博多大正ロマン

わりと最近のことだが、めもとぱっちりの美人画を描いた岡山出身の竹久夢二が八幡製鉄に勤め、北九州の枝光に住んでいたことを知り、JRに乗って枝光まで行ってみた。
駅から出てスペースワールドの裏側には、竹久夢二通りがあり、その道沿いに10点あまりの竹久作品のレリーフが埋め込まれた一角があった。
そして山王の三叉路近くの病院あたりに「竹久夢二旧宅」の石碑があり、その近所の諏訪第一公園に竹久夢二の歌碑があった。
竹久は、絵心ばかりではなく詩心もある人だったようだ。
竹久の生涯を調べると意外と福岡との接点が多い。
まずは竹久の生まれ故郷である岡山県邑久郡であるが、この地は一遍上人の絵巻で有名な「福岡の市」で知られ、黒田氏が博多に転封となった際に、この岡山の地名から「福岡」の地名をとっている。
さて竹久夢二は、1900年2月、岡山から北九州の枝光に転居し、創業時の八幡製鐵所で「図工」として働いていた。
竹久はわずか1年あまりで単身上京するが、家族はその後もなお1924年(大正13年)頃までこの地に住んでいたという。
竹久は上京し早稲田実業で学ぶが、生活のために画を提供した絵葉書店で出会ったのが最初の妻たまきである。実は夢二式美人画の原点は色白、めもとぱっちりの「たまき」なのである。
竹久は、はじめは油絵を志したが、そのうち生活のために描いた「美人画絵葉書」が売れて大正ロマンを代表する芸術家となった。
東京では渋谷で暮らしていたが、福岡と再び接点をもつようになる。
明治の炭鉱王伊藤伝右衛門と柳原白蓮の「銅御殿」(あかがね御殿)が天神の福岡銀行あたりにあったが、白蓮の詩集の装丁を担当していた竹久夢二は、1918年(大正7)8月に天神町の「赤銅御殿」に白蓮を訪ねているのである。
竹久が福岡と接点が多いとなると、美人画を描く竹久が「博多人形」に関心をもたないはずはないと調べてみると、竹久が創作した童話の集大成「童話 春」(大正15年)の中に「博多人形」という作品が確かにあったのだ。
主人公のお磯は博多人形を牧場でなくしてしまい、夜に寂しくなった人形は鈴虫や蛙に助けを求めるが彼らは知らぬふりである。
朝になって草刈り人が見つけてくれ、お磯の手許に無事戻るという(博多人形ではなくてもいい)ファンタジーである。

数年前に柳川の北原白秋の実家を訪問した時に、北原白秋と竹夢二久になぜ「接点」がナカッタかを疑問に持ち、それを調べて本に書いた安達敏昭氏と遭った。
安達氏の話を立花藩別邸の松涛園で聞いて面白かったのは、繋がらない点を結びつけて真相が明かすのが「謎解き」の常道だが、安達氏の場合は繋がるはずの点がつながらナイことに問題を喚起されたことである。
実際に竹久と北原には驚くほど共通点がある。
竹久は1884年(明治17)に岡山で生まれ、北原は翌年福岡県柳川に生まれている。
ともに造り酒屋に生まれ、家出して上京し早稲田に学び、ともに中退している。
また恋愛においても北原は姦通罪により告訴され未決監に拘置された体験があり、竹久は刃物を突きつけられるほどのシリアスな体験をしている。
北原の実家は1901年(明治34)の大火によって酒倉が全焼し破産し、竹久の廻船問屋も破産している。
竹久は実家の破産後、神戸で1年に充たない中学生活を送り、北九州の枝光へと移り八幡製鉄所の下働きをしたというわけである。
また竹久が異国の文化に興味をもち九州旅行を敢行したのも、北原白秋が長崎を訪れキリスト教文化にふれ、自らの処女詩集を「邪宗門」と名づけたのも似通っている。
そして何よりも二人は大正ロマンを飾るトップランナーであったのだ。
ジャンルは違うが芸術的な感性がきわめて似通った二人には、互いの感性を磨き高めあう共通の場があってもよさそうなものである。
しかも、ある雑誌の対談で竹久は、好きな詩は何かと聞かれ、北原白秋と答えている。
竹久自らも「詩人になりたかった」といい、竹久の作品は絵で描いた詩であったともいえる。
