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一粒の群れ

オリンピックは「民族の祭典」ともいわれるが、開会式における選手団の姿を見ていると、人間の顔や形はいかにして出来るのか、ナンテ思ってしまう。
1964年東京オリンピックを飾ったフィギュアといえば、その美しさで女子体操のチャフラフスカ、その大きさで柔道のヘーシンクであった。
そして「顔は?」を問われれば、エチオピアのアベベ・ビキラをあげたい。
アベベには「走る哲人」というニックネームがつき、それまで抱いていた黒人のイメージとはどこか違っていた。
例えば、同じ黒人でも「黒い弾丸」とよばれた100m金メダリスト・ボブ・ヘイズとは明らかに異なる。
アベベはローマ五輪を「裸足」で走って金メダルをとったエピソードがあり、いかにも哲人風。
東京でも「裸足」で走るのかと注目していたためか、その白い靴が妙に印象に残っている。
ゴールに倒れこむ選手が多いなか、2位以下を圧倒的に引き離してゴール・テープをきったアベベは、何に食わぬ顔で軽い体操をしながら2位以下を待っていた。
その姿がテレビに映った時の驚きは、今でも忘れない。
それにしてもアベベは「走る鉄人」ではなく「走る哲人」とよばれたが、一体その風貌はどのようにして生まれたのか。
アフリカ東部のエチオピア高原はナイル川の水源である。
熱帯にあるにも関わらず高山性気候で、周囲のアフリカ諸国とは別世界といってよい。
エチオピア人は、アフリカ先住民(黒人)ではなく、彫りの深い顔立ちは、中東に住むセム系のアラブ人やユダヤ人に似ている。
アベベの風貌こそが、まさにソレである。
エチオピア人の祖先は、アラビア半島から紅海を渡ってきた人々で、エチオピアの建国伝説によれば、最初の王メネリク1世は、古代ヘブライ王国のソロモン王の息子である。
シバ王国の女王が、ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するためか、エルサレムのソロモン王の許を訪れた。
その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したといわれる。
ポールモーリア楽団の「シバの女王」は、イージー・リスニング曲の「定番」の一つとなっているが、おそらくソロモンとシバの女王の会見の場面を表現したものであろう。
イェルサレムを訪問したシバの女王マケダとソロモン王が恋に落ち、数ヶ月の滞在ののち、女王はソロモンの子を身ごもったままアフリカに帰り、エチオピアでメネリクを生んだである。
以来、エチオピア王はソロモン王朝と称し、都の名から「アクスム王国」とよばれた。
古代エチオピア人がユダヤ教徒であったのは、ソロモンの血をひくセム系の人々がアフリカに住み着いたからで、その子孫からアベベのような風貌の人が生まれたにちがいない。
しかし、ローマ時代の終わり頃、ローマを追放されたキリスト教(コプト教)が伝わり、キリスト教に改宗している。
ところで世界史的に見て、2000年以上他国の侵略に一度も屈することなく存在しつづけた国は世界中では日本とエチオピアだけであるらしい。
エチオピアは高山で守られ、しかも肥沃な大地を保有していたので、その王朝は安定していた。
大きな異変があったのは1869年のことである。
この年にスエズ運河が開通したことによって、ヨーロッパ列強がこの今まで見向きもしなかったこの地に「利権」が生じたのである。
その中でイタリアに、半分騙されたような形でエチオピア全土が占領された。
これが元で1985年にイタリア・エチオピア戦争が勃発し、これにエチオピアは勝利したが、またもや1935年、台頭したイタリアのムッソリーニが強力な軍事力を背景にエチオピアに侵攻し一時は首都が陥落する。
しかし、イギリスとの連合によって1941年に「王位」が復活した。
帝国主義の時代、欧州列強に抵抗したエチオピアは、日露戦争でロシアに勝利した日本を近代国家建設の模範としてきたため、このあたりではトルコと並ぶ「親日国」である。
国民の1割が食料支援に頼る最貧国ながら、「約80年の外交関係がある友好国のために」と、東北震災後に日本支援委員会を発足させ、現地企業などに寄付を呼びかけている。
その御礼もかねて安倍晋三首相は今年1月エチオピアを訪問した。
そしてアベベ・ビキラ選手の次男、イェトナイェト・アベベ氏と会って「私の名前が安倍なので、学校で”アベベ”って呼ばれたんですよ」と語った。
そして当時10歳だった安部首相はアベベ選手についての思い出を興奮気味に次のように語った。
「哲学者のような雰囲気で走り、圧倒的1位だった。ゴール後に柔軟体操したのが子供ながらに驚きだった」と。

一般に、人が未知の国に住みつくにあたって様々な「個人的な」事情があろうが、それが集団でマトマッテ住みついたとなると、何かそこに大きな歴史的な出来事が起きているハズである。
イベリア半島にスペインの北東からフランス南西部のピレネー山脈周辺にかけて居住するバスク人とよばれている「系統不明」の民族がいる。
