さは、日本人より随分あるように感じたのである。
具体的にいうと、歴史建造物がそのまま今も住居として使われているし、家々の連なりは全体として城の一部であったりする。
ヨーロッパには、「バーグ」とか「ベルグ」という言葉が語尾につく都市名が多いが、バーグとは「城」または「要塞」を意味しているのである。
(例;ルクセンブルク/ハイデルベルク/ハンブルク) ヨーロッパと日本の居住用の住宅が更新される平均年数を単純比較すると、イギリスでは75年、日本ではその3分の1の26年にすぎない。
アメリカはその中間の44年となっている。
イギリスでは、平均して三つの世代で一つの住宅を利用しているのに、日本人は一世代ごとに住宅を更新していることになる。
日本では中古住宅として市場に出す前に、多くの住居の建て替え時期が来てしまうから、中古住宅市場が伸びないわけである。
さて、ヨーロッパで「シティ」といえば、ロンドンの金融街をさしているが、本家は違う。実はシティ(市)の語源は、日本の女優の岸恵子さんも住むパリの「シテ島」なのである。
このシテ島こそは、パリの始まりの場所である。
さて、パリのセーヌ川を下る観光船に乗ると、次々と目の前に現れてくる石の建造物の「重量感」に歴史の重厚さが重なるのか、しめつけられるような息苦しさサエ感じる。
この息苦しさは、パリ高等法院、リュクサンブール、コンコルド広場、チェイルリー公園、ルーブル博物館、ノートルダム寺院、と凄すぎる歴史遺跡が続くことの感動のためかもしれない。
また、息つく暇もなく現われる石橋のアーチもそうした気分に追い討ちをかける。
基本的にヨーロッパの町の多くは石で作られているが、時折突き出た教会の尖塔は、ゲルマン人が切り開いていった森林の記憶かとも思わせられる。
これだけの規模で石造りで建物が建つとなると、これらの石はどこで堀り出されたのか、この石組みを作った建設業者は相当なチカラを持ち得たのではないかと想像する。
そういえば、歴史的大事件を背後にあって操る存在としてしばしば取沙汰される「フリーメーソン」という存在がある。
フリーメーソンの「メ-ソン」は「石工」を意味する言葉で、フリーメーソンとは「自由な石工」である。
あのフリーメーソンがどうしてソンナ力を得たのだろうか。
ヨ-ロッパ中世を通じて、親方を中心に石工職人団がまとまり、各地の教会を修復して回るようなことが行われていた。
こうした集団がしだいに教会と対等な立場で高位の聖職者と契約を結ぶようになると、石工職人団は自分達の立場を足がかりにして教会からの独立を獲得し「自由な石工」となり、13世紀には広範囲に「建築業者組合」を作る様になる。
これがヨ-ロッパ各地にできた建設業者組合が「ロッジ」の始まりで、ロッジに集まる者がフリ-メソンとよばれるようになった。
となると、日本にも城の石組みをしたものがいるハズだが、歴史の中でどんな位置づけをされたのだろうか。
日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍したのが 「穴太衆」(あのうしゅう)とよばれる石工の集団があった。
主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。
比叡山から琵琶湖へロープウェイがあり、そのフモトが坂本という町でコノあたりが「穴太ノ里」とよばれている。
延寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔といわれている。
寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。
それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が「穴太衆」の指揮のもとで作られたのである。
そして彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったのである。
となると我が福岡市が唯一生んだ総理大臣である広田弘毅首相の実家は、天神の石屋であった。