安達氏は、芸術上の兄弟にも思える二人がはどこまでも交わらないのは、二人が避けあわなければならない事情でもあるのかと思ったそうだ。
そして安達氏が竹久の九州行きを調査するうちにアット驚く新聞記事に出会ったという。
1919年(大正8)8月19日付けの「東京日々新聞」に「竹久夢二等、訴えられる北原白秋等より」の見出しで、「作詞家北原白秋と作曲家中山晋平らが、画家竹久夢二と岸他丑を著作権侵害で訴えた」という記事を見つけたのである。
竹久の元妻たまきの兄・岸他丑が絵葉書店を営んでおり、絵葉書を作成した際にその中に北原が作詞、中山が作曲したものを無断で採録印刷し発表したというのである。
北原はそれが著作権侵害にあたるとして、竹久らを提訴したのであった。
そして北原家と竹久家の間をとりもったのが、同じく早稲田で学んだ野口雨情である。
北原白秋、西条八十とともに童謡界の三代詩人といわれた野口の歌碑がJR二日市駅前に立っている。

竹久夢二と北原白秋に共通点があるように、大正期の博多人形師の中で「名人」とよばれた小島与一と竹久にも似たところがあるように思う。
竹久が絵で詩を書いたように、小島は人形をもって詩を書いたとも思えるくらいの人形を造る人だったからである。
さてビンセント・ヴァン・ゴッホといえば、日本の「浮世絵」作家からその手法を学んだことで知られる。
ゴッホは日本のペリー来航の年1853年にオランダのブラバント州ズンデルトに生まれている。
ゴッホが南フランスのアルルへいったのは、浮世絵の国・日本のイメージを求めてのことであったという。
そしてゴッホはタヒチに旅立つ前のゴーギャンとアルルにおいて共同生活をしている。
しかし二人は、何かにつけて諍いをおこして最後には自分の耳を切ったりもしている。
ゴッホは1890年7月29日、銃を自らの胸に向けて発射し弟子に看取られて37歳にして亡くなった。
それではなぜ日本の浮世絵がゴッホの手にはいったのだろうか。
1867年と1878年のパリ万国博覧会に日本も公式に参加し、そこで欧州の人々は日本の美術工芸品の見事さに目を奪われたのである。
世紀末の退廃ムード漂うこの時代、欧米の芸術家たちは、優秀な日本の文化を吸収し消化することに「活路」を見出そうとした。
そして浮世絵を中心とした日本ブームがおき、葛飾北斎の版画はフランス印象派の画家や彫刻家達に大きな影響を与えたのである。
それから半世紀後の1925年(大正14)開催のパリ万国装飾美術博覧会に博多人形師・小島与一の「三人舞妓」が出品され「銀牌」をうけたのである。
この作品は、ヨーロッパですでに浸透していたジャポニズムを再び呼び起こしたにちがいない。
さて博多人形の制作は、福岡市築城の際に黒田父子とともに岡山(播州)より移り住んだ瓦職人にルーツがある。
現在の福岡市祗園町はかつて多くの瓦職人が住んだために瓦町とよばれていた。こうした瓦師に弟子入りした陶工・安兵衛の息子吉兵衛が彫塑の技術を学び、その子の吉三郎とともに現在の博多人形の基礎を築いたといわれている。
そして明治後期から大正にかけて多くの優秀な博多人形師を育てたのが白水六三郎である。
白水は人一倍研究熱心で博多人形制作のための人体研究の必要性から九大医学部の解剖実験にたちあった。
白水が「解剖学」を学んだことはゴッホやダビンチと共通しているのも面白い。
白水らの努力によってそれまで土俗的なイメージでしかなかった博多人形が洗練された近代性をもつようになったといわれている。
福岡市東公園の日蓮像の台座には、「白水松月」の文字がみえるが、この白水松月こそ博多人形の近代性を追求した白水六三郎である。
小島与一は15歳の時、この白水六三郎に入門している。
1890年(明治23)に東京で開かれた「内国勧業博覧会」で、博多人形の素朴で繊細な美しさが全国に知られるようになった。
