アスリート名産地

スポ-ツの感動は、アスリ-ト達とそこに住む人々の思いが一体となって生まれるものがある。
昨年の東北楽天イーグルスの日本シリーズ優勝のシーンにそんなことを思った。
しかし東北の地にはソレ以上に鮮烈な記憶を留めたチームがあった。
ラグビーの日本選手権で1979年から85年まで7連覇を達成した「新日鉄釜石チ-ム」である。
新日鉄釜石は「圧倒的な強さ」を示し、学生チャンピオン・チームを問題にしなかった。
「全日本選手権」で対戦した学生チ-ムの監督が言っていた言葉を思い出す。
「我々にはかなわない。あの人たち(釜石チーム)は、生活のすべてがラグビ-と一つになっている」と。
新日鉄釜石チ-ムの闘志を支えていたのは「鉄冷え」といわれた町に住む人々の思いだったのかもしれない。
人々の思いが「鬼神」となり乗り移っていたかのような強さだった。
新日鉄釜石のラグビー・グランドは、地元の人にとっては心の「聖地」でありつづけるだろう。
我が地元福岡では毎年、福岡国際マラソンが開催される。
かつては金印の島・志賀島まで走っていたが今では都市型のコースに変わった。
数々の「名勝負」は生み、このマラソンから世に出たたくさんの名選手を生んだ。
博多駅前の広場に、福岡国際マラソンの歴代の全優勝者の実際の「足跡」がつけられている。
残念なのは、バス停群の近くで通勤客が多く、人々がその「足跡」に気がつかないことである。
さて、福岡にもう一つのスポ-ツの名地を探すとするならば、柳川もそのヒトツであろう。
それは、テニスの名門・柳川高校が幾多の名選手を輩出したからバカリではない。
柳川には「テニスに青春」をかけたあるカップルの思いがツマッタ地でもあったからだ。
柳河城は蒲池鑑盛によって本格的な城として作られ後、立花氏12代の居城として明治まで続いた。
立花氏家老の小野家は明治以降に有力な財界人を生み出し、ジョンレノンの妻オノヨ-コもこの小野家出身である。
1872年、正月18日火を発し慶長以来の威容を誇った「天守閣」も一夜にして「焼失」してしまった。
そしてこの「城址」にこそテニスの名門・柳川高校のテニスコ-トが設営されているのである。
柳川高校の「創立者」である大沢三入氏が立花家15代当主の鑑徳に協力を依頼し、1943年5月柳川高校の前身となった「対月館」が設立された。
その時、立花氏当主は名誉会長となり対月館と米蔵が校舎として使われ、2年後柳川本城町の現在地に移転し柳川高校となった。
対月館は解体され新校舎に使われ、当主が作ったテニスコ-トの基礎である「グリ石」も校舎建設のために使われた。
なお対月館の名前は、「御花邸」の中に残っている。
ところで立花藩・4代目鑑虎の時、四方堀を巡らした花畠の地に「集景亭」と言う邸を構えて、遊息の所としたが、その地名から柳川の人々は立花家のことを「御花(おはな)」と呼び親しんできた。
ここを料亭旅館「御花」としたのが16代当主の立花和雄氏の妻・立花文子さんである。
「御花」は1950年、夫である和雄氏(1994年死去)と二人三脚で始めた料亭で、終戦直後多額の「財産税」を課せられ苦境に陥った立花家の生き残り策でもあった。
立花の「お姫様」から人に仕える女将への「転身」には、「何もそこまで」と涙する士族出身の人々が少なからずいた。
実はこの文子さんには意外な過去があった。
学生時代はテニスの全日本チャンピオンでもあったのだ。
文子さんは立花家15代当主・鑑徳の二女で活動的な父の影響で、女子学習院時代には スキー、水泳が得意なモダンガールで、学習院高等科のころはテニスのダブルスで「全日本女子の王座」についたのである。
文子さんの夫で16代当主で「御花」社長も務めた和雄氏は、海軍元帥・島村速雄の次男で学生時代よりテニスを愛好し、国内のスタープレイヤーとの交流もあったという。
和雄氏は、女子テニスチャンピオンの名前「立花文子」の名前を、マサカ将来見合いして結婚する相手になろうとは思いもせずシッカリと覚えていたという。
立花和雄氏と文子さんとの間に「テニスコ-トの恋」が芽生えたかどうか定かでないが、お姫様(文子さん)とその夫・和雄氏が居した柳川は、城址に練習コートを設営した柳川高校によって「テニスの柳川」として世に知られていく。

様々な土地には、アスリートの思いと汗が沁みこんでいる。
ヒトツの土地から名選手が出るというのは、いくらかは合理的に説明することができる。
例えばフィギュアスケートならば愛知県が有名だが、この地に名門の育成スクールがあり名コーチがいるからだといえる。
しかしフィギュアスケートのような「競技人口が少ない」場合にはそれがいえるが、野球のような競技人口が多い競技で突出して「名選手」を数多く生んでいる地があるのは不思議である。
その土地は、大阪の約30キロほど西方に位置する尼崎という町である。
この町に生まれ育ったプロ野球選手の名をあげると次のとうりである。