広田家もどこかで「穴生衆」と接点があるかもしれない。
さて、ヨーロッパの町並みを歩くと自動販売機もなければ、ATMもなければ、コンビニもないし、さぞや不便であろうと感じる。
ある意味で住む意志を試されているかのようだが、この町並みを歩く幸せに比べたら、そんな不便など大したことはない。
ヨーロッパの古い町並みには、不便さをはるかに凌駕する絵のような風景がそこかしこに広がっている。
彼らは、一生を過ごす風景を何よりも大切にしているような感さえある。
もともとヨ-ロッパ世界では石造りの歴史ゆえか、新しいものをいかに作るかではなく、古いものをいかに残し、生かしていくかに意識の比重があったのではなかろうか。
また、イギリス人は家を持ったら、別にどこかが壊れていなくとも、ペンキを塗る必要がなくても、大工道具をもってあちこちと補修したがるという。
要するに「家」が趣味で、家と関わって人生を送ることソレ自体が喜びであり楽しみなのである。
日本人と比べ、「住む」ことに対する情熱とエネルギーが違うように思う。
空から見たパリの凱旋門から広がる放射状の町並みと、無秩序にそして曖昧に広がる東京の町並みを比べたら、「住む」意識の違いは明白であろう。
人間関係において「調和」を重んじる日本人が、こと「住む」ことに関してはあまり調和を考えないようだ。
ナポレオン三世のようにパリを大改造するような意志をもった権力者が出なかったこともある。
また日本の都市は近代になって急速に発達したため、全体の一部として住居を考えていく発想が生まれなかったことが大きい。
その典型として「哀しさ」さえおぼえるえるのが、1964年東京オリンピッックに間に合うように作った首都高速道路が、江戸時代の東海道五十三次の起点である「日本橋」の上を通っていて、どんな風景の一部とも成りえないことである。

最近、テレビで「リノベーション」を施した家屋の話がよく登場している。
また地方自治体では、高齢者が亡くなって住む者がいない「空き屋」をどうするかということが問題が背景ともなっている。
個人的に「リノベーション」で思い出すのは、「サウンドオブミュージック」のモデルとなったトラップファミリーの物語である。
名門トラップ家に一人の女性が家庭教師としてやってきた。
家庭教師となったマリアは、母を失った子供達の心を音楽を通じて和ませいくが 家の主グスタフ大佐も彼女を一人の女性として愛するようになり結婚する。
しかし家族の幸せは長くは続かなかった。
映画では描かれていなかったが、1929年の大恐慌の影響でトラップ家は一夜にして全財産を失い、さすがの英雄グスタフも憔悴しきっていたという。
しかし一人元気だったのは妻マリアで、幼い頃から孤児として育った彼女は、そうした苦難を乗り越える術を心得ていたのである。
大邸宅を旅行者たち向けに改装して開放し、家族の危機を救った。
名門育ちの大佐では、自宅をホテルとして開放するなどの発想は浮かばなかったにちがいない。
「その後の」トラップ一家は、ナチの迫害を逃れてアメリカに渡るが、公演旅行でオースとリアの風景に似たバーモント州ストウの地に、家族総がかりでロッジを組んで自給自足に近い生活をした。
現在はトラップ家の一番若い10男が、ロッジをホテルに改装して経営している。
「サウンド・オブ・ミュージック」という映画の裏側には、映画のストーリーが終った後の実在のトラップ・ファミリーの「住まう」ことの戦いがあったもといえる。
ところで、建て売りの一戸建て住宅とかピカピカの新築マンションはきれいだがナンカ個性に乏しい。
人間には住む個性があってもいいし、もっと想像力や楽しさを刺激する家やオフィスで暮らせたらという「潜在的」な欲望はあるにちがない。
パリのオルセー美術館は、もともと1900年パリ万博時につくられた壮麗な駅舎を大改造して産業施設から美術館に転じたということが、パリの建築物の様々な「読み替え」のキッカケとなっていると聞いた。
日本ではこれまで、世代が代わると建物を取り壊し建て替えてしまう「スクラップ・アンド・ビルド」というやり方が一般的であった。
