天が取る

随分昔に聖書を読み始めた頃、心に引っかかった言葉があった。それは、次の言葉である。
「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」 (マタイ24)
「ひとりは取られ、ひとりは残される」とは一体何か。
「残される」とは地上に残され地上と運命を共にする者として、もう一方の「とられる」者の運命はどうなるのか。
実は、この「とられる」という言葉は聖書の他の箇所にもあり、それにそって読み解くことが、聖書の世界観を明らかにすることになる。
さて、ヨーロッパでは13世紀に「ハーメルンの笛吹き男」といわれる民間伝承がある。
ある町のネズミ捕りをした「笛吹き男」が、町の人たちから報酬ももらえず軽くあしらわれため、「笛吹き男」に導かれて忽然と130人の少年少女がいなくなるという話である。
通常子供が居なくなると、まずは「拉致誘拐」を考える。この出来事の真相はいまだにわかっていないが、当時さかんに行われていたエルベ川以北への「東方植民」との関連が有力である。
ちなみに、この「東方植民」によって後のプロイセンという国が出来たのである。
ところで聖書にも、忽然と世の中からいなくなる人のことが書いてる。
それが単に「天が取る」というあまりに素っ気ない表現なので、思わずスルーしがちだが、聖書の世界観からすれば重大な出来事である。
まずは、旧約聖書にノアから数代あとのエノクについて次のような記述がある。
「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5)
ちなみに、人間の齢が120年と定められたのは、だいたいエノクから後に生まれた世代ぐらいからであることを断っておこう。
聖書には「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた」(創世記6)とある。
さて、新約聖書には「天が取った」エノクについて、あらためて次のように書いてある。
「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれる者と証されていたからである」(ヘブル11)。
つまりは、エノクは死を味わうことなく天に移された稀有な人だったのである。
さらに旧約聖書には、「天に移された」もう一人の人物についての記述がある。
「彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬が現れて、二人をへだてた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天に上った」(Ⅱ列王記2)とある。
何か童話のワンシーンのような描写であるが、ここで「彼ら」とは、「天に移された」預言者エリヤとその後継者エリシャなのであるが、エリシャはエリヤが天に「移される」のをしっかりと見届けている。

「聖書のことは聖書に聞け」とは大原則で、聖書を読み解くために関連箇所を相互に照合すると、そこに「整合性」があることにしばしば驚かされる。
その一つの例としてイエスの「昇天」がある。
イエスは「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った"ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう”」(使徒行伝1)。
実はこの昇天の場面で「白い衣を着たふたりの人」という言葉に注目していおきたい。
実は、この「ふたりの人」に符合する言葉が別の箇所に見つかるのである。
それはイエスがその本体を表わした「変容」の場面である。
「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。弟子たちは非常に恐れ、顔を地に伏せたが、 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、”起きなさい、恐れることはない”と語り、人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない”と、彼らに命じられた」(マタイ17)とある。
この「イエスの変容」の場面から推測できることは、イエスの昇天の際に現われた「白い衣を着た二人」とは、すでにこの世にいない出エジプトの指導者モーセと「天が取った」預言者エリヤである。
そしてイエスはその変容の場面で、「この中には神の国が力を到来するまで死を味あわない者がいる」と語っている。
しかしながら、その場に一緒にいたペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネなどの中に「死を味合わなかった者」はいない。
全員の墓がちゃんとあり、その上に教会が立っている。
イエスの言葉は奇妙に思えるのだが、「白い衣を着た者」をいれると、確かに「死を味あわない者」がいる。
いうまでもなく「天が取った」預言者エリヤであり、エリヤには墓がない。
エリヤは「天が取った」ためこの世にいなくなったのであるが、このエリヤの名が、新約聖書の中に何度か登場する。
それは洗礼者ヨハネとの関連においてである。
洗礼者ヨハネとは、イエス・キリストが自身を世に表わされた頃、まるで露払い役をするように「悔い改めよ。天国は近づいた」と呼ばわった人物である。
そして人々は、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物そしていた洗礼者ヨハネを「預言者エリヤ」の再来だと噂した。
では人々はなぜヨハネをエリヤの再来と思ったか。実は当時の人々は、エリヤが「天にとられた」話を聖書を通じてよく知っていたのだ。
さらに、救世主が現われる前にエリヤが再来するという預言(マラキ書)さえあったのだ。
そして実際、当時人々は、洗礼者ヨハネが預言者エリヤなのかという問題を相当に気にかけていたようだ。
ユダヤ人たちが遣わした人がヨハネに「あなたは誰か。キリストか」と問うと、ヨハネは「キリストではない。キリストの靴紐を解くのにも値しない者だ」と答ている。
さらに「ではいったい誰なのか、エリヤか」と聞くと、ヨハネは「そうではない」と否定している。(ヨハネ1)
ところが、イエスは別の箇所で洗礼者ヨハネがエリヤであると弟子達に語っている場面がある。
「エリヤが来て、すべてのことを立て直す。しかし、エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています」。
そのとき弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと思ったという。
さらにイエスは洗礼者ヨハネにつき、女から生まれた者の中で、ヨハネより優れた人はいないといいつつ、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」(マタイ11)と語っている。
洗礼者ヨハネは自らがエリヤであることを否定している一方で、イエスは洗礼者ヨハネこそエリヤなのだといっているのである。
これは完全に矛盾している。どちらかが嘘を言っているのだろうか。
ただし、イエスの言葉の中に「あなたがたがすすんでうけいれるならば」と意味深な仮定をおいていることに注目しておきたい。
「聖書のことは聖書に聞け」の原則を適用して別の箇所を探すと、イエスの証言と洗礼者ヨハネの証言の喰い違いを解決するような言葉を見つけることができる。
イエスは洗礼者ヨハネにつき「彼は、エリヤの霊と力とをもって、みまえに先立っていき」(ルカ1)と語っている。
ここでイエスは、洗礼者ヨハネがエリヤとは、同じ霊と力ををもっていると語っているのである。
つまり通常の意味で、エリヤと洗礼者ヨハネは「別人」であると考えてよい。
もしも本当にヨハネがエリヤその人ならば、ヨハネは当時のユダヤ王ヘロデの娘サロメの踊りの褒美として首を切られているので、エリヤは「死を味わった者」ということになる。
この疑問についても聖書の別の箇所と照合してみたい。
預言者エリヤが「天に取られる」のを目撃した人物がエリシャという預言者なのだが、エリシャが「後継者」として立つとき、エリヤに「あなたの霊の二つの分け前が私のものとなりますように」と願いでている。
この二つの分け前が「二倍」を意味するのかはよくわからないが、エリシャは旧約聖書に登場する預言者のなかで最も多くの奇跡を行った預言者であり、エリシャの働きはエリヤに勝るものがあったのである。