このバスク人が住む田園都市のゲルニカは1937年、スペイン内戦のときナチス=ドイツによって火の海となった。
しかし、この平和な都市を火の海にする相当な理由はなにひとつ見当たらなかった。
工場もなく軍事施設もない町であり、アエテいえば実験または見せしめということであろうか。
実際にこのとき初めて使われた「焼夷弾」は2年後、第二次世界大戦で猛威をふるうことになる。
パブロ・ピカソはナチスの開発した兵器の実験台となったゲルニカ市民を思い、同じスペイン人としてこの悲劇を残そうと絵筆をとった。そして大作「ゲルニカ」が生まれた。
個人的には、バスク人が「系統不明」の少数民族であったことが、この悲劇に別のニュアンスを与えているように思う。
実はバスク人と日本人と関わりは深い。カトリック・イエズス会の創立者イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルもバスク人である。
サビエルは、1506年バスク地方のサビエル城に生まれたが、彼の父は、ナバラ王国の総理大臣でしあった。
ただし、彼が生まれた頃には、すでに彼の父親は60歳を越えている。
ザビエルは家庭の恵まれた財産のおかげでパリ大学で哲学を学んでいる。
卒業後サビエルは仲間とともにイエズス会を結成し、そこのポルトガル人の状況を改善するためにインドのゴアへ行った。
その後マラッカで日本人のヤジロウに会い、一年間ゴアに帰って教育した後、日本へ上陸したのである。
ところでザビエルの出身地・バスク地方に近いアンダルシア地方に、日本人が住み着いた痕跡がある。
ここには「ハポン」を姓とする一群の人々が住んでいるからである。
「ハポン」姓の人々は日本のサムライの子孫といわれている。
この人々は1618年に派遣された支倉常長率いる「慶長遣欧使節」と関係が深い。
1618年、伊達政宗は宣教師のソテロとともに支倉常長をローマに送ることを命じた。
一行は仙台領の月の浦(宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡る。
この大航海の目的はメキシコとの通商と宣教師の派遣をスペイン国王とローマ教皇に要請することであった。
彼らがスペインで約一ヶ月を過ごしたセヴィリアは、マゼランが世界周航へと出港した港町でスペイン第4の都市だけあって、町並みはとても華やかで活気があった。
一行26人(資料によって異なる)のうち6~9人はどうやら最初に上陸したコリア・デル・リオに留まり、そのまま永住したらしい。
それが信仰心によるものか、別の理由によるものかは判らない。
ともあれ、この人々の子孫が「ハポン姓」を名乗るスペイン人となるのである。
さらにマドリッドではスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜り、ここで支倉常長は洗礼を受けバルセロナに滞在後ローマへと向かっている。
彼らはローマで熱狂的な歓迎を受け、教皇パウロ5世に謁見し、伊達政宗の手紙を渡している。
しかし彼らがようやく帰国した1620年は、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていた。
日本ではしだいにキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が教皇のもとに届いており、交易を約する返書をすら得られず7年後に帰国している。
仙台市、広瀬川の橋のたもとには、殉教者の石碑が建っており、東北キリシタン弾圧の凄まじさを物語っている。
しかしキリシタンとなった彼らの多くは「招かれざる帰還者」であり、仙台藩にとっても、厄介者になっていく。
帰国した支倉らは、以後身を潜めて生きなければならなくなった。仙台に帰った支倉は、「運命に裏切られた」者として、以後自分の生をどうマトメたらいいのか、思い悩んだにちがいない。
数年前、そうしたハポン姓の人々がテレビにでているのを見た。
支倉常長の帰還後の半生は、「オレの人生は一体何だったのか」と自問を繰り返す日々ではなかったかと思うのだが、「ハポン」姓の人々は、絵画に残された支倉の孤独で沈鬱な表情とはまったく裏腹に、底抜けに人生を楽しんでいるかのように見えた。

或る人々がなぜそこに住んでいるのか。
しばしば起きることは、時の権力者の恣意的な命令によるものもある。
「小」は、徳川家康命令による佃島(つくだじま)島民の移住から、「大」は、アレクサンダー命令による「集団結婚」によるペルシア移住まである。
東京に「佃島」という場所があるが、佃島は瀬戸内海広島にある島の名によるものである。
徳川家康がたまたま献上された「佃煮」が大変気に入ったために、佃島の人々を江戸湾内の現在地に住まわせたことから、東京都江東区の佃島が生まれたのである。
また、栃木県の鹿沼(かぬま)は木工の町として知られるが、この町が木工の町となった理由は、日光東照宮の建設のために多くの職人をこの地域に集めたためである。
最近NHKでみた「イッピン」という番組によれば、鹿沼で作られたタガのない風呂桶が銀座で売れているという。
厳密に言うと、タガが薄い桶板の中に埋め込まれているのである。
