天が開く

日本文化と古代イスラエルとの間には、様々な文化的な共通点がある。
そもそも、日本人が天から下った民スナハチ「天孫」という発想は、神の子イエスがこの地上に生まれたことや、信仰者がメザスところが「天のエルサレム」(ヘブル12章)としているなど、天と地の繋がりを示している点で似たものがある。
また地の恵みが「天の采配」に関わるという意識から「捧げモノをする」ことは世界中にみられる文化だが、日本とイスラエルは「初モノ」を捧げる点で驚くべき共通点を示している。
それゆえに古代イスラエルの捧げモノをする仕様の中に、日本の「神事」を思わせるものがあるということである。
その一つが古代イスラエルの「初穂の祭り」で、初穂の祭り「ヨム・ハ・ビクリーム」は、「長子あるいは初子」という意味である。
伊勢神宮の捧げモノに注目した時、「お手つき」前の自然物を尊ぶ傾向があるのは、個人的にはイスラエルの「初穂」や「初子」を連想する。
また、日本人が粗末な「割り箸」を好むのは、それが「初モノ」という意識からではないか。
また、お正月にはお手つき前の小枝のようなお箸として使うし、空気が清澄な世界での「初日ノ出」などを愛でる傾向にあるのも、そうした傾向と無関係ではないのかもしれない。
一方、聖書では「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである」 (出エジプト13章)とある。
「また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って 来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた」(創世記4章)ともある。
さらに、「エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である」(出エジプト13章)
コノ「初子を打ち殺した日」というのは、モーセがエジプトのパロにイスラエル人を去らせよと要求した時、パロはそれを拒みエジプトの長子が疫病にカカリ亡くなった出来事を指している。
この時イスラエルの子供達は、神の命によって入り口の鴨居に羊の血を塗ったことにより、災いを免れることができたのである。
イスラエルでは、こうして神が下した災いを過ぎ越したことを記念として、「過越祭」が民族的な祭りとなっている。
そして神はモーセをエジプト王パロに遣わすに際して「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である」(出エジプト記4章)と語っている。
神が「初モノ」を特別なものとミナスことは、新約聖書にもおいても引き継がれるが、ソコニ新しい契約に相応しい「新しい意味」が付与されている。
例えば、イエスキリストの復活につき、「しかし事実、今やキリストは、眠っっている者の初穂として死人の中からよみがえったのである」(Ⅰコリント15章)
そしてイエスを信じ復活を約束されたものにつき、「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちをいわば被造物の初穂にするためなのです」(ヤコブ1章)という。
イエスご自身が「復活」の初穂でもあるとし、イエスの御名によって「救われた人々」はユダヤ人であろうと異邦人であろうと「被造物の初穂」となるとしているのは驚くべきことである。
マトメルと、神に捧げる「初モノ」としての収穫物から始まり、諸国の「初穂」である「イスラエル」、その中の「初穂」であるレビ人(祭司職)、そして神の子イエス自身が復活の「初穂」、イスラエルの血筋とまったく無縁な異邦人であっても「救われた者」は、神の被造物にとって「初穂」ということなのである。
さて、イスラエルにおける「初穂の祭り」について旧約聖書のレビ記23章に書いてあるが、一般的には出エジプト時の「過ぎ越し」を記念した8日間の「過越の祭り」の中での安息日が「初穂の祭り」が開かれるという。
そして、イスラエル同様に、日本にも「初穂の祭り」というべきものがある。
たとえば伊勢神宮に今年穫れた新穀を奉納する行事に「初穂曳」があり、毎年「新嘗祭」の奉祝行事として行われている。
そして、お木曳き車で外宮に納めるものを 「陸曳き」、五十鈴川で船を曳き、内宮に納めるものを「川曳き」という。
毎年10月中旬の「初穂曳」では、お木曳き車に初穂を乗せ、各々揃いの法被姿で木遣りを歌い、賑やかに市内を練りながら伊勢人(神領民)の手により「神域」へ曳きいれるのである。
それは古代イスラエル同様に「天の恵み」を期待するための神事といってよい。

さて「天地創造」につき、「古事記」と旧約聖書「創世記」は、最初に「カオス」(混沌)から始まる点で共通している。
古事記の冒頭を現代語訳すると「天と地もしっかり固まりきらないで、両方ともただ油をうかしたようにとろとろになって、くらげのようにただふわりふわりと浮かんでいた。その中にちょうどあしの芽がはえ出でるように、二人の神様が生まれた」としている。