しかし、石油ショック以降の安定成長に入った頃から日本でも古い廃屋や倉庫などが注目され、「リノベーション」の潮流がおきてきた。
既成観念の「読みかえ」を通じて、壊されたり捨て去られるものが、少ない投資で「価値」を上げることができる。
廃校が芸術家たちのアトリエに姿を変えたり、都心の銀行の支店ビルの中身がレストランに変わったり、バブル期に建説された社員寮が高齢者の居住施設に転用されたりしている。
東京の勝鬨の巨大倉庫を既存の建物を生かしオフィス兼ショールームに転換し1人の建築家がいる。
この建築家は、まともな不動産仲介業者ならば絶対に扱わないような変わった物件ばかりを集めたサイトをインターネットにたちがあげた。
自由に改装できる部屋、レトロな味わいと「不便」を楽しむ古家などが大変な人気をよんでいるという。

冒頭でヨーロッパの人々は住むための「覚悟」が日本人とは違うと書いたが、世界的建築家である安藤忠雄氏の名を知らしめた「デビュー作」を思い浮かべた。
安藤氏は、大阪住吉の物作り職人がたくさんいる長屋で育った。
家の側には鉄工所、ガラス屋、碁石屋があり、互いに助け合いながら懸命に生きていた。
安藤氏は次第に建築に目覚めて、通信教育を受けるなどして建築を学び、一般の大学の建築科で使われる教科書をアルバイトしながら読んでいったという。
安藤氏は世界中の建造物をみて独学で世界的な建築家となったが、工業高校時代はチャンピオンをめざしてボクシングに明け暮れていた。
17歳でプロのライセンスを取得したのだが、後の世界チャンピオン・ファイティング原田がジムを訪れ、あまりの能力の違いにボクシングに抱いた夢を捨てたという経歴をもつ。
安藤氏の「デビュー」作といってよい記念碑的建築物が大阪住吉に残っている。
それは、木造三軒長屋の真ん中を梁ごと切り取って埋め込んだ「コンクリートの箱」といって良いシロモノである。
安藤氏は依頼を受けたとき、こんな狭い空間にこんな豊かなスペースがあるのか、という家を作りたい思ったという。狭さを含む様々な「悪条件」こそが安藤氏を奮い立たせたのだという。
この建築物を実際に見たことはないのだが、写真で見るとコンクリートは打ち抜きのままで窓も何もない、入口だけがポッカリ穴があいている。
まったく無表情なコンクリートの側面を道路に向けている。
この建築物のコンセプトについて安藤氏自身は、「外部に対しては徹底して閉じながら、その内に中庭という小宇宙を秘めた建築の存在が場所の記憶を受け継ぎつつ、同時に現代都市に対するある種の批判行為として成立する」とを書いている。
これを自分なりに解釈すると、都会に擬せられたコンクリートの箱の中央部を、中庭として空に解き放ち、都会で失われつつある自然を住居に引き込んだといった建物ということみたいである。
しかしながら、二階の真ん中に空に開いた庭をつくったということは、雨の日などは反対側の部屋に移るのに(一瞬とはいえ)濡れざるをえない状況を生む。
安藤氏は自然の一部としてある生活こそが住まいの本質であり、この建築を行うに際し与えられた敷地条件の中で最大限の自然との「交歓」を実現することを考えたという。
確かに、都市生活は快適や便利だけ求めて「住む」ということではなく、自然の変容を感じ受け止めるつつ生活することで、生活に彩りが生まれるかもしれないとは思う。
安藤氏は建築の依頼主に「私に設計を頼んだ以上、あなたも戦って住みこなす覚悟をして欲しい」と常々言ってきたそうだ。
安藤氏はマルデ「住むことは戦いだ」といっているようで、さすが元ボクサーとは思いますが、個人的には住みたくありません。

以前NHKテレビ番組「世界遺産」でギリシアの島々に残る遺跡から、住むことがイカニ自然との闘いであり、人との戦いでもあったということを知ることができた。
いかにも平和な営みの中にあるように見える島々であるが、町並みのいたるところにいつでも「戦い」に転じられるような仕掛けが作られている。
地中海は船の通行路であり、船舶ばかりではなく海賊が島々を拠点にしようと狙っていた。
常に脅威にさらされてきたため、実際に白塗りの住居のいたるところに銃眼の跡がなましくなましく残っている。