聖書の中で「天が取る」という特異なケースになぜ注目するのかというと、それがキリスト教の世界観と密接に関わっている出来事だからである。
なぜなら聖書には、キリストの再臨とともに「天が取る」ことが大々的に起こることが予言されているからである。
その予言のひとつが、冒頭でふれた「ひとりは取られ、ひとりは残される」(マタイ24)である。
ところで、使徒パウロも「天に昇る」体験をしているが、その体験をあえて「第三者」的に表現している。
「私はキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にひきあげられた。それが、からだのままであったか、私は知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。」(第二コリント12)。
パウロがここでいう「キリストにあるひとりの人」とは自分のことであることを断っておこう。
パウロは、人々の注目が集まることを極力さけ、皆の心の視線が神の方を向くように仕向けているのである。
ちなみに、パウロがいう「第一の天」とはこの世、「第二の天」とは天使が住むところ、「第三の天」とは神の住むころである。
そのパウロが信者宛に書いた手紙の中に、次のような預言がある。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサロニケ4)。
ここでパウロは、「死者の蘇り」と「生者が天に移される」ということを語っている。
いわゆる「キリストの再臨」とは、イエスの昇天の際の出来事の反転で、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう”」に応じたものである。
そして聖徒が空中に引き上げられ、次の段階でイエスが聖徒とともに「地上再臨」するということである。
現代人にとってはにわかには信じがたいことだが、パウロはわざわざ「奥義」と断ったうえで、次のようなことも語っている。
「わたしたちはすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なざなら、この朽ちるものは必ずくちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(Ⅰコリント15)。
つまり、イエスが天に昇っていった姿の如く、人々は一瞬にして「霊化」して地上から引きあげられるということである。
ここで、イエスがサマリアの井戸端で出会った女性に語った言葉を思いおこす。
「イエスは女に言われた、"女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4)。
そしてイエスはこの言葉の直前に、女に次のよう語っている。
「この水を飲むものはだれでも、また渇くであろう。しかし私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
この水とは聖霊をさすのであり、この聖霊こそ「天に上げられる」保証となるものである。
さて、イエスがサマリヤの女に語った「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所」とはどのような場所をさすのだろうか。
よくわからないのだが、地上にはないような「聖なる場所」であるのか、聖書には次のような言葉もある。
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、天から下ってくるのを見た」(黙示21)。
「聖なる場所」について、出エジプトの指導者モーセは次のような体験をしている。
モーセが神から「イスラエルをエジプトから導き出せ」という使命を受けたのは80歳の時であった。
それまで40年間、モーセはミデアンの地で平凡な羊飼い生活を送ってきたのである。
ところがモーセはある日シナイ山のふもとで不思議な光景と出会う。
その光景とは「燃えているのに燃え尽きない柴」であった。
モーセはそこに近づこうとした時、神の声を聞く。
「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジプト3)。
この「靴を脱げ」という言葉に、「最後の晩餐」において、イエスが弟子達の足を洗う場面を思い起こす。
「イエスが弟子達との夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、それから水をたらいにいれて、弟子達の足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふきはじめられた。こうしてシモン・ペテロの番となった。
すると彼はイエスに”主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか”と言った。
イエスは答えて言われた。"わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるだろう。"
ペテロはイエスに言った、”わたしの足を決して洗わないでください。”イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」(ヨハネ13)。
このイエスの言葉の中の「今あなたにはわからないが、あとでわかるだろう」という言葉は、文語の聖書では「後悟らん」となっている。
しかし、後悟るためには「後がある」ことが大前提である。
そして「後がある」保証となるものが聖霊である。
またパウロは次のように語っている。
「私たちは今は鏡に映してみるようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時のは、私が完全に知られているように、完全に知るだろう」(Ⅱコリント13)。