つまり「混沌とした世界」にイザナミとイザナギの神が生まれ、ニ神は高天原から地上世界に降り、協力して日本列島を生んでいく。
一方、聖書の「創世記」には「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあるように「カオスの状態」から始まっている。
ソコヘ「光あれ」という神の言葉から「天地創造」がハジマルのである。
「古事記」によると高天原に住むイザナミとイザナギという二神が様々な神々を生むのだが、火の神を生んだことで、イザナミは火傷を負い、命を落とす。
イザナキは、イザナミを連れ戻そうと「黄泉の国」を訪れるが「姿を見てはならぬ」という約束を破って、二神は永遠に分かれることとなる。
聖書にも「黄泉の国」のことが登場する。
イエスは十字架の死後3日後に復活するが、その三日間イエスに何がおきていたのかというと、「黄泉の国」に下って「彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(ペテロ第一3章)とある。
「古事記」における天の神々の出来事は、「地上」の出来事に影響をしている。というより、天上の出来事を「反映」して地上の出来事が起こっているという世界感を示している。
それは、古事記のハイライトである「天の岩戸」の故事に最も典型的にあらわれる。
また聖書でも、天の出来事(霊界)と地の出来事(この世)が繋がることが示される。
新約聖書の中に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18章)とある。
また、「みこころが天に行われるがごとく、地にもおこなわれますように」(マタイ6章)が「主の祈り」の一節である。
さて、古事記における「天の岩戸」の故事とはドンナ展開となっていくのだろうか。
「黄泉の国」から地上に戻ったイザナキが「穢れ」を落とそうと河で禊をした時、アマテラス・ツキミヨ・ソサノヲの三神が生まれる。
スサノオヲは、日本国の創造神であるイザナギによって生み出され、海や地を収めるように命じられていた。
しかし、彼はどうしようもない乱暴者で、仕事もせず周りの者を困らせてばかりいた。
何度諭されても改心することなく、あまりの傍若無人さに遂にはその地を追われることとなったスサノオは、姉であるアマテラスの元に向かう。
「高天原」を治めていたアマテラスは、弟のあまりに荒々しい様子を伝え聞き、「高天原を奪いにきたのでは」と警戒する。
スサノオは迎えたアマテラスに対して「そのような気はない。ならば子をもうけて、女が生まれたら1「邪心」があり、男が生まれたら「清い心」の証であると誓約をした。
まずアマテラスがスサノオの剣を三つに折り、天の真名井の水とともに噛み砕いたものを吐き出すと「女の三神」が生まれた。
(ちなみに、この女の三神が福岡県宗像の三神である)
次にスサノオがアマテラスの髪飾りの珠を同様に噛み砕き吐き出すと「男の五神」が生まれた。
スサノオは、これによりアマテラスの怖れは邪推、スサノオは「潔白」と証明されたと言い張り、結局スサノオは高天原に居座ってしまった。
ところが高天原でもスサノオの乱行は変わらず、田を荒らしたり、御殿に糞をまき散らしたりとやりたい放題で、皆が困り果てる中、ソレデモ姉アマテラスはしばらくは大目に見ていた。
ところがある日スサノオが織り小屋に皮を剥いだ馬を投げ落とし、巻き込まれた織女が命を落としてしまった事に、アマテラスは嘆き・怒り、ツイニハ「天の岩戸」にこもり、入り口を大岩で「閉ざし」てしまった。
「太陽の神」が隠れてしまったことで世界は闇となり、さまざまな「禍い」が生じるようになる。
困り果てた八百万(やおよろず)の神々は「天の安河原(あまのやすかわ)」に集まり相談をして様々な儀式を行った。
常世の「長鳴鳥」を集めて鳴かせ、「八咫鏡(やたのかがみ)」・「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」ナドを作り供え、祝詞を唱えた。
そしてアメノウズメノミコトが岩戸の前で、足を踏み鳴らし胸をはだけ袴まで押し下げて舞い踊ったところ、八百万の神は笑い転げ、その声は高天原中に鳴り響いたという。
そしてついに、アマテラスが天の岩戸を開いた。
そしてスサノウは高天原より追放される。
聖書では諸々の霊が住む「第一の天」、天使の住む「第二の天」、神が住む「第三の天」というものが存在している。
あえていえば、スサノウのようにより高い天から追放されたような「霊」が住むところがこの地上が属する「第一の天」である。
パウロは「わたしは14年前に第三の天にまで引き上げられた一人の人を知っている」(コリント第二13章)と語っているが,実はこの「一人の人」とはパウロが自分のことを婉曲に語っているである。
そして「古事記」、創造神イザナギやイザナミが住む「高天原」、そして高天原と地上との間の「葦原中国」というような第二の天のゴトキものがある。