「村山実(阪神)・江夏豊(阪神)・福本豊(阪急)・ 羽田耕一(近鉄)・伊良部秀輝(ロッテ)・ 松本匡史(巨人)・池山隆寛(ヤクルト)」らである。
「綺羅星」のごとく並ぶとは、このことを指すのだろう。
1960年代には尼崎産業高出身のミスタータイガース・村山実がいた。
原っぱで布製グラブとボールで三角ベースに熱中した下坂部小時代から住友工、そして阪神タイガースに入団し、読売ジャイアンツへの対抗心をむき出してして、長島茂雄とは数々の名勝負を演じた。
その村山を継いでエースとなった江夏豊は、尼崎ブルーカラーの街ならではの「ハングリー精神」を体現したような存在だった。
江夏によれば母子家庭であったために、少年時代より新聞配達、八百屋、自転車宅配などをして家計を支えたという。
母親の苦労は知っていたから、せめて借家住まいから家の一軒でも建てることができたらいいという思いからだったという。
尼崎でこれほどの名選手が育つのは、甲子園球場が近いということから「野球」に対する情熱が高く、「育成システム」が充実してい名門高校や大学へのルートが確立しているからなのかもしれない。
それにしても尼崎は「少年野球チーム」などなかった時代に名選手を数多く輩出したわけだから、それだけでは説明しきれない。
甲子園が近くに存するということは、野球という夢が身近にあり、人生をソコニ賭けられたということか。
つまり「アマガサキ・ドリーム」というものがあったのかもしれない。
さて、個人的な高校野球テレビ観戦史の中で1983年(昭和58年)「第65回全国高校野球選手権大会/3回戦久留米商業高校-市立尼崎高校」がとても強く記憶に残っている。
それは市立尼崎高校に池山隆寛という「大砲」がいたからではない。
池山はそれほど評判の打者ではなく、福岡県代表の久留米商業に山田武史という「大会屈指の好投手」がいたからだ。
ところが試合開始より、市立尼崎高校のサウスポーの宮永投手の「巧投」が光っていた。
この試合の結果は次のとうりである。
市 尼 崎 (兵 庫) 2 0 0 1 0 0 1 0 0 | 4
久留米商 (福 岡) 0 0 0 0 0 0 0 3 2 | 5
試合は8回表までは完全な市尼ペースであった。8、9回の久商の攻撃で打ち取った当りがポテンヒットになってマトモナ安打はあまり出なかったような記憶がある。
エースの山田武史を擁する久留米商業は、この3回戦にサヨナラで勝利し「ベスト4」に進出した。
山田は高校卒業後、本田技研熊本を経て1986年ドラフト外で巨人入団した。
1990年6月、金銭トレードにてダイエーに移籍したが、社会人時代に肩を壊しており、ダイエー移籍後も右ひざを故障するなど、故障に悩まされてプロではあまり活躍できなかった。
1991年に現役引退し、引退後、不動産会社勤務、ゴルフショップ経営などを行い、現在は健康食品の販売などトータルライフコーディネーターをしているという。
池山の方は、ホームランよりも豪快な三振に魅力があった。
プロでは「ブンブン丸」という愛称で呼ばれた池山隆寛は、中学時代その長打力から私立高校からの誘いがあったが、地元の市立尼崎高校を甲子園に出サセタイ思いから進学を決定したという。
そして本当に、市立尼崎高校は甲子園に出場する。
ヤクルトからドラフト2位で入団し、1988年から5年連続で「30本塁打」、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成している。
プロ野球を引退した後、あるテレビ番組で試合中につけていたノートが紹介されたが、丁寧な文字でギッシリと毎試合の記録や反省点が書き込まれているのは意外だった。
プレイの思い切りの良さとは対照的に、とても几帳面で細かい一面を見た思いがした。
引退後はヤクルトの一軍・二軍の打撃コーチをつとめたが、2012年から2015年まで駿河台大学の客員教授をツトメている。

フィギュアスケートで、個人では優れた選手が男女ともに優れた選手がでるのに、「ペア」で世界で戦える選手がイマダ出ない。
というよりも日本の歴史の中に「ペア」の遺伝子が存在しなかったといった方がよいかもしれない。
明治のいわゆる鹿鳴館時代に、「華」とも称された日本人女性達がいた。
夜ごと、西洋の男性を相手にダンスに励んだというのだから、よほど「西洋風」がイタについていなければ、できない「芸当」であったであろう。
「付け焼刃」では無理なことだけは確かである。
歴史家が彼女らを評価するのを聞いたタメシがないが、個人的には、彼女等の「豪胆さ」は明治の元勲に匹敵する、とサエ思う。
鹿鳴館を彩ったこうした女性達の中には海外留学の経験があり、アメリカの大学で学んだ者達もいた。
しかし、鹿鳴館世界に日本人女性が参加するのが至難なのは、日本人には「ペア」の伝統がないということもあろうか。
「シャル・ウイ・ダンス」という映画では、一人のサラリーマンが、「あの世界」に入っていく姿が描かれていたが、それは「ペア」というものにマッタク馴染んでいない男のオノノキとコーコツが描かれたものであった。