それを現実のものとする超絶の職人技は、日光東照宮に見られる精巧な木工技術を引き継いだものであろう。
しかし人が集団でどこかに移り住む理由は、こうした平和的な移住ばかりではない。
戦争や拉致、亡命といった悲劇が見知らぬ地にコミュニティをつくるし、そういうケースがはるかに多い。
最近のウクライナ問題との関連でいえば、1930年代に、スターリン指導による社会主義化が進められ、クリミア・タタール人を含む、非スラブ系民族の中央アジアへの強制集団移住が思い浮かぶ。
ところで、古代マケドニアの王国の英雄王・アレキサンダー大王ほど戦いに明け暮れた人はいない。
アレキサンダーはギリシア人だが、何を思ったのか東方遠征の過程で民族融合をはかった。
13歳から古代ギリシャ最大の哲学者アリストテレスを家庭教師とした。
父親の死により19歳で即位し、2年後の334年から東方遠征に乗り出し、中央アジア・インド北西部に至る空前の大帝国を実現した。
そしてアレキサンダーの「東方遠征」の歴史的な意義はとてつもなく大きい。
例えばギリシア人の影響で仏教徒が「仏像」を作り始め(ガンダーラ美術)、それが日本の飛鳥文化に影響を与えている。
東方に発展したギリシャ文化はヘレニズム文化とよばれ、東西の文物交流により、人種や文化の「一体化」がすすめられた。
それは、紀元前324年ペルシア帝国の旧都スーサにおける集団結婚式に典型的にみられる。
具体的には民族融合を考え、ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との集団結婚をさせたのだ。
約1万人に及ぶ兵士たちにはアジア人女性との結婚を認めてお祝い金を与えた。
この時、大王自身もペルシア・アケメネス王家の2人娘と同時に結婚し、約80人の側近たちにはペルシア人・メディア人貴婦人の女性を与えた。
広大な帝国を治めるためにもペルシア人をどんどん登用し、その影響かアレキサンダー自身がペルシアに傾倒していく。
このようなギリシア系とイラン系(ペルシア)との融合策は、アレクサンダーの後継者・プトレマイオス王家のエジプトに生まれたクレオパトラの美貌も作り出したのである。
タイには山岳民族あるいは高地民、山地民と呼ばれる少数民族が北部山間部を中心に住んでいる。
カレン、リス、ラフ、アカ、ヤオ、モンなど大別して10種の民族が現在では約100万人といわれている。
もともとタイの住民ではない後住民族がほとんどで、この100年間に山伝いに、あるいは川を越えて、政治的、経済的な事情により、ミャンマー、ラオスから入ってきた人々である。
それぞれに民族の不幸を背負ってこの地にやってきたのであろうが、興味深いのはそれぞれ独自の伝統文化・言語を持ち、特にその民族衣装はそれぞれに特徴があり、意外に華やかであることだ。
しかし、中にはアヘンの原料であるケシを栽培して生計を立ててきた人々もいたがが、現在ではケシの栽培も、森林伐採と山焼きによる耕作地の開拓も禁止されている。
多くは、不安定な収入で、貧しい家庭も多く国籍を持たない人が3割をしめ、タイ語が不自由な人も多いため、かろうじて生計を立てている感じである。
まだ村に学校のないところもあり、小さい頃から親元を離れ、民族の伝統文化を受け継ぐ機会を持たない子供たちや、ふもとで仕事を転々として、自分を見失う若者も増え、山岳民族としてのこれからの生き方が問われる。
そんなタイ北部の山岳少数民族で「村の救世主」としてあがめられている日本人がいる。
チェンライの山の中にあるルアムジャイ村を変えた和歌山県で農業法人に勤める大浦靖生氏である。
今から10数年前、青年海外協力隊でタイ北部の山岳地帯の貧しい村を訪れた大浦氏は、現地の村人が3度の食事もろくにとれずに、若い働き手は村の外に出て出稼ぎに行かなくてはいけないことを知った。
ところがある日、村に梅の木があるのを発見した。
村では日本と違い梅を食べる習慣がなく、梅の実はそのまま放置しているだけであった。
大浦氏は、自分が日本から持って行った梅干しを村人に食べさせて、それを作ることを激しく勧めた。
初めて食べた梅干し、村人はしょっぱさと酸っぱさに驚く。
こんなものを作ってお金になるナド全く信じなかった。
それでも大浦氏は一生懸命村人を説き伏せ、「梅干し」の作り方を一生懸命教えた。
そして青年海外協力隊の期限がきて、大浦氏は日本に帰国した。
村には電話もなく、大浦氏は村がその後どうなったか、全く知るら便(よすが)さえなかった。
ところが、村で作った「梅干し」は、タイの首都バンコクなどのスーパーで日本人向けの商品の梅干しの中で、1番人気の商品にまでなっていた。
梅干しを作った収入で、貧しい村の建物の屋根は茅葺きから瓦葺きになり、テレビやバイクやパソコンまで買えるほどに、村の暮らしは豊かになっていたのである。
最近、民放テレビ局の尽力で、ルアムジャイ村の村長と梅干作りのリーダーが和歌山にやってきて、大浦氏と感動の再開を果たしている。
1人の青年が落とした「種」がこんなにも大きくなっていようとは。
それは、様々な事情で未知の地に移り住んだ「一粒の群れ」にもいえることである。