そして今、博多山笠の飾り山を製作する博多人形師達のほとんどが小島与一の弟子にあたる人形師達なのである。
小島与一の前の奥さんとは、大阪の博覧会に舞妓の人形を出品するために、当時13歳だったひろ子さんをモデルにして人形をつくったのがキッカケであった。
小島はひろ子さんに夢中になってせっせと茶屋通いをするが、身請けのお金がたまらずとうとう東京へ駆け落ちとなる。
ひろ子さんは若くして病死されたが、小島は京都にいくと必ずひろ子さんの墓参りをしたという。
次の奥さんも18歳で小島の妻となった千代子さんでかなり年の差があった。
しかし千代子さんも、小島の人間性に惚れ込んでついていったといわれている。
小島与一の制作した「三人舞妓」の像を中洲の「福博であい橋」のたもとに見ることができる。
千代子夫人が小島与一二十五回忌に建て福岡市に贈ったものである。
この「三人舞妓」は、博多人形の世界にも大正ロマンが息づいていることを感じさせてくれる。

博多では、「押絵」というものが行われていた。
花鳥人物などの形に厚紙を切って美しい布を張り、その間に綿を入れて高低をつくり、物をはりつけた絵をいう。
博多では、士族の娘や、中流以上の町人の娘達は、きまったように手仕事としてならった。
しかし押絵を櫛田神社の絵馬堂に奉納したのは昔のことで、いまではすたれてしまった。
この「押絵」を世に知らしめる作品を書いたのが夢野久作である。
夢野は江戸川乱歩と同じく、その幻想的な耽美的世界によって大正ロマンの代表者の1人といえる。
夢野久作は本名・杉山泰道で、1889年(明治22)杉山茂丸の長男として福岡市住吉に生まれた。
杉山茂丸は、政界の裏面で、台湾統治・満鉄創設・日露戦争などで暗躍した玄洋社出身の人物である。
久作は、父が政治運動に東奔西走したので、祖父に謡曲、能、四書五経を学び、上達がはやく「神童」といわれた。
中学修猷館に入学した頃より「文学で立つ」ことを志していたが、それは父親の喜ぶところではなかった。
慶応義塾大学文科に入ったが、父親は学業廃止を厳命し大学退学後2年間の放浪生活を送った。
その後、東京下町の貧民窟にもぐりこんだり、26歳になって東京本郷の喜福寺で剃髪し、法名を泰道と名乗り、大和寺を托鉢して歩いたこともある。
異母弟が死去したため、杉山家を継ぐことになり、法名のまま還俗して杉山家所有の香椎農園に戻っている。
その後、喜多流謡曲の教授となったり、九州日報の記者を勤めるなどしながら小説を書き、1929年「押絵の奇跡」により作家的地位を不動のものにした。
さてこの物語は、主人公・井の口トシ子の1人称独白体で進行する。
東京丸の内の音楽会で、ピアニスト・井の口トシ子は演奏中に喀血して入院する。 その演奏会には、歌舞伎役者の中村半次郎が来ていた。
トシ子の母親は、かつて半次郎の父親・中村半太夫をモデルに押絵を作って評判をとったことがあった。
だが生まれてきたトシ子が押絵の半太夫そっくりだといううわさが広がり、逆上した父は母を斬殺、自害して果てた。
久作の世界では、この凄惨な場面が美しい映像のように描かれている。
「その時お父様は、右手に刀をさげておいでになったはずでしたけれども、その刀はお父様の陰になって、私の目にははいりませんでした。ただ、お母様の後ろの壁に、赤い花びらのような滴りが、五ツ六ツ、パラパラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりませんでした。 そのうちお母様の白い襟すじから、赤いものがズ-ウと流れ出しました。と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へはい広がっていきました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の所が三角に切り離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網につつまれたような白いまん丸いお乳の片っ方がみえましたけれども、お母様は、うつむいたままチャンと両手を膝の上に重ねて座っておいでになりました」(押絵の奇跡/角川文庫)
