縦横の確執

中島みゆきの曲の中で、若者に最も歌い継がれている曲は何か。
その答えは「糸」という曲である。1998年放映のテレビドラマの主題歌である。
大ヒットしたわけでもないこの曲が長く歌われるのは、メロディー・ラインが歌いやすいこと、そしてなんといっても歌詞のよさであろう。
乱暴ながらその歌詞を文章化すると次のようになる。
「人はなぜめぐり逢うのか、いつめぐり逢うのかを知らない。迷ったり転んだりしたささくれに、こんな糸が何になるのと震えたこともあった。
それでも、縦糸のあなたと横糸のわたしとで織りなす布は いつか誰かを暖めうるかもしれないし、誰かの傷をかばうかもしれない。
そういう逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと呼ぶ」。
この中の「仕合わせ」とは国語の辞書によると、「運命の巡り合わせ」という意味で、この歌に陰影をつけているのは「ナゼ生きているのかを迷った日の跡のささくれ」「夢追いかけて走ってころんだ日の跡のささくれ」という歌詞の中の「ささくれ」という言葉のような気がする。
辞典によると、ささくれとは「指頭爪ぎわの皮がむけること」を意味する。
さて、縦か横かは糸ばかりではなく、書籍を縦書きにするか横書きにするのが読みやすいか、食べ物を縦切りにするのがよいか横切りにするのがオイシイかまで様々である。
ちなみに、専門家によれば「野菜を切る向きで繊維の長さが変わり、歯触りが変わることがある。また、細胞の壊れ方が大きければ中の成分が出やすくなり、味や臭い、色に違いが出ることもある」であるそうだ。
また、古代の印章(はんこ)は立てて先頭を押すのではなく、円柱の側面の模様を粘土板に横に転がしていた。
縦横の確執に関わるエピソードはまだまだたくさんありそうだ。

人類が布を織り始めた頃は手作業で糸を通しており、紀元前8000年には手織りの布があったものと見られ、初期の織機は編み物や籠作りの過程で誕生したものと推測される。
はたおり機にまず縦糸を張り、そして横糸を左右に運びながら手作業で行っていたが、産業革命の時代になると、水力や蒸気機関によって動く機織(しょっき)」が生まれた。
こうした「織機」では、経糸は横棒2本の間にピーンと張られ、その間に緯糸を通すためのシャトル(ひ)、経糸の間にシャトルが一気に通る隙間(杼口)を開けるための綜絖(そうこう)が仕組まれている。
さらに綜絖を固定するシャフト(綜絖枠)、シャフトを上下させ経糸を開口させる踏み板(ペダル)、経糸を横幅どおりに配置し通った横糸を打ち込むための、櫛の目が並んだような形態の筬(おさ)などが配置されている。
そして、ペダルを踏み、経糸を上下に分けて、その間を一気に緯糸が通ることができるよう開口する。
開口した経糸の間に、シャトルにつないだ横糸を入れて反対側へ届かせる。
通った緯糸を筬で手前へ打ち、経糸と緯糸を組み込む。
織機はこのような基本的な動作で、これを何度も繰り返して織物は完成する。
以上のように、経糸が1本おきに上下するのがもっとも単純なパターンであるが、斜文織や朱子織、その他複雑な模様を織るには、1本1本の経糸の上下をより細かくコントロールする必要がある。
さて中国の孔子は弟子から「経営とは何か」と問われ、「経は織物で言えば縦糸、営は横糸」と答えた。
布を織るとき、縦糸は動かずに通っている。創業時からブレないしっかりとした縦糸が存在する意義は大きい。
これが経営の「経」の字なら、自在に動く横糸は「営」の字であると孔子は言う。
縦糸がしっかり通っていて初めて横糸は自由奔放に動ける。
環境の変化が激しい時代には、スピードと柔軟性が大事であり、そのためには自由な発想や大胆な行動が求められる。
もしも不動の縦糸がなく、自由奔放に動く横糸だけを見ると、バブル期には本業そっちのけでマネーゲームに走ったり、理念なきベンチャー企業のようなものが跋扈することとなる。
さらに「機織」の技術からたとえると、変えては成らない「不変(不易)の縦糸」と変えなければならない「可変(流行)の横糸」があり、そのバランスが重要なことなのである。
また歌舞伎狂言も、それは「縦糸(たていと)」と「横糸」が、織り成す精巧な織物に例えられる。
ここで縦糸というのは、「歴史的な事実」つまり史実のことを指し、「横糸」というのは、狂言作者の空想になる味付け(ストーリー)ということになる。
そして歌舞伎狂言の出来・不出来や面白さいうのは、実にこの「横糸」の出来・不出来に掛かっていると言っても過言ではない。
誰もが知っている歴史上の事実(素材)はしっかり押さえておいて、「空想」を広げる部分は思いきり広げて面白いものに仕上げる。