ソコニに住まう神々の性格からして、それは「神々の位階」を示しているのではなかろうか。
また、日本では「天が開く/閉じる」といいう言い方は雨乞いの時などに使われるが、聖書にもこの言葉は頻繁に登場する。
また、天が開けて梯子が下りたように「天使」が上り下りする場面がある。
ヤコブが荒野で過ごした時ある場所に着き、石を枕に寝ようとしたところ夢か幻をみる。
「ひとつのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た」(創世記28章)。

昨年の伊勢神宮の「式年遷宮」には、「天の岩戸」の故事をオリコンダ儀式であることを知った。
「天戸が開く」ということと、申命記28章の「神の恵み」が降りることに近いことを思わせられた。
コノ章の前半部には、「天が開いた」時スナハチ「恵みの時」が書いてある。
後半部は、「天が閉じた」時の状況が鮮やかなコントラストとして書いてある。ソノ前半部を紹介しよう。
// 1もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。
4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。
5 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。
6 あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。
7 敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。
8 主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。
9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。
10 そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。
11 主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。
12 主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。
13 主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。
14 きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。//

日本の皇室には「三種の神器」というのがあり、八咫鏡(ヤタノカガミ) 草薙の剣(クサナギノツルギ) 八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)がそれにあたる。
一方、古代イスラエルにも「三種の神器」とよばれるものがある。
古代イスラエルの「三種の神器」とは、神殿または移動式神殿である「幕屋」に収められていた。
新約聖書ヘブル人9章に次のように書いてある。
//すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台(しょくだい)と机と供えのパンが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所(しょくざいしょ)をおおっていた。//
この中で、「マナのはいった金のつぼ」、「芽を出したアロンの杖」、「契約の二つの板」を「三種の神器」とよぶが、それぞれイスラエルの故事に基づいたものである。
この中でひとつだけ、旧約聖書の民数記17章にでてくる「アロンの杖」についていうと、アロンは出エジプトの指導者モーセの兄にあたる人で神が大祭司に選んだ人である。
人々はモーセに対して同様にアロンに対しても様々につぶやいた。
そこで神はイスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家(12部族)にしたがって杖十二本を取り、代々祭司を務めたレビ族のつえにはアロンの名を書きしるしなさいとした。
そして、ソレを幕屋のあかしの箱の前に置いておくと、わたしの選んだ人のつえには、芽が出るといわれた。
翌日、人々が見に行くとそしてアロンの杖から「若芽」が出て花が咲いていたのである。
つまり生物的には死んだ「木」にすぎない「杖」から、いのちが吹き出したのだ。
コレをシルシとして、アロンこそが神が直接任命した大祭司である事を人々に示したのである。
そして、この「アロンの杖」は出エジプトにおいて大活躍をする。
時に蛇に姿を変え、触れた水を血に変え魚を死に至らしめ、蛙の大群を出現させ、ブヨやアブを大量発生させ、疫病を流行らせ、雹を降らせ、イナゴの大群を発生させた。
また、モーセが杖を掲げると海が割れ道を開き、追ってきたエジプトの軍隊を海に飲み込んだ杖と同じものとされる。
また、死んだ木から芽吹いた新しい命は、キリストの復活の型を示したものである。