ところで「ペア」というのは「対」(つい)のことだが、「同ぞくでありつつも異なる機能・作用をもつ」がゆえに「対」となる。
しかし日本の伝統文化に、ペアによる舞踏とか、ペアによる社交とか、ペアによる遊技とかいうものを、なかなか思いつかない。
ヨーロッパでは、中世の頃から、農民の素朴な踊りも、漁村の野卑な踊りも、貴族の踊りも、皆ペアではじまった。
確か、ブリューゲルという画家が、ペアで踊る農民を描いたモノがあったかと思う。
しかし、日本の江戸の町人にせよ、京の公家にせよ、ペアでやる踊りなどツイゾ存在しなかった。
この「ペア」の思考が、ギリシア芸術に顕著にみられるデザインたる「シンメトリー」と、どのくらい関係あるかどうかしらない。
が、「シンメトリー」には、左右対称で描かれた「ペア」の意匠を明確に見てトルことができる。
しかしもっともっと本質的なことは、日本で「夫婦」や「男女」が果たして「ペア」として認識されていたかということである。
それは欧米諸国では、皇帝とよばれた世襲君主には「男子に限る」という枠がツイゾ設けられなかったことと無関係ではないかもしれない。
そして、オーストリアのマリア・テレジア、イギリスのエリザベス一世、ロシアのエカチェリーナ女帝の存在をみればわかるとうり、彼らは「男性君主」を凌ぐ存在であった。
オランダのある政治家が「この世の中が、男性と女性という異なる特性からなっているならば、政治外交の分野でも、ふたつのものの見方は生かさなければならぬ」といもいっている。
つまり「男と女」に優劣はなく、互いに補完しあって存在するという認識が見られる。
またキリスト教の見方では、その「相互補完」を徹底させて両者を合わせて「一体」という男女観・結婚観でサエある。
現代においてもアメリカでは、大組織のトップにでもなれば、夫婦そろってペアで社交に励むのが常識である。
SONY元会長の盛田氏が書いた「Made in Japan」に、その辺のことが書いてあった。
日本人の夫人の場合は、たとえ社長夫人であろうと「国内」にいる限り、そこまでオモテに出る必要はないのだ。
逆に出過ぎると嫌われる感じもする。つまり夫人はあくまで「奥さん」「家内」なのである。
そういう伝統文化で育ってきた日本の女性が、突然にしてあの「鹿鳴館の華」になりえたのは余程のことか、贔屓目に見た表現ではなかったかと思う。
ところで、日本でそうした「ペア」の思考がついに生まれなかったのは、「儒教」の影響が大であったことは否定できない。
儒教は江戸時代以来、「男尊女卑」の傾向を生んだので、夫婦も「横関係」のペアであることは許されなかったし、それどころか男女七歳にして席を同じうせずという意識さえ社会に浸透していたのだから、あらゆる面で「男女の」ペアという思考さえ育たなかったのもイタシカタない。
ところで、昨年夏に長崎ハウステンボスに「花火大会」を見に行った時、「ひとつの石碑」が目についた。
長崎でフォークダンスを指導した一人のウインフィールド・P・ニブロというアメリカ人の「記念碑」だった。
ニブロは、コロラド州デンバー出身で高校教師を経て、第二次世界大戦後に連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育官として来日した。
1946年6月~1948年10月、長崎軍政府教育官としてソレマデ「男女別学」であった旧制中学校・高等女学校を「高等学校」に改組する過程で、「男女共学化」を強く推進した人物である。
赴任中には長崎県長崎市と佐世保市内の公立の旧制中学校と高等女学校をそれぞれ全く「再編」させ、長崎西高校・長崎東高校・佐世保北高校・佐世保南高校の各公立高等学校を「共学」で発足させた。
また、長崎赴任中の1946年秋、県幹部との会食中の余興をきっかけとして現地に「フォークダンス」(厳密には米国発祥のスクウェアダンス)を伝え、「日本のフォークダンスの父」とも称される。
男女が手を取って一緒に踊るフォークダンスの普及を通じて、「民主主義教育」と「男女平等の理念」を広めることをネライとしたものであったとされる。
というわけで長崎県佐世保市のハウステンボスでは、毎年4月にニブロの名を冠した「ウインフィールド・P・ニブロ記念 佐世保・ハウステンボス フォークダンスフェスティバル」が開かれている。
またフォークダンス同様に、ソフトボールは佐世保で始まっている。
それはニブロが長崎県下各地でソフトボール(スローピッチ)を教え普及に務めたことによるものである。
ニブロは、県内一円を回って熱心にソフトボールを指導した。
ニブロが長崎佐世保に蒔いた「ソフトボール」の種子は次第に日本各地に広がっていく。
ニブロは1951年に帰米し、2007年3月8日、デンバーの自宅で死去(94歳)している。
「日本のフォークダンスの父」ウインフィールド・P・ニブロこそは、日本に「ペアの思想」を植えつけた功労者かもしれない。