確かに卓越した表現力と独自の幻想世界ですね。
さて夢野は、主人公・トシ子の口を借りてトシコの生家の風景つまり中州の風景を語らせている。
「私の生家は、福岡市の真ん中を流れて、博多湾にそそいでおります、那珂川の口の三角州の上にありました。
その三角州は東中州と申しまして、博多織で名高い博多の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋がかかっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋の袂の飢人地蔵様という名高いお地蔵の横に在りますのが私の生家でございました」。
この記述に基づいて、中洲に「飢人地蔵」をさがしてみると、キャナルシテイの遊歩道が中洲に繋がるあたりの那珂川沿いに、確かにこの「飢人地蔵」があるのを確認できた。

近年、竹久夢二の違った側面に光が当てられるようになってきている。
竹久の作品は、大正デモクラシーから国家主義へと傾いて行く時代に発表されたものである。
竹久はその私的な女性遍歴ゆえに惰弱とか軟弱とも揶揄されることが多かった。
そして、それは竹久の歌を編曲したこともある福岡県大川出身の古賀政雄にもよくあてはまることであった。
世の中に軍靴の響きが増している時代に、「酒は涙かため息か」(昭和6年)ナンテ曲を作ること自体、ソレナリの覚悟が必要ではなかっただろうか。
ところで竹久は、人間関係がもつれたり絵の題材に行き詰まったりするとしばし東京を離れて旅にでることが多かった。
近年、ある映画人が竹久を題材にドキュメンタリー映画を作ろうとしたところ、ある一人の老人が竹久のあるエピソードを語った。
その老人は、べルリンのプロテスタント教会の日本人牧師で、竹久が10カ月ほどヨーロッパに滞在した時期に出合ったという。
第二次世界大戦中に500人あまりの日本人がヒットラー政権下ドイツ・ベルリンに住んでいたのであるが、その中には「反ナチ運動」に関わってユダヤ人救出に手を貸す一握りの人々がいたという。
竹久がそういう人々の連絡役をしていたというのだ。
実際のところ竹久がユダヤ人とか「反ナチ」にどれほど関わったかはまったく不明であるが、さすらいの民ユダヤ人に、故郷を失った竹久が親近感を覚えたとしても不思議ではない。
しかし竹久がベルリンで飛び込みでユダヤ人の連絡をかってでたというのはありそうもない。
しかも日独同盟を背景にして、ヨーロッパ各地のユダヤ人を救う組織と関わる仕事というのは、リスクを伴う仕事である。
ベルリン行きの前に、日本で必ずや何らかのコネがあったに違いない。
妹尾河童の「少年H」の中に、明治以来神戸に住んで活躍するユダヤ人が少なからずいてコミュニティがあったことが書いてある。
またヨーロッパから満州や上海そして日本経由でアメリカに逃れようとしたユダヤ人達は神戸を経由していたのである。
竹久の実家は、岡山の廻船問屋(酒造)であったことを思い出していただきたい。
また竹久は神戸で中学時代を送っているが、一家との間にユダヤ人との繋がりは生まれなかっただろうか。
後に本の装丁や挿絵の仕事をするうち、ユダヤ人との関わりを持つことにはならなかったのか。
というわけで竹久が頻繁にヨーロッパを訪問した理由は他にあったのかもしれない。
竹久は生涯五十年の間をほとんど旅の連続で過ごしたが、こうなると松尾芭蕉の「忍者説」さえ思い浮かべさせる。
竹久ほどデラシネ(根無し草)という言葉が似合う男もいないと思っていたが、実はそこには我々の知らない別の「顔」があったのかもしれない。
これも大正のロマンのひとつである。