これが狂言作者の力量で、我々が見ることのできる名作狂言といわれるものは、いずれもこの「縦糸」と「横糸」が見事に調和した世界を芝居の中で作りあげている。
その一例を挙げると、三大義太夫狂言の一つ「義経千本桜」である。
「縦糸」は次のような歴史的な事実展開である。平家の全盛栄華 → 木曽義仲の挙兵 → 清盛の死 → 頼朝挙兵 → 義仲敗死 → 義経の活躍(一の谷、屋島、壇ノ浦) → 平家滅亡 → 頼朝・義経の不和 → 義経の死 である。
この「縦糸」に登場する人物は、平清盛、木曽義仲、源頼朝、源義経などみんなよく知られた武将ばかりで、これダケでは芝居は堅苦しいだけ面白くもなんともない。
そこで3本の「横糸」が入る。1本目が狐が義経の家来の佐藤忠信に化けて出てくる「狐忠信(きつねただのぶ)」である。
そして2本目が壇ノ浦で死んだ筈の平知盛が実は生きていて、最後に碇を体に巻きつけたまま海に飛び込んで死ぬ「碇知盛(いかりとももり)」、3本目が大和の国のすし屋の権太という名前の不良息子「いがみの権太」である。
主人公は、「狐」であり、死んだ筈の「知盛」であり、チンピラの「権太」などであり、この3本の「横糸」が「縦糸」の中に、上手く織り込まれ、芝居を面白くしている。

先日テレビで「夢の扉」という番組で、根が縦に伸びる遺伝子を探し出した人の話があっていた。
国連の予測によると、2025年の時点で27億人が深刻な水不足とそれに伴う食料不足に直面するとされている。
将来の人口増加と水不足が懸念される中、国際水管理研究所は2025年までに干ばつ地域における作物生産を40パーセント以上増産することが必要であると訴えている。
イネの場合、天水田など世界中で干ばつの恐れのある水田面積は、日本の作付面積およそ14倍にもなるという。
これらの地域では、干ばつによる収穫量の激減が大きな問題であり、米の安定生産を行うためには、干ばつに強いイネの開発が不可欠となる。
そこで干ばつに強いイネとは地深くに根をおろすイネであることに気づき、稲が「縦」に伸びるようにする遺伝子を探しだした人がいた。
農業生物資源研究所の宇賀勇作氏は、品種改良により1か月水を与えなくても育つコメの技術「イネゲノム育種」の研究を行った。
きっかけは、20代の頃のインド旅行での一人の少年と出会であった。
学校にいけず食べ物もなく、路上で飲み物を売っている少年だった。
宇賀氏は少年との交流のなかで「貧しい子どもたちが笑顔になれる様な研究をしたい」との気持ちが芽生え、干ばつで苦しむ地域や、農作がうまくいかない地域でも、腹いっぱい食べられるお米を開発したいという夢を抱いた。
そうした夢を抱いて宇賀氏が取り組んだ「イネゲノム育種」とは、ゲノム(遺伝情報)を分析し、新しいコメをつくる稲の育種である。
ところで稲には2種類の稲がある。ひとつは「水稲」で水田で栽培される稲で、畑作物に比べ根の張り方が浅く干ばつに弱い。
もうひとつは「陸稲」で焼畑や天水田などで栽培される稲で根が深くまで張る。
陸稲は干ばつの時にも土壌の深層の水を利用できることから、干ばつに強いが低収量で食味もよくない。
そこで宇賀氏は、陸稲の干ばつに強い性質と、水稲をカケアワセることが出来ないか模索した。
そして干ばつにあってもかろうじて生き延びている稲の特徴を見たところ、稲の「根っこ」に原因があることをつきとめた。
つまり根の太さや数の大きさではなく、深く降りていく根を生み出すことを思いついた。
そのため宇賀氏は根が土壌深くまで伸びる性質「深根性」に関与する遺伝子を探すことにした。
しかし約3万8千個あるイネの遺伝子の中からそれを見出すことは並大抵のことではなかった。
宇賀氏は縦に伸びる根の遺伝子を探した6年の間、「国内では役に立たない研究だ」とまで言われ、契約期間内に研究成果が出なければ、職を追われる立場にあった。
宇賀氏を支えたのは、インドで出会った少年と20代の自分を裏切りたくはないという思いだったという。
そしてついに研究が実り、イネの根を深い方向に伸ばす遺伝子を発見し、根の張り方が浅いイネにこの遺伝子を導入すると根が深くまで伸び、その結果として干ばつに強くなったことが確認された。
宇賀氏はこの研究によいり「平成24年度日本育種学会奨励賞」を受賞した。
実に6年の歳月をかけての「泥まみれ」で発見したため、その遺伝子の名を「DRO1」と名づけたという。

人間は高層ビルを建てることを競ったり、その名をあげようとするためか、高いものを愛でる傾向があるのはメソポタミアにおける「バベルの塔」以来変わっていないようだ。
世界一の高層ビルはアラブ首長国連邦(UAE)ドバイにある高さ約827メートルの「ブルジュ・ハリファ」である。
そして今、サウジアラビアのウジアラビア西部の紅海に臨むジッダ市に立てられる高さ約1キロ200階建ての超高層ビル「キングダムタワー」の建設計画が進められている。
ところで、我々が「伸びる」という言葉でイメージするのは「縦に伸びる」ことなのだが、その一方で「低く横に伸びて」生き抜こうという方法もある。
そういう低く横にはびこるのが雑草である。
雑草は踏まれても踏まれてもつしか芽を出すし、地を這うように生きた方が、地面にタタキつけられることもない。
確かに「雑草のようにたくましく」という言葉があるが、植物学の世界では、雑草は強い植物だとは考えられておらず、「弱い植物」とされているのである。
しかし、それにしても雑草はいたるところにハビコッテいる。
それを弱い植物といえるだろうか。
しかも雑草は、すべてが失われた不毛の大地に最初に芽を出す植物である。
雑草は知恵と工夫で環境に適応し、むしろ逆境を巧みに利用していることさえ多い。
雑草がジャマで嫌われるのは、人間が育てようと思っている作物よりもウマク環境に適応してよく育ってしまうからだ。ここにも「縦横の確執」がある。
ところで、雑草のことを「ルデ」というが、ルデラルというのは、「荒れ地を生き延びる智恵」といいかえてもよい。
つまり、ルデラルな生き方とは「横に低く伸びて生き抜こう」ということなのだ。
環境の変化が大きいところでは、大きな大輪の花を咲かせようとじっくり取り組んでも途中で「想定外」のことが起これば、努力が台無しになってしまう。
人間世界を見ても、組織内の派閥の抗争で反対党が実権を握ると、相手の党のトップが粛清をうけるが、もともと「目だたない存在」ならば多少冷や飯をくっても、生き延びることはできる。
ルデラルにとっては、変化と逆境こそが、新しいものを生み出す確かな鼓動である。
ルデアラルに生きるとは、いいと思ったことは完全ではないがトリアエズ実行してみて、批判があれば修正すればよい。その意味で「批判」に耳を傾けることが大切で、時としてて誹謗や中傷の中にヒントが含まれているかもしれない。
したがって、誹謗や中傷に耐える雑草のような「耐性」ものでなければならない。
さて、ルデラルを企業展開にあてはめると、「多様なタネでチャンスを広げる」という戦略だといいかえてもよい。つまりコスト減などの「縦展開」ではなく「横展開」の戦略である。
通常、部品メーカー特に自動車や家電製品の部品メーカーは、どちらかと言うと単品製品に特化し、大量生産効果による「コスト競争力」で戦っている。
つまり、生産体制は自動化・省力化が進み、まさに単品・大量生産で業績を伸ばして来た。
我が国の部品メーカーは大量生産・薄利多売路線につきすすむが、このままの路線を走ったら、いつかは海外メーカーにコストで負けるそれが分かっているにもかかわらずである。
そして実際に、台湾、韓国、中国メーカーが台頭し、我が国メーカーを抜き去った感がある。
しかしその一方で、製造する製品を多様化して、其々の「先行利益」を積み上げている会社もある。
なぜそのようになったのかというと、植物だって上を切ると、自然に横に伸びる。つまり上に伸ばそうと思うとコスト競争になる、だから横に伸ばそうとしただけのことだという。
そこでこの会社は、中小企業でありながら「多様性」を選択し、常に幾種類もの開発を続け、他社に先駆けて新製品を提案して先行利益を上げている。
そして、同等もしくはそれ以上の製品が出そうになる前に、さらに次の製品を提案する、その繰り返しを行うのである。
多くの中小企業が、「量」のウマミとびつき生産効率を上げることに全力を上げる中、それをアエテ追わずに、あたかも植物が上に伸びようとするその枝葉を切ってしまい、横に伸びるしかない状況に自らを追い込んでいくような生き方である。
我々は「成長」と言うと、直ぐに縦伸びることを考えるが、横に伸びることも、確かな成長と言えるのである。
横に伸びるとは「多様なタネでチャンスを広げる」ということである。
アメリカでボランティア活動が発展したのはそういう側面もあるに違いないと推測する。
例えば営業職の人が、担当する得意先の人と趣味が同じだと分かった時には、おそらく急接近するにちがいない。
マンガ「釣りバカ日誌」の主人公ハマちゃんが、趣味の釣りで自社の社長から地方の初対面の人まで人間関係を濃密にしていくエピソードは、決してオトギ話ではなく誰にでも起こり得る。
というのは、世間が考える仕事の常識とは異なる「無駄」にこそ、ポテンシャル、潜在価値が眠っていて、「異なった状況」で知恵になることがありうるからである。
反対から見ると、削っている「無駄」には、実は「伸びしろ」というか自分の新しい道を拓く可能性があるということだ。
つまり、この世界で生き抜くために「縦に伸びる」こともひとつのイキカタで、横に展開して「活路」を見出すということもアリということである。