そこで町並みは迷路のように形成されており、またイザという時には屋根を伝わって逃げられるような建築上の工夫がなされている。
また敵に気づかれないように、狭い道を通り抜ける敵を上からも横からも攻撃できるように造られている。
そのなかでも興味深かったのがパトモス島であった。
この島はローマにキリスト教を伝えようとして捕らえられたヨハネが幽閉され洞窟中で神の啓示をうけ「ヨハネ黙示録」を書いた場所である。
そして現在このパトモス島の住民たちは、聖ヨハネ教会で必要となる資材や食糧を供給するために働く人々が多い。
そして聖ヨハネ修道院は、修道院というよりまるで「軍事要塞」のような外観をしていることが印象深かった。
つまり、人々の聖なる礼拝場でありつつも、いざという時には人々が逃げ込む要塞と化すメタモルファーゼ(変異体)なのだ。
海賊が来たときは、聖ヨハネ修道院に屋根屋根を伝わって逃げ込めるような屋上道を用意しているのである。
さて、こうしたギリシア島々の一つで生まれたのが、日本名小泉八雲、ラフカディオ・ハーンである。
ハーンは、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれました。
その後、アイルランドのダブリンという場所に移るが、5歳の時に父と母が離婚し同じダブリンに住む大叔母に引き取られ、以降、両親に会う事は一度もなかったという。
その後、フランスの神学校へ進んだハーンは、16歳の時、遊びの最中の事故により、左目を失明するという重傷を負いその翌年には、大叔母が破産して、やむなく学校も退学し、生活も困窮を極める。
心機一転19歳の時に、夢を抱いて移民船に乗り込んでアメリカに渡り、24歳のとき新聞記者となった。
その後、様々な新聞記者としての紆余曲折もあったが、そのかたわらで外国文学の翻訳や創作物を発表しているうち、その文才が認められるようになっていった。
そして1890年、39歳の時に「紀行文」記者として日本にやって来た。
来日後まもなく新聞社との契約を破棄し、帝国大学(東大)のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となり、翌年には松江の士族・小泉湊の娘・節子さんと結婚した。
ハーンの随筆を読むと、松江の町がいかにハーンのこころを癒したかがよくわかり、近代化された社会に生きる我々もやはりハーンの「紀行文」に心が癒されるのである。
小泉八雲の最大の功績は、当時の西洋人としては、珍しいほど日本に対する偏見がなく、むしろ過分なほど好意的な眼で当時の日本を広く世界に紹介したことだといってよい。
しかし残念ながら、松江の冬の寒さがかなり苦手だったようで、わずか1年3ヶ月で松江を去り、その後は、熊本第五高等中学校に移り、さらに神戸クロニクル社、帝国大学文科大学、早稲田大学などに勤務し、その間に日本国籍を取得して「小泉八雲」となった。
その間「耳なし芳一」や「雪女」など様々な著作物を残している。
こうして八雲の生涯を見てみると、不遇な時代を送った少年期から一転、日本にやって来て運が開けた感がある。
八雲は東京でなくなる14年間を日本ですごし、その間、松江・熊本・神戸・東京と4つの都市に住み、10軒もの家で生活を営んだことになる。
個人的に10年ほど前に松江の旧居(根岸家)にいったことがある。一番思ったのは、松江という町自体が何か巨大な「箱庭」みたいなものに見え、ハーンが生まれたギリシアの島々とは随分違ったものだったであろう。
さて、ハーンとと根岸家との関わりは、家主の長男が松江中学、旧制五高、東京帝大で教わった師弟の関係でもあったから、よほどの縁だといってよい。
旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存されて現在に至っている。
そして旧居には、八雲の居間、書斎、セツ夫人の部屋などそれらの部屋をぐるっととり囲む庭がある。
規模は小さいが、この庭は枯山水の鑑賞式庭園として高い評価を受けているそうだ。
そしてこの住居は単にハーンの住まいというだけではなく「知られぬ日本の面影」の舞台となった